それぞれのオンリーワン

ドイツにハイデルベルクからフッセンへとむかロマッチック街道には、「中世の宝石箱」といわれるロ-テンブルクの町がある。
長い間発展から取り残されたような町だったが、中世のたたずまいをそのまま残した町として、いまや世界的な観光地になった。
銃眼のある城壁に囲まれ、市庁舎にマルクト広場があり、ゴシック風のヤコブ教会がある。重量感のある石作りの町並みに、時をつげる鐘音が響く。
風情あるハイデルベルクの町からローテンブルクの町に入り、この町の鐘を聞いた時にFリストの「ラカンパネラ」という曲があったのを思い出した。
フランツ・リストはウィーンでパガニーニの演奏を初めて聴いた時、その神業的なヴァイオリン演奏妙技に衝撃を受け、“ピアノのパガニーニ”になることを目指した。
その後毎日ピアノの猛特訓に明け暮れ、超絶技巧の世界にのめり込んでいったリストは、やがて「パガニーニのラカンパネラの主題による華麗なる大幻想曲」を作曲した。
この「超絶技巧」の名曲を陰影に富む曲相で弾くのが「魂のピアニスト」フジコ・ヘミングである。
フジコヘミングはミュンヘンでスエーデン人の画家と音楽家の日本人女性の間に生まれたが、両親は離婚し日本で母親の英才教育をうけた。
留学先のウイーンで世界的ピアニストになる夢やぶれたかに思われたときに、このロマンチック街道の出発点ハイデルベルクで生活したこともある。
彼女もきっとロ-テンブルクの町を訪れ、この町の少々高音の鐘音を聞いたに違いない。
フジコ・ヘミングのテーマ曲といってよい「ラカンパネラ」は「小さな鐘」を意味し、彼女の人生そのものとよく重なりあうものがある。
フジコは幼いころから母親の強い影響の下で才能を発揮し、世界を目指してオーストリアへとわたった。
後おしもコネも無い彼女はなかなか認められるチャンスがなかったが、指揮者のバーンスタインと直談判しようやく独奏会のチャンスをつかんだ。
しかし、その独奏会の直前高熱のために聴力を失い独奏会は惨憺たる結果となり、生きる気力を失うほどうちのめされる。
そしてリハビリをしながら体力と気力の回復をはかったのがドイツの町々やスエ-デンのストックホルムの町だった。
しかしその生活は楽ではなかった。彼女の生活の苦しさの一因は、複雑な事情で国籍がとれず難民として生きなければならなかったことにあった。
本来であればスウェーデン籍を持っているはずだったのに、18歳まで一度も入国した経験がないという理由から国籍を抹消され無国籍になってしまった。
また日本国籍さえ取れなかった理由は、当時の日本が父系血統だったことによる。
またどんなに苦しくとも、母との約束で世界で認められない限りは帰国することも許されなかった。
食べて行くのにやっとでレストランでパンの耳をもらって生活をしなければならなかった。
フジコ・ヘミングが世界的ピアニストになるという母と共に抱いた夢が途絶したかに思えた時期にハイデルベルクやハンブルクの片隅で鳴りをひそめる「小さな鐘」としてひっそりと生きていたのである。
しかし転機は本思わぬ形でやってくる。母が亡くなり帰国して母校で細々と演奏会を開いていたが、NHK「ある孤高のピアニストの生涯」として紹介され大反響をよんだ。
その反響の大きさの一端は彼女の演奏する「ラカンパネラ」が、間違いなく人々の魂に届いたということだった。
「ラカンパネラ」は、ピアノを弾くものにとって「超絶技巧」を要する難曲らしいが、彼女自身が20年余り「小さな鐘」のように片隅に生きた体験は、演奏上の細かいテクニックをはるかに超えて、彼女と曲とが一つとなった感じがするものであった。
フジコ・ヘミングは、作品に全身全霊を込めて勉強をしているちに、その作曲家の霊感も伝わってくる。それは言葉で説明できるものではなく、人から人に伝わるものである、と言っている。
世界的名演奏家は心の貧しい人が多かった。心の清らかな人々が私の演奏を受け入れてくれる。
たとえば、野良猫や貧しいホームレスを横目で見ながら通り過ぎて、夜にはそのことを忘れていられる種類のタフな人々に私の演奏は価値はないだろう。
フジコヘミングの留学期間はあまりに不運続きであったためか、世界的なピアニストなろうという思いは露もなく、小さな町にいる人々を幸せにしたいという一心でピアノを弾くという方向に心が転じていった。
そういう思いから弾いたフジコ・ヘミングの「ラカンパネラ」は、特別なオンリーワンとなりえたのだと思う。

