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戦争と罪と謝罪

2006年イラクのフセイン大統領が捕縛されてアメリカの法廷で裁かれた。そしてその年12月に処刑されたのだが、 その時の罪名が「人道に対する罪」であった。
フセイン大統領がイラク中部ドゥジャイルのイスラム教シーア派住民148人を殺害した「人道に対する罪」を犯したというわけである。
一方で、世界中で「死刑廃止」の世論もある中で、首に紐を巻かれたフセインの処刑を生々しく公開したアメリカ側に「人道に対する罪」はなかったのかと問いたくなった。
しかし、一般に戦後裁判というものは「勝者が敗者を裁くもの」であるから、判決の内容がどうとか刑の執行がどうなされようと致し方ない、と思うほかはない。
それよりも、「人道に対する罪」という言葉に「過去の亡霊」が蘇ったような気がした。
この罪名は、戦後日本の「戦争犯罪」を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)で登場した「罪の名」である。
東京裁判で多数派の判事が同意した検察側の起訴状の内容は、「東條英機元首相以下28人の戦犯は 共同謀議を行っていた。目的は侵略による世界支配である。その目的を果たすために通常の 戦争犯罪のほかに、”平和に対する罪””人道に対する罪”を犯した」という内容であった。
ところで、刑事事件すなわち犯罪を裁く際にいくつか原則があって、一番有名なのは「物証主義」である。
戦前の刑法が 「自白」を最有力な証拠としたため、冤罪事件が繰り返し起こったため、その反省の上にたって新刑法では「物証主義」となった。
それ以外に刑事裁判では「罪刑法定主義」や「法律の不遡及の原則」などがある。
前者は、事件を裁くにあらかじめ「100万円以下の罰金、もしくは10年以下の刑」といった「量刑」基準が具体的に定めておかねばならず、後者は新たに作った法律を「過去におきた事件」に遡って適用してはならないという原則である。
つまり行為の時点で「合法」であったことを、後からできた法律で違法とはされないということである。
これは政府司法当局の恣意的な権力の行使によって、国民の人権が犯されることがないように作られた原則であるといってよい。
では今まで、こういう原則に反した判例があるのかといえば、とても「重大な判例」がある。
それが、前述の東京裁判において日本の指導者層が「平和に対する罪」そして「人道に対する罪」を犯したとして裁かれた裁判のことなのである。
ただ根本的な疑問は、平和とか人道に対する罪といっても、それらを犯さない「戦争」というものが果たしてあるのだろうか、ということである。
戦時という人間の極限状態における行動を、こんな風な「罪の名」で一体、誰が、誰の、何を、どう裁くのか、というのだろうか。
それらをあえて裁判で問うというのは、こうした罪の中身が「裁く側」から限定されてた「罪」として規定されるということなのだろう。
そして実際に、「平和に対する罪」は不法に戦争を起こす行為のことで、宣戦を布告せるまたは布告せざる侵略戦争を遂行する、もしくはこれらの行為を達成するための共同の計画や謀議に参画した行為とされている。
前者の「平和に対する罪」は、例えば真珠湾攻撃については宣戦布告の文書の送付が手続きのミスで一日遅れとなったのであり、日本海軍の行動は暗号を完全に読み取られ、アメリカ軍は日本側の一撃を真珠湾で「待っていた」といった真実が、この時点で明らかにされるはずもなかった。
、 また後者の「人道に対する罪」は、無辜の市民の大量虐殺などを指すものであるが、アメリカの原爆の投下は罪に問われることなく、他方で日本の南京等での虐殺が有罪であるというように、裁く側に都合よくその適用内容が「限定」されているということである。
