「希望学」先駆者

昨年2009年財政難の折、増税なしを約した以上は予算削減に取り組む必要があり、それが公開仕分けという形で現れたのはこの年を代表する絵になった。
「仕分け」の公開に性急すぎる、そこまでやらなくてもという声はあまり大きくはならなかった。
それほどに予算も借金も肥大化している現状への危機の方がつのっていた。政権のビジョンも不鮮明というウラミもあり、目標とされた削減額までは実現できなかったにせよ、画期的な試みはそれなりの評価をえたと思う。
雇用もママならぬ中での予算縮小を余儀なくされる昨今「人は一体何が出来るのか」を思う時、2009年は市場経済にハジカレつつ予算の恩恵からも遠ざけられつつある人々への湯浅誠氏らの「派遣村」の実践など、新しい社会連帯の芽吹きみたいなものを感じることとなった。
そして市場経済の刃(やいば)で傷つく人々に救いの手をのばす「派遣村」の姿に、幕末の農村復興に力をつくした二宮金次郎を思い浮かべた。
二宮金次郎という相当「苔むした」名前が唐突に浮かんだのは、彼の農村復興の手法が今日の「仕分け」を連想させるものがあったからかもしれない。
また、NHKで紹介された「希望学」という新しい学問の誕生を知った時にも、この人物の名前を思い浮かべたことがあった。
もちろん戦前の教育をうけたわけでもなく、二宮金次郎に何か思い入れがあったわけではない。
以前、小田原アリーナにバトミントンの全国大会をみにいった折に彼の生家がアリ-ナのすぐ近くにあったことと、次の年に再度試合を見に行った際大雨がふりアリーナに隣接する酒匂川があふれ釣り人がヘリコプターで救出されるという朝刊一面トップの大救出劇が演じられたこととが二宮金次郎と結びついた。
実は二宮金次郎家はこの酒匂川の氾濫を契機として一家離散の状態に陥り、そこからの復活の努力がその後多くの農村復興をもたらす貴重な体験となったのだ。
二宮金次郎は戦前の「忠臣愛国」のシンボル的存在として霧の向こうに霞んだ感さえあるのだが、以上のような機縁を通じて、二宮金次郎が急に身近な存在になってしまったという次第である。
二宮金次郎は革命家でもなく反体制派でもなく草莽からでた地味な改革者なのだが、今の社会を変革しうる人物とはこういう人なのかもと思い、もう少し彼の人物像に光があてられ再評価されてよい気がする。
二宮尊徳は「仕法」という言葉と結びつけて知られた人物である。具体的には「報徳仕法」だが、仕法は大雑把にいうと「プロジェクト」で、仕法の実体はまさに「仕分」という言葉に重なる部分も多い。
「仕法」に必ずでてくる言葉が「分度」で、天から与えられた能力を知りそれに応じた生活の限度を定めるという意味であり、分度を知ることとは、自己の生活様式の自覚的な「仕分」から始まるのではないか。
何しろ今日の世界は分度を超えた消費生活をあおる「サブプライム・ローン」の重みに耐えかねて沈没しかけているのであるからして。

江戸時代末期多くの農村が疲弊し荒廃していた。飢饉が続いたということもあるが、働いても年貢で搾りとられるばかで明日も見出せない人々は飲酒や賭博にあけくれ、昼間から三味線をひき精神的な荒廃も目に余るものがあり、対外的な危機もせまる一方で、幕府や藩も改革の成果がみられず閉塞感があふれていた。
この中で二宮金次郎の説く「仕法」がどうして力を持ちえたのか。
二宮金次郎は背に薪、手には書物のあの銅像のイメージだけではなく実践・現場のなかから知恵をしぼりだした行動の人であった。実は金次郎が最も嫌っていたのが学者と坊主であったという。
彼が考えだした貧困脱出法とは、金貸しから金を借りて困っている百姓達に低利で金を貸すがその貸し方はふるっていて、選挙みたいに誰が一番困っていて真面目に働いているかを投票させ金を貸す。ここに農民が頑張るインセンテイブおきる。
さらに票をいれた人はいわば保証人として、本人からとられない場合はその保証人からとるという判を押させる。
一応無利息で貸すので二宮のほうで金はとれなくなる。どうするか。
元恕金といって3回月賦で貸すと、おかげで助かりましたと4回分も返すことにする。
結局、相当高い利息になるが強制感はなく、いままで高利貸しから苦しめられたことから解放された気持ちからすればそれも苦痛にならず、二宮はその元恕金を資金にまわして回転させていく。
また、本来農地ではないところに種をまいて或る種「避税」のようなこともしている。子供のころから、自分達の畑や田んぼに植えると税金をとられるのに、川のそばの荒地ならば、税金をとられないことを発見していた。
こうみると、二宮像は学校の校門の前に像を建てるよりも、金融機関の屋上に銅像をたてた方がふさわしいのかもしれない。

