時代のけじめ

個人的には、すすんで権力に深くかかわろうか、好んで階段を昇ろうかする人々に、人間的興味を持つことはほとんどナイ、といっていい。
ところが、世の中には成り行き上イタシカタなく権力と関わらざるを得なくなったという部類の人々もいる。
最近、出版界を賑わせている「佐藤優」という人物も、おそらくはそういうタイプの人なのだろう。
佐藤氏は外務省職員で、鈴木宗男という北海道選出の有力国会議員と深くかかわり、「背任」と「偽計業務妨害」容疑で逮捕され、2009年6月30日懲役刑が確定した。
佐藤氏の本「国家の罠」(新潮文庫)によって、事件のあらましや、かかわった人物を実名で吐露されて、事件の実像が見えるにつれ、かなり佐藤氏に人間的興味を抱くようになった。
この手の本を実名で書くということは、嘘がかけないことを意味する。
さらに、文学や哲学・宗教に通じた大変学識豊かな人物であることがわかってきた。
佐藤氏は、「外務省のラスプ-チン」と呼ばれるほどの一般のイメージは悪いのだが、「見る(読む)」と「聞く」とでは大違いで、職業柄「策士」ということはなきしにもあらずだが、根本的に「潔い人」だと思った。
何をもって「潔い」かは一言では言い難しいが、自己中心的な人でも潔い人は潔く、他人のことをよく考える誠実な人でも、潔くない人は潔くない、と感じる。
その「潔さ」は、周りがどうあろうと「原理原則」に忠実であるということだ。
そしてこの原理原則についていえば、外交官としては「国益」なのだが、人間のプライドとのかねあいで佐藤氏は上司と次のような会話をしている。
佐藤;「私は組織人です。組織が決めたことに従うだけです。私個人の希望はありません。国益のために私をどうつかったらいいかというのは組織の考えることです。ただし、私にはプライドはありません。侮辱されようとどうしようとそれが組織として国益に適うと考えれば、それでよいのです」
次官;「いや、俺たち外務省員のプライドが大切なのだ。田中(真紀子)大臣なんかに負けられない」
佐藤;「その点について私は意見が違います。プライドは人の眼を曇らせます。基準は国益です」
また佐藤氏は、外交という「海」に生きる者にとって、そういう「潔さ」を持つ者でなければ、真の友情を育むことができない、と言っている。
つまり、本当に信頼できる確実な情報というのは、そうした「友情」を通じてしか得られないということである。
そして外国の人々と真の「友情」を築くためには、徹底的に自分の頭で考えヌキ、相手の心に届く言葉をサガスことだ、と言っている。

1990年代の終わりごろ、マスコミ等を通じて鈴木宗男バッシングか繰り広げられていたのは、記憶に新しい。
鈴木氏の経歴に簡単に触れると、拓殖大学4年の時から故・中川一郎の秘書を務め、有能な秘書としてあまねく政界に知れ渡っていた。
「鈴木宗男」の名は、北海道十勝支庁足寄町の故郷では絶大で、30歳の若さにして町政特別功労者として表彰されている。
中川一郎は鈴木宗男にぞっこん惚れ込み、党による鈴木の参議院選出馬要請に、涙を流さんほどの苦悩の色を示したという。
中川氏にとり、総裁選に備えこれから仲間を増やさんとした矢先に「鈴木秘書」を失うことは、片腕をモガレるようなものだった。
1983年1月7日、中川は新年交礼会出席のため、羽田空港から発ったが、いつも同伴する鈴木は同行せず、中川の呼び出しに別便でたった鈴木は夕刻時にようやく合流した。
8日、中川氏はパークホテル102号に宿をとるが、次の日早朝には、中川氏はこの世の人ではなくなっていた。
ところで、2002年小泉首相・田中真紀子外相コンビで誕生した「小泉政権」を、国民はかなり歓迎したといってよい。
一方で田中外相は、「外交族」として外務省に影響力をもつ鈴木宗男氏との間で、泥試合を繰り広げたが、マスコミを中心に鈴木氏に「悪役」がフラレたという印象が強い。
その結果、あまりにも「ムネオ悪人説」が肥大化したがため、バランスをとる為に鈴木宗男氏の「意外」にみえる側面を以下に敷衍したい。
第二次世界大戦中に外務省の意向を無視してビザを発行し、ユダヤ人の命を救った杉原千畝の名誉回復を行ったのが、鈴木宗男であった。
バルト三国の解体によってリトアニアが独立すると、かつてリトアニアの大使館で「命のビザ」を発行した杉原氏の名誉を回復することは、鈴木氏の良心からというよりも、「外交上必要」という認識もあったのかと思う。
外務省はこれに反対するが、鈴木は杉原の名誉回復を行い、これを契機にリトアニアでは、かつて日本大使館があった通りに「スギハラ通り」という名が付けられたという。
鈴木氏の主要な政治課題は、混乱する新生・ロシアとの間に「外交」の道筋をつけようとしたのであるが、それには当然まだ実現していない「日露平和条約」の締結が前提となる。
