農民の魂と産直の心

最近、故大平正芳元首相が、二冊の伝記本がでるなどして静かなブ-ムをよんでいるそうだ。
大平氏は香川県の貧農出身だが無類の読書家であった。苦学して旧制高校に進学し、大病を患いキリスト教の洗礼をうけたという。
私の記憶では、駐日大使のE=ライシャワー氏が日本の政治家の中で、頼んだことは確実にやってくれる大平氏を一番高くかっていたのを思い起こす。
長年大平氏に秘書官として仕えた娘婿の森田一氏(元運輸相)は、毎朝おはようございますと言葉を交わすと、今日もこの人と一日暮らせると思うだけで幸せだったそうだ。
しかし、温厚な面ばかりではなく激しさもあった。
官僚時代の先輩の故池田元首相は、間違っていると思ったらそのままに直言する大平氏のブッキラボウさが気に入って、官房長官や外相の要職につけたという。
朝日新聞に「人間性や識見を再評価」というサブ・タイトルで書かれた大平氏の記事をそのまま紹介すると次のとうりである。
"共産党の不破前議長は「(大平氏は)議論を尽くすと回答をだした。その回答は必ず実行された。信頼できる協議相手だった」と回想している。
愚痴や不平を漏らさず、協調性を重視し粘り強く交渉していく。「農民の魂」を感じとる人がいた。その力量は大舞台でより生かされた。"
この大平氏の記事の中でグビッときたのが、「農民の魂」という日本人の心を表す言葉である。
まだその頃、「農民の魂」を宿していた多くの日本人がいた。そして大平氏は”篤実な”という形容詞をつけてもいい”農魂”を抱いていたのかもしれない、と思う。
「農民の魂」でもう一人思い起こすのは、大平氏としばしタッグを組んだ故田中角栄元首相である。
田中氏は幼少の頃より雪深い新潟の地で牛追いで家計を助け、東京に出て土建屋として成功したが、「貧農出身」という処で大平氏と共感しあうものがあったと思う。
しかし北国の農民のルサンチマンを背負っていた田中氏の魂は、その突進力に見られるように単なる農民のそれに収まるものではなかった。
そして、各々派閥を率いた二人を結びつけた「農民の魂」は、日本の国土利用において大きな足跡を残すことになった。

戦後日本を導いたものは沢山あるが、1954年に日米間で調印されたMSA(相互防衛援助)協定は、日本社会を大きく転換させたといってよい。
終戦直後、日本は餓死者が1000万人でるといわれるほど食糧事情が悪かった。しかし庶民は、闇米によってどうにか露命を繋ぐことができた。
そして、日本は遅滞した農業生産を回復させようと食糧増産計画を開墾や干拓を一生懸命にやってきた。
ところがGHQから思わぬ提案がなされた。
これからは食糧増産よりもアメリカの余剰産物を買いなさい、売った分のお金はそっくり返してあげるから、それで軍備を整えなさいというものであった。
日本政府にとってそれはけして悪い話ではなく、むしろ有難いくらいの話であった。
これは日本を「反共の防波堤」にしよういうアメリカの占領政策の転換を反映したものだが、日本政府はこの提案をそっくり受けいれ、農作物購入の返還金で自前の防衛力を整備し、同年7月に陸・海・空の三軍による自衛隊が発足した。
さらに興味深いのは同年、学校給食法が制定され、パン食を導入し、アメリカの小麦や粉ミルクを消費するようになったのである。
我々の世代が、鼻をつまんで一気のみした脱脂粉乳や、中身だけくり貫いて食べたコッペパン(皮が嫌いだった)など「学校給食の思い出」は、実は米軍の「占領政策の転換」と結びついていたのである。
つまるところMSA協定をもって日本は食糧と軍備の悩みから解放されたのだが、もともと占領政策で「日本の無力化」を狙っているアメリカは、日本人の胃の腑を押さえることと「引き換え」に日本に「再軍備」を命じたということだ。(ウガチすぎ?)

