ミラノの深い霧

1953年、まだ戦後の混乱も収まらぬ中、須賀敦子という女性が、女性としての行き方や自律の道を探してヨ-ロッパにとびだちました。
彼女は阪神芦屋生まれの裕福な家庭に育ち、東京広尾の聖心女子大学に進み、慶応大学大学院で学びました。
聖心女子大学第一回生である彼女と同期には緒方(中村)貞子や、その少し後輩には同大学英文科を首席で卒業した正田美智子がいました。
彼女すなはち須賀敦子が1971年にヨ-ロッパから日本に帰国し、社会改革運動とその挫折、大学講師から教授を経た後に翻訳家として知られ、さらには60歳を過ぎて書いたイタリア記は、彼女の晩年の内面から再び照らし出され、この種の外国生活記としては出色のものとなりました。
それは知的理解をもとに書かれたイタリアなどではなく、イタリア人と生活を共にした体験から、その場に居合わせたような生活の息吹がそのまま伝わったきたからです。
その体験記は、バブル熱に冒されハジけ散った日本人の心に、ひっそりと沁み込むように届きました。
須賀女史はイタリア人の夫とともにイタリアの詩を日本語に翻訳したり、日本の作家(谷崎潤一郎や川端康成)の作品をイタリア語に訳したりしただけあって、優れた言語感覚の持ち主で、61歳で書いた女流文学賞受賞の「ミラノ霧の風景」以降、堰を切ったようにその体験記を書き、流麗ともいうべき美しい文体は多くの読者を魅了したといわれています。
私が大学在学の折に、須賀女史はイタリア語の講師として大学に教えに来ておられ、その名前だけは知っていたのですが、1998年その死亡記事が新聞の片隅に出たのをよく憶えてます。

須賀敦子女史の行動的力は朝日新聞社の下村満子女史を思い起こさせます。下村氏の方が4歳ほど須賀氏より若いようです。
下村満子氏は、日本が戦争へと突き進む時代、東京都に生まれました。父は鉱山に勤め、母は医師でありました。
終戦を迎え、小学校・中学校と文章を書くことが好きだった下村氏はジャーナリストになるという夢をいだき慶應義塾大学経済学部へ進みました。
成績は申し分なくジャーナリストを目指し就職活動に臨みましたが男性社会の壁に阻まれ、男性にも負けない武器を身につけようと単身アメリカへ留学することになります。
帰国後、再びジャーナリストへの門をたたきますが日本は依然として男性社会であり、またもその道は阻まれ、東京オリンピック開催の時にようやく新聞社の通訳のアルバイトに採用されました。
そしてようやく新聞に記事も書くというにチャンスを手に入れることになります。
その後、下村氏はある週刊誌に嘱託記者として迎えられ、クーデター直後のオマーンへ行き見事に謎に包まれていた王女のインタビューに成功し、世界中を揺るがす大スクープをものにしました。
下村満子女史はアメリカ人の心の内面を「ジャ-ナリストの目」で掘り下げていきましたが、ヨ-ロッパ人の内面を「詩人の魂」をもって深く掘り下げたという点では、須賀敦子女史は日本で初めての女性であったといってよいかもしれません。
須賀氏が亡くなって10年以上もたった今日このごろNHKが特集などもあり、改めてこの女性の遍歴と内面に興味を持つことになりました。

須賀氏が1953年ヨ-ロッパに渡り最初に学んだのはパリ大学だったそうですが、あまりの個人主義と理屈っぽいフランス人の性格に疎外感を感じたことを書いています。
遠藤周作が戦後初のフランス留学生として味わった孤独感は芥川賞受賞作「白い人黄色い人」などに滲み出ていますが、須賀氏自身はその体験を、「この国のひとたちの物の考え方の文法がつかめない。対話だけでなく出会いそのものが拒まれている。岩に爪をたてて上ろうとするが、爪が傷つくだけだった」と語っています。
1955年ついに気質的には合わないパリから帰国しましたが、その3年後には知りあいの勧めで陽気で明るいイタリアの地に渡り、ロ-マのレジナムンデイ大学で友人と旅を楽しんだり歌ったり踊ったりで笑いの絶えぬ留学生活を送ることになります。
しかし、もしそれだけだったならば彼女がイタリアの核心部に出会うことはなかったはずですし、後の執筆に繋がる内面の形成もなかったことでしょう。
しかし彼女はついにミラノで居場所を見つけ出します。
それは1960年、教会の側に造られたコルシア書店という小さな書店でのことした。
彼女はこの書店に立ち寄るうちにこの書店が単なる本屋ではなく、カトリック左派とよばれるインテリ集団のサロンとなっていることを知ります。
そして須賀氏はその仲間に受け入れられ、その仲間との交流を「コルシア書店の仲間達」という本に書いています。
映画の世界では、書店や図書館はしばしば男女の出会いの場所として設定されます。
「ある愛の歌」から「卒業」などのシーンを思い浮かべますが、須賀女史はここでペッピーノというこの書店を経営する人々の一人と知り合い、1961年に仲間達に祝福されてペッピーノと結婚します。