10年ほど前のヒット曲「世界に一つだけの花」は、他人にない自分独自の生き方を探そうというメッセージが込められていた。
人と比べて競うのではなく、他人にできない創造的な生き方に出会、能力を磨いた結果、他人を幸せに出来る自分という花を見つけることができる。
この曲を歌ったのはスマップであるが、作詞は2年前の事件から再起をかけた槇原敬之であった。
しかし、「ナンバーワンでなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」という歌詞の出所は槇原氏ではなく、沖縄生まれの全盲人のテノール歌手、新垣勉氏である。
新垣氏は、米軍兵士と日本人女性の間に生まれたが幼い頃に発した高熱によって視力を失った。
まもなく父は日本を去り、母は別の男性と結婚し、祖母のもとで生活するがその祖母も他界し、姉の子供ということとされ生活することになった。
自分の与り知らない周りの都合によって、自分の存在自体が勝っ手に押し曲げられていた。
自分が混血であること、視覚障害であることにより両親に捨てられたと思い、両親に対して強い憎しみをいだき続けた。
そして12歳の時に井戸に飛び込もうとするがそれも失敗し、自殺さえまともに出来ない自分ほど惨めな人生はないと思うようになっていった。
新垣氏の転機は、彼を家族のように温かく受け入れてくれるキリスト教の牧師に出会ったことであった。
信仰に目覚め聖職者の道を歩むか、教会で声楽にも目覚め声楽の道に進むか迷ったが、結局前者を選びキリスト教系の短期大学から福岡にある西南学院大学神学部へとすすんだ。
そして大学在学中に名ヴォイス・トレーナーの世界的大家、A.バランドーニ氏のオーディションを受けたところ、「君の声は日本人離れしたラテン的な明るい声だ」という言葉に勇気づけられ、さらに一人でも多くの人を励まし、勇気を与えることが出来るように君の声を磨きたいと言われ、本格的に声楽を学ぶようになったという。
新垣氏は父親からの贈り物として素晴らしい声を貰ったと知った時に父親への憎しみは消えて行った。
父親譲りの声をうんと磨いていくことで、人々をもって幸せな思いにさせようと思うようになった時に、むしろ顔もしらない父へ感謝の気持ちさえ湧いていったという。
新垣氏が気持ちの上で立ち直りを見せた頃に心に響いた歌があった。美空ひばりの「愛燦燦」で、この中のの歌詞の一節に魂を揺らされたのだという。
その一節とは、「雨 潸々(サンサン)と この身に落ちて わずかばかりの運の悪さを 恨んだりして 人は哀しい 哀しいものですね」というところで、すべてがマイナスにしか見えて仕方がなかった自分の人生に重ねたという。
新垣氏はコンサートではこの曲をしばしば歌う。
また新垣氏はコンサ-トで繰り返し「オンリーワン」について語ってきた。
人とくらべて生きる、人を気にしていく、比べるからねたみだとか嫉妬だとか、そんなものがいろいろと起こってくる。
自分が、あるがままの自分でいいんだ、自分以上である必要もないし、自分以下である必要もない、と。
そし「自信を持つ」ということは自分は自分でしかないっていうことへのウナヅキのことで、それさえしっかり持っていればいい、という。
また新垣氏は、自分の人生が影響を受けるような「いい出会い」をどれだけ持っているか、ということが大きいと自身の体験を交えながら語っている。

