ノブレスオブリージュ

イギリスは階級社会である。
イギリスあたりのパブは、労働者階級と中産階級のそれが、隣り合っても別々に存在し、同じビ-ルの値段でも中産階級の方が少し高めになっている。
イギリス人は、生まれて間もなく人は能力・財産・家格などの「違い」を自覚し、親と同じ道を見据えて歩きはじめるので、社会的流動性は大きくはない。
そして上層階級・中産階級・労働者階級があたかも異なる”サブ文化圏”を生きているようにも見える。
イギリスでは、長いストライキが頻繁におこるが、それでも「社会革命」にまではいたらず、それなりに落ち着いていた社会である。
マルクスは大英博物館で「資本論」の草稿を書き、資本家階級と労働者階級の対立から「共産主義革命」がおこる「歴史の必然性」を説いたのであるが、それにしてもイギリスのような明白な階級社会で、そうした革命はおこってはいない。なぜであろうか。
様々な理由があろうが、その一つの理由は、イギリス社会のエリート層にあるものの考え方「ノブレスオブリージュ」である。
「ノブレスオブリージュ」とは「高貴なる義務」を意味するフランス語で「多く与えられた者は、多く求められる」という意味の言葉である。
新約聖書(マタイの福音書25章)にある、ある主人がしもべに能力に応じて5タラント、2タラント、1タラントを分け与えたという「たとえ話」から出た考え方である。
ちなみに、この「たとえ話」の中のタラントという「通貨の単位」から、「タレント」(才能)という言葉が生まれている。
つまり一般的に財産、権力、社会的地位には大きな社会的責任が伴うという事で、貴族制度や階級社会が残るイギリス社会では、上流階層には「ノブレス・オブリージュ」の考えが浸透している。
第一次世界大戦でイギリスの貴族の子弟に戦死者が多かったのは、彼らが皆志願して従軍したためで、記憶に新しいところでは、フォークランド戦争において王族(アンドリュー王子など)が従軍している。
また、この考え方はヨーロッパにおける指導者観のベースといわれ、実はこうした社会意識こそが日本の社会との大きな違いである。
指導的立場にある人間は、当然、他の人より優れた勇気と力、自制心、高潔さ、犠牲的精神などの「徳」を備えていなければならない。
そして、ことがあれば真っ先に自分が危険の矢面に立って、人々を守っていくべきといういう規範があり、伝統がある。
リスクは自分が引き受け、結果の責任もとる。自分が人々を守ろうとする姿勢こそが真の指導者像である。
したがって、それは必然的に「持てる者」しかできないことでもある。
前述のように、こうした「指導者観」の淵源は聖書だが、それが指導者観として根付いたのは、中世ヨーロッパの「騎士道」すなわち「ナイトの精神」の確立によってあり、それが近代に至って「紳士の道」あるいは「ジェントルマン・シップ」になったのである。
イギリスではそうした「ジェントルマン・シップ」が高く評価され、「紳士の国」とよばれる所以である。
映画「タイタニック」で、多くの人々が「救命ボート」を求めて争う中で、大パニックの中あえて静かに「死」を迎えようとするイギリス「紳士達」の姿が印象に残った。
豪華客船に乗船した人々のことだから、かなりの上層階級の人々なのであろうが、その姿に「ノブレスオブリージュ」の伝統を垣間見る思いがした。

中国にも「君子」という理想的人間像があった。論語には「君子」についての話が多いが、「君子」とは王様と言う意味ではなく、「人間の生きるべき道を体得している人」と言う意味である。
「君主」という言葉には、「指導者には、それにふさわしい"徳"が必要である」との考えに基づいている。
中国では、秦の始皇帝の時以降に「皇帝」の号がはじめて用いられるが、それ以前は、「王」であった。
つまり中国の古来の君主の号は「王」だったが、「王」という言葉にも本来、より大勢の人を守る力を持った人という意義がある。
ところで日本にはヨーロッパや中国に匹敵する「指導者像」を育成するような文化的基盤は、なかったのであろうか。
武士道には「指導者像」としての観点はないわけではないが、それほど明白ではないように思う。
戦場で武士が一番に敵陣に飛び込んで行く「先陣争い」のことが「平家物語」にも登場し、その勇気が讃えられているが、それは指導者としての理想像というよりも、家門あるいは一門の名誉を担う行為として賞賛されているにとどまっている。
つまりその勇敢な行為によって、自分が真っ先に死んだとしても、彼の家は多くの恩賞に与ることができるのである。
実は日本で「武士道」が確立するずっと以前から、中国の「貞観政要」という書物が、「帝王学」の教科書のような役割を果たした。
この本は、唐の太宗・李世民の理想的な政治「貞観の治」の内容を基にしてまとめられたもので、平安時代に日本に伝わり、徳川家康・北条政子も座右の書としたもので、歴代の天皇や将軍の「帝王学」の教科書として用いられ、近代にはいってからも明治天皇が御進講をうけたといわれる。
ところで「貞観政要」は唐の太宗すなわち李世民の言行録ともいうべきものだが、李世民こそは群雄割拠の対抗勢力を滅ぼし、唐の基盤を実質的に築いたといってよい。