しかし彼女がイタリアの裏面を知ったのは、夫や書店の仲間との出会いよりもむしろ、鉄道員であった夫の実家との出会いであったかもしれません。
義父の仕事は、わずか半畳の広さの中で仕事を行う信号夫でした。
「たしかにあの鉄道線路は、二人の生活のなかを、しっかりと横切っていた。結婚したのは、夫の父が死んですでに十年近かったのに、鉄道員の家族という現実はまだそのなかで確固として生き続けていた。
私自身にとってはおそらく、イタリア人と結婚したという事実よりも、ずっと身近に日常の生活を支配していたように思える」と書いています。
須賀氏は裕福な家庭に生まれ大学院まで進み、二度の留学生活までも体験した彼女にとって、鉄道員の夫の家族との出会いは単なる異国での体験以上に、彼女が生まれて初めて知る貧しい労働者の生活との出会いを意味しました。
しかも彼女が出会った「貧しさ」は単なる経済的な意味での貧しさだけではなく、夫の実家を次々と襲う不幸(夫の兄と妹が結核で亡くなる)によるでもあり、その「孤独」が毒のように当時の彼女の意識を蝕んでいったようです。
「この薄暗い部屋と、その中で暮らしている人たちの意識にのしかかり、いつやむともしれない知れない長雨のように彼らの人格そのまものにまでもじわじわと沁み渡りながら、あらゆる既成の解釈をかたくなに拒んでいるあの貧しさ」と書いています。
ところで須賀氏がイタリアで暮らした年月から遡ること約10年、イタリアの貧しさをリアルに描いた二つの名画が製作されれます。
「鉄道員」と「自転車泥棒」です。
映画「鉄道員」は、主人公が運転する列車に若い男が飛び込み、気持ちが動転したために信号を見落とし衝突事故を起こし左遷された男とその家族を描いています。
主人公は労働組合にそれを訴えても取り上げてもらえず酒におぼれ、逆にスト破りをおこなって孤立していきます。
映画「自転車泥棒」の方は、ポスター貼りを仕事にする貧しい親子が自転車を取られて仕事ができなくなり、父親が再び雇ってもらうために自転車を盗もうとしたところ警察に捕まるという話です。
誰よりも真正直でケナゲに生きてきた人々が、そういう悲運や失意の中にあっても、なお家族や友人のぬくもりを支えに生きていこうとする切なさが勇気と感動をよぶ名作だったように記憶しています。
須賀氏の夫ペッピ-ノの「鉄道員」である実家は線路に面したの官舎にあり、ここで須賀女史が真夜中に聞く列車の音は彼女のミラノでの運命を暗示するように不気味なキシミをもって響いていくのです。
「夫の出張で、姑の家に泊まっていることだけもせつないのに、この音で目覚めてしまうと、なぜか心細さがどっとおしよせてきて、自分が宇宙のなかの小さな一点になってしまったような気持ちになる」
須賀女史は「貨物列車に全身を阻まれたように」二重にも三重にも「異邦人」であったのかもしれません。
そして彼女の内面でわだかまっていた不安が的中します。
夫のペッピーノは肺を病み、41歳の若さで亡くなってしまうのです。
そして彼女は追憶の中で、鉄道員達の官舎を「荒涼たる廃墟」と表現しました。それにしても無機質な言い方ですが、彼女にとって当時の気持ちは濃霧がたちこめたような状態であったのかもしれません。
須賀女史の作家としてのデビュ-作となったのは「ミラノ霧の風景」でしたが、「霧の風景」という言葉に彼女の気持ちが込められているようにも思います。

須賀女史は夫の死後もしばらく書店の経営を続けましたが、それも4年をもって日本に帰国します。
しかしコルテア書店で受けたカトリック左派の思想的な影響で、東京練馬で社会改革運動「エマウス運動」をはじめました。
つまりキリスト教精神を基にした貧富の格差解消のための運動でした。
この運動は廃品回収業をしてその純益を福祉事業にあてるというフランスではじまったボランティア活動でしたが、この時の須賀氏と一緒に活動した一人の女性が次のような思い出を語っています。
廃品の家具を運びこみ手についた汚れを見つめる彼女の眼差しがどこか遠いものを見つめているように距離があった、と。
後に彼女はこの活動について、「間違えた場所に穴を掘ってそのことに気づかないウサギみたいだった」と振り返っています。
須賀氏は本質的に社会改革運動に身を投げるよりも、むしろ詩や文学で表現することにひかれていた人だったのでしょう。

須賀氏は、原宿のマンションに居をかまえ執筆活動をしました。
須賀女史は活動的で前向きに物事を考えようとする人でしたが、ミラノを襲ってきた霧を追い払うよりも、むしろ霧の正体を見つめ一生をかけて追求していたようにも思えるのです。
この霧の発生源はイタリアの鉄道官舎であり、夫の実家を次々に襲う不幸であり、そこでの体験がなければ彼女は単なる翻訳家でしかなかったことでしょう。
61歳を過ぎて書いた本は10冊を超え、執筆の絶頂期の1998年にガンを宣告され、69歳亡くなっています。
終戦後まもないミラノ在住11年の体験をバックに、原宿の高いマンションから眺める東京の姿はどのように映ったのか、と思ったりします。
今思う事は、彼女はその明るさの裏腹に深い霧を内面に抱え込み、迷いながらも道を切り開こうとした凛とした姿こそが持ち味だったように思います。
「ミラノ霧の風景」の中で、ミラノに霧の日は少なくなったというけれど、記憶の中のミラノには、いまもあの霧が静かに流れている、と語っています。
彼女の最初の小説はついに未完に終わりましたが、そのタイトルは「アルザスの曲がりくねった道」でした。

♪The long and winding road♪