ところで、いかにがんばっても税金(年貢)をとられてヤケになっている農民の心の内側を変えることは荒地を耕すよりも困難だったにちがいない。
小田原藩におよばず全国で日本の近未来を思わせる事態が進行しつつあったのだが、小田原藩家老の負債整理に力を発揮した二宮金次郎に注目し彼の力を借りて関東一円の農村復興にあたろうとして、栃木県の小田原藩支領・桜町領の再興に手腕を発揮したのである。
以後、彼は二宮金次郎から二宮尊徳となった。
二宮は支配階級に対してあからさまな反逆をするわけではないが、仕法の実施にあたって支配者側に厳しい分度を求めている。
改革着手で一番苦労した点はそのへんだが、支配階級の念頭にあるのだは領民からどれだけ搾り取られるかとうことであり、生産意欲を向上させる方策はほとんどとられていないというのが実情なのである。
困った困ったで借金を重ねて自らの消費生活を切り詰めようとはしない、ということである。
幕府や藩の命令(依頼)に対して、尊徳の受け方が面白い。出来ること出来ないことをはっきりと「仕分ける」、そして藩主が自ら「一汁一菜」を守らないらば、あるいは年貢のある水準までの減免をみとめないならば農村復興にあたることはできないと現実的な「取引」をしていることである。
そして実際に「年貢減免」を勝ち取るのだが、果たしてこの当時の農民がどれほど一揆をしたところで、年貢半減を勝ち取ることができたであろうか。
二宮は180センチもある大男で杖で土を検分し、家を穴からのぞいてその生活をまで戒める二宮に対して、その厳しさを煙たがり反発する人も多かったが、二宮は突如姿を消し機をみて成田山新勝寺にこもり断食をしているという噂を流して、少しずつ村民の心を掴んでいったのである。
二宮の残した書類はすべてが国会図書館に保存されておりその数は一万卷にもおよぶ。
そのほとんどが、多くの数字と計算が記されていることも注目に価する。
つまり、現状が将来何をもたらすかを明らかにし、具体的な数字でいま現状で出来うることを明確にし、それが達成できた暁に見えるビジョンを提示したということだろう。

世人の能力とは不思議なもので頭脳明晰でありながら方向感覚の無い人、整理整頓が出来ない人もいる。
基本的に節約とか勤勉とかあまり熱心に説く人とはあまり仲良くなりたくないが、こういうことをとても合理的に賢くできる人はいるもので、シミッタレと思わせない節減のセンスをお持ちなのだ。
一方、人生の様々な工夫が確実に人を幸福にするとは言い難く、たえず工夫しつつ不幸を招き寄せる人もたくさんいる。
美容学校の複数の生徒の実験台になって散髪代をうかしそのあまりに前衛的な頭髪で誰も近づかない人、結婚式の費用節減を自慢してフィアンセから去られる人、カップ麺を本格料理にみせるアイデアを吹聴するセコハラ青年、こういう人々はかえって不幸を招き寄せる「工夫野郎」なのだ。
正しい仕分上手・工夫上手とは、今日にあっては希望なきカオスに曙光を導き入れる達人、道なきところに道をつくる人とでもいうべきか。つまり方向感覚をも兼ね備えた人物なのである。
国家の予算作成において国民が蚊帳の外におかれ有力政治家と結びついた官僚采配から、「公開」された政治家主導の予算編成ならばなおさらのこと方向感覚、つまりは政権のビジョンが問われることになる。
さもなくば名前を美しく置き換えたただけの新たな「負担増」を強いたりして、小手先の「工夫野郎」政権に堕してしまう。

農村の荒廃に打ちしおれている者たちと、資本主義の市場経済の力学ではじき出されたもの達を同列に論じることはできないかもしれないが、近現代の財界人の中にも二宮尊徳に影響をうけたという感じのする人物は結構いる。
思いつくところでいえば日本財界の立役者の渋沢栄一や経団連会長の土光敏夫である。
中曽根内閣で第二臨時調査会の土光会長は、改革にあたり政治家や官僚の抵抗に怒り心頭で「出来ない」と仕事を投げ出すパ-フォ-マンスを示したしたことがあった。成田山新勝寺にこもった二宮を彷彿とさせる。
今日二宮流を「忠臣愛国」とは別の次元で再評価するならば現実を踏まえての「希望のもたせ方」みたいなことを教えてくれる先達ということにはならないだろうか。
彼の仕法はけして富裕の世界をめざすのではなく、質素と連帯と工夫のなかにこそ人間の尊厳があらわれる、とでも言いたげである。
貧困と無力に慣らされ二宮流に従うことに反発した農民も、その教えの緊迫感の中にいつしか坂の上にヒラリとした希望の雲を見出したのではなかろうか。
現代に二宮尊徳を蘇らせるとするならば、「希望学」の先駆者としてはどうでしょうか。

二宮尊徳的視点で今日をみて、現代市場社会と幕末農村の社会からの復興とは隔たりがあるものの、少なくともヴェブレンいうところの「顕示的消費」で彩られている生活様式は改めることを唱えるだろう。
ひょっとしたら追い立てられるように消費してきた富裕よりもむしろ貧困の方が「人間の尊厳」を高めうる地盤なのかもしれない、とも思う。
働く意思を充分にもちながらも仕事を追われ家族を養えないような絶対的貧困に対して「人間の尊厳」とは無理なものいいであるが、そこから立ち上がってくるボランティアなどの連帯の気配や社会生活の工夫の芽生えを予感させることも起きつつある。
市場と対抗する農村とは異なるタイプの「非市場社会」または「準市場社会」が形成されつつある感じもするのである。
例えばもともと一流シェフを目指していた青年が季節労働者の街で、NPOが集めた(=非市場的)コンビニ賞味期限切れ廃棄直前の食材を使ってできるかぎりの「高級」料理をつくり超低価格(=準市場的)で提供し、自らもそこに大きな生きがいを感じている。

ところで二宮は自身の墓について、「余を葬るに分をこゆることなかれ。墓石を建てることなかれ。ただ土を盛り上げて、そのかたわらに松か杉を一本うえおけばよろし」と遺している。
だとすれば戦前富山県高岡市で全国にむけてつくられた自らの銅像を、二宮自身は草葉の陰から「分不相応」または「無駄削減」と苦々しく見ていたかもしれない。