東京裁判には、連合軍によって指定された11カ国の判事で構成されたが、それぞれの判事は本国の世論を背負って「はじめに結論ありき」の観光気分的態度で裁判に臨んだが、11人の中でただ一人インド人のパール判事は、さすがに国際法の権威であるに相応しく、東京裁判自体の違法性を訴えた。
パール判事は、刑事裁判の基本的な要件を備えていないという点で、裁判の「違法」を訴えたのである。
パール判事はいう。 「この裁判は国際法に違反しているのみか、法治社会の鉄則である法の不遡及まで犯し、罪刑法定主義を 踏みにじった復讐裁判にすぎない。」
すなわち極東国際軍事裁判自体を違法とみなしたのである。
実は「人道に対する罪」「平和に対する罪」は、ナチス・ドイツの首脳を裁いたニュールンベルク裁判で作られれた「罪の名」であり、その成立の時点から見て明らかに事が起こった後に作られた「事後法」である。
日本は戦争において多くの罪を犯した。
私もその非道の一端を韓国の独立記念館などで十分に見たが、それでもナチス・ドイツが行った組織的・計画的・意図的「ホロコースト」とは性格が異なったものである。
そして東京裁判では、ドイツを裁くにあたってできた法をそのまま日本にも等しく適用したということである。
ところで、この「平和に対する罪」をせっかく作ったので、戦後の様々な戦争でもう少し適用されてもいいように思わぬではないが、まったくその適用例を聞いたことがなかった。
したがって、これらのことを忘れていたのであるが、最近サダム・フセインの裁判において「人道に対する罪」が適用されたために、ようやく思い浮かべた次第である。

ところで、コロンブスらの大航海時代以来のヨーロッパの植民地経営を見ると、仮に「遡及禁止の原則」を無視して法を適用するならば、「平和に対する罪」「人道に対する罪」に溢れかえっている、といってよい。
スペインやポルトガルの南米進出による大量虐殺やイギリスのアヘン戦争なんか「平和に対する罪」「人道に対する罪」の最重罪例といってもよい。
ではなぜ日本ばかりがそれが問われるのかという素朴な疑問に、かつて日本の外務大臣が、「日本が一番最近やったから罪が重い」と答えたそうである。
ところが、日本が戦争に負けてベトナムか徹兵したのち、フランスはまた軍隊を送って植民地支配を続けようとしたし、すでに独立を宣言していたホーチミンが抵抗したが軍隊を送って弾圧して昔に戻そうとした。
また日本がインドネシアから引き揚げた後も、オランダが帰ってきて、独立宣言ずみのスカルノ大統領と戦っているのである。
東京裁判で判事を出し、「裁いた側」にあったフランスやオランダも、この時点で「事後法」でもなんでもない「平和に対する罪」「人道に対する罪」にあたる行為はなかったと言い切れるのだろうか。
いずれにせよ国家の力関係が「裁判」を支配するのは、国際的な事件や戦争においては「力」そのものであり、公平さを欠くことなくそれができるのは、よほどの「超越機関」でも作らなければできそうもない。
その意味では、日本の戦争犯罪が裁かれた裁判で、パ-ル判事のような判事が一人でもいてくれたことは、まだ幸いであったというべきであろう。

以上のような東京裁判の結果もふまえ多くの日本人も戦争についての罪悪感を抱くに至ったのであるが、個人の立場で「謝る」のと公的な立場で「謝る」のとでは、「国益」がからんでくるので全く異なる位相で考えなければならない。
また「謝れば水に流す」という意識は、日本社会の内側でしか通用しないものである。
そこで、そうした気持ちの表明たる賠償や謝罪のあり方が、ずっと問題になってきた。
また、どういう観点で戦争の「反省」を表明するにせよ、誰かの気持ちや感情を踏みにじらずにはいられないという点で非常にセンシティブな問題となってきた。
日本の戦争は、「アジアの解放」などの「大義」を掲げて戦われた。
