「推定」平和

法律用語「推定無罪」は、うたがわしきは罰せず、証拠がない以上どんなに状況がそろっていても有罪とはできない、ということ。
しかしながら最近では「推定有罪」の風潮がめにつくように感じる。大した根拠もなく簡単に「罪あり」としてヤリダマにあげ「社会的に」(*法的でなく)追い詰めていく。どういう背景があるのか。
製造物責任法、通称PL法の場合、ある商品を使って事故がおきたらまずはその原因を生産者の側に置く。とりあえず製造者有罪にしておきましょう、ということだ。
つまり明確な因果関係は不明でもとりあえず過失を製造者側に置く、つまり生産者は「推定有罪」なので、生産者側が「無罪」の立証を負うことになる。
従来のように消費者側が製品の欠陥を立証する責任はなくなり、消費者の権利が格段に守られうる。
アメリカ発のこの法律はあまたの商品欠陥や事故におうじて作られたものと思うが、製造者の「推定有罪」の社会風潮が子供の成績が伸びないないのは学校、病気が悪化したのは病院、などとこの法律が本来カバ-しない分野にまでも拡大し、度過ぎたクレ-ム社会の雰囲気を作りあげているようにも思えたりする。

「推定有罪」という言葉に色々な思いが広がる。
例えばアダムとイブ以来人間が原罪を負うのであるならば、その「贖い」の責任は人間の側にあるのだが、ある歴史的段階に至ってその「贖い」を造物主たる神の側が行ったというのがキリスト教の福音である。
キリスト教の「救い」は、人間がその事実に対して心の扉を開くか否かにかかっている。

「推定○○」を法律用語から離れて日常をふりかえれば、我々の生活の相当部分が「推定○○」に支えられいることに気づく。
もし明日の「推定安全」「推定平和」に支えられていなければ、人間は一歩も外に出られないであろう。
日常生活の意識の底にはにはどこか「推定○○」を約束する「予定調和」の世界観が横たわっているようだ。そうである限りは敢えて安