虎の尾を踏む男達

遠藤周作がかつて、すべての人間は心の内がわに「踏絵」を抱えていて、この世に生きるという事は、誰しもが その踏絵の一端に足をかけたり、それを踏みにじったりしているものだと書いている。
つまり、人間は意に反することや、どこか良心に反するようなことをしながら生きていかなければならない存在であるということだ。
特に組織の中にいると、人は組織を守るために小悪をなすことも、大悪を見逃すことも、立場を悪くすることを避けるなどしょっちゅうしている。
こういうことが遠藤氏のいう「踏絵」を踏むということなのだろう。
遠藤周作の小説の主人公となったのは、そういう「踏絵」に足をかけてしまうような「弱い人間」、というかごく一般的な人間であった。
しかし世の中にはごく稀に、「踏絵」をふむどころか「虎の尾」を踏むような「厄介な」男達もいるのである。

小林多喜二はプロレタリア文学の旗手で、今再ブ-ム到来の「蟹工船」の作者である。
文学の中で当時の労働者が陥っていた現状を描き、資本主義体制の底辺から問題を抉り、その闇の部分を社会に問いかけた人であった。
伊藤整の「ある芸術家の肖像」という本をよむと、小林多喜二が小樽高専当時でさえも、いかに「輝ける」存在であったかがわかる。
伊藤が一年先輩の小林多喜二へのかなり強いライバル意識をもっており、その意識の向け具合が頻繁に描かれていて、この自伝小説の面白さの一因となっている。
「その図書館で私はまた、ほとんど常に、広い閲覧室のどこかに、あの蒼白い、自身ありげな顔をした小林がいるのを発見した。また、来ている、とそのたびに私は彼の存在を意識し、うるさいように感じた。ともかく、あいつはまだオレのことを知らない。だがオレは一年生なんだから、何も気にすることはない、と私は考え直した」。
実は、伊藤整の「ある芸術家の肖像」は「小林多喜二に捧ぐ」といった副題でもつけたらよろしいかと思われる本なのだ。
この文では少々小生意気な印象のある小林多喜二であるが、実はとても優しい人であったようだ。
小林多喜二は、秋田の農村出身の文学青年だが、後に北海道に渡って苦労しながら小樽高商を卒業、 銀行に勤める傍ら、懸命に小説を書いた。
その当時、日本では軍国主義が高まり、文壇は芸術派とプロレタリア派とで激しい論争を繰りかえしていた。
芸術派の若手が次々にプロレタリア文学に移り、しかしできたばかりの治安維持法で逮捕されると、たいがいは獄中で転向、 出獄後は手のヒラをかえしたように大衆文学で活躍するものが多かった。
か細いインテリの細い神経では激しい拷問に耐えきれず、その記憶から一日も早く解放されようとしたに違いない。
その点、農村出身者や労働者出身者の生まれながらのプロレタリア作家は強かった。
多喜二の家は没落農家ではあったが、知り合いをたよって小さなパン工場を経営しており、そういう面でのズブトサと人間的優しさを併せ持った人だったといってよい。
その優しさの部分は母親ゆずりだったのかもしれない。
多喜二が小学生の頃に、小樽築港の防波堤工事が行われ、いわゆるタコ部屋にはたくさんの労働者が入ってきた。
中には激しい労働と、あまりの虐待に耐えかねて、パン工場をしていた小林家に逃れてくる者もあった。
母は一夜の宿と食事を提供し無事に落ちのびさせてあげたという。
多喜二は、小樽時代に酌婦タキと結ばれ、前借金を払ってやって自家に迎えるが、多喜二の母もこの貧しい娘を赤飯をたいて 迎えたという。
だいだいどこの親も自分の息子の嫁には厳しいが、まして我が息子が、身売りしてるどこぞの女に入れ込んでいるとか聞けば嘆いてしまうのが普通である。
しかし多喜二の母は、貧乏で身売りするしかなかった嫁を息子と一緒に助けてあげたいと思う様な女性であった。
しかし、そんな母子の優しさはかえってタキを苦しめたようで、タキは自らの前身を恥じて失踪してしまう。
このことに、深い哀しみを抱いた小林は、上京して当時のプロレタリア論壇の雄、蔵原惟人の門をたたく。
そして、非常な感化をうけて 小樽へかえると、立て続けにプロレタリア文学史上の傑作を書いていき、その代表作が「蟹工船」である。
だが、多喜二の文名がにわかにたかまるにつれ官憲のマ-クをうけ、ついに治安維持法で逮捕され豊多摩刑務所にいれられる。
「蟹工船」とはどんな船かというと、法的には船ではないので航海法も適用されず、また工場でもないので工場法も適用されない、とても特殊な工場船なのだ。
しかも海に出てしまえば乗員は逃げ出しこともできなければ、誰かの外部からの監察がはいることもない、タコ部屋または密封されたブタ小屋のような場所に労働者を押し込めた船なのだという。
要するに資本家にとって、これぐらい都合のいい、勝手にできるところはなかったといっていい。
多喜二は「蟹工船」で次のように書いている。
「利口な重役はこの仕事を”日本帝国”のため”と結びつけてしまった。嘘のような金がごっそり重役のの懐に入ってくる。彼はそれをモット確実なものにするために代議士に出馬することを、自動車をドライブしながら考えている」と。
そして豊多摩刑務所出所後、あこがれの志賀直哉の薫陶等をうけ充実した時期をむかえるが、満州事変とともに共産党員として地下にもぐり、「党生活者」を発表し、それが共産党撲滅をねらう警察当局の怒りを買い、ついに捕えられて築地警察の一室に閉じ込められ、表向き心臓麻痺を理由に死亡した。
家族に引き取られた遺体の変容が本人か判別できぬほど激しいものであったために、多喜二がどんなに激しい拷問をうけたことをうかがわせるものがあった。
老母セキと妻のタキは、その遺体に取りすがって号泣したという。
多喜二の仲間内で、この遺体の状況を詳細な記録に残そうと「死体のスケッチ」がなされ、死の惨状を残そうと遺体の表情を型どった「デス・マスク」が作られたのは、一般的な遺体の扱いと比べると非常に特異なものであった。
母は言った。「私は小説をかくことが、あんなにおっかないことだとはおもってもみなかった。あの多喜二が小説書いて殺されるなんて」「わたしはねえ、なんぼしてもわからんことがあった。多喜二がどれほどの極悪人だからと言って、捕らえていきなり竹刀で殴ったり、千枚通しでももだば(ふとももを)めったやたらに刺し通して、殺していいもんだべか。警察は裁判にもかけないでいきなり殺してもいいもんだべか。これがどうにもわかんない」
実は多喜二の母は無筆の人であったが、稚拙ともいえる筆使いでの回想文がかえって読む人の胸をうつ。
「あーまたこの二月の月かきた ほんとうにこの二月とゆ月か いやな月こいをいパいに なきたいどこいいてもなかれ ないあーてもラチオて しこしたしかる あーなみたかてる めかねかくもる」
昔、東京オリンピックで銅メダルをとったマラソンの円谷選手が書いた遺書を読んだことがあるが、その文調に胸をつかれたことを思いだした。
言論人とは自分の身を安全な処において、大衆にウケそうなカンどころを押さえている人が多いが、小林はそういう言論人とは正反対な存在であったことをその死体の惨状が物語っている。
と同時に、小林多喜二の遺体は、それ以後の「もの言えぬ」時代の到来を象徴していたといえる。

