脳化社会とは

「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」という言葉がある。
解剖学者・養老孟司の「脳化社会」を読んでいたら、この言葉を「人間は自らの"脳"に似せて社会をつくる」に変換できそうに思った。
人間の頭脳が作った人工物を利用して生活しているのだから、アタリマエの話だが、養老氏の「脳化社会」の新しさは、脳の「構造と機能」が社会のあらゆる部面に反映されていることを、かなりフミコんで論じた点にある。
脳の仕組みはほとんど知らずとも、コンピュータはCPSが頭脳の回転の速さ、容量そして、メモリーは記憶をつかさどる部分で、レジストリーは思考など、脳と対応関係にあることぐらい何となく推測できる。
実際、中国語でコンピュータのことを「電脳」というではないか。
最近の世の中のネットワーク化の勢いは、脳神経とシナプスと信号の遍在化を思わせるものがある。
それで、人工物に溢れた都会は人間の脳のウツシミのようなものだから、人間は「脳」の中で生活しているということになる。
「言葉」は脳の機能によって生じ、読むことも(視覚系)、語ること(運動系)、聞くこと(聴覚系)もできる。
脳がそうした性格をもつことから、我々がなぜオカネを生み出し使うことができるかも理解できる。
言語を媒介として交換することと、通貨を媒介として交換することには共通項があるし、言語を操ることも通貨を使用することも「シンボル」を操作するという点で共通している。
オカネが生まれたのは脳の中にオカネの流通に類似したものがあるからである。そこに相似した過程があるということだ。
このように「脳化」のひとつの観点は、脳の働きの社会へのアナロジカルな「表出」ということである。
もう一つの観点をいうと、人間と動物の脳の最大の違いは「大脳皮質」の発達であるが、 その「大脳皮質」の最大の特徴は、「統御と予測」である。
自然の中に住んでいたヒトにとって、自然とは予測不能であり統御不能で、それゆえ自然、たとえば「森」は不気味な存在であり、「畏怖」の対象であった。
そこで人間はその大脳皮質の性向にソッテ、その「予測」不能領域を少しでも少なくしようとしてきた。
それが「進歩」ということである。
私がそうした「脳化」の極致と思うのが「金融工学」である。
はやりの「ヘッジファンド」は景気が良くても悪くても利益が出せるようにする。つまり利益に関する「予測不能」領域を極小化しようとする手法である。
最近テレビで見たヘッジファンドの手法を紹介すると、あらかじめ株の買いと売りの割合を「3:2」にしておく。
株価が安定している「内需株」(小売・保険)を買う一方、為替による変動が激しい「輸出株」(自動車・電機)を「空売り」する。
株の「空売り」とは、あらかじめ下がりそうな株を人から借り受けそれを実際に売る。そしてそのオカネで値が下がったところを見計らって買いもどし、その株を返すことによって利益を得る手法である。
この夏、8月30日、日銀が「追加金融緩和」と政府が「経済対策の基本方針」をきめた。
株価が急上昇して「空売り」で損したが、買ってあった株の利益が大きく差し引き利益を出した。
一方株価が急落した翌8月31日、今度は一転してこれまでの「空売り」が大きな利益を出したのだ。
この時、売りと買いのファンドの「割り振り」が重要な要素となる。
要するにヘッジファンドは、リスクをヘッジ(避ける)し、どちらに転んでも「利益」が出せる仕組みなのだ。
こういう金融工学を生み出した人々は、元々アメリカの軍事産業で働いていた人々らしいが、そういえば最近の「戦争」のスタイルも、かなり「統御と予測」の方向に傾いているという他はない。
従来は戦争ほど予測不能なものはないと考えられてきた。
ところが1990年の「湾岸戦争」は「予測不能域」を最小限に抑える「統御」が隅々にまで行き渡って行われたという点で、従来の「戦争観」を大きく転換させるものであった。
この戦争の大きな特徴は、ハイテク兵器がターゲットを「ピンポイント」で攻撃し、まるでゲームを見ているような印象を受けたが、実はそうした映像自体も人々の意思を一定の方向に導くべく注意深く「統御」されていた。
また「バリアフリー」という考え方は、すべての人々が障害を感じるようなものを徹底的に除去するということであるから、結局すべての人にとって「予測不能」なものを排除するということである。
結局は「脳に優しい社会」を目指しているということがいえる。
ところで、どんなに脳が「自然」を統御し、予測可能な社会を築いていても、自然は「災害」などの形で露出するし、ある意味人間の「身体」ほど予測不能なものはない。
あのおとなしい人物が凶悪事件をおこしたりして周囲を驚かせるし、人間が突然に迎える「死」も「予測可能領域」に侵入した異変のように思える。
ところで、解剖学者としてたくさんの死体と付き合った養老氏によれば「死体」ほど統御できないものはない、という。
あれほど活力に満ちていた「身体」が、今までの延長線上では考えられもしないほどの速さで「崩壊」へと向きを変えて行く。
もはや「死体」という自然は統御不能状態に陥り、そのことが「気味が悪い」と思われるのか、「死体」に関わる仕事は歴史的に「賤業」とされた。
養老氏の「カミとヒトの解剖学」から引用すると、”社会は予測ー統御可能なフリをしているが、そもそもはじめからママナラヌものを抱え込んでいる。
それは身体である。身体は「内なる自然」であり、予測不能、統御不能という意味において、それは外なる自然と呼応する。
そのため、いかなる社会であろうと、身体性を幾分なりとも忌避としないとことはない。
しかも死体ほど歴然と ヒトの身体が「自然」であること、すなわち予測ー統御不能であることを示すものはない。”
我々が統御できないものは一方で「畏怖」の対象となり、他方で「差別」の対象となったのである。
ニートやヒキコモリといわれる人々は、完全な「予測可能」「統御可能」な世界で生きようとする人々のことである。
それゆえ彼らは、非常に「狭小」な世界で生きざるをえない。とするならば、彼らもやはり「脳化社会」の産物といえよう。