ところで新垣氏にとって自分と一つになれる曲というのは、「さとうきび畑の歌」ではないだろうか。
新垣氏がコンサートで必ず歌うこの曲は彼の代名詞といってよいが、作詞家の寺島尚彦氏が沖縄を最初に訪れた時の体験から生まれたものだった。
寺島氏は、サトウキビのざわざわと揺れる音から、何か歌をつくれないかと思っていた時に、このさとうきび畑の下には 戦争で命を失った人々の魂が眠っていると聞いた時に、一瞬目の前の風景がモノクロームに転じたのだという。
そうしてサトウキビの風に揺らぐ音、そして戦禍に散った魂の叫びをこの音に託した。
正面切ってではないが、平和を願って「ざわわ ざわわ」と何度もリフレインが続くのが次第に祈りのように聞こえてくる 名曲である。
「さとうきび畑の歌」を歌ったのは、ちあきなおみ、森山良子などの歌唱力のある歌手であるが、沖縄で混血児として生まれた新垣氏が歌う「サトウキビ畑」の歌には、何か特別なオンリーワンがあるようにも思われる。
「むかし 海の向こうから いくさが やってきた 夏の ひざしの中で」
「あの日 鉄の雨にうたれ父は 死んでいった夏の ひざしの中で」
「風の音に とぎれて消える母の 子守の歌夏の ひざしの中で」
「父の声を 探しながらたどる 畑の道夏の ひざしの中で」
「波のように 押し寄せる風よ 悲しみの歌を海に返してほしい夏の ひざしの中で」
本人の気持ちを推測すると、声という楽器を使って人々の幸せを祈ることができるという意味で、人生のテーマソングにも聞こえるのである。
新垣氏はその人に与えられた、その人でしか生きることのできない素晴らしい人生があるのだということ伝えるために、これからも歌い続けたいと語っている。
沖縄は現在基地移設問題で揺れているが、20年以上も前に島をバイクで回った時に思ったことは、ゆったり押し寄せる波の音、安らぎを与える民謡など「軍事基地」などというものが最も不似合いの島だと思った。
しかしいたるところに悲惨な戦さの傷痕が残っていて足を留めざるをえない。
また最近では沖縄返還に際して佐藤首相とニクソン大統領の間で「核密約」なるものが存在することが明らかになった。
なんと「貧乏クジ」を引いてしまった島なのだろうかとも思う。
沖縄も面積にして70パーセントをもしめる米軍基地さえなければ、その存在は「南洋の宝石箱」として多くの人々に安らぎと癒しを与える、もっと人々をひきつける島になっていくに違いない。

最近、テレビで「筆談ホステス」という実話のドラマ化したものをみたが、会話をすることが基本の水商売の世界で、聴覚障害に押しつぶされることなく「筆談」だけで接客を行い前向きに生きる力強い女性を描いていた。
主人公の斉藤理恵さんは高校時代に生きる目的を見失いがちで、「青森一の不良少女」とも言われたがある時、クラブのママ子に出会い、入ったクラブで、「筆談」で接客することを覚え才能を開花させた。
紆余曲折の末、生存競争の激しい東京・銀座でNO.1ホステスになった。
彼女ほどオンリーワンが相応しい人はいないと思う。

フジコヘミングも若き日に両方の耳の聴力を失い人生が狂った。また視力を失った新垣勉氏は基地によってさらに人生を狂わせられた。
とはいっても、音楽の女神ミューズ(ミュージックの語源)は、「ラカンパネラ」を奏し、「ざとうきび畑の歌」を歌うベスト・パフォ-マ-を長い時間をかけて育ててきたようにも思えるのですが。