日独交流150周年を記念する祭りが、10月22日から31日まで福岡市の繁華街中洲近くの冷泉公園で行われている。
会場には大テントの下にビアガーデンが開かれ、設置されたステージでは音楽や踊りで盛り上がっていた。
ここでビールを飲みながら二つの疑問がおきた。
日独交流の起点になった150年前の出来事とは一体何か。もう一つはなぜこの催しが福岡で行われているのか、ということである。
調べてみたところ、今から150年前の1860年にプロイセンの東方アジア遠征団が江戸に到着し、翌61年に日本と修好通商航海条約を結び、ここに日独両国の長年にわたる関係の礎が築かれた。
ペリー来航による1958年日米就航通商条約は、学校の教科書にも出てくるが、幕府は堰をきったようにアメリカ以外の国とも次々に通商条約を結んでいる。
これにより、近代日本はドイツ(プロシア)とも人事、貿易面において交流を始めたわけである。
なにしろ日本における最初の近代憲法である大日本帝国憲法はプロシア憲法をモデルとして制作したものだから、両国の関係が浅かろうハズはない。
第一次世界大戦では日英同盟の立場から日独は敵対関係に立ちながらも、後述するとうり日本人とドイツ人との間にはソコハカトナイ友情が芽生えているのは注目すべきでことではないか、と思う。
このことから近代において、日本とドイツは総じて友好関係にあったということができる。
ところで日独の交流といえば、近代以前の江戸・鎖国時代にも忘れてはならない人物がいる。
1823年にオランダ商館の医師としてやってきたシーボルトで、彼はオランダ人ではなく実はドイツ人であり、その日本における影響力たるや絶大なものがあった。
本来はドイツ人であるシーボルトの話すオランダ語は、日本人通辞よりも発音が不正確で、幕府方に怪しまれたらしいが、「自分はオランダ山地出身の高地オランダ人である」と偽って、その場を切り抜けたというエピソードがある。
オランダは干拓によってできた国であるため山地は無いハズだが、そのような事情を知らない日本人にはこれで十分だった。
さて、シーボルトは長崎の鳴滝の地に塾を開き、高野長英・二宮敬作・伊東玄朴ら多くの日本人の学者や医師のタマゴを育てたが、日本の植物などにも興味を示しその採集したものはオランダのライデン大学に収められている。
シーボルトは帰国に際して、幕府天文方の高橋景保により伊能図を渡されたことが発覚した。地図といえば当時は最高の軍事機密であり、1829年にシーボルトは国外追放され、高橋は処分(死罪)された。
世に言う「シーボルト事件」である。
なおシーボルトは日本人女性と結婚しており、その娘・楠本イネは日本で最初の産婦人科医師となり、東京築地に開業し、その病院跡地にはシーボルトの胸像が設置されている。
実はこの娘、1958年父親シーボルトの追放令解除により再来日した際に再会している。
当然、国法を犯し追放された外国人の娘・イネが歩んだ苦難は、並大抵のものではなかったことが推測できる。
ヨーロッパへ帰国後の1866年、シーボルトはミュンヘンにおいて70歳で亡くなっている。
さて、冷泉公園でビールジョッキを傾けながら抱いた第二に疑問は、このビール祭りがなぜ福岡の地で行われているのかという点である。
この祭りの主宰者が「西日本日独協会」ということであるから、この協会の歴史を調べてみた。
実は、ドイツ・ミュンヘン市では毎年10月上旬に「オクトーバーフェスト」という名で世界最大のビール祭りが開催されている。
期間中には国内外から約600万人がミュンヘンを訪れ、ドイツビール・ドイツソーセージを楽しみ、ドイツ伝統音楽に乗って歌い踊る。
つまり福岡の冷泉公園で開かれているこのビール祭りは、日独交流150年を記念してミュンヘンのビール祭りにならい、在福岡ドイツ企業・地元企業・自治体が実行委員会を組織し、独福の交流促進のために開催するハコビなったのもので、正式には「福岡オクトーバーフェスト」よばれるものであることがわかった。
そして「西日本日独協会」とは、1957年という早くに発足した組織であり、ドイツとの友好親善のために福岡の地で活動を続けているという。
毎年一回冊子を発行しており、月例会では講師を招いて講演会などを開き、「ドイツ語講座」なども開講しているという。 全く知らなんだ。
この西日本日独協会への入会の動機は様々である。「ドイツ音楽が大好きなので」「ドイツ語講座を受けてドイツに興味がわいてきたから」「ドイツの町並みの美しさと環境への配慮に感動したから」「ドイツでたくさん友達ができたから」「ドイツワインに魅せられて」「ドイツソーセージとビールが大好き」などなどあるそうで、現在個人会員おおよそ150名、法人会員6社が入会しているという。