彼の兄は、李世民の勢力の伸張をおそれ、別の弟と図って李世民をナキモノにしようとしたが、逆にこれを滅ぼして、626年第二代目の唐の皇帝(太宗)の地位についた。
李世民の治世は23年の長きにわたるが、臣下の諫言をよく聞き気持ちを引き締めて政治を行った。
そして「貞観の治」をもたらした政治の要諦をまとめたものが「貞観政要」で、太宗の死後50年後に呉兢という歴史家によってまとめられたものである。
以下にそのポイントを少々概観すると、まず「君たるの道は、必ず須く先づ百姓を存すべし」とある。
トップとしての道は、まず国民(百姓)の生活の安定をこころがけるべしという意味で、もしも国民の生活を犠牲にして自分だけが贅沢をするならば、自分の足の肉を切りとってムシャムシャくらうようなものだという。
それでは、腹が満ちても、体のほうが倒れてしまう。
そこで、天下を安んぜんとすればまずは自分の身をただすことだという。
一言でも道理にあわないことをいえば国民がばらばらになり、批判が大きくなり、ウラミを生じるようになる。その結果、謀反を企てるものも出てくる。
また、自分の体を冒すものは外からのものではなく自分の私欲によってであるとして、もし美食や音楽や女性に溺れるならば、果てしなく欲望が大きくなり、損ずるところが大きくなる。
その結果、政治に身がはいらなくなり国民の生活を顧みなくなるようになる。
実際なかなか実践が難しいのは、君主の過失を諌めるような人々を高い地位につけることであるが、昔から立派な君主は実践してきたという。
そして太宗自身も「諌議太夫」という地位をもうけて、よくその話をよく聞いたという。
それでこそ、初めて国の隅々までリッパな政治が行き渡ると語った。
昔、楚の国の君主がある賢者を招いて国を治めるコツを聞いたら、政治のことには何も触れず専ら自分の身を修めることだけを説いたという。
楚の君主は、身をおさめる術ではなく、国を治める術が聞きたいのだというと、賢者は身を立派に修めているのに国が乱れているのを見たことがないと答えたという。
李世民(太宗)は優れた側近問答の中で、こうした賢者の言葉をとりあげつつ「政治の要諦」を説いたのである。

さて日本の政治家または指導者に「ノブレスオブリージュ」を実践したような人いるかと探したが、なかなか思いつかないが、軍人や財界人には多少は思いつく人々がいた。
軍人ならば日露戦争であえて自分の子供を最前線に出して二人の子供を戦死させた乃木希典がいる。
乃木は「二百三高地の戦い」で夥しい死者を出し、軍略家としては批判されているが、敵の敗軍の将を手厚くもてなすなど、その「武士道」の心得は、高く評価されている。
また、財界人ならば徹底的に「私」を捨てて「公」に尽くした渋沢栄一を思いつく。
政治家では「ノブレスオブリージュ」に相応しい人物かどうかよくわからないが、東京駅で銃弾に倒れつつ「男子の本懐」と語った浜口雄幸を思い浮かべる。
浜口首相と井上準之助蔵相のコンビで行った「金解禁」「軍縮」「財政削減」路線は、結果的には日本を大不況に陥れた原因となったものの、命を賭した決断であったことは間違いない。
しかし、乃木も渋沢も浜口も「家門」に恵まれていたわけではない。つまり「持てる者」とは言いがたい。
表立ったの政治家というわけではないが、最近評価が高まっている白洲次郎などは、その一例にあげてよいと思う。
何しろ白洲は、イギリスのケンブリッジ大学で学び、実際に「ノブレスオブリージュ」を体得してきたと思われる人物だからである。
白洲は、神戸の綿の貿易商「白洲商店」の息子で、芦屋に豪壮な邸宅をかまえていた。
神戸一中では腕白の限りをつくし成績もけしていいほうではなかった。
当時羽振りの良かった父親の小遣いもハンパではなく、 中学生の息子次郎に当時は珍しかった自動車を買い与えるくらいはなんということはなかったようだ。
そのうち自動車に乗ったハンサムボーイが近くの宝塚歌劇団の年上の女性と懇ろになったりして、人々の視線を集めないではおかなかった。
1912年、神戸一中を終えて白洲は、ケンブリッジ大学のクレアカレッジに入学する。
白洲の留学は、よくいえば武者修行、悪く言えば「島流し」であった。
そして1919年にイギリスに渡り1925年にケンブリッジを卒業し、折からの金融恐慌で実家が倒産し、帰国するまでの9年間すなわち17歳から26歳の間、どのような生活をしていたかは定かではない。
しかし「風の男白洲次郎」(新潮文庫)という本の中には、「白洲次郎はイギリスで白洲次郎になった」と書いてある。
帰国してしばらくは、英字新聞の記者や貿易会社の取締役、そして請われて日本水産の役員としての仕事に就いたりしていた。
そして1940年に38歳で職を退き、小田急線沿いの鶴川村に疎開し畑仕事をして生活をした。
ところで白洲がもともと実家があった小田急線の鶴川村に引き篭もったのは、彼の国際情勢分析によるものであった。
英米と開戦し、爆撃に合い戦争に負け、食糧難に陥るであろうとうのが彼の予測であった。
