成功と訴訟洪水

アメリカ社会は、ずっと以前から「訴訟社会」といわれている。
そして訴訟の洪水は、「保険過多」を生み出し、保険会社の保険拒否という新たな事態をひきおこしてる。
つまり、アメリカは保険がかけられなくなる危険な国になりつつある。
アメリカは、異なる文化圏や異なる地域から互いにウジもスジョーも分かぬ人々が集まってきて出来上がった「人工国家」である。
したがって、自分の理屈が相手に通じるか、ましてハラをわって話せるかなど、本来期待することの出来ない人々の群れから出発した国である。
過去をリセットして新たに踏み出した人々にとっての「暗黙の了解」といえば、せいぜい「すべての人に同じようにチャンスがある」という「機会均等」というもので、これがアメリカ的「公正」(フェアネス)の基準となった。
それは、絶対に「チャンスの平等」であり「結果の平等」有体に言えば「取り分の平等」を約束するものではなく、そういう「結果の平等」はむしろフェアネスに反すると考えられてきた。
しかし、個人的に思うことは、「訴訟の洪水」という現象はアメリカ社会が「チャンスの平等」から次第に「取り分の均等」という方向にシフトした表れではないかと思う。

面白いのは、近代民主主義の生みの親・イギリスのジョン・ロックは、人の自然権として「生命・自由・財産」の保証をかかげたが、アメリカの独立宣言では、これが「生命・自由・幸福追求」に読み替えられて宣言された点である。
アメリカにきた人々は、なんらかの意味で「幸福追求」を妨げられたが故に移民したのであり、移民の為に既得財産(人間関係なども含め)をある部分放棄して来た人々なのである。
新大陸には残してきた財産以上の夢があったハズであり、幸福追求権はその夢を誰からも妨げられることなく追及できるという権利である。
この「幸福追求権」は財産権よりも広い観念であり、これがアメリカンドリームというアメリカ人の国民性の本源と繋がっているように思う。
しかしアメリカン・ドリームがある一方で、激しい競争に身を投じることが想定され、その只中で自分の身を守るにせよ戦うにせよ、客観的な「法」を盾として行く外にはなかったのである。
そしてアメリカは、フェアな成功者を讃えるについてのイサギの良さという点で、我が日本と違うスガシサを感じるところではあった。
ところが、最近では「アメリカン・ドリーム」の実現も、訴訟の洪水に押し流される気配を見せ、そうしたスガシサにも「陰り」が見えるようになってきている。
今アメリカで「成功」とは、「訴訟対応保険」と表裏一体化しているといっても過言ではない。
どんな立場の人も、いつ訴えられるか判らないので、その対抗手段として「保険」に加入することになり、その保険料たるや過大なものになっているということである。
訴訟は、「デイープ・ポケット」すなわち資力のあるものほどターゲットとなりやすい。
例えば、日本における「取締役」の地位は、サラリーマンの憧れの的であるが、訴訟社会アメリカでは、華やかなサクセス・ストーリーの反面、裁判による厳しい責任追及の標的であり、会社の「重役」は必ずしも憧れの対象というわけではなくなっている。
世界のビジネスマンにとって憧れの人物といえば、ビル・ゲイツ以前ならば、リー・アイアコッカを思い浮かべる。
アイアコッカは、GMの重役をやめてクライスラーを再生させたアメリカン・ドリームの体現者である。
後に大統領の候補までになったアイアコッカは、法曹協会の年次総会の席上、居並ぶ弁護士を前に「アメリカ国民の訴訟好きな性格が、産業界への危険負担への意欲を減少させ、国家の競争力に対して脅威になっている」と直言した。
そして「もし私達が他の国で当然に承認されている危険のいくつかを認めようとしないのであれば、たとえアメリカ憲法が300年にわたって存続しようとも、そのことを祝福するに値すると思わない」とまで言いきった。
アメリカでは業績が悪ければ、投資家や株主から責任を追及される場面が非常に多い。
こうした訴訟攻勢に対抗する手段として、「企業者向けの賠償責任保険」が発達してきた。
特に企業買収が絡んでくると、特に経営者の判断責任は非常に大きいといわざるをえない。
それが元で、株主が巨額の損害を蒙ったとなれば、まず経営者の責任追及訴訟が起こされるのは避けられないからである。
そこでこうした「経営者受難」を表す言葉として、「ゴールデン・パラシュート」という言葉がある。
日本語にすると「黄金の落下傘」だが、M&Aにおいて企業を売り渡す際に、経営者が多額の報酬を受け取って退任することをいう。
会社はなくなっても、自分だけは身の安全を保障されるので、「黄金の落下傘」というわけだ。
「ゴールデン・パラシュート」という言葉は、成功者を無条件に讃える「アメリカン・ドリーム」の変色を物語っているように思う 。