参考までに福岡に進出しているドイツ企業を調べたらなんと56社にものぼった。その中から一部を紹介すると次のようなものがあった。
・トックス-リックスプレソテクニック(株)本社(須恵町)[金属加工用装置]
・フレゼニウス メディカルケア ジャパン(株)工場 (豊前市)[人工透析機器]
・シェフラージャパン(株)九州支店 (福岡市)[ベアリング]
・日本ロバロ(株)九州工場 (北九州市)[大型バルブ]
・SAPジャパン(株)九州支社 (福岡市)[ソフトウェア]
・ボッシュ(株)九州グループ (北九州市) [自動車部品]
・シーメンス(株)営業所(福岡市)[自動搬送装置]
・(株)エヌエムビー加工センター (朝倉市) [コンクリート用化学混和材]
・カール ツァイス(株)支店(福岡市)[医療用光学機器]
・ケルヒャージャパン(株)支店(福岡市)[高圧洗浄機]
・シュワルツコフ ヘンケル(株)支店 (福岡市)[ヘアカラー]
・ダイスタージャパン(株)工場 (大牟田市)[繊維用染料]
・日本ベーリンガーインゲルハイム(株)支店(福岡市)[医薬品]
・ハイデルベルグ・ジャパン(株)支店 (福岡市)[印刷製本機器]
・レモンディス・ジャパン(株)本社(大牟田市)[廃棄物リサイクル施設]、などなどで、これほど日独のお付き合いがあったとはビックリである。
ところで福岡には博多駅から博多湾に向かって大博通りが通っており、その大通りに面して原三信病院がある。
原家は、黒田藩の代々藩医であり、六代目「原三信」が長崎出島オランダ館に留学し、1685年オランダ医師アルブルト・コロウヌより蘭方外科医 免状を受けている。
博多はシーボルト来日に百年以上も前に蘭学の芽がこの病院によって蒔かれたということができる。
1889年十二代原三信が、福岡県より外科医術開業免状を受け、現在地に開業したのである。
ところで、シーボルトはオランダ商館の江戸参府の際には同行し、長崎街道を通ったために福岡県内の宿場町である山野宿・原田宿などにシーボールトが宿泊したことを、その宿場町史跡の「説明書き」により知ることができた。
時代を一気に下ると、第一次世界大戦で中国青島で日本人の捕虜になったドイツ兵は全国各地の収容所にいれられた。
徳島県坂東のドイツ人捕虜がベートーベンの「第九」を日本で最初に演奏した出来事はあまりにも有名である。
福岡との関連でいうと、久留米の競輪場にあった収容所にいれられたドイツ人捕虜達は、久留米にゴムの製法などの技術の一部を伝え、福岡市内にあった捕虜収容所にれられた捕虜達は、福岡市西区今津の地にある「元寇防塁」の補修にあたった。
これは必ずしも強制的に行われたものではなく、何か野外での活動はないかというドイツ兵からの申し出によってなされたものである。
1915年春、約80名のドイツ兵が「ラインの守り」を歌いながら労働にあたり、防塁の補修と「元寇防塁記念碑」が完成した。
「ラインの守り」を歌いながら「博多湾の守り」を修復したのである。
面白いといえば面白く、面白くないといえば面白くない出来事だが、当時敵の立場にあった日本とドイツとの間で協働や交流が生まれたという点では、興味深い出来事である。
また、広島の似島の収容所にいたドイツ兵が高度なサッカー技術を日本に伝えたが、その似島イレブンの一人がドイツに帰国後に作ったクラブチームからギド・ブックバルトという好選手が生まれた。
ブックバルトは、世界サッカー1990年のイタリア大会の決勝戦であのマラドーナを徹底マークして完封し、ドイツ優勝に大貢献した選手として有名で、1998年福岡にあるJリーグチーム・アビスパ福岡の監督に就任している。
日独交流150周年のビール祭りでにぎあう冷泉公園のすぐ近くには、かつて大博劇場という映画館があった。
この大博劇場こそは、ドイツ生まれのユダヤで天才物理学者・アインシュタインが福岡にて講演をした場所である。
ユダヤ人迫害を逃れアメリカに移住したアシンシュタインは、原爆製造のマンハッタン計画の一翼を担うことになる。
太平洋戦争末期にアメリカは日本の大都市をことごとく空襲によって破壊し、その最後の仕上げが広島・長崎の原子爆弾であった。
原子爆弾投下の約2ヶ月前に福岡も空襲の被害をうけるが、その大空襲において最も甚大な被爆地点(グランウンド・ゼロ)の地点こそが現在「ビール祭り」が行われている冷泉公園であったのだ。
公園内にはその空襲を記憶するための記念塔がたてられている。
第二次世界大戦で同盟を組んだ日本人とドイツ人が、同じテントの下最も米軍の空爆が激しかったその地で「ビール祭り」をして友誼を深めているのだから、面白いといえば面白い。面白くないといえば、あんまり面白くない。
ところで第二次世界大戦の末期といえば、佐賀県の鳥栖で起きた小さな出来事がきっかけで、数年前にドイツのツァイツ市に日本庭園がつくられた。