実は第二次世界大戦後、サンフランシスコ平和会議で多くの国と平和条約と締結したが、ロシアとの間で平和条約が結ばれていないので、実はロシアと日本は法的にはいまだ「戦争状態」が続いているのである。
この平和条約が結ばれない理由は、北方領土問題で妥協のイトグチがみつからないからだが、旧ソ連崩壊を機に、橋本政権では「平和条約」を結ぼうという機運が高まった。
橋本政権を引き継いだ小渕政権では、2000年までに平和条約を結ぶことを政治目標としていた。
その時、鈴木宗男は官房副長官という権力の中枢にあり、北海道出身で根室・釧路を選挙区としてロシア高官とも人脈がある鈴木宗男氏が積極的に動いたが、佐藤氏はその「懐刀」として情報収集や分析にあたったという関係になる。
佐藤氏は、鈴木氏の「欠点」について次のようなことを言っている。
鈴木氏は他人に対する恨みつらみの話をほとんどしない。他の政治家の成功をみても「嫉妬」するのではなく自分の努力が足りない、もっと努力しないとと本気で考える。
つまり「嫉妬心」が希薄なのである。
これは裏を返せば、鈴木氏が他の政治家や官僚がもつ恨み・つらみに対して「鈍感」であることを意味し、それを感知できなかったことが、鈴木氏にとって致命的なことであったという。
例えばプーチン大統領と鈴木氏との会談が外務省ロシア課を素通りして行われたりしたことも、役人達の鈴木・佐藤への憤懣をマグマのように固めていった。
そういう時に登場したのが、田中真紀子外務大臣であった。
そして田中外相は、外務省ロシア課からロンドン公使への異動され、ロシア外交の「蚊帳の外」におかれた感のあるK氏をロシア課に呼びもどした。
田中外相のこうした恣意的なビデオの逆回しのような「再任」については外務省幹部は強く反対したが、これはある意味、田中外相の鈴木氏への挑発ともとれた。
真面目な外交官であるK課長は、どろどろした政治の世界から距離を置き、外務省という「水槽」の秩序を何よりも大切にするタイプの人間だった。
外務省は、「外務省は伏魔殿」などの発言で国民の喝采を浴びつつ、恣意的人事を行う外務大臣と対立を深めた。
しかし外務省全体としては、「知り過ぎた」外交族の鈴木氏と「外務省の秩序を乱す」田中外相が喧嘩をして「共倒れ」になることは、願ったりかなったりということだったかもしれない。
この対立に、できる限り鳴りを潜めていた佐藤氏であったが、2001年の「9・11世界テロ」によって国際情報収集・分析のプロとして、表に出て活動を開始せざるを得なくなった。
特に「ロシアの裏庭」たる中央アジアのイスラム原理主義の活発化が懸念されたが、こういう地域に人脈と信望がある人間は、与党政治家の中では鈴木宗男という人物しかいなかった。
このことが、田中外相を苛立たせた。
つまり911テロによって、鈴木氏の急速な勢力拡大を恐れる人々が小泉首相周辺にもたくさん現れることになる。
また、こういう点に鈴木氏は無頓着すぎたのかもしれない。
その後アフガン復興支援会議へのNGO出席への圧力が鈴木氏からあったかなかったかで、事務次官をまきこんだ田中外相と鈴木氏の「泥試合」が繰る広げられる。
そして小泉氏は、外務大臣と次官の「両者更迭」、鈴木氏も議会運営委員辞任という形で決着するが、田中氏にコビをウっていた役人の中で、鈴木氏が外務省への力を伸ばすことを恐れるものが多くなる。
さらに鈴木バッシングが強まっていくのにつれて、佐藤氏を含め外務省内の鈴木派が異動となる。
佐藤氏によれば、「世論の目線で動く」検察は、このころから鈴木氏周辺の「アラ」をしきりと探していたという。
そして、鈴木氏が関わったプレハブ宿舎(ムネオハウス)問題や・佐藤氏の国後島におけるディーゼル発電導入でめぐらせた「偽計」などにがマスコミにとりあげられ、これがいわゆる「国策捜査」に繋がって行く。
あえて「国策捜査」といい切ったのは、佐藤氏の逮捕・取り調べの中で、特捜検事が「君に勝ち目はない。これが国策捜査だからだ」と明言したからである。
ところで、佐藤氏の「背任」はロシア問題の専門家であるイスラエル人学者を日本にまねいたり、さらに日本の学者をイスラエルの国際学会に派遣した際に、外務省ロシア支援員会から金を出したが、これが委員会の設置協定に反し、ロシア支援委員会に損害を与えたというものであった。
これは法律上どうにでも解釈できるような問題であった。
もうひとつの罪「偽計業務妨害」は、「国後島ディーゼル発電機供与事業」で一般競争入札に参加したい会社に圧力をかけて参加させず、実際に参加する意思のない会社を形だけ入札に参加させ、三井物産に落札させるような「出来レース」を主導したというものであった。
詳細なことは知らないが、いかにも検察のシナリオという雰囲気であり、これは、過去に問題にならなかった事が急に問題になるといった類のものでしかない。

ところで佐藤氏は、外務省のノンキャリア(専門官)であるが、外務省では稀有といっていい同志社大学・神学部出身という経歴をもっている。
