おばあちゃんのチカラ

「おばあちゃん子」は、なんらかの事情で親と接する度合いが少なく、実質おばあちゃんに育てられた子供である。

小さい頃からおばあちゃんに育てられることがイイことがなのかヨクナイことなのか、一般的なことは何もわからない。
しかし最近、そういう環境に育ったユニークな人々によく出会う。
育った環境が、親という直接的な利害関係者ではないおばあちゃんに育てられた分、生活に忙殺されていないおばあちゃんにゆっくり育てられた 分、他とは何かちがうものを得る機会を得たのかもしれない。
少々ひ弱な面もあたとしても、この世とあの世の境界線に近づいたおばあちゃんという存在をじっと見つめることで、何かの智恵でも教訓でも得られる部分もあるのではないか、と思う。
では、おじいちゃんではダメかというと、「おじいちゃん子」という言葉が見当たらないので、「育てられる」ということに関しては、やはりおばあちゃんの影響力と比べようもない。
最近あまりテレビでは見かけなくなったが、黒人演歌歌手ジェロはピッツバーグで育った、おばあちゃん子である。
鉄の町に育ったとは思えないくらい、心優しき青年である。
母方のおばあちゃんが横浜出身の日本人で、おばあちゃんの影響で幼少の頃より演歌に親しんできた。そのおばあちゃんが喜ぶように演歌を憶えて披露するうちに、自らが演歌の虜になっていったという。
高校時代にダンスチームの主将を務めた経験からか、帽子を横にかぶりヒップホップ系ファッションを採りいれている。
出始めの頃、そのファッションと演歌の取り合わせも、ユニークでオカシかった。
その外見はラッパーのスタイルというのも、どこか礼儀正しさとか腰の低さを感じさせるのは、おばあちゃんに育てられた影響でしょう。
15歳の時で、「高校生による日本語スピーチコンテスト」で出場するため、初めて日本の土を踏んだ。
その時のスピーチタイトルは、「ぼくのおばあちゃん」だったという。
ジェロが何をリクエストしても歌詞をきちんと憶えて歌うのも、結局は好きなおばあちゃんに喜んでもらうためであった。
ピッツバーグ大学に進学し情報科学を専攻したが、在学中に日本の関西外国語大学に3ヶ月間の留学をした経験がある。
この留学期間中に演歌歌手になることを決意したという。
大学卒業後再び日本の地を踏み、英会話学校の教職やコンピュータ技術者の仕事に就いた。その傍ら「NHKのど自慢」に出場して合格し、演歌歌手を目指して日本各地のカラオケ大会に自ら応募するなど独自に活動を続けてきた。
坂本冬実主宰のカラオケ大会で優勝した際、スカウトの目に留まりオーディションを受けて合格した。
2008年に「海雪」でプロデビューし日本レコード大賞の最優秀新人賞を受賞した。
NHK紅白歌合戦では、実母が来日しその晴れ舞台に涙を流した。
デビュー曲となった「海雪」は、新潟県の出雲崎町を舞台とした曲で、 舞台となった出雲崎町では、町民を対象に「海雪」のCDの購入の際に町から補助費を出す法案を可決し、町ぐるみでジェロを応援したという。
ジェロの好きな日本語は「一期一会」と「ちんぷんかんぷん」、好きなアーティストは坂本冬美、納豆も好きだが、大好きな食べ物はホッケである。
かように演歌歌手ジェロは、「おばあちゃん風味」に香ばしく仕上がった存在ということがいえる。

おじいちゃんとおばあちゃんの違いは、おばあちゃんが抱く愛情の深さと、大袈裟にいえば「シャーマン的」要素と関係しているのかもしれない。
昔からおばあちゃんが神のおつげのようなことを語ったり露にしたりして、村の人々を驚かしたり救ったりした話が各地に残っている。
JR東日本の篠ノ井線の駅には、今でも「姥捨」という駅がある。その駅名は、、長野県千曲市大字八幡字姨捨という地名によるものである。
「姨捨」というのは、70歳を過ぎた母を山へ捨てに行くといういい伝えによるものだが、いくつかの地域にあった「姥捨伝説」が、すっかりこの地域に存在する正式名は冠着山(かむりきやま)とも称されるこの「姨捨山」に集約されていった感がある。
それはおそらく、「姨捨山」が観月の名所として知られるようになったことと関係しているのかもしれない。
ところでむかし信濃国に老人嫌いの国主がいて、国中に布告して老人が70歳を超えると悉くこれを山に捨てさせた。
ある月夜の晩に一人の若者が母を背負って山を登ったのだが、どうにも母を捨てるに忍びなく、こっそりと連れ帰り、床下に穴を掘って母を隠していた。(年金の詐取のために死者を隠すのとえらい違いですが)
しばらくすると国主の元に隣国から難題をもちかけられ、これを解かなければ国を滅ぼすというものだった。
国主は困って国中に正解をもとめたが誰も答えるものはなく、若者がそのおばあちゃんに答えをもとたところ、その難題をあっさり解いたのである。
若者はその策を国主に語ると同時に、それが「老婆の智恵」であることを語り、国主はこの出来事を通じて 老人の智恵を大切に思い、老人を「宝」として大切にするようになったという。
この話は作り話としても、老いたる者の智恵を軽んじてはいけないという意識が、「姨捨」の地域の人々にも存在していたことを物語っている。

