人生の「クイズ番組」

昨年アカデミー賞をとった「スラムドッグ$ミリオネア」という映画は、数日にわたる或るクイズ番組で一人の青年が勝ち抜き巨額の賞金を獲得する話である。
医者や弁護士が出場しても勝てないクイズなのに、スラム育ちで文字にふれる機会さえなかった青年が、そんな知識など得られるはずがない、かえってインチキをしているのではないかと疑われ、クイズ番組の終盤に暴力的な取り調べをうけたりもする。
その番組当時、青年はコールセンターでお茶くみ係をしており、あいかわらず社会の底辺をさまようシガナイ存在であることに変わりない。
まして、青年は天才でも特別な学習をしたのでもないが、ちょっとした偶然でそのクイズ番組に出場するハメになってしまったにすぎない。
ただ青年が番組に出場してみて不思議の思ったことは、クイズ番組の出題が自らが人生の途上において「刻印」を押されるような苦しみの体験から得られた知識ばかりなのだ。忘れられるハズもない。
それで、「たまたま」正解が続いていくというわけである。
そして映画では、青年が正解を答える度に、その正解をだすヒントとなった「苦い過去」をふりかえるという懐古形式で展開している。
ありえない話といえばありえない話なのだが、この映画の発想(思想)はとても素晴らしい、と思う。
我々の人生もナゾカケを解いているようなものだし、神様が動かすコマに、ひとつひとつ人間の側がどう応えるのかが試されているように思えるからだ。
そして、この映画が単なる荒唐無稽な物語として終わらない大きな理由は、インドの底辺に生きる子供達にむけられた「非人間的」な闇の深さが実にリアルに描かれている点である。
そうして、無垢な子供達がスラム生活の中から這い出し富(幸)を得ていくには、まるで悪魔に魂を売る他はないのかという気持ちにさせられる、そういう絶望的な世界が横たわっているのだ。
映画には、街にさすらう子供達に食糧を与えることにより、彼らをある秘密の場所に集める大人たちが登場する。
彼らは当初、子供達にとって「聖人」のような存在に思えるのだが、その実態は子供達に街頭で歌を歌わせて金をかせごうという悪徳商人にすぎない。
そして映画では、彼ら自身もこうしたスラム出身の子供達であることをニオワセている。
盲目の子が歌えば金が三倍稼げるというので、子供の目を焼いて盲目にしたりする。
この映画では描かれていなかったが、子供の内臓を摘出して売られたりするのも、こういう悪徳商人がはびこっているからに違いない。
幼い主人公は商人たちに「男になるか」と、同じ年令の子供達の目を焼くことの手伝いをすることを強要されそうになるが、友人と共にスキをみてその場所から逃げ出す。
そして数年を経て、青年になった彼らに再会の時がやってる。
主人公は一緒に逃げられなかった初恋の女の子が売春窟のダンサーとなっており、目を焼かれて盲目の歌手となったあの男の子と再会したりする。
その盲目の男の子はただ「君は幸運で、僕は不運だっただけのこと」という。
そんな諦観を少年が吐くのはあまりにも切ない。
インドにおいて、こういう諦観があり差別への怒りが顕在化しないのも、人々の意識下に「輪廻転生」世界観が横たわっているからだろうか。
ただ見るも辛いはずこの映画に「救い」を感じられるのは、「すべてをご存知の何者か」が存在しているという世界観もしくは宗教観があるからではなかろうか、と思う。
まるでクイズ番組が、ある目に見えぬ大きな存在によって仕組まれてたかのように出題がなされていき、青年が正解を出すたびに、貧しい人々や打ち捨てられた人々に希望を与えていく。
そして青年はけして人々の嫉妬や羨望の対象としてではなく、貧しい人々の夢の体現者としてヒーローとなり、最後には初恋の女性と結ばれる。

