血の寡占の中の熾烈

世の中に二世議員とか三世議員なるものが数多く誕生している。となると、経済界ばかりではなく政界にも「血の寡占」状態が起きていて、地盤・看板・カバンなしの新参者が「政治」に参入するのはほとんど不可能状態になっている。
あとは、党が掘り起こし資源を集中的に投入して生み出す「○○チルドレン」といった新人議員ということになるが、ここにも言葉の上で「親子の関係」が擬制されている。
「血の寡占」状態では、お父上の「見果てぬ何か」が二世三世議員達の言葉や振るまいの中に注入されていることを、否応なく意識せざるをえない。
かつて首相候補といわれながらそこまで至らなかった故安部晋太郎・故中川一郎、故渡辺美智雄、河野洋平らの顔をその息子達の顔に単純に重ね合わせる以上に、何かもっと重苦しいものを感じる時もある。
最近では、故中川一郎議員から故中川昭一議員に受け継がれた思いや、ガセメ-ル事件でつまづき姿を隠し、北九州の病院から抜け出し人知れず飛び降りた民主党の永田寿康議員の思いのごときは、行き場も無く漂っているような、いつしか幼い子供達に受けつがれて蠢動しだす時が来るような、そんなことも思ったりもするのである。
ちなみに故永田議員と元客室乗務員との挙式は千葉マリンスタジアムを借り切り行われ、出席者全員で「寿」の人文字を作り、最後に新郎新婦が「ヽ」の部分を作ったところで航空写真を撮影するといった大掛かりなものであったそうだ。しかし、ガセメ-ル事件の数年後に永田夫妻の離婚が成立していたという。
皮肉なことに、永田議員は人のツマズキを「絵に書いた」ような人生だったともいえる。
そういえば「寿」という文字は「躓」という文字に似ている。(似ていない?似ていると思う人もたくさんいると思いますよ)
人間のドラマそして、政治や権力に取り付かれていく人々同志の世代を超えた確執も面白かろうが、同じく権力者に見る父と子の「血の確執」なんかも普遍的で興味深いものがある。

誰かが、幸福の顔は一つであるが不幸の顔は様々であるといったことを思い出す。(TV番組「恋のからさわぎ」で明石家さんま氏が紹介した言葉だった)
確かに、政治や権力に関わる人間のめざす「幸」は一つしかないが、その「不幸せ」の貌はたくさんあるのかもしれない。
それでもあえて似通った悲劇をひとつ探せば、権力への道をひた進んでいる内に、何もそこまでという人間的なあたりまえの感情を端っこに追いやってしまうことによっておきることである。
そして、あえて追いやったはずの「もう1人の自分」が自分と同じ顔をもつ子供によって「叫び出す」というようなことが起きるのである。
その時に権力者は、ようやく達成した成功の暁にもう1人の自分に裏切られるという人生の「陥穽」に、ようやく気づかされるということだ。
かつてテレビの番組で、西武鉄道の創業者・堤康次郎を扱ったことがあった。
この番組でー番興味深かったのは、父と子の関係である。康次郎は「ピストル」とも渾名され、相当にヤバイこと強引なこともやった。
戦後の皇室領を買い漁って、ホテルを建て、政界にも進出して衆議院議長もつとめた。
ホテルにプリンスホテルという名を付けたのは、ホテル立地がそう言う品格の高い土地であることを示したかったのだろうと思われる。
伊豆箱根鉄道や多摩湖鉄道を創設し、軽井沢を別荘地として開発したのも彼のサクセスストーリーの一つである。
(*1978年に、西武グループが巣鴨プリゾンがあり戦犯処刑が行われた土地にサインシャイン・プリンス・ホテルをたてたのは、ものすごく興味深いところである。そして20011年3月の、プリンスホテルの中でも最も格式が高い赤坂プリンスホテルの閉館が決定したというニュ-スが飛び込んできた。)