「神学部出身」となれば、大概は教会の牧師や伝道師、キリスト教関係の教職につく人がほとんどであるが、それとはまったく異質な国際関係の最前線で「国際情報局第一課主席分析官」という仕事をされている点に、大変興味をそそられる。
同志社大学・神学部出身といえば、フォークソング歌手の岡林信康、湾岸戦争当時によくテレビに出演されていた軍事評論家の小川和久氏が有名である。
小川氏はあの温厚で堅実な語り口とは想像できないような「激しさ」をもっておられる方のようで、それはその経歴に表れている。
小川氏は中学時代に実家が傾いたために、陸自生徒に入隊し航空整備方面に進んだ。
通信制で高校を卒業して自衛隊を依願退職した後、西洋思想の基盤であるキリスト教を学ぶために同志社神学部への進学を望んだ。
しかし、クリスチャンでなかったために受験資格がなく、「万人に門戸を開くキリスト教の教えは嘘なのか」 と同学部事務長宅にゲタ履きで談判に行き、同志社大学神学部で最初の「非クリスチャン学生第一号」となったという。(ただしその後、洗礼を受けたらしい)。 しかし小川氏は、その後授業料滞納で除籍され、その後地方新聞や週刊現代記者などを経て「軍事アナリスト」として独立した。
ちなみに小川氏は熊本県八代市出身だが、熊本にやってきたキリスト教の宣教師ジョーンズ氏の影響を受けた「熊本バンド」といわれる人達が、マルゴト同志社大学神学部・第一期生を占めることになる。
というわけで、熊本と同志社大学神学部とは非常に繋がりが深いのである。
そういえば、福岡県八女出身のホリエモンこと堀江貴文氏は、東京大学文学部宗教学宗教史学科中退である経歴上の「意外性」を思い出した。
要するに、人の精神遍歴は外部からはなかなか計り難いところがあるということである。
さて、佐藤優氏の「精神遍歴」であるが、近著「神学部とは何か」という本の中にはかなり詳しく書いてある。
佐藤優は同志社大学神学部2回生の時、フロマートカというチェコの神学者を知り、その神学思想がその後の人生に決定的な影響を及ぼしたという。
フロマートカは日本ではもっぱら平和運動家の側面が強調され、先行するカール・バルトなどに比べると二流の神学者という扱われ方をされてきたが、実は共産主義の抑圧から脱しようとした1968年の「プラハの春」の思想的バックボーンになった人物なのだそうだ。
佐藤氏は、外交官特権があれば自由にチェコに出入りし、神学書を漁ることが出来る、つまりフロマートカを学びたい一心で、外務省に入るのである。
もっといえば、チェコ語の専門家となり、チェコの民族思想と神学の研究をしたからだった。しかし、外務省から命じられたのは、ロシア語を学ぶことであったという。
ただし外交官としてこれまで来られたのも、フロマートカの「キリストを信ずる者こそがこの世界を他の誰よりもリアルに理解できる」、「われわれが活動するフィールドは、この世界である」という囁きにソソノカされたと言っている。

佐藤優氏の「国家の罠」(新潮文庫)を読めば、かなり悪いイメージであるにもかかわらず、鈴木氏も佐藤氏も「外交の海」に飛び出して日本の国益に繋げようとした人たちであるのは確かなようである。
ただ外務省という「水槽」をきれいにして、熱帯魚が美しさを競うだけのものにしておこうという役人にとっては、随分と水をかき回す人達であったと結果的に言えるかもしれない。
ただ一般に、「歴史は勝者によって書かれる」というが、「国家の罠」のような本を書いて出版されること自体、まだまだ「幸せ」な国と思う他はない。
なぜなら「敗者」の側によっても、これだけのことを伝えることが許される国だからである。
特捜検事が「これは国策捜査だから、君は勝てない」と明言するくだりもスゴイが、なぜ佐藤氏らが逮捕されたかという問いに、同じ特捜検事が「時代のけじめだ」といったという。
佐藤氏は、敵(検事)がどの程度「自覚的に」この言葉を吐いたかは知らないが、「時代のけじめ」という言葉が大変気に入ったという。
それからの時代の趨勢をみれば、検事がおそらく自覚していた以上に、そこに意味深さを見出すからである。
「時代のけじめ」というのは、鈴木氏のように構造的に地域的に弱い地域の声をくみあげ政治に反映させるというケインズの「公平分配型」からハイエクの「新自由主義」への転換、そして鈴木氏らの愛国的「国際協調主義」から「排外主義的ナショナリズム」への転換を意味する。
「排外主義的」とわざわざつけたのは、肥大化した愛国主義の意味で、競争の敗者や不満分子をも繋ぎとめるためには、これを鼓吹する傾向を生む。
結局、ロシアとの外交路線を築こうとした鈴木氏の国際協調路線が、この「国策捜査」によって頓挫したことを意味する。
ということは、小泉・竹中路線という一連の流れを生みだす「時代のケジメ」こそが、鈴木宗男・佐藤優両氏の「国策逮捕」であったといえるのかもしれない。