聖書を読むと、気がつきにくいがとても感動的なシーンがある。それが「コ-リング」のシ-ンである。
それは貧しいスラム、あるいは「心のスラム」に生きている人々に、神(イエス)自身が直接「名ざし」でよびかけるシーンである。
イエスという自分を知るはずのない相手から直接名前でよばれた、あるいは自分の人生の経歴をすっかり言い当てられた人達は、それ以降大きく人生を転換していく。
そのことをよーくを考えると、「名前を呼ばれた時」、それはとても厳かな一瞬であったように思えるのだ。
思いつく第一のシーンといえばルカ福音書19章にでてくるザアカイという人物に関するエピソードである。
ザアカイは取税人の頭であった。背はひくいが金持ちであった、とても愛されそうも無い酷薄な人間のイメ-ジが浮かぶ。
そして彼は、税金取りだからばかりでなく、その仕事が支配者たるローマの手先(イヌ)として働いているために、皆に忌み嫌われていたのだ。
或る日ザアカイは、今人々の話題になっているイエスという男が自分の村に通りかかるという噂をききつけ、一目みようと木にのぼって待っていたのだ。
騒ぎたつ好奇の群衆の中にあって、イエスが突然「ザアカイよ、急いでおりてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と声をかけたのだ。
これが、イエスが知るはずのない男を「名指し」で呼びかけた時の言葉である。
何で自分の名を知っているのか、しかも旧知の仲であるかのように俺の家に宿泊させてくれなどと、きっとサアカイはそう思ったに違いない。
街中でそんな風に声をかけられたことなど、世の荒波にすっかり心も凍ったザアカイに一度もなかったことにちがいない。
家にとまるなら、俺なんかより善良でまともそうな人間はこの多くの群集の中でたくさんいるし、金持ちもいる。
よりによって「なぜ俺に」という気持ちもあったのだろうが、とにかくザアカイはその「とてつもなく不思議なコーリング」に素直に応じている。
そして、それは間違いなく「喜び」の体験であったのだ。
それは、ザアカイがその呼びかけに対して「主よ、私は誓って自分の財産の半分を貧民に施します。
また、もしだれかから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します」という言葉に表れている。
ザアカイのその言葉にイエスは、「今日、救いがこの家に来た」と語っている。
実に不思議なシーンなのである。
もうひとつ思いうかぶのは、ヨハネの福音書4章に登場するイエスとサマリアの女との有名な出会いのシーンである。
あるサマリアに住む女が井戸の水を飲むために出ていると、水を飲ませてくれと頼む男がいた。
まず女は、自分のような身分の人間に、しかもユダヤ人が差別しているサマリア出の自分に声をかけることを訝ししがる。
その男はさらに奇妙なことを言う。「もしあなたが私が誰かを知るならば、あなたこそ私に水を求めるだろう」さらに「井戸の水を飲むものはまた乾くが、私が与える水は永遠に湧き出る水となる」などと。
男は女に「夫をよんできなさい」とブシツケけなことを言う。女が「夫はいない」というと、あなたにはそれ以前に5人の夫がいたことをいいあててしまった。
サマリアの女はその時この人物が普通の人間ではないということを確信したはずである。
そして自分のことを詳らかに言い当てた人のことを次のようにに喧伝するのである。
「わたしのしたことを何もかもいいあてた人がいます。さあ見に来てごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかもしれません」と。
イエスとペテロとの出会いも直接の「名指し」であった。
ガリラヤ湖畔でペテロとその兄弟が網を直していると、一人の男すなわちイエスがが直接名指しで「シモン・ペテロよ、あなた方を人間にとる漁師にしてあげよう。網と船をすてて私に従ってきなさい」と語りかける。
それに対して彼等は即座にそれに従ってたというから、見知らぬ男に声をかけられ自分の仕事を捨ててまでそう簡単についていけるのかと、不思議な気持ちにさせられるシ-ンである。
聖書はこういう出来事を真実らしく描写するためにもっと粉飾して書けばよいと思うのだが、聖書はいっさいそれをしないのである。
だからこそ、むしろ「真実なのかも」「本当にそうだったのだろう」と思わざるを得ない単純でストレ-トさがあるのである。