最近、テレビで「統御と自然」という問題で、面白いと思ったのが「生体認証」である。
生態認証のユニークさは、本人確認を身分証など「社会的な証明」ではなく「身体」という「自然」にもとめたことである。
指紋、目の虹彩、手の静脈は、人間の意思(脳)ではどうしうもないので、本人の証明(アイデンティフィケーション)に用いられているという。
テロ対策として、身分証明書は「偽造」とうことがありうるので、「生体認証」が発達してきたわけだ。
「生体認証」は室内では100パーセントの精度を持っているが、野外では急速に衰える。
理由は目の虹彩にせよ、手の静脈にせよ、機器が一瞬「赤外線」を発して対象物を認知しているからだ。
赤外線あふれる野外では、認識力が低下するのだ。その点、指紋認証は直接に指を機器に接触させるので、それを微細な電流を流すことにより認識するので、野外で「認識力」が衰えるということはない。
さて、この「生体認識」は、人間が作りだした「電脳」が人間の「自然」を読み取って本人の認証を行っているという構図であり、そこが面白く思った。

養老孟司氏の「唯脳論」が火付けとなって「脳ブーム」が沸き起こっている。
脳科学者の中には、「脱税」したくなるほど儲かっている人もいると聞く。
ところで、「唯脳論」を読んで思うことは、人間の意思が働く部分が強調されおり、人間の「無意識」における脳の営みについての記述があまり見られいないということである。
よく考えてみると、意識されていない部分こそが、「予測と統御」に向かう「脳化」に最も反する人間の「自然」であるかもしれないのだ。
というわけで、オーギュスト・コント以来の社会そのものをデザインするという「設計主義」は、あくまでも人間の「脳内」において大成功するものの、それを実際に「脳外」に実現しようとする時に、常に破綻してしまうのである。