軍備と食糧の負担が重くなく高度経済成長期に突入するが、その過程で無秩序な市街化の拡大が大きな問題になっていた。
いわゆる「スプロール」現象である。
そして土地利用をめぐって建設省と農林省の省益が激しくぶつかりあった。
建設省は開発のためにの土地を安定確保したいと1968年に「都市計画法」を作れば、それに脅威を感じた農林省は農地を乱開発から守る名目で一つの条件をだした。
「市街化区域」を設けて開発を進めるのであれば、それと接して「市街化調整区域」なるものを設け、そのゾーン内においては開発を抑制し、農地の転用を禁じることにしたのである。
いわゆる建設と農業、開発と保全の「線引き」である。
この都市計画法は、若くして農林土木関係に影響力を行使していた田中角栄が作った法律であった。
さらに都市計画法の翌年には農業振興法というものができたが、この法律こそ日本社会の土地利用を大きく制約するものとなった。
あるイギリス人ジャ-ナリストはこの法律の中身に驚き、この法律を知らずして日本を語ることなかれ、とまで言っている。
何しろ日本全土の45%を「農振地域」に指定し、そ域内では農地以外での土地利用が厳しく制限されており、農地の転用が簡単には許可されないのである。
つまりこの地域に農民ではない人間が家を建てようとしてもなかなか役所の許可がおりない。
たとえ農業従事者であっても50アール以上の土地をもつ法律上の「農民」でなければ、それが許されないのである。
憲法には職業と居住の自由が定められているのにである。
したがって市街化調整区域で建築できる建築物であっても建築することができないし、市街化調整区域でよくみられる資材置場等としても利用することができない。
となると、これは「農業の領土宣言」といっていいほどのものだが、農業がメジャーでなくなった今日でもなお生きているのだから驚きである。
実はこの法律の背後にも農業基本法制定当時(1961年)に自民党の政調会長などをつとめ、生涯で72本もの議員立法を通した田中角栄の存在がチラついている。
まず「市街化調整区域」を認めさせて外堀を埋め農振地域によって完全に都市を包囲したという感じなのである。
その結果、自由に土地を売買し、建物を建てられるのは、市街化区域と未線引都市計画区域内の用途地域、つまり全土のわずか4.7%に限られていた。
当然、都会の土地の値段は世界一高くなり庶民には手が届かないものになったのである。
田中氏はこういう法律群を布石として「日本列島改造」を構想していたが、そのネライは都市政策ではなく地域振興策なのである。
1968年まで上がり続けた米価が据え置きとなり翌年減反政策に転じ農村が片隅に追われつつあったが、この地域振興策によって直接に地方と農村を豊かにしようとしたのである。
つまり都市部の工場群を地方に分散させ25万都市をたくさんつくり、それらを結ぶ高速交通ネトワークを作ろうとしたのである。
実際に新幹線や道路建設によって地方の農村は随分潤ったのである。
田中角栄の意思はその後、朋友であった大平正芳氏にうけつがれ、大平氏は首相就任後に「文化国家」と並んで「田園都市構想」なるものを打ち出した。
田園都市構想は、結論から言うと自然と都市の融合である。
田中氏のコンピューター付ブルド-ザーといわれた土建屋的構想に比較すると、大平構想には素朴な「農民の魂」を感じさせるソフトなものであった。
大平氏は都市のもつ高い生産性と田園のもつ豊かな自然を融合させることを目指すとしていた。
このような構想のベースとなったのが、明治期に内務省がモデルとした1898年にイギリスのエベネザー・ハワードが提唱した「田園都市」であったとされる。
なお、この田園都市構想のブレーンは、学習院大学で社会工学を教え皇族とも親交があった香山健一氏であったという。
しかし、大平氏の1980年急逝により、この構想は陽の目を見ることはなかった。

農地法、都市計画法、農業振興法のいわゆる「土地三法」は、今も生きて土地利用を制約し、有効な土地活用を妨げる弊害が大きくなっている。
ただ2006年に都市計画法の改正が行われ「線引きの権限」は国から都道府県知事に移った。地方分権の流れからいって自然な法改正であったといえる。
農地改革時にできた農地法では、農地の所有は耕作者という「耕作者主義」が建前になっている。
農振地域の指定は知事が行うものの、実際の整備計画は各市長村が立てるが、この「線引き」は今日、耕作放棄という現実を無残にさらしている。
仮に農地を「宅地」に転用したら、評価額が突然跳ね上がる。農地のままなら数百万円にならなかった土地が、宅地に転用すれば数千万円になることもある。
法律上は農地の転用は厳しく規制されているが、地元の農地委員会が認めればコンビニエンス・ストアになるし、工場にもなるし、道路にもなる。
そんなビッグチャンスが訪れた時に、もし他人に貸していたら、売却のタイミングを逸してしまう恐れがある。そんなことがあってはならない。
ならば自分の家で食べる程度の耕作をしながらあるいは耕作をしばらくは休みますといった態度で、農地の値上がりを待つのである。
農地という限られた資源を有効活用せず、さながら農地で資産運用している感じである。
実はこうした生産者の「転用期待」が農地の有効利用を阻む要因となっているのである。
もしも、土地をもっと有効に活用すれば民間住宅投資増など最も有効な内需喚起が期待できるのである。