最近の日本航空の破産に、あの誇らしげな会社が一体何があったのかと思わざるをえないが、あまりにもタイミングよく(または悪く)、会社をモデルにした山崎豊子の「沈まぬ太陽」が映画化された。
山崎豊子は、「不毛地帯」では、日本軍参謀でありながらシベリア流刑生活後に、大阪に本拠をもつ中堅繊維商社にはいり、航空機商戦でライバル商社と激しい戦いをして一躍一流商社の押し上げた男・瀬島龍三をモデルに描いた。
山崎女史はそういう巨大組織と正常な人間性との間に揺れ動く「修羅」または、遠藤周作いうところの「踏み絵」を体験した人物を好んで描いていたような気がする。
「沈まぬ太陽」のモデルとなった人物すなわち渡辺謙が演じるところの恩地元は、元日本航空労働組合委員長・小倉寛太郎がモデルである。
ちなみに小倉氏は2002年に亡くなっているので映画をみることはなかった。
山崎は小倉を千数百時間も取材したというから、作家である山崎の方もすごい執念でこの小説を書いている。
そして「国民航空」において、ものも言わず馴れ合いの雰囲気をつくったのは、労働組合の組合長を露骨に職場配置かえして、労使関係の「正常化」の美名のもとに御用組合をつくったりしたところに一つの原因があった、ということかもしれない。
ただ、主人公・恩地の内面の葛藤も描かれていた。
恩地が己の言う「正義」というもので、家族を犠牲にして苦しめていることを懊悩するシ-ンは印象深いものがあった。
モデルとなった小倉は東大法学部出の峻才だが、第一回の駒場祭を主催するなどをした行動派の学生だった。
日航入社後は、先鋭的な団交にのぞみ大幅な待遇改善を勝ち取るのだが、カラチ、テヘラン、ナイロビと10年におよぶ「懲罰人事」をくらったり、その間に第二組合が出来るなどといったところは、フィクションとはいいながらも、事実と重なるところが多い。
ただ小倉は、小説で描かれたような御巣鷹事故の「遺族係」をしたことはない。
小倉は、小説は事実ではないという会社に対して、「この小説で白日の下にさらけ出された、組合の分裂工作、不当配転、昇格差別、いじめなどは、私および私の仲間達が実際に体験させられた事実」と語っている。
この小倉氏は、ナイロビ左遷の過程で思わぬ出会いをしている。
動物や自然との出会いで、動物写真やエッセーの人物としてよく知られている。
映画の中で、自分で獲物をとることを忘れた動物園の虎は精気を失っていると喩え、親方日の丸の「国民航空」をヤジっている。
こういう根性のある人間はどこに落とされても、ただでは起きない、つまり何かを拾ってくる「虎」を心の内に飼っているようだ。