だから戦争で身内を失ったものは、その死を「大義」に殉じたもの、あるいは平和日本の礎を築いたのだと思うし、思いたい。
反対に、そういう行為をまるで「犯罪」のように見なすのは、死者に鞭打つものあり、遺族感情を傷つけるものである。
また一方で、そうした日本の戦争を美化するような態度こそが、「侵略戦争」につき充分な反省や謝罪を表明できないことの根底にあるものであり、被害者となったアジアの人々に対する想像力に欠ける態度なのだとも批判される。
また、日本には戦争の美化とはビミョーに違って、非業の死を遂げた人々を「鎮魂する」という深層文化もあり、このあたりの文化の違いを外国人にどう理解してもらうのかが大きな課題でもある。
そしてこの戦争解釈の違いは「左」「右」の政治勢力の分極点となってきたわけである。
ちなみに戦争というものは大概に「大義」を掲げて戦われるものである。最近の戦争は「人権擁護」の大義を掲げて戦われるケ-スが増えている。
1992年にブッシュ大統領がソマリアに派兵した。
しかし、ソマリア政府はアメリカに派兵を要請していない。
国連の決議もアメリカ議会の決議もなく、ブッシュ大統領の命令だけでソマリアに上陸したのである。
となると、米軍のソマリア上陸は、フセインのクウェート上陸とあまり変わらないように見えるが、そこに登場するのが「人権」である。
アメリカ軍の行動は「飢えた赤ん坊にミルクを飲ませるのだから」良いのだということになる。
しかし、石油の通路ホルムズ海峡に近いソマリアが地政学的にどれほど重要な場所であるかを知れば、そういう「大義」もむなしく聞こえるのである。

アジア・太平洋各地で行われた戦闘のことを詳しくは知らないが、とにかく戦争中の軍の行為を「悪」または「非」と断罪しきれない日本と、すっかり病根を切り取るようにナチスの行為を「悪」と断罪し、謝罪と反省を徹底したドイツという対照的な二極の国があるということである。
ドイツは、あの残虐なナチスの記憶を徹底的に保存しようとしてきた。
ドイツが自分達の病根部分を抉り出し吐き出すように「謝罪」したのに対して、日本はできるころならばこの問題を避けたいと思っているような雰囲気がある。
そこには、「国益」の問題でなどではなく、日本とドイツの「文明の相違」が横たわっているのではないか、と考える。
つまり、日本は戦争を断罪することは「国の存立」の基盤に関わるということと、ドイツは「断罪」によって国の存立をむしろ「再活性化」しうるであろうという、そういうノッピキならぬ問題ではないかと思うのである。

「文明の衝突」を書いた政治学者ハチントン氏は、日本は文明の境と国家の境が一致している唯一の国であるとして、アジアの中国文明とは一線を画するものとしている。
欧米社会では、神を唯一の拠り所として、罰を下す唯一絶対の神を恐れる。
これに対して、日本社会は、世間の人々の意識を拠り所にしてたえず人々の思惑を気にしている。
ただし日本は近代化の過程で、「唯一神」のキリスト教を見習って、アレンジした天皇を「生ける神」としてまつりあげ、全国民に天皇崇拝を強制した。
しかし日本人はムラの産土神を信仰を捨てさるまではせず、ぞれが必ずしも成功したわけではなかった。
そこで政府は、国家を擬似的な大家族に仕立て上げようとした。
そして日本人は企業や軍隊などの様々な組織が「擬似家族」のように存立し、目の前の「擬似家族」に一体化して行動する傾向を見せる。
そしてこういう組織には親分たる「プチ天皇」が存在したのである。
そういう「擬似的な」家族の中で、親分が子分にしてあげること、子分が親分にしなければならないことを探りながら醸成される空気が、濃密に人々を支配するようになるのである。
こういうのを「甘えの構造」といっていいと思うが、「甘え」社会は気分がイイかというと、実は息がつまるほど自由がないのである。