アメリカ社会における訴訟の洪水は、人の成功を羨み足を引っ張り合う日本人のムラ社会的態度とは異なるものだと思う。
なぜならアメリカンドリームの体現者の存在は、誰の前にも開かれた可能性をも証明してきたからだ。
ただアメリカ人の幸福追求の主要な手段が「訴訟」という権利に向かい、それが「金儲け」の手段と化しているところに、「チャンスの平等」から「取り分の均等」へシフトしつつある「病理」の大きさを感じざるをえない。
アメリカの「訴訟訴訟社会」の異常さを表す例はいくつもある。
何しろ、そうした信じがたい訴訟と判決例に賞を与える「ステラ賞」という賞まであるくらいである。
ひとりの老婦人がある雨の日、外に出てずぶ濡れになってしまった愛猫を、電子レンジで乾かすことを思いつき、実行に移した。そして、当然の結果として、彼女が再び電子レンジのフタを開けたとき、気の毒な「コゲ猫」へと変身していた。ミもフタもないとはこのことだ。
このことにショックを受けた老婦人は、電子レンジのメーカーを相手に訴訟を起こす。
「猫が死んでしまったのは、電子レンジの取扱説明書に”動物を入れないでください”という注意書きがなかったせいだ というわけである。
そして、驚くべきことに、裁判所はこの常識では考えられない訴えを認め、電子レンジのメーカーに、多額の賠償金の支払いを命じたのである。
またアメリカ人の中には、道で転んでもタダでは起きないという人が増えている。
転倒し負傷したのが、道路のデコボコに足をとられたためとすれば、その道路を管理している行政当局を相手に訴訟を考える。
行政当局が安全通行の保全という義務をおこたったため、というわけである。
ニューヨーク市は、気の毒なことにこの手の訴訟を常時、一万四千件ほども抱えているという。
マクドナルドは、コーヒーをこぼしてヤケドした老婦人が、コーヒーが熱すぎたからだと訴えられ、勝訴して多額の賠償金を得たり、ハンバーガーを食べ過ぎて肥満になったとして訴えられたりもした。
その他、客がデパートで滑ったのは清掃員が床を磨きすぎたとか、天窓から落ちた強盗が家主の管理の悪さが原因だと訴えたり、赤点をとって落第したのは先生の指導不足とか、タバコで肺がんになったのも説明書の警告不足などなどの「訴訟の洪水」が押し寄せている。
特にPL法施行後は、メーカーは製品の瑕疵だけではなく、取扱説明書の警告文に対しても細心の注意をはらっているという。
PL法の下で、メーカーは高額の損害賠償におびえ、とりわけ新製品を売り出すことに消極的になっているといわれている。
これらのアメリカ産製品の製造コストをあげ、メーカーの国際競争力低下の一因となっているということである。
たのみの保険会社は、保険料を引きあげる、裁判で多額の支払いが続いたためにネをあげ、保険の引き受け自体を拒否するなどの「保険危機」を生んでいるという。

