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神々の高み

ヨーロッパや中国では、血なまぐさい闘争の勝利者が「王権神授」やら「天命」などという名目をつけて国を支配する。
日本の場合、相争う権力者の勝者が、そのまま国を支配するのではなく、「天皇」を担ぐことによってはじめてその権力の「正当性」を獲得することができる。
つまり一番上に乗っかる「天皇」はあらかじめ決まっていて、その下で支配の「代行者」の地位の争奪戦を繰り広げるという構図である。
したがって、武人や官僚の中で現役の天皇を打ち倒して自らが「天皇」の位につこうとする者はなかった。
天皇を打倒するにせよ、他の「天皇」候補者を探し出して担ごうとしたにすぎない。
例えば、天皇という「玉」をつかみえたが故に勤皇の志士達は、成功裡に明治政府を作りえたのである。
一方、226事件の青年将校のように、どんなに天皇への「至情の思い」があったにせよ、「玉」をつかみ損ねたら「反乱軍」として処刑されるほかはないのだ。
このように日本人の精神に覆いかぶさるように存在する「天皇」とは、一体どのような存在なのだろうか。
この点こそが、日本の歴史と文化における「最大の謎」なのだが、この点についての納得のいく説明を聞いたためしがない。
多くの学者は、日本の天皇支配の「継続性」は、「豊葦原水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ」という、アマテラスの子孫(天孫)が支配者となって日本を治めるという「神勅」、つまり神の意志に基ずくものであり、天皇の地位は神代から続く血統によるという神話に基ずくものと説明する。
確かに「神話」は、古代人が世界をどうみてどう捉えたかを知ることができる「貴重な」資料であり、歴史的事実ではないからといって軽視することはできない。
むしろ、神話に表れた意識や態度が民族の様々の信仰や行動を相当に制していることを思えば、「神話」の世界にこそ民族の最も無意識かつ根源的なものが秘められているとみなすこともできる。
だが日本の場合は、「神話」による支配者の正統性の根拠よりも、そんなにも長く時代を超えて受け入れられてきたという事実ソノモノにこそ目をむけるべきではないだろうか。
つまり王朝が変わってしまえば、新しい「正統性」の根拠を作り出すことさえ可能だからである。
そういう問題意識をもってはじめて「古事記」をよんでみた。
とはいっても漢語では読めないので現代人でも読み易い鈴木三重吉の「古事記物語」を読んでみた。
(この著名な童話作家の訳は「古事記」の雰囲気を忠実にとてもよく伝えている)
古事記における「日本創世」を鈴木三重吉訳で見てみると、心がホンワカしてくる。
”天も地もまだしっかり固まりきらないで、両方とも、まだとろとろになって、くらげのように、ふわりふわりと浮かんでおりました。その中へ、ちょうどあしの芽がはえ出るように、二人の神さまがお生まれになりました。”
天御中主神はこの二人の神イザナミ・イザナギに矛を授けて、天の浮橋という雲の中に浮かんでいる橋の上から矛で、下のとろとろの部分をかきまぜて、サット引き揚げて、矛先の潮水がポタポタおちて、日本列島ができたという話である。
そして「古事記」物語から、日本人の心のとらわれない素直さやユーモラスな精神や素朴なヌクモリにふれることができ、一時の幸せに浸ることができた。
女神のアマテラスは弟スサノウの乱暴を恐れて、姿を岩屋に隠してしまい、高天原も下界も一度にみんな真っ暗になり世界中にありとあらゆる禍が一度にわき起こってきた。
そこで、なんとかアアテラスを岩屋から出させるために、入り口の前に鶏を集めて鳴かせてみたり、奇妙な格好で踊り狂ったりして悪戦苦闘する場面が、なんともユーモラスでおかしい。
ところで古事記には、空高くに在る「高天原」を舞台としてた神々の世界が描かれている。