そして、彼の予想どうりに1941年12月8日に、対英米戦線布告にいたるのである。
ただ、この頃の白洲は、鶴川村に引き込んだにせよ引きこもったわけではなく、どんなに高い地位の人物であろうと誰にむかっても意見し、容赦なくシカリつけた。
そんな白洲にとって、必ず負けるといっていた終戦とその後の占領期は、格好の働き場が与えられたといえるかもしれない。
日本は主権を失い新生日本の国つくりはアメリカに委ねられている状態であったから、それに対応するに「一家言」を持ちうる人物が必要であったのだ。
白洲はに生まれイギリス留学という経験から、当時イギリスの大使であった吉田茂と知り合い、それが縁で吉田の実質「秘書」という形で連合国軍総司令部と渡りあったのである。
公的には「終戦連絡事務局次長」という立場であったが、彼の口癖は「我々は戦争に負けたのであって奴隷になったのではない」であった。
そして「白洲」の名刺は当時、大変重宝がられ、一枚5万円という噂までたった。
白洲の仲介で連合軍にお願いしようという連中がひきもきらずいたからである。
白洲は冗談で「俺もその名刺が欲しい」とよく言っていったそうだ。 つまり白洲は己の「プリンシプル」に忠実な男であったのだが、明日のメシに困っている人間がいかに「プリンシプル」に忠実とはいっても、そんなことが出来るはずがない。
だから白洲が自分のプリンシプルに忠実でいられたのも、実家の資産や日本水産の役員として得た財産があったからであろう。つまりその家柄も含めて「持てる者」であったからである。
その意味で「ノブレスオブリージュ」という言葉がよく似合う男である。
そこで、白洲の有名な言葉に「役得ではなく役損を考えろ」というのがある。
ところでそんな白洲にとって、終戦直後の占領期から日本の独立の時期に、自己の「プリンシプル」に反すると思ったこととは、連合軍が日本の固有の事情を省みずに「民主化」を進めようとしたことである。
GHQのなかでも民生局は、急進的なニューディール政策の支持者があり、米国で実現できなかったプランを日本で、その実情をよくしらないままに、実施しようという押し付け的実験が行われようとしていた。
そしてGHQの最大のネライは「日本の弱体化計画」といいかえてもいいくらいであったのに、日本の役人や政府にしても意見を真っ向からい言い得る人物がいなかったのである。
確かに戦争に負けたのだから、武力の放棄はしかたないにせよ、国力を戦前の水準にまで戻させまいとするGHQのやり方には、納得がいかないものであった。
そう、我々は戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではないということである。
そのことを総司令部にぶつけりしたが、彼の意見はとり上げられることはなかった。
また占領の終了すなわち「日本の独立」においてサンフランシスコ講和条約の中に、本土の盾となり多くの血を流した沖縄が国家にはいっていなかったことである。
さらに、独立国としての新生日本ということならば、天皇も退位して吉田首相も辞任して、一つの「区切り」をつけるべきという考えであった。
ジャーナリストの大森実が明らかにするまでは、白洲の存在やその働きはほとんど知られていなかったが、その意味では新潮文庫の彼の伝記「風の男 白洲次郎」というタイトルはピッタリかもしれない。
しかし、アメリカの経済科学局の局長を説得して、「食糧」を補給させたのも、白洲の働きであった。
また白洲は吉田首相とともに、貿易立国を目指すべく通産省を創設した。
この通産省は、世界貿易の中での日本のウェイトをたからせしめ、戦勝国を歯軋りさせてきたのは、ついこのあいだのことであった。

階級社会という言葉に、あまり良い響きを感じない。しかし「ノブレスオブリュージュ」の伝統を知った時に、 階級社会に対するイメージが少し変わった。
日本の政治家には「鳩山家」のような階級社会を想起させるほどの「持てる者」の家門もあるのだが、基本的には例外で、圧倒的に「もたざる者」が多いからこそ、いつも「政治とカネ」が問題がつきまとうのかもしれない。
逆の見方をすれば、政治の世界で「議員の世襲」が多いのは政治にカネがかかる事の何よりの証拠である。
つまりジバン・カバン・カンバンを「持たざる」政治家が、その地位を「勝ち取る」ことの「コストの高さ」を何より物語っている。
つまり親から受け継いだものが何もなくて、自力で無理を重ねてその地位を勝ち取った「持たざる」者は、いつしか「政治とカネ」を追求される立場に追い込まれたりするわけだ。
さもなくば「○○チルドレン」などという存在に甘んずる他はない。
政治の世界では「持たざる者」の参入障壁は極めて高いという他はない。
だから政治家の世襲化というのは、ある意味「階級社会」へ近似している現象ともいえるが、イギリスと決定的に違うところは、親から子に受け継がれる、あるいは社会意識としての「ノブレスオブリュージュ」の存在である。
ジバン・カバン・カンバンに「ノブレスオブリュージュ」が加われば、日本の「議員の世襲」ももう少しマシなものになるのではないだろうか。