こうした「濃密な空気」の中で日本文明には、神を恐れる「罪の文化」は育たず、あくまでも周囲の人々と、そこから生まれる「空気」を恐れる「恥の文化」が育ったといえるのかもしれない。
一方、キリスト教文明のヨ-ロッパでは、歴史的に「罪の文化」が育った。
それが最も高度に発達したのがカトリック教会における「罪の懺悔告解」のシステムである。
このシステムでは、どんな罪でも自分で告白して悔悟の念を示しさえすれば基本的に赦される。告解の後で、司祭は罪障消滅を宣言するのである。
しかし、それぞれの罪の軽重によって、祈りや断食などの贖罪行為が要求されるし、たとえ神の名によって司祭から罪を許されたとしても、世俗の法廷で裁かれ直して刑に服する場合もある。
しかしカトリックの伝統の中で、ともかく罪を告白しさえすれば、霊的には浄められ、良心に恥じることはないとう認識を得ることになる。
それにしても前ロ-マ法王のヨハネ・パウロ二世は世界各地で「謝罪外交」を展開した。もっとも国家による謝罪とは違いそこに「賠償」責任が出てくることはない。
しかしそれでも、権力者が自らの非を認めたり、一国が歴史上の過ちを認めて謝罪したりするのはいつも非常な困難をともなうが、当時のカトリック教会は驚くべき熱心さでそれを行ってきた。
第二次世界大戦で、ナチスによるユダヤ人虐殺にカトリック教会が沈黙していたことに対する謝罪は、その典型的なものだろう。
また教会が犯したと思われる人種差別、性暴力(魔女狩り)、暴力など多岐に渡っている。
自らの過ちを認めるということは、ヨハネ・パウロ二世が始めたことではなく、はるか昔1523年にプロテスタントが堕落したカトリック教会の非を唱えて反旗を翻した宗教改革の時代には、ハドリアヌス6世は法王庁の醜聞を認めて、それらを一掃するよう努力することを言及した。
これが、その後のカトリック内部の改革を可能にしたのである。
こういうローマ法王の「謝罪外交」を見ると、ドイツの潔い謝罪と賠償については、ヨーロッパの一員として生きるためにこそ、それが「国益」にもかなうものであるという認識をさせられるのである。

日本における戦争の「謝罪」を困難にさせるのは、やはり戦争が「天皇の名」で行われ、軍隊は名目上「天皇の軍隊」であったということが一番大きいのではないだろうか。
これがナチスのように時の第一党が国民に総動員体制を敷いて日本を戦争に導き入れたというのならば、日本人とて元々謝るのが嫌いな国民性ではないのであるからして、ドイツと同じようにその「非」をしっかりと認め、謝罪しまくったかもしれない。
しかし天皇の軍隊とはいっても、中国大陸における戦闘の前線では、各将校が勲章が欲しくて次々に拡大していったという現実がある。
みな「擬似家族」として将校または部隊長に「一体化」して戦っていたから、いわずもがなの「甘え」構造の中で、次々に戦闘を拡大していったのである。
実は戦争末期になるにつれて、名ばかりの「天皇の軍隊」に成り果ててしまっていたのである。
つまり名目は「天皇の軍隊」ではあっても、その実態は各部隊長(プチ天皇)の軍隊であり、そういう意味ではけして統制がとれていたわけではなかった。
こういう場当たり的な戦闘が、日本をますます敗北の方向に導いていったといってよい。
ところで敗戦後、東京裁判で戦争の指導者が裁かれる一方で、東久慈宮内閣で「一億総懺悔」ということがいわれた。
「罪の文化」も「懺悔の文化」も育っていない日本人に、一体誰に対して、何を懺悔しろと言いたかったのかは曖昧である。
「一億総懺悔」は戦争の責任を指導者ばかりに負わせるなということと、どちらかといえば「戦争でなぜ負けたか」を反省しようぐらいの意味であったようだ。
少なくとも、戦争でアジア各地に被害をもたらしたことを皆で懺悔しようというヨビカケはなかった点だけは、確かなようである。