イザナミやイザナギによって日本の国つくりが行われ、アマテラスという女神が地上の争いをただすために派遣したニニギノミコトという神の子孫(天孫)が日本をおざめることになる話などがでてくる。
こうした物語を読んで第一の印象は、けっして高天原の神々は西欧の神のように「超越的」な存在ではなく、かなり人間に近しい存在であるということである。
アマテラス(「天照大神」)は名前かして太陽神であり、日本人がすべての生命の根源に「太陽」を直感的に感じ取っていた意識の表れなのだと思う。
エネルギーの法則やらエントロピーの法則を学んだ現代人の知識にも「太陽」が地球上のあらゆる生命活動の源であることは、異論のないところではなかろうか。
つまりアマテラスの子孫たる天皇は、日本人が日々の生活を営む上で遍在するあらゆる自然の恵みの「体現者」のようなものとして、時代を超えて受け入れられてきたということである。
さらに血の繋がりというのも自然の流れであり、自然を崇拝する日本人が「血統」を大事におもうこともわからぬこともない。
「高天原」から降ってきた天皇は、超越せる存在というわけでもなくむしろ人間と近しい存在なのだが、その意味では、天皇を「天子様」とよぶ呼び方は日本人一般の感覚をよく表していると思う。
そして「天子様」は日本にもたらされるあらゆる恵みの根源であり、日本の国土や自然そのものが「神殿」のようなものとして受け入れられていたならば、逆に天皇以外のどんな支配者がその存在を超えて君臨できるだろうか。
またどんな新しい「神話」が「天子様」に打ち勝つことができるだろうか。
個人的想像であるが、天子様をナイガシロにするようなことをすれば、時々の支配者は天の恵みを失い年貢さえとれなくなるという微かな恐れさえ抱かせるにたる存在であったのかもしれない。
それゆえに支配者自らがどうしても「天皇」を奉る必要性があったのである。
ちなみに「天皇」という言葉は、文武天皇(697年即位)の時代に、外国に対するときの天子の称号として、あるいは諸官・公民に皇帝として君臨する地位の称号として、作り出されたものである。
しかし何世紀もへて明治以前まで、天皇はもっぱらミカド(御門)であり、ダイリ(内裏)であり、キンリ(禁裏)であり、民衆的には「天子様」であり、「天皇」という言葉はそれほど使われなかったといってよい。
そして「天子様」の呼称はその後もずっと親しまれていい伝えられ、太平洋直前までは一般に活きた言葉であったのだ。
ところで、今でも宮中で行われる「新嘗祭」において天皇自ら田植えをして、刈った新穀を、天照大神に捧げ、豊饒を祈るという何の変哲もない民族の風習を"農民のごとく"自ら実践するが、そういったことを、一体どこの国王がするだろうか。
かつてアメリカのカーター大統領が来日した際に、天皇が「稲を植えること」を聞き、自分も農民の一人であることを縷々切々とのべ、天皇に対して敬意を表したという。

ところで日本の天皇は、昔から「完全性」(無謬性)を期待されてきたわけではない。天皇も自然界の現象のように気まぐれで安定しないものと見られたかどうかまではわからない。
「古事記」神話において、高天原の神々は、乱暴したり約束破ったりと、とかく過ちをおかしまくる神々であり、アマテラスでさえ弟スサノウの乱暴狼藉にヒキコモリ状態になったりする。
誤りを犯すからこそ、歴史上天皇の「責任」を回避させるような仕掛けができているのではないか、とさえ思うくらいである。
つまり「古事記」では、高天原と地上の人々が呼応するかのごとく存在し、神々はけして「超越的」な存在ではないのだが、それでも「聖なる」所以は「高天原」からこの地上のことが生成されたという「根源的な」由来性なのであろう。
ところで、ある著名な学者は「天皇は現津御神とあおがれたが、それは現世の神であって、神といっても外国流の全智全能の無謬にして、独断して誤ることなき神とは、まったく意味が違う。
衆の忠言と協力とがなければ、当然に過ち多きことを、常に自ら恐れられた御方である」と論じている。