ところで、堤康次郎氏の「分身」たる堤清二氏は、堤康次郎のある部分つまり繊細で情緒的な部分を担った人のように思える。
そして「不肖の息子」は、人生の終盤にさしかかった父親・康次郎の人生を糾弾したかのように思われる。
清二氏は、大学に入るまでは父親の後継者として考えられていた。
しかし、何人もの妾をつくり、異母兄弟が多数存在する一族の姿に嫌気がさし、父に反抗するようになる。
そして東大在学中に共産党に入党し、左翼運動に身を投じたが、肺結核を患い、政治運動から身を引いた。
康次郎は、清二氏の弟でまだ高校生だった義明氏に自分の後を継ぐことを願ったという。
父親たるもの息子の前で土下座して頼み込んだというから驚きである。
清二氏が病気から回復した時には、後継者は弟義明に決定しており、清二氏は当時二流であった西武百貨店の書籍売り場の担当から働きはじめる。
やがて28歳で西武百貨店の取締役となり、西部鉄道グループでは傍流であった百貨店事業を任される。
西武グループの本流は、弟の義明氏が担うことになり、1964年に父康次郎が死去すると、西武グループの資産を弟・義明が全て相続する。
その後、父康次郎の七回忌の時に「相互不干渉」を約束し、二人は同じ西武を冠する別の企業グループを率い、成長させていく。
ところが、清二氏が設立した「西部環境開発」と弟義明氏の「国土開発」とが、その経営領域において完全にバッッティングした。
そのため西部環境開発の利益率は低く、バブル崩壊後は、清二氏はグループのトップから名目上去る。
一方、弟義氏明の方は、2005年、インサイダー取引で証券取引法違反の判決を言い渡され、義明側・検察側とも控訴せず、判決どおり有罪が確定した。
渋谷でパルコを中心に再開発した堤清二氏は、「辻井喬」というペンネ-ムで知られる作家であるが、辻井氏の「虹の岬」は、トップの座を目前に住友を去った一代の歌人川田順と、京大教授夫人の灼熱の恋物語でありました。

歴史の中で、親子の関係には凄惨なものがある。
武田信虎が息子信玄によって実質国外追放されたのはまだいいほうで、斎藤道三に至っては嫡男である斎藤義龍によって攻め滅ぼされてる。
しかし、父親と子供の関係で最も哀れを感じさせるのが、豊臣秀吉である。
秀吉がいわゆる五大老に淀との間で晩年にようやく授かった息子・秀頼の保護を恃んだのだが、その頼み方は哀れみを請うような孤独な老人の姿があった。
もちろん、徳川家康らはこの時を待っていたのであり、淀に服従をもちかけるが、それを拒絶した淀・秀頼母子を大阪の陣で攻め滅ぼしている。
実は、秀吉には子供がなく(1人いたが病死)、姉の子である秀次を跡継ぎにしたのであるが、その後に実子・秀頼が生まれたために急に秀次とは急に疎遠になり、立派な青年に達していた秀次を一族二十数名もろともに三条河原で粛清したことがあっった。
ちなみに、豊臣秀吉には淀以外に糟糠の妻ネネがいたが、ネネは武田信虎の三女で、信玄とは異母妹である。ねねの方は関が原では、淀・秀頼が拠り恃む西軍石田三成の方ではなく、東軍方の徳川家康方に通じている。
徳川家康とて若き日に、家康は同盟関係にあった信長の命により今川家一門である正室・築山殿を殺害し、築山殿との間にできた21歳の信康を自殺させている。
理由はこの両名が武田勝頼と内通していたという訴えがあったからであるが、家康にとって生涯の哀しみであり痛恨事あった。
その家康によって淀・豊臣秀頼は大阪城内で自害に追い込まれるのである。
戦国の時代は、政略結婚により武将達の血筋は意外にも繋がりあったりしているもので、権力をめざすも者の確執は、ほとんど「血の乱舞」といいかえてもいいかもしれない。
そして今日でも政財界に見られる閨閥は、「血の寡占」という意味では、戦国期と同じような性格をおびているのかもしれないと思うのである。

