パンクがよんでいる

東京で4年間暮らした町である東部東上線の成増には、南口は商店街で昭和調の古い喫茶店と2階にゲ-センと飲食街入った商業ビルがあり、北口にはトタン屋根のきたない映画館と西友と散髪やと小汚いマ-ケットと銭湯と鰊蕎麦のおいしい蕎麦屋があっような記憶があります。
自分の有為な人間形成の時期を4年間もこの町にあずけ、そこから出ようという明瞭な意志も無かったがことが今日の垢抜けぬ自分の姿に繋がっているんだと、学生時代に六本木なんかに通っていた人間の話を聞くに唇をかみしめるのですが、そんな成増を愛していたのかもと思われる作家が最近大ブレイクしていてほんの少しばかり思い出の明度を上方にスライドさせているのでございます。
その作家とは町田康さんで、パンクロック歌手として時には俳優のチョイ役としても活躍されてきてこられた人で、この人が初期に書いたエッセ-には成増という町が「田舎のル-ズソックス」と喩えられ、なんら周囲の配慮も無くおのおの勝手な生活の都合上で出来上がった「仮設住宅」のごときリシツレメツな町であり、それがどういうわけか「成増はパンクを引き寄せる町」であると紹介されていました。
1970年代後半にこの町からドイツ語教本なんぞを小脇に抱えて大学に通っていた真面目風な学生「私」は、青坊主で中心部の頭髪をつったて顔面にピンを刺し鋲を革ジャンに打ち、体に鎖をまきつけジャラジャラ揺らし歩くパンクなぞに近づくことなどまずあり得ませんでしたが、テレビや雑誌でよりどりみどりなオシャレでシックな町の話や噂をよそに、やっぱりこの町から出ようとしなかったのは、自分もこの「パンクをひきつける町」のどこかに居心地の良さを感じたからかもしれません。
そういえば私の下宿近くには「青木メタル」という工場がありましたが、この工場まさかパンクの鎖ジャラジャラを作っていた、ということはなかったとは思いますが。
ところでパンクという米語の意味は「クズ」みたいなもんですが、なんか成増の町自体、埼玉県との県境にあって東京の尻っぽにありパンクといった雰囲気もなくはないのでした。だいたい成増には何者かに「なります」という上昇志向性がほとんど感じられないのでございます。
石橋貴明、古舘伊智郎、隣町の下赤塚で尾崎豊がご生誕あそばされた町なので、パンクな町なんかいうと失礼にあたるかもしれませんが、よく考えてみると御三人ともどこかカブイておられ,その点ではパンクの組成分を幾分かお持ちであられるようにも思うのでございます。

ところで、町田氏が成増時代に書きちらかしたジャンク文が「つるつるの壺」(講談社文庫)という本におさめられています。
町田氏の自己紹介によると、「16歳で親に背いてパンク歌手に成り下がり、19歳でレコードデビューし、二十歳でスクリーンデビューして以来自分は、七枚のアルバムを出し、9本の映画に出演した」とあり、この町田氏が17歳のころ大阪市の環境局職員として働いていたことがあるそうです。
実際にしていたことは夜中に埋め立てた人工の島に行って、ゴミを埋めた結果生じるメタンガスで火災が発生したらすぐさま市に連絡するというものでした。
要するに誰もいない小島を懐中電灯をつけてぐるぐるまわっているだけの仕事ですから、まともに働こうとういう意思のあるものはこんな仕事をするはずもなく、要するに人間としても廃棄されて仕方がないような人ばかりだったとおっしゃっております。
そんな彼らの間にも、いつ睡眠時間をとるのかをめぐってエゴイズム丸出しの争いがたえない様子を見つつ、町田氏は次のように語っています。
人間として、どこか廃棄されたような、人間の屑のような人達の言っていること、役に立たぬ者達の言動、無能の滑稽さとせつなさ、悲しみみたいなものを、その頃、僕はさんざん見聞きしました、と。
この文を読んで私が感じたのは、根がパンクな人はやっぱりパンクな場所にひきつけられるということです。
そんな「パンク道」をパンクしそうになりながらばく進された町田氏によると、パンクロックの先駆けとなったのはイギリスのロックバンドのセックス・ピストルズで、彼らはそれまでのロックとは決定的に違っていたのだそうです。
それまでのロックは人生について、悩んだり考えたりそのふりをしていたり何も考えていなかったりしていましたが、結構人生と真剣にかかわっていたというのです。カリフォルニアの海岸で大麻を吸引しながらも宇宙について考えたりしていた、のだそうです。
ところがセックス・ピストルズの方々は最初から人生を投げており、人生を完全に馬鹿にしている、これはなかなか難しいことで他人をおちょくことは簡単なのだが、自分をおちょくることは、そう簡単なものではないらしい、そうな。
要するに人生をおなめになさったその態度が、その心底に凶悪・兇暴な衝動を抱えている少年少女に熱狂的に愛されたのだそうです。
実は私もパンクロックといわれるものに接したことがありました。高校のころ比較的まじめ風な長髪学生が私にだけ秘密をうちあけるかのように、あるいは「君こそご指名」なんてな真剣顔で「これ聞いてみてん」といって渡されたアルバムが「頭脳警察2nd」というものでありました。
その反体制的な内容の歌詞は、それなりにそんな風を気取りたかった何の体もなしていない高校生には恐ろしく刺激的なアルバムだったことを覚えております。
頭脳警察は1972年に結成され1975年に解散した二人組(パンダとトシ)のバンドで、初アルバムが世界革命をよびかけるなどの反社会的な歌詞であったため発禁となったのでございます。
頭脳警察は二度ほど再結成されたそうだが、「頭脳警察」の名前などカスミの向こうに消えかけていたごく最近、朝日新聞にそのバンド史が紹介されており心臓がバクバクパンクしそうに驚きました。
新聞によると、2008年5時間に及ぶ大作「ドキュメンタリー 頭脳警察」が公開されたというのです。
ところで、セックス・ピストルズで体をなしたパンクロックはその後イギリスで失業者の増加と言う社会問題が下地となって、若者たちの不満、怒り、反抗、暴力性などを掬い上げが大きな社会現象となっていきました。
セックス・ピストルズは1978年に解散しましたが、その後クラッシュやジェネレーションXなどのポップなバンドも次々に生まれ、さらなる大ブ-ムをみせることになります。
またパンクは音楽の世界をこえて、ファッション、芸術、文学にまでその波は広がり、頭髪を色つきの鶏冠のごとくに逆立たせ、服を破いたスタイルのロンドン・パンク・ファッションは世界中で知られるようになっていきました。
1980年代にそのあまりに生々しい過激なステ-ジなどから様々なトラブルを引き起こして社会問題化し、ブ-ムは去っていきましたが、今でもサブカルチャ-としての力を失ってはいません。