この天皇観に呼応するように、昭和天皇自ら「日々のこのわが行く道を正さんと かくれたる人の声をもとむる」という歌った和歌もある。
こういう天皇観は、昭和の軍国主義の時代に起きた「天皇機関説」事件を思いおこさせる。
天皇機関説が問題となったのは1935年2月18日の貴族院本会議においてであるが、以後この説をとなえた美濃部達吉は、その書が発禁処分となり貴族院議員も辞職に追い込まれていった。
美濃部氏は、大日本帝国憲法で、天皇が議会の「協賛」をえること、政府の「輔弼」(助言)に対して拒否権がないことを主張し、「天皇ハ神聖にして侵すヘカラス」も天皇の神格性を定めたものではなく、「政治的無答責」の規定であるとした。
天皇機関説は、問題化するはるか以前1912年に発表されたもので、吉野作造の「民本主義」とともに「大正デモクラシー」を支えてきた学説である。
内容を簡単にふれると、国家は国民全体の幸福の為に作られた団体であるから、「統治権」は天皇個人ではなく、国家という団体にある。
そうすると天皇という地位は国家組織の一つの機関となり、天皇の統治権は制限され、議会も統治権を分担(協賛)できる。
天皇機関説は、「国家法人説」という世界的なデモクラシーの潮流の中で認められた学説の日本版なのであり、昭和天皇自身が「天皇機関説でよいではないか」と発言している。
しかし、すでに常識となっていた天皇機関説が、次第に軍人たちに「異和感」をもたらしサワリ始めたのは、軍国主義の足音が次第に大きくなるにしたがってであった。
しかし「天皇機関説」に対するはじめの反発は、その理論的な内容に対するよりも、案外と「天皇」と「機関」を結びつけた言葉の語感がもたらす心情的な反発だったのかもしれない。
ドイツで生まれた「国家法人説」の日本版が「天皇機関説」であるが、「法人」という言葉は「自然人」と対応する言葉で、団体を一個の人間のように権利義務の主体とするという学説である。
だから国家を「人間の体」のようにイメージしているわけだから、メカニックな「機関」よりも「器官」という言葉の方がまだしもよいニュアンスをもって伝わっていたかもしれない。
美濃部達吉は、天皇を機関というのは「天皇の神聖」を冒すというかたちで、議会で攻撃された。
そして陸軍大臣や海軍大臣がこの問題に対する見解を問われ、天皇機関説反対の意見を何度も表明するにつれて、軍が背後で「天皇機関説」反対の急先鋒となっていくのである。
それに対して政府は、国家統治権が天皇に存せず、天皇はこれを行使する機関であるとする天皇機関説は、万邦無比なるわが国の本義をあやまるもので、天皇統治の大権は神代の昔から決まっているという 「国体明徴」声明を行い、それによって天皇は「超越的存在」へと奉り上げられる。
つまり、かつての 、自然の恵みの体現者たる「天子様」から遠いイカメシイ「天皇陛下」へとその姿を変貌させる、もしくはそのように演出されていくのである。
つまり、1935年のこの「国体明徴」によって、日本には、もはや宗教としかいいようのない「天皇神聖説」が主流となり、軍部ばかりではなく政府指導層全体にも「神がかり」的な雰囲気が醸成されていくのある。

前述のように「天皇」という言葉は、古代では「対外的」な使われ方をしてきたのだが、その存在を万邦無比のユニークな存在として「色づけ」したのは、幕末の水戸藩で発達した「水戸学」である。
水戸藩の会沢正志斎は「新論」を著し、日本書記の神話と天の信仰を結びつけて、日本の「国体」を導き出した。ちなみに「国体」という言葉は、会沢が最初に使った言葉である。
会沢は、天照大神が日本を建国したと信じ、それは天の仕事(天業)だったと解釈して日本の建国に普遍的な意味を与えたのである。
要するに宇宙の支配者である天が特別な意図をもて日本を建国したという「気宇壮大」な思想であった。
「新論」は、幕末の尊皇攘夷運動に参加した志士の聖典となり、明治新政権に理念を与えることになる。
そして、明治政府の中枢にあった伊藤や山県は、古くからの親しまれてきた「天子」という言い方を根絶し、N音の重複でどこかアヤシク内にこもる響きをもたせた「天皇」という言葉を採用した。