大平氏が亡くなった翌年1981年に福岡で「産直」が産声をあげた。
あまり地元でも知られていないが、「産地直送」の流れは福岡の老舗百貨店から生まれたのである。
1981年、博多大丸は地元ナンバー・ワンの岩田屋に水をあけられ、商品戦略の見直しを迫られていた。
生鮮食品担当の古山氏は、浮羽郡(現久留米市)田主丸で成功していたある農園の話が頭に浮かんだ。
地元農協には加盟せず、青果市場に直接農作物を持ちこんでいたことから、手ひどい嫌がらせにあっていた。
農協の意向を反映したのか、市場はこの農家から持ち込んだ生産物を徹底的に安く買い叩いた。
ところがこの農家の「いずれは誰かが分かってくれる」という「信念」はスゴかった。
一箱150円でトマトを出荷し続けたのである。
すると消費者が、あのおいしいトマトを売ってくれと青果店に催促し始めたのである。
古山氏は、博多大丸に赴任して以来、九州各地の篤農家を訪ね歩いていた。
篤農家とは、農協の言いなりに農薬をばらまき、週末と夏休みだけ農業する兼業農家ではなく、熱心に農業を研究している、いわばプロの農家をさす。
そして古山氏は、九州各地に篤農家が以外に多いことと、その一方で流通の悪さに愕然としたという。
実は農協は生産物の「味」にはこだわらない。形と大きさだけを問題にする。
どんなにおいしい野菜や果物を生産しても、形が悪かったり規格外の大きさだと、農協はひきとりを拒否するのである。
仮に引き取ることがあっても、二束三文のはした金しか出さない。
農協を中心とした農作物の流通は全ての仕組みが農協の利益のために働いており、どんな品質のいい農作物を生産しても、農協に与しない生産者は徹底的に排除された。
古山氏は農家から百貨店に直接農作物を持ち込むことはできないかと考えたが、そういう物流の仕組みはなく、百貨店の担当者が生産者の家を直接まわって集荷するほかはなかった。
これが産直の始まりである。
しかし、扱っている品物はせいぜい10品目にすぎず、「産直」を発信するには売り場面積はあまりにも小さかった。
広告を出すにも野菜を広告にだす百貨店など聞いたことがなかった。古山氏は、酸もなくアクもなく渋みもないそのままサラダにして食べられるホウレンソウを見つけていた。
そして古山氏の熱い気持ちは、上司にも伝わった。
新聞の全面広告がOKとなり、その内容は「ほうれん草を生で食べてみませんか」だった。
(なんだか「プロジェクトX」みたいになってきた)
この新聞広告は、当時の流通業者や生産現場に衝撃を走らせたという。
生でホウレンソウが食べられることの驚きよりも、それを百貨店の博多大丸が全面広告を出してまでやったという衝撃だった。
この衝撃こそが本当の意味での「産直」の産声と言ってよかった。
市場はせきたてられたが、市場はなかなかその要望に応えられず、最後にはようやく生産者にその声が届き、消費者と生産者の結ぶ独自の流通が生まれたのである。

1999年ようやく農業基本法が38年ぶりに改正された。この改正で一番高く評価されるのは、「持続可能な農業」つまり環境保全型農業への転換がうたわれたことである。
安全な食品を求め有機栽培を支持した消費者が国を動かしたともいえる。
大平元首相ブームの背景には、政治の責任を最後(死ぬ)まで捨てないとか、見識の深さとかいうものが大きいのかもしれない。
しかし、それ以上に劇場型のワンフレーズ首相とか金持ちのボンボン首相とか親の七光り首相なんかではなく、あ~う~唸りつつ迂回しても最善の結果(果実)を生み出そうという素朴な「農民の魂」だろう。
それは博多の百貨店に「産直」の動きを誘引したあの篤農家たちの姿と重なるものがある。
産直の心は、「形」よりも「味」ということですね。