先ほど、イエスはザアカイを旧知の仲であるかのように名前で呼んだとかいたが、聖書の中には或る人々を「生まれる前から知っている」という不思議な言葉が何箇所かでてくる。
ダビデが詠った詩篇139には「私が母の胎内に造られた時、あなたはすべてご存知でした。あなたの目は、胎児として私が造られるのをご覧になり、まだ私の生涯の一日も始まらないうちに、そのすべては、あなたの書物に記されました」とある。
またパウロはガラテヤ人の手紙11章の中で、「母の胎内にあったときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」と書いている。
パウロのこの言葉は、旧約聖書に登場する預言者エレミヤの召命とも似ている。
「エレミヤ書」冒頭には、「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた」とある。
  おそらくはカルビンの「予定説」などもこういうところから生まれたのだろう。
「名指し」で呼びだされることの不思議、あらかじめ知られていることの不思議は、そのシーンと合わせて想像してみると荘厳な気持ちにさえなるのである。

「スラムドッグ$ミリオネア」の中で、主人公の青年が勝ち進むにつれて、この人はスラムの出身ではないか、電話局のお茶くみではないのか、という言葉が人々によって語られる。
スラムドッグとはスラムに住む犬という意味で、ゴミためをあさって生きてきたことが、そのまま真実なのである。
そういえば、イエスが人々の前で語りだすと、人々は「この人は大工の子ではないか」と蔑みと同時に、「この人は一体どこからこの知識を得たのか」、と驚き怪しんだ、ことを思い浮かべる。
しかし当時の群衆の大半はイエスを好奇の目ではみても、けしてイエスを神としては受け入れなかった。
イエスは、「だから今の時代の人々を何にくらべようか、彼らは何に似ているのか」(ルカ書7章)とあるように次のような譬えを語っている。
「それは子供達が広場にすわって、互いによびかけ”わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。
弔いの歌を歌ったのに、泣いてはくれなかった”と言うのに似ている。
なぜなら、バプテスマのヨハネが来て、パンを食べる事も、ブドウ酒を飲むことをしないと、あなた方は、あれは悪霊につかれているのだといい、また人の子がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う」。
イエスは当時そのように見られていたのだ。
しかしイエスは、その直後に「知恵の正しいことは、そのすべての子が証明する」と語っている。

今現代で進行していることは、多くの人々に忍び込んでくる「知られざる」の病のようにも思える。
この病は、名はちゃんとあり、なんとか生きてはいるものの、誰も自分を特別な存在、唯一無二な存在として見てはくれないという寂しさといえるかもしれない。
「もの喰う人々」を書いたジャーナリストの辺見庸氏は、そういう現代社会の飢餓は「物食うことへの飢餓」ではなく、「認知されないことへの飢餓」であるということを指摘している。
人間は社会や職場である一定の役割を果たし必要とされているのであれば、「被認知飢餓地獄」からはかなり免れるだろうが、何らかの失敗しをしてしまい、自分はいくらでもスペアがきく存在なのかもしれないなどとと思い始めれば、やはり「知られざる」の病に陥ってしまう脆い存在なのかもしれない。
しかし、こういう「知られざる」の病は、ある大きな存在によって「実は知られていた」という深い体験によってたちどころに癒されるものである。
掃きダメに捨てられる、あるいは死体となってガンジズに流されるだけの生でも、「目に見えないある大きな存在」がすべてを知っていてくれることを知る。
「スラムドッグ$ミリオネア」の名も無き貧しい青年の場合、辛く苦しい経験が実は「クイズ番組」の正解に繋がる経験であったことを知るに及んで、はじめてこの「認識」を得ることができたのだ。
そして人には、「ある大きな存在」により「仕組まれた」人生の意味が、或る時点でようやく「解ける」ことだってあることだし、それが人生という「クイズ番組」にコ-リングされることの本当の意味なのかもしれない。