ニクソン大統領の下にあったあのヘンリ-・キッシンジャー国務長官の愛蔵書はシェ-クスピアである。
父と子の関係における悲劇といえば、シェークスクスピアの「リヤ王」を思い起こす。
「リヤ王」の話は親子の間の背信の話であるが、この話のモチ-フは多くの多くの権力者が晩年に体験するある共通の悲劇なのかもしれない、と思った。
国際関係論のハ-バ-ド大学の学者であったキッシンジャー氏は、現実の国際力学の渦中に身を投じて交渉にのぞんでいたのであるが、シェ-クスピア劇の権力の陶酔とか失墜の悲哀とかの振幅の大きな人間ドラマの数々を目の当たりにしたのではないかと思う。
またキッシンジャーが「外交の達人」といわれる所以は、こういう人間の奥深さを理解する達人であったからかもしれない。
ところで最近、高村薫女史が「新リヤ王」という本を書いているが、この新リヤ王は、青森の有力政治家をモデルとして描かれたものであった。
実際はあまり知ることのない政治家の実際がどのようなものであるかを、1人の政治家の生臭い息遣いまで伝わるように書いている。
例えば、主人公である福澤榮は、政治の本質について次のように独白している。
「そういう政治家の一人がここへきていったいなぜ、一世一代のポストをこの手に掴まなかったのか。一つには"田中ー大平"と"岸ー福田"の対立のそこにある大きな根に、この私が一政治家として距離を置きたかったことによる。あえて主流・反主流の対立とは言わない。本質はどこまでも戦前戦後の政治人脈、しいて言えば戦前の満州経営を巡る人脈にまで溯ってもよいが、この国の近代政治の歴史そのものである、利権の系譜の対立だと言っておく」
最近読んだ新聞記事によると、「花」を育てるということは「土」を育てることなのだそうだが、政治とは、どこまでも利権という滋味のある土の獲得であり、敵対する勢力の利権の切り崩しなのだ、といっていいのかもしれない。
1976年ロッキード事件では黒幕やフィクサーの名前が露になったが、自由民主党が彼らの資金によって創設されたことを、その時初めて知った。
また戦後政治が岸首相を通じて満州人脈との繋がりが垣間見えることもあったし、田中角栄が1972年に日中国交回復を行えば、一方で福田赳夫は、1978年に日中平和友好条約を結んだことによって、相互に中国における利権を争ったのである。
「新リア王」は、すべてが独白なのも斬新である。
この政治家の息子の1人は、出家して禅僧として生きる道を選ぶのであるが、その親と子の生き方のコントラストも面白い。
「あの80年6月に私が王であったのは、いったい何によってか。この福澤榮は代々の血統でもなく、民主主義の契約でもなく、人品や智恵でもなく、まして権威や財力でもなく、たった一つのことをもって王に成り上がった。そのたった一つのこととは能動だ。
わが青森一区で70万人、全県で百十万人の成人男女のなかで、ほんのわずかしかもたない能動。すなわち政治家たる能動。政治という公的領域への能動!それが私にはあった。政治が為すべきことを為すために、俳優にならねばならぬのなら俳優にもなろう、有権者が求めるカタルシスも演じよう。彼らの欲望にも方便としてなら迎合しよう。
そうしてよりよい県民生活、より良い者社会を創り出したいとする能動の強さと持ち方によって、私は王になった。君が発心という一つのことをもって、仏と言う尽十方界の王になったように、だ」
ここで「能動」というのは、突飛な言葉にも聞こえるが、要するに「出たがり欲」ぐらいの意味でしょう。
人は、政治や権力の為にかくも代価をハライ、そこまでして一体何を得ようとしているのか、といつも不可思議に思う。
政治とは、理想や真実を追い求める静かな人間ではなく、「血の寡占」に投げ込まれたこうした「能動的」人間よって熾烈に動かされているということです。