アメリカは訴訟社会であり、訴訟を解決するために多くの弁護士を必要とする。現在アメリカには70万人程度の弁護士がいて、日本の1万数千人と比較してみると、相当な数の弁護士がいることになる。
こうも弁護士の数が多くなると、仕事にアブレる弁護士がでてくる。そこで、仕事を探すためには「待つ」のではなく、何らかの事故やトラブルを自ら探さなければならないことになる。
アメリカの訴訟社会は、とても面白い「造語」と作り出しているが、その中の一つに「アンビュランス・チエイサー」という言葉がある。
すなわち「救急車の追跡者」である。救急車を追求して何になるかといえば、救急車が向かった先には、事故またはトラブルが起きており、アブレた弁護士も仕事にありつけるということを皮肉った言葉である。
先述の企業買収を巡っては、経営者の経営責任が問われることになりかねない為に会社に「ポイズン・ピル」を仕組むといった自衛手段がとられる。
企業が買収されにくいように、もしも買収された場合にポイゾン(毒)がまわるような仕掛けが組み込まれているのである。
買収されかかった時には、既存の株主に割安に優先株を購入する権利を与えるとか、毎年の株主総会で取締役の メンバーのうち3分の1しか改選できないような「定款」を定めておくなどする。
そうすると買収者が取締会を支配しようとしても一回だけの改選でできなくするわけである。
まるで動物が捕食者から身を守るような仕組みだが、日本ではなじみ薄い「オトリ捜査」についてもアメリカでは、一定の手続きの下に積極的になされている。
オトリ捜査というものは、名前からしても「狩猟民族」の感覚を受け継いでいるように思えるが、我々の記憶に新しいのは、日立製作所と三菱電機の社員が、FBIのオトリ捜査にひっかかって産業スパイとして逮捕された事件である。
つまりIBMのコンピュータに関する情報を得ようと、IBM社員になりすました「オトリ捜査官」に接近し、日本の技師が重要部品を受け取るために空港にあらわれたところを、張り込んでいたFBI捜査官に逮捕された事件があった。
アメリカを代表するような超優良企業であるIBMが、FBIと協力しながら日本企業をワナに陥れるなどソコマデやるかという感じになるが、日立については1983年、それまで無罪を主張し続けたが一転して有罪を認めて、「司法取引」を成立させて決着をみた。
この司法取引と和解の内容は省略するが、両者が比較的にすんなりと和解した背景には、IBMが積極的に日立と手を結ぶことによって、日本市場におけるIBMの最大のライバル富士通を追い落とす「戦略的意図」があったともいわれている。
うがった見方をすれば、それが最終的なネライだったということか。
ところで企業社会のなかで「倒産」という言葉は非常に重い言葉と受け取られがちであるが、アメリカ社会では必ずしもそうではない。
アメリカでは、一般人の意識の上でも、倒産は経済社会のヒズミの結果不可避的に発生する事象であって、倒産者もいわばその「被害者」であると見なすわけである。
アメリカでは、経済的に生きづまるとそれほど抵抗感なく「破産」を申し立て、「破産宣告」を受けて「第二の人生」をやりなおすことぐらいドライに考えている。
何か戦争中における日米の捕虜意識の相違と似たようなものを感じ取るが、捕虜は兵士が敵陣深く侵入したり、敵に接近して勇敢に戦えば戦うほど不可避的に生じるものであり、アメリカでは生きて帰還すればまるで凱旋するように歓呼で迎えられるのに対して、日本では敵に捕まえられるなど致命的なミスと考えられ、そんなミスを犯して生き恥をさらすな、ぐらいにしか受けとめられない。
企業社会における「破産宣告」すなわち「倒産」は、単に債務を逃れるというだけではなく、和解交渉や裁判闘争を有利にするための「戦略」ともなりうるのである。
破産宣告をすれば、法的なアミがかかった状態になるので、誰も勝手にイジレナクなりかえって身の保全が保てるという部分がある。
すなわち倒産も「財テク」ではなく「法テク」の一環というわけである。