最近テレビで見たある母子の話が印象に残った。
その母はかなり高齢で、母というよりも「おばあちゃん」といっていい存在であった。
そのおばあちゃんが、娘を突然に「姉」と呼びはじめてアルツハイマー的な傾向を示した。
時に娘は、母が自分さえ識別できなくなったのかと大ショックをうけた。
しかしおばあちゃんは、心までも失ったわけではなかった。
おばあちゃんに文章を書かせてわかったことは、一生懸命に介護していくれる「娘への感謝」の気持ちと、幼きより苦労して育てて亡くなった「姉の存在」が重なりあって、おばあちゃんは姉をこの世に「呼び出して」娘に映してしまっていることが、わかったのである。
おばあちゃんは、幼き日に戻っているのだ。
そこで、娘は思った。
おばあちゃんの頭は混濁してして半分異界をさまよっているようであったが、娘がおばあちゃんの世界にはいりこんで「姉」になってあげよう、と。
おばあちゃんの「姉」と自分が一つになった世界を、おばあちゃんと遊び楽しめたらいいではないか、と思うようになったという。
すると奇跡が起こった。おばあちゃんに長く失われていた笑顔が戻りはじめたのだ。
そうすると、娘も「おばあちゃん」という存在を通して異界と接したり、違う宇宙を歩いたりして、この狭量に固められた世界からワープして、この世を少々屈曲した鏡から見るという貴重な体験をしたのだ。

最近、シンガーソングライター・植村花菜さんの「トイレの神様」が静かなるブ-ムをよんでいる。
美人歌手・植村花菜さんが亡き祖母との思い出を歌った「トイレの神様」は、9分52秒という長さの曲にもかかわらず、「聴く人誰もが泣ける歌」として話題となり、オリコンチャートでも上位を継続しているという。
植村花菜さんは、19歳よりストリートで音楽活動を始め、2002年には「ザ・ストリートミュージシャン・オーディション」でグランプリをとったほどの実力派シンンガーだった。
しかし長くヒット曲にめぐまれずにいたが、今年おばあちゃんと暮らした自伝的な内容の歌「トイレの神様」で、しとやかにブレイクした。
植村さんの家族は母と一男三女の五人家族で、おじいちゃんとおばあちゃんは隣の家に住んでいた。
そしておじいちゃんが亡くなり、おばあちゃんは一人で寂しく暮らすことになった。
次女が、おばあちゃんと一番仲がいい植村さんがおばあちゃんと暮らすのがいいと提案し、植村さんは小学校3年の時より家族と少し離れておばあちゃんと暮らすことになったのである。
植村さんにとって家族はお隣さんになったのだが、隣で家族の笑い声が聞こえると、なんで自分だけがという見捨てられたような気持になったという。
「トイレの神様」には、小さい頃おばあちゃんと暮らしていたときの思い出や、おばあちゃんとの諍い、おばあちゃんの死が歌われておりる。「♪ちゃんと育ててくれたのに~」「♪恩返しもしていないのに~」というフレ-ズに、じんわりと泣けてくるものがある。
歌詞のなかに、掃除が苦手な幼い植村さんにおばあちゃんが言った言葉がある。
「トイレには、それはそれはキレイな女神様がいるんやで。だから毎日キレイにしたら、女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで」
そして植村さんは、べっぴんさんになりたくて、気立ての良いお嫁さんになりたくて、せっせとトイレを磨き続けてきた。
植村さんは、おばあちゃんと暮らしたおかげで「トイレの神様」と出会った。
そして、5年間ヒット曲がでずもう歌をやめようと思った時、ようやく植村さんに微笑んだのが、実際に「トイレの神様」であったのだ。
そしておばあちゃんは植村さんに、「目に見えないものを信じる」勇気をくれたという。

