島はどう使われたか

N・オ-エンなる人物から10人の男女にあてて招待状が届く。イギリスのある孤島の主からの招待状で、島に集まった見知らぬ人々は、マザー=グースの歌に乗って1人1人殺害されていき、誰もいなくなる。
アガサ=クリスティの傑作「そして誰もいなくなった」の粗筋であるが、いままで読んだ(たいして読んでいませんが)もっとも「怖い」推理小説であった。
この島は孤島であり、殺人ゲ-ムが始まっても船はまったくこなくなり、逃げ場は途絶される。
この島にはいまだ登場しない何者かが潜んでいて、いつか登場するに違いないという思いを抱きながら読み進んでいくのだが、本当に誰もいなくなる。
というわけで、この推理小説は島が殺人事件の舞台となるという異常事態での「恐怖感」を描いているのであるが、実は異常はなくとも、島で生きること自体の「潜在的な恐れ」を伝えているような気がする。
ちなみに「そして誰もいなくなった」の原題は、アメリカの先住民たる「10人のインディアン」(Ten Little Indians)である。
普天間基地移設先の民主党「腹案」は徳ノ島などのニュースを聞くと、やっぱり「島」なのかと思った。
小さな島で「基地」を飼うことの「危険」と「恐怖」はいかほどのものであろう。
沖縄に75パ-セントもの基地が沖縄に集まったのは、沖縄が太平洋の安全に関する地政学上の優位性があるにせよ、そこが本土から離れた島だったという要素をぬきに考えることはできない。
そもそも敵国アメリカの海兵隊が自国の島に上陸して居座ったままのものが果たして「抑止力」になりうるかも疑問である。
ただ島は、様々な問題をくるみ込んで逃がさないようにと閉じ込めてもくれる処でもある。
穏やかさと優しさに満ち、悠久の時を刻んでいるような、空と海の青が接する島で、これから戦場に向かわんとする殺気だった兵士と、破壊的な武器が集中・集積されているという、その背反性はとても強靭で、元沖縄県知事の大田氏のいう本土の人々の意識と島民の意識の開きを感ぜざるを得ない部分である。
そして、日本の歴史の中で、「島」がどんな使われ方をしてきたかということを思い起こした。

普天間基地移設問題で浮上した徳之島での歴史でまず思い浮かべるのは、奄美大島と並んで行われた薩摩藩による徳之島の黒砂糖収奪である。
薩摩藩が幕末の雄藩の一つとなったのは、財政破綻を立て直しにあたった調所広郷がおこなった改革によるところろが大きいが、その改革には暗部が付きまとっている。
 彼の財政改革の主要部分は、琉球を利用した中国との密貿易と並んで奄美群島の黒砂糖産業にある。
奄美群島の人々に黒砂糖の原料となるサトウキビ以外の作物の栽培を禁止し、島民が生活に必要な米ならびに他の物資はすべと薩摩藩から市場価格よりはるかに高い価格で購入する流通ルートを作り上げ、奄美群島の実質奴隷身分であったヤンチュと呼ばれる人々から搾るだけ搾り取ってきたのである。
サトウキビ以外は作れないために、生活必需品はすべて現金で購入しなければならず、それまで少ない耕作地で何とか食いつないで来られた零細農家の人々も、豪農に生活のため、決められた上納ができなくて、借金をする。
借金が積み重なり、挙句は身を豪農に売り、隷属民に身分を落としていくというサイクルが始まる。
結果的に薩摩の改革者調所広郷は、隷属民のヤンチュを大量発生させたことになる。
今まで行った旅先で、「島」は歴史的に「負」の部分や「忌避される」部分を担ったという面が多く、様々な「島」の使われ方みたいなものを思わせられた。
まず思いつくのは「獄門島」で、「島流し」刑の場所となったところである。いわゆる獄門島は全国各地に点在し、私が住む福岡では糸島半島沖にある野村望東尼が流された姫島がよく知られている。
病床にあった高杉晋作は人をやって姫島から野村望東尼救出に成功している。
「島」に流されるのは、罪人の逃亡を防ぐというだけではなくて、ある部分「ケガレ」の存在と見なされていたこともあるのだろう。
また各地の島々が、ライ病の隔離にも使われたという歴史の暗部も忘れてはならない。
ところで、「獄門島」を書いた推理作家の横溝正史は、1945年から3年間、岡山県吉備郡岡田村に疎開し、名探偵金田一耕助を生み数々の名作を書きあげた。
映画「獄門島」の実際のロケ地は、そこに近い岡山県笠岡市沖合いの六島である。
「獄門島」ではかつて海賊たちの本拠地だったこの島で3人の網元の娘たちが無残に惨殺されてゆく。
閉鎖された島での血の系譜は、市川崑監督による色鮮やかな衣をまとった娘たちが俳句になぞらえて殺されてゆく。
市川監督は、その映像美によって、横溝文学が持つ殺人の美学を見事に表現したといえるのだが、アガサ=クリスティーの「そして誰もいなくなった」(1939年)なしでは、この横溝作品「獄門等」も存在することはなかったであろう。