私の東京暮らしはなぜかパンクと縁があったみたいです。一度福岡に戻って再び東京へ戻る際、「お住み直し」、食べ物でいえば「お口直し」の感じで成増の町に漂う古びた靴下をダシに大根を煮たようなニオイを洗い落とそうと、その次に住んだ町は中央線沿線の高円寺でした。この町にはきっとチャ-ミ-グリ-ンのようなさわやかな匂いがするハズと期待して住むことになりました。
しかし段々わかってきたことは、この町もヘビメタ風の青年が町をジャラジャラ、レナウン娘のようにワンサカワンサカ闊歩しているではありませんか。
高円寺は知る人ぞ知る、私のような成増経由のカントリ-ボ-イはじぇんじぇ~ん知らない、「ロックを愛する若者の町」というのがキャチコピ-ということが判明したのです。
この町に住むことを選んだのは名前になんとなく安心感があったから、おそらくは吉田拓郎の歌で「高円寺」のタイトルがサブリミナルのように耳奥に残っていたからでしょう。
この町は、学生のアパ-トが多く、若者が多い街で少々ドンちゃんやる若者をも比較的温かく迎えてくれる雰囲気の町でした。しかしやはり、鎖ジャラジャラとトサカ頭が気にならないといえば嘘になります。
町田康氏もパンク時代この町に足しげくかよい、とあるスタジオでワザをみがいたのだそうで、彼のエッセイに高円寺のことが次のように紹介されています。
「通行の人は八割がロッカ-で、まなドクロや悪魔の絵が描いてティ-シャツのうえに鋲を打ちまくって重さが二十キロくらいになった革ジャンパ-を羽織、居酒屋で脱ぎにくい編上靴を履いていろんなものに反逆しながら往来している」。
高円寺は相対的に若者人口が多い町である以上ミュ-ジシャン志望が多いのはわかりますが、八割がロッカ-というのはあまりに誇張した数字のようです。
また「反逆しながら歩いている」も正しくありません。高円寺で私が多少とも知り合ったヘビメタ風の人の一人はキツネ目の散髪屋さんで、もう一人はアルバイト先の「げんこつラ-メン」で働いていたタヌキ目の青年でした。
彼らが街角をどんなにどぎついドクロマ-クの革ジャン着て恐ろしげに見えても、サングラスの背後にはとてもツブラナ瞳がまばたいていたことと、狼の面(ツラ)の裏側には子猫ちゃんのような優しいハ-トが潜んでいたのを見逃しませんでした。ディスカバ- パンク。
後に知ったことは音楽の町・高円寺はけしてヘビメタ・パンクで始まったのではなく1970年代までフォ-クロックの全盛期を飾った国分寺、吉祥寺とともに時代を代表する町でもありました。
フォ-クロックが盛んな時代に、この町には伝説のロック喫茶「ムービン」という店があったそうです。
1968年にできた「ム-ビン」は洋楽の新譜をいち早くかけたことで有名で、当時は輸入盤が高価だったため、連日アメリカやイギリスの最新のヒット曲を聴こうというミュージシャン志望の若者たちで賑わったのでございます。
やがて客同士で自然発生的にジャムセッションが行われるようになり、この店は都内のライブハウスの先駆けとなりました。まだ無名だった山下達郎がデビューのきっかけを掴んだのもこの店だったのです。

ところで高円寺は徳川家ゆかりの寺で、この寺名がそのまま地名になっており、歴史的にも由緒正しき処でありロックの町とばかり喧伝されるのは町としては少々不本意でございましょう。
高円寺の町といえばJRガ-ドした辺りに連なる飲食街と点在する古本屋が記憶に強く残り、夏には町を上げての阿波踊りも風物詩となっています。
また高円寺の町は時をほぼ時を同じくして二人の直木賞作家を生み出したのも誇りでございましょう。
実家が商店街で乾物屋を経営している「高円寺純情商店街」のねじめ正一氏と、古本屋を経営している「佃島ふたり書房」の出久根達郎氏です。
直木賞作家どうしの家(店)がここまで近いのは全国的に例を見ないでしょう。
高円寺お近くにお越しの際は、杉並電話局近く私がおよそ30年前に住んでいたパンクなアパ-ト「第二清山荘」またはその跡地にお立ち寄りくだはい。
それにしても私はどうしてパンクを引き寄せる町に引き寄せられたのでしょうか。
二度にわたってまでももももももももも。 二度あることは三度ある、カモ。