日本には、古くから「八百万の神」と言われるように、存在するあらゆるものに神様が宿っているという信仰心があった。
自然の中の川や花や森に限らず、当然家の中にも多くの神様がオワシマスと信じていた。
台所(かまど)で使う火には「火の神様」が、水には「水の神様」が、そして便所には「トイレの神様」がいると信じられ、信仰されてきたのである。
今でこそほとんどのトイレが水洗で、お尻だって洗ってくれて、「不浄」というイメージはあまりないが、トイレというより「便所」と言ったほうがピタリくる時代には、そこは暗く汚い場所で、「陰」の場所であった。
昔は、便所はこの世とあの世との行き来が出来る特別な空間という意識さえあり、だからこそ「トイレの神様」をおまつりしてきたのである。
この「陰」の場所たるトイレを「礼賛」したのは、文豪・谷崎潤一郎である。
谷崎氏は「陰影礼賛」の中で、掃除の行き届いた厠(かわや)へ案内される毎に、つくづく日本建築の有難みを感じると言っている。
「茶の間もいゝにはいゝけれども、日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。それらは必ず母屋(おもや)から離れて、青葉の匂や苔の匂のして来るような植え込みの蔭に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない」。
「トイレの神様」は大いなる豊穣のエネルギーを秘めているといわれている。
ではなぜ、そんな豊饒の神様がトイレのような陰日向に処に住まれたかいというと、新しい家に宿ると言われる七人の神様が、順番に家に到着し、居場所を選んでいったところ、お宝がたっぷり入った一番大きな袋を背負った神様が遅れて到着し、居場所として残されていたのがトイレであったのである。
つまりプレゼントの用意運搬に時間ががかり、ついつ遅れてしまったのが「トイレの神様」というわけである。
その神様は、はからずも一番汚れやすい所に、大事な豊穣のエネルギーを保存しているわけだが、その場が清浄であればプラスに作用して豊穣や安定、子供の安産や成長を助けるという。
逆に、そこをないがしろにいていればマイナスに働いてしまい、それこそ「トイレの花子さん」の世界になってしまうのである。
人気商売の芸能人の中にはビート・タケシはじめ、ことの外、トイレ掃除に労力と時間をかける人がいる。
彼らもおばあちゃんから伝えられた(かもしれない)「トイレの神様」の信奉者であるにちがいない。

福岡県在住の女流作家である村田喜代子さんが書いた芥川賞受賞作「鍋の中」は、思春期の孫たちとおばあさんとのひと夏の暮しが描かれている。
孫たちは彼らの両親がハワイの親戚に会いに行くために、祖母のもとに預けられたのだ。
ハワイの親戚はおばあさんに手紙を寄こしたのに、おばあさんはそもそも彼のことなど全く覚えていない。
つまり、おばあさんは元気だけど、頭の中は「鍋の中で煮くずてしまった野菜」のように混濁しているのだ。
そんなおばあさんのひとことに、孫たちは一喜一憂したりする、そんな様子がほのぼのと描かれている。
「鍋の中」は、プロの作家が書くには小学生が書いた夏休みの作文のように読めなくもないが、それもこれも作者の周到な計算なのだろう。
昔懐かしい日に戻った感じがする作品である。
この本と一緒におさめられている中に「盟友」という作品があった。「朋友」とは男の子二人の話である。
この「盟友」は奇妙な約束で結ばれている。
何の約束かと言えば、「学校中の便所を制覇しよう」という約束なのだ。
制覇するとは、夏の夜のキモダメシなどではなく、トイレをピカピカに磨き上げるという野望なのだ。
彼らは、スカートめくりや喫煙で罰として便所の掃除を言い渡されるのだが、なんと彼らは便所掃除に生きがいを見出すのだ。
彼らはまるで、「トイレの神様」に魅入られ、魅せられたかのようだ。
というわけで、村田喜代子さんの世界にも「トイレの神様」がチラッと顔を出しているのである。

童話作家の灰谷健次郎氏が沖縄のおばあちゃんによって、「生きるチカラ」を与えられたことはつとに有名である。
家族を支えた兄の死、それに追い討ちをかけるような母の死、教師生活のいきづまりゆえに身も心もボロボロになった灰谷氏は、沖縄をさまよう。
そこで自分よりもはるかに厳しい戦争体験をしたおばあちゃんの言葉、「死んだもんのぶん、生きる」という生き方を教えられた。
深沢七郎氏作で映画化された「楢山節考」は違った形で「生きるチカラ」を教えられる。
この作品の話の中身はもう忘れてしまったが、「姥捨」というとても沈鬱なテーマが、実に淡々と描かれていることに、意表をつかれたことを思い出す。
主人公はおりんという老婆で、彼女の住む部落では、口減らしのため老人を楢山に捨てる風習があった。
おりんは捨てられる日を早めるために、自らじょうぶな前歯を石臼に打ち据えて折ってしまう。
息子辰平はいやいやながらおりんを背負って楢山へ向かう。
生きること、死することを強烈に教えてくれるこの達観した「おばあちゃんのチカラ」は、一体どこから来るのだろう。

老人問題は、今および近未来的な主要なテーマの一つある。
国が充分なサービスを提供できないか、または「老いの哲学」の貧困は、「姥捨」とまではいかなくとも、実質「介護放棄」またはネグレクトを当たり前のようにもたらす可能性がある。
「おばあちゃんのチカラ」(おじいちゃんのチカラも)を踏まえて未来像を探っていかねばならない。