ところで自分がネットに拙文を書いているために、常に脳における「ヒラメキ」という点を意識せざるを得ない。
そして 資料は「既存」のものを使うにせよ、その「資料」に対する観点とか解釈に自分なりのものが何一つ得られないものについて「書く」ということに意欲を感じない。
したがって、そういうものは書かないことにしている。
毎回毎回ネタ切れで「次」が何も思い浮かばない「ゼロ状態」からまた書きはじめるわけであるが、それで求めるのは自分の脳内の知識のゴミを「一点」で整理し、命脈を与えうる「光」だけが頼りになる。
そしてこういう「光」がけして「脳内」から発せられるものでないということをしばしば体験する。
たた文章の内容の質の悪さは、その「光」の具合ではなく、脳内の「ゴミ」そのものの質の低さ、またはもともとの脳のサエなさによるものである。
ところで、社会は「脳内」から生まれるということの最大の反証は、旧約聖書の預言者たちである。
イザヤという預言者の言葉をまとめた「イザヤ書」11章には、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と才能と謀略の霊。主を知り、畏れ敬う霊。 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず耳にするところによって弁護することはない。」とある。
この預言は、イスラエル3代目のソロモン王にピッタリと合致するし、同じ系図から出たイエス・キリストをさすのかもしれない。
ところでイスラエルの二代目の王・ダビデ王の子ソロモン王は、旧約聖書の中の最高の知者といわれている。
ソロモンが王に就任し、神から何が欲しいかと尋ねられた時、一国を治める「智恵」であると答え、神はその答えをよろこびソロモンに大いなる智恵を授けたという。
そしてソロモンの智恵と治世を一目見ようと「シバの女王」はじめ近隣諸国の王がイスラエルを訪問したりする。
そして、ソロモン王の「名裁き」が周辺諸国にも噂として広がっていくのである。なんと日本の江戸時代にまでその「裁き」は伝わり、いわゆる「大岡裁き」に焼き直されたりもしたのである。
その一つのエピソードを旧約聖書の「第一列王記」3章から紹介すると、次のとうりである。
”そのとき、神がソロモンの夢のうちに現れて「あなたに何を与えようか。願え。」と仰せられた。
するとソロモンは「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」と答えた。”
そして、この願い事は主の御心にかなう。
”そこで神は「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。”と「知恵の心」と「判断する心」とを与た。
そして、さっそくソロモンに与えられた知恵を証明する「訴え」が起きる。
「ふたりの遊女が王のところに来て」裁判をしてくれるよう嘆願した。聖書をそのまま記述すると次のとうりである。
”ひとりの女が言った。「わが君。私とこの女とは同じ家に住んでおります。私はこの女といっしょに家にいるとき子どもを産みました。
ところが、私が子どもを産んで三日たつと、この女も子どもを産みました。家には私たちのほか、だれもいっしょにいた者はなく、家にはただ私たちふたりだけでした。
ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。
この女は夜中に起きて、はしためが眠っている間に、私のそばから私の子を取って、自分のふところに抱いて寝かせ、自分の死んだ子を私のふところに寝かせたのです。
朝、私が子どもに乳を飲ませようとして起きてみると、どうでしょう、子どもは死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、まあ、その子は私が産んだ子ではないのです。
すると、もうひとりの女が言った。「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子です。」先の女は言った。「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」こうして、女たちは王の前で言い合った。
そこで王は言った。「ひとりは『生きているのが私の子で、死んでいるのはあなたの子だ。』と言い、また、もうひとりは『いや、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ。』と言う。」
そして、王は、「剣をここに持って来なさい。」と命じた。剣が王の前に持って来られると、王は言った。「生きている子どもを二つに断ち切り、半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい。」
すると、生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。
「わが君。どうか、その生きている子をあの女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」
しかし、もうひとりの女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください。」と言った。
そこで王は宣告を下して言った。「生きている子どもを初めの女に与えなさい。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親なのだ。」
イスラエル人はみな、王が下した裁きを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、裁きをするのを見たからである。”

「脳化社会」とは、統御可能・予測可能・不安・不快の徹底排除、人々が生きる環境を赤子が「母親」に抱かれているかのような状態をめざすようにも思えた。
そういえば映画「未知との遭遇」のラストシーンを思い出した。
地球上に着地した壮大な人工機器に囲まれた宇宙船から、真っ白くやせ細り、目だけがギロッとした二足歩行の生き物が登場する。
この「未知との遭遇」は、まさに「未来の人類自身」との遭遇だったのかもしれない、と思う。
最近「脳化」の浸潤の度合を思わせるのが、「工場夜景」の見学が異常な人気を呼んでいることである。
あの複雑に屈曲したパイプラインの姿は、人間がまさに人工機器の中にいることを再確認しているようなもので、実際あのコンビナートの形象こそは視覚的にも「脳そのもの」のように見える。
そしてあるテレビ番組であった、工場見学における「見る」ポイントの説明が面白かった。
第一にパイプの造形美を見るべし、第二に、その働く続ける姿に「男」または「父権」を見出すべし。
母親に抱かれた居心地のいい社会をめざす「脳化社会」が、反面では「父」を探しているのかもしれない。
この「父」とは、かつて「畏怖」の対象であったものである。