ところで黒沢明の「虎の尾を踏む男達」という映画がある。この映画の題材はあの有名な源義経の「勧進帳」である。
注をつけておくと「勧進」とは寄付のことで、この場合は南都東大寺への寄付のことである。
簡単にスト-リ-をいうと、将軍頼朝の命令で、逃亡中の義経主従を捕らえるためにつくられた関所のひとつ、富樫私が守る安宅(あたか)の関に、義経主従が山伏に身をやつして通りかかる。
山伏なら勧進帳があるはずだと言われて、弁慶(大河内伝次郎)は白紙の巻物を出してまるでほんものの勧進帳のように読み上げる。
それでもなお、強力(ごうりき=荷物運搬人)に変装した義経が疑われると、弁慶は義経を叩きのめす。
富樫は彼らを義経主従と見ぬきながら、弁慶の忠誠と機知と胆力に感動して腹芸で関所を通してやる。
タイトルは、義経一行がまるで “虎の尾を踏む” ような思いで関を越えていった、という意味らしいが、実際に、頼朝の執拗で厳重な警戒を抜けていくのは、当時は恐怖と緊迫の連続だったことは間違いないだろう。
ただGHQが「主君への忠誠という封建的思想」を扱っているとの理由で上映禁止の処分を下したため、本作の初上映はサンフランシスコ講和条約締結後1952年まで遅れる事となったというイワクつきの映画である。

最近"工場萌え"という言葉があるらしい。
そして、工場プラント群が鑑賞スポットとなっており、北九州ではバスツアーまで計画されているという。
工場プラントに、主としてセメント系、製鉄系、製油系のがあり、それぞれのプラントの形状と雰囲気があり、人々を魅了するのだそうだ。
特に製油系のプラントは複雑に入り組んだパイプラインにより絶妙な形を生み、これを一日二十四時間の風景や四季折々の風景を背景に写真を撮影するのが、”工場萌え”と言われる行為なのだそうだ。
工場プラント群がススけたり、油がついていたり、汚れたりしているのも、重厚さや迫力といった魅力の一つになっているらしい。
しかし、あの奇怪な風景を写真でみると、「機能美」などどいう単純な言葉ではあらわせない、まして”工場萌え”などという安直な言葉では表せない何か「恐ろしげ」なものの素顔が浮かんでいるように見えたりする。
それは、資本主義どうのこうというのではなく、「組織そのもの」の恐ろしさである。