「島」にみる歴史の暗部といえば、地図から消された島がある。広島の日本海軍の本拠地である江田島近くの大久野島である。
瀬戸内海に浮かぶ周囲4kmの小さな大久野島は無人島であり現在は島全体が国民休暇村となっているが、この静かな島が60年あまり前までは毒ガス製造にかかわっていたとは信じがたいほどの長閑さである。
 大久野島で毒ガスが製造されたのは1929年から1944年までの15年間である。
東京の新宿で始められた陸軍毒ガス製造所は関東大震災での教訓や規模の拡大のために移転先を探していたところ、秘密が保持しやく、交通も便利ということでこの島が選ばれた。
すでに毒ガス兵器は1919年のベルサイユ条約、1925年のジュネーブ協定で使用禁止が定められており、秘密保持のためにその島は地図から抹消された。
製造された毒ガスは竹原市忠海港から鉄道で福岡県小倉の曽根に運ばれ兵器に充填されて戦場へ送られたという。
数年前に行って強烈な印象をうけたことのある似ノ島は、この大久野島からそう遠くはない宇品港沖に浮かぶ周囲8キロメ-トルの小さな島である。
日露戦争で帰還する兵士の検疫が行われた場所である。
広島への原爆投下で被爆した人々の多くはとりあえずこの島へと送られた。
また第一次世界大戦で青島で捕虜となったドイツ人も似ノ島へ送られ収容所が作られたが、ここで本場のサッカー技術が住人に伝えられ、その少年達のなかからオリンピック出場選手が生まれ、さらに彼らがJリ-グ誕生に貢献するのである。
私の地元アビスパ福岡のかつてのドイツ人監督ピエール・リトバルスキーも、似の島で収容された数名のドイツ人達と同じサッカークラブに所属していたという奇縁もある。