また伊藤、山県らは「天皇」が絶対、全能なることを民衆に示すと同時に、他国の支配者とも区別させる意味でも、皇帝とか国王といった出来あいの言葉をも捨てたのである。
評論家の半藤一利氏の指摘によれば、日本の和歌では、すめらみこと、おおきみなどと読んできたが、歌や文学に適しなかったことが「天皇」の語を俗事に汚さず、聖別してきたといしている。
前述のように「天皇機関説」に対する反発は軍人達からからおきたものである。
その軍人達は、明治時代自由民権運動に影響を受けた近衛兵(天皇護親兵)が待遇改善をもとめて反乱をおこした(竹橋事件)ため、天皇自ら下賜する形で軍人の心得をを明示した「軍人勅諭」に基づいた教育を受けた者達であった。
その「軍人勅諭」には、「世論に惑わされず、政治にかかわることなく、ただ一途に軍人の本分である忠節を守れ」とあるように、軍人は政治に関わるなということを明言していた。
しかし同じ「軍人勅諭」に基づいて兵士達は、「天皇の為に死ぬ」教育を受けてきたのだから、単なる「機関」のために死ねるかというとそれはできるハズもなく、あくまで天皇は「至高の存在」でなければならないのだ。
さらに「軍人勅諭」には、兵士が天皇の体の一部であることを「股肱の臣」つまり天皇の手となり足となれという言い方で表現している。
国体をもともと人間の体になぞらえて生まれた天皇機関説などより、よっぽど巧みな表現といわざるをえない。
結局、「軍人勅諭」の精神と「天皇機関説」の理論内容の隔たりの拡大こそが、軍人が政治に関わるきっかけをつくったというのは皮肉な話である。

ところで、古事記に登場する「高天原」とはどこにあるのだろう。
アマテラスは、子供のアメノオシホノミコトに向かって「下界に見える、あの豊原の水穂国は、治めるべき国である」といっている。
あいはスサノウノミコトがイザナギのいうことを聞かないのでこの国においておけないとうと、姉であるアマテラスに別れをつげようと高天原にグングン上っていったという記述もある。
となると「高天原」は高いところにあるにせよ、下界が見えたり、グングン昇っていける程度の高さだから、それほどの高さではない。せいぜい「雲」ぐらいの高さに位置するかに思える。
ところで、聖書の世界に、「第一の天」「第二の天」「第三の天」というのがあるのを思いだした。
実際に聖書に登場するのは、コリント人第二の手紙の中にパウロが「生きながらにして第三の天まで昇った人を自分は知っている」という箇所があるが、ユダヤ人は当時、天を「三層」にわける考え方があったのである。
第一の天は人間が住む処(空の下)、第二の天は諸々の霊の住む所、第三の天は神が住み給う処である。
この中で「第二の天」がちょうど「高天原」に対応していているように思える。
新約聖書のエペソ人への手紙には、「我々の戦いは天空にある諸々の霊との戦いである」という箇所がある。
また、旧約聖書(ダニエル書10章)に、ダニエルの祈りは神に即座に届いていたが、その答えがダニエルに返ってくるのに、途中で諸々の霊に邪魔されて3週間もの時間がかかったという箇所もある。
昭和の指導層もしくは軍人たちは、西欧に対抗するために「高天原」由来の天皇の存在を「第三の天」にまで引き揚げんとしてイカメシイ「天皇」像をつくあげ、「八紘一宇」などといった付加価値(解釈)までつけて、ついには破滅に至った。
ところでTVでお馴染みの学習院大学の篠沢秀夫教授は、戦争中の体験を次のように書いている。
「帝国において誰が天皇を神だと信じたか。誰もいなかった。”皇陛下は現人神であられる”と校長先生がおっしゃるのは、そういうのがよいことからなのだ、と子供ながらに分かっていた。つまりお題目である。
お題目を唱えることはよいことなのであった。天皇はそれほど立派な方だ、と思っていた。つまり、立派な人間である」と。
この証言からみると、「神々の高み」は多くの人々にとって「高天原」以上にはのぼってはいかなかったようです。