第二次世界大戦末期、ドイツのフッペル社製のグランドピアノが佐賀県の鳥栖小学校にあった。
10キロほど離れた目達原基地の特攻隊の兵士二人が出撃する直前にこの小学校を訪れた。
二人はもともと音楽大学の学生であったが、出撃の前にぜひビアノが弾きたいと、この小学校をおとずれたのである。
音楽の先生は二人のピアノ演奏によるベートーベンの「月光」をしっかりと心にとどめ、最後に音楽室に生けてあった花束を贈った。
そして、それが最後の別れになるかにも思えた、
1990年代に鳥栖小学校でこの時のフッペル製のピアノを廃棄することになったが、その音楽の先生がピアノにまつわる音楽学校出身の二人の兵士たちの思い出を語ったところ、大反響をよびピアノは市民たちの運動によって保存され、この話は「月光の夏」として映画化されることになった。
このピアノは現在、JR鳥栖駅そばの「サンメッセ鳥栖」に展示されているが、様々な人々の思いが寄せられている。
ところで、鳥栖市はこの出来事を通じてフッペル社の本社があったドイツのツァイツ市と姉妹都市となるが、日本側から何か記念になるものを送ろうといことになった。
そして鳥栖市からそう離れていない太宰府にある紅葉の美しい寺・光明禅寺の庭園をかたどった日本庭園がドイツのツァイツ市に作られたのである。
ちなみにフッペル社は1875年の創業で、ツァイツ市を拠点に1948年までピアノを製造していたが、戦後はフランクフルト市に移り、現在は家具の販売をしているという。
福岡市には、全国的に知られた和菓子屋があるが、なかでも千鳥饅頭総本舗は、老舗のなかの老舗といっていい会社である。
千鳥饅頭総本舗は、江戸時代の1670年(寛永7年)に南蛮渡来の焼菓子専門店を創業して以来、約350年もの長い年月をかけ、吟味を重ねた原料に菓子職人が織り成す伝統の技法で、福岡を代表する菓子文化を確立してきた会社である。
先々代の社長の原田光博氏は飯塚市出身で、1938年の生まれで2008年に亡くなられたが、長年福岡商工会議所議員を務め、「福岡オーストリアウィーン倶楽部」の専務理事なども務められた。
なにしろ千鳥屋のお菓子はチロリアンなどドイツやオーストリアの文化と融合する形で開発されたものも多い。
1994年に氏は、ドイツ連邦共和国から功労勲章一等功労十字章を授章されている。
ところで、千鳥饅頭の名前の由来は菅原道真が福岡に流されてきて自分のやつれた顔を川面に映した際に歌った歌、「水鏡せると伝ふる天神の、みあしのあとに千鳥群れ飛ぶ」である。
ちなみに天神の水鏡天満宮もこの歌にちなんで創立された。
ところで原田光博氏がドイツにて菓子製造修行の際にその夫人ウルズラさんと出会い、1972年ハンブルク市にて結婚された。ちなみにウルズラさんのご実家も菓子店を経営されていたそうである。
原田光博氏が亡くなられた後しばらくは夫人である原田ウルズラさんが社長の地位を引き継がれた。
そして、次男の原田健生氏はドイツ色の強い上智大学経済学部に学び、現在の千鳥饅頭総本舗の社長であられる。
ところで福岡市南区の寺塚には、市内で最も人気があるといってもよい菓子とパンの店「サイラー」がある。
この店を開いたアドルフ・サイラー氏は、オーストリアのパン職人の家の出身で、日本に来日した際には上述の千鳥饅頭本舗で修行をされた人物である。
オーストリアのオーバーエストライヒ州オーバーキルフェンにあるサイラーの店は、1913年から代々パン屋をしている老舗で、オーストリアでは家業を引き継いでいくことはごくあたりまえで、1994年に福岡サイラーの店主である4代目アドルフ・サイラー氏も15歳からパン職人として働いたという。
アドルフ氏は本国に帰国して家を次ぎ、現在の福岡サイラーの店は 弟のルドルフ・サイラー氏に引き継がれた。
というわけで、サイラー家はオーストリアと日本の両方でパン職人としての成功を収めているのである。
サイラーの活動の中では、1998年の長野オリンピックの際、オーストリアオリンピックチームに招待され選手の為にパンを焼いたり、2002年 日韓ワールドカップの際、大分県中津江村に滞在していたカメルーン代表チームに招待され選手の為にパンを焼くなどをしている。
また現在、Jリーグ・アビスパ福岡のオフィシャルスポンサーになっている。
個人的な話であるが、自分がホームページを拙ない英語で公開して以来、最初に海外からメールをくれたのが、ネアンデルタールというところに住むハイデルベルク大学の学生であった。
たったそれだけのことではあったが、以来ドイツが随分近しい存在になったような気がする。
今年2010年はドイツ再統一20周年という節目の年でもある。日独の豊かな交流を期待したい。