歴史的に見ると、島は「秘守」を目的としても多く使用された。
韓国の話であるが、2003年の「シルミド」という衝撃の映画があった。
これは、韓国政府が極秘に進めた、朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相暗殺計画と、それにかかわった韓国の「北派工作員」の実話を基にした映画である。
シルミドつまり実尾島とは彼らが訓練のために集められた島の名前で、仁川にあり、現在は仁川国際空港でバスを乗り継いで行き、観光地化している。
韓国で上映されると「長らく社会から封印されてきた歴史の事実が明かされた」として反響を呼び、過去の記録を塗り替える1000万人以上の観客動員数を記録した。
これほどの衝撃性はないが、日本の憲法作りは島で行われている。憲法といっても「大日本帝国憲法」つまり明治憲法の方である。
神奈川県沖の夏島というところで行われ、大日本帝国憲法のことを「夏島憲法」という言い方をするくらいなのである。
当時、伊藤公の政敵やマスコミは、憲法の内容に異常な神経をとがらせ、その案文を事前に入手しようと躍起になっていた。
このため、伊藤公としては憲法が発布されるまで、絶対に機密を守らねばならなかった。起草地に孤島の夏島が選ばれた理由はここにあった。
その草案は伊藤博文が中心となり、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らの協力を得て起草した。
 夏島で草案起草の審議をしたのは、1887年 6月頃から9月初旬までの 3ケ月余の間である。この間、伊藤博文は一週間ほど滞在することもあったが、普通は 2~3日で帰京していたという。
ただ、夏島の別荘は部屋数も少なく全員が宿泊するには狭かったこともあって、料理旅館が事務所のように使われていた。別荘には伊藤公だけが寝起きし、伊東・金子は東屋から、井上は野島館から小舟で通っていたという。
しかし同年8月6日夜、東屋に泊まっていた伊東の部屋に泥棒が入り、草案原稿を入れた鞄が盗まれるという事件が起きた。
幸に、鞄はすぐ近くの畑で見つかり、百円ほどの現金が抜きとられただけで書類の紛失はなかったっという。
この事件以来、金子と伊東は東屋を引き払い、夏島の伊藤公別荘で合宿することになった。
歴史的な憲法草案審議が東屋から始まったことを記念して、1935年に「憲法草創の処」(金子堅太郎書)の石碑が東屋の裏庭に建てられた。
のちに東屋が廃業したとき、横浜市に寄贈されて野島公園に移されたが、近年になって再び東屋にほど近い洲崎町に移建されている。

島々には様々な歴史がある。いくつか思いつく所を列挙すれば、東京湾の石川島は罪人に職業訓練をほどこす人足寄場があり、明治になって世界最大の造船会社がつくられた。石川島播磨重工である。
また徳川家康の目に留まった瀬戸内の佃島の住民は、江戸に移され江戸前を本に佃煮を生み出した。
山口県周防大島は島民の数多くがハワイ移民となり、ハワイ移民記念館が設けられている。
この島は、民俗学者・宮本常一や作詞家・星野哲郎を生んだ。作詞家とえば、阿久悠は淡路島出身である。
長崎には朝鮮人強制連行によって石炭の採掘が行われた軍艦島とよばれた端島もある。
また、東京のゴミの集積が結果的に島になったのが夢の島であるが、この夢の島に戦後の被爆による初めての死亡者を出した「第五福龍丸」が展示されている。
瀬戸内海に浮かぶ香川県豊島は、日本最大の産業廃棄物不法投棄事件の舞台となり、一時は甲子園球場の容積のざっと五倍、50万トンもの産廃が高さ20mまで積み上げられ、異臭を放ち、醜悪な姿をさらしていた。
中坊公平弁護士を仲立ちとした住民の戦いにより、いまは分厚い保護シートが被せられ、汚染土壌を処理して隣の直島に運び、リサイクルして資源化する「エコタウン事業」が、2003年9月から始まっている。

こうして、様々の歴史を担った島々の多くが、今でも人々の癒しの場を提供するところであることは変わらない。
つまり、傷つけたものから癒され、奪いとったものから与えられている関係があるように思われる。
壺井栄の「二十四の瞳」小豆島、三島由紀夫の「潮騒」は、 伊勢湾口にぽつんと浮かんだ神島が舞台となった。
福岡県の宗像沖には、海の正倉院とよばれる「沖ノ島」がある。
過酷な家庭に育った児童文学者の灰谷健次郎氏は、1人で家族の重荷を背負った兄の自殺をきっかけに、17年におよぶ教師生活をやめ、数年間沖縄を中心に南の島々を流離った。
その中で、自分よりもはるかに悲惨な体験をした人々の心に宿る大きな生命力に心を動かされる。
「この前向きな人達が、かつてどれほどまで虐げられ、傷つけられていたのか」と。
そして、その生命力が、かつて教師として出会った子供たちの中にも宿っていたことを思い起こす。
そして書いたものが「兎の目」や「太陽の子」であり、児童文学でありながら(失礼!)も多くの読者をえて異例のミリオンセラーとなった。

5月タイムリミットの普天間基地移転先問題。
そしてどこも受け入れなかった、ではあんまりですが、アメリカの世界戦略全体を見直すことに繋がるこの問題の解決はそう簡単なはずもない。