ヨーロッパの「大陸法」の世界では、まず大原理や大原則があってそれに基づいて法が制定される。
しかしイギリスのような「判例法」(コモン・ロー)の世界では、日常の生活の中で生まれた問題を裁判所が解決しそれらが積み重なって「原則」が作られていくいくものである。
つまりイギリス経験主義の流れにあるのだが、法といえど「所与」のものではなく、自分達で創り上げ修正していくものであるという意識が強い社会である。
そしてアメリカも、そうした「判例法」の観念を多く受け継いでいる。
ただイギリスと違ってアメリカで独自に発達したものに「陪審制」というものがある。
建国当初のプロの法律家不足というオイエの事情もあったが、それよりもイギリスの王国裁判の下にあった独立以前のアメリカ社会にあって、「陪臣制」は王国の法権に対抗してアメリカ市民が参加することに意義があったのである。
そこで、法の「冷徹さ」に馴れていない市民が被害者に同情的でありすぎたり、自分を見失ったりすることもある。
そこをネラッてとまではいわないが、弁護士は法律学校だけではなく演劇学校に行って話術や身振り手振りで聴衆を味方に付ける術までも学んでいるという。

日本では、いまだ法に馴染んでいないとか司法の立ち遅れなどと言われるが、裁判にもちこむ以前に「和解」などの解決法で処理がなされてきた。
日本では経済においてアメリカ並みの市場経済に追随したことが、けして好結果をもたらさなかった。
司法についても裁判員制度、ロースクールの設置などがアメリカに追随している傾向が顕著にみられる。
しかしながら、アメリカと比較しても国の成り立ちからして両極端にある国が、法律や司法についてあまり近似するのもかえっておかしなことだと思う。
日本人が司法に親しみ細々として点までも「法を盾として生きる」ようになるということは、アメリカ並みの訴訟社会へと近づいているということである。
そしてその兆候はいたるところにみてとれる。
例えば、保護者からの訴訟に備えた教師向けの損害保険があり、加入者が増加している。
大手損害保険会社の大半が教師専用の保険を扱っているほか、東京都の公立学校では今年、保険に加入する教職員が3分の1を超えた。
こうした状況は、学校に対する親の理不尽なクレームが深刻化する中、教師たちが「いつ訴えられるかわからない」という不安を抱いていることを示している。
担任の指導が悪いために子供の学習に悪影響が出た、子供の喧嘩で怪我をしたのは学校の責任などという親からのクレームで訴訟にまでなるケースがあり、実際に保険金を支払った事例は約50件あるという。
また医療過誤に対する訴訟もふえ、医者は危険な手術を回避し、過大な保険料の支払いの為、医者の過疎化が生じている地域さえでている。

日本が「訴訟社会」になって、本当は一体誰が得をするのだろうか、と思わざるをえない。
日本の弁護士や保険会社だろうか。
それとも日本が訴訟社会になることにネライをつけたアメリカの法律事務所だろうか。
日本社会はもともと裁判沙汰を嫌い、我慢したり譲ったりしながら、長い目で見た「和」の社会を築いてきた。
それは裁判というアリーナで行われる決着ではなく、「鎮守の森」でひそやかに行われた平和的な解決法であった。
「鎮守の森」に分け入ることのできないアメリカが、市場万能主義のみならず裁判万能主義へと導くべく日本を巨大なアリーナに転換せんとする意図があるのか、などと思いたくなる。
考えてみれば、市場万能主義とはいいながらアメリカは極めて「低効率の社会」でもある。
社会の中で「紛争の処理」部分に相当なコストをかけている社会であり、もう少し生産的な分野に使われてもいいハズの能力がココに浪費されているのであるからである。
紛争がもたらす「社会的」コストといってよい。
一方、日本が司法面でアメリカに無闇に追随することは、伝統的な低コストの「紛争処理」方法を喪失することであり、社会的コストどころではなく「社会的ロス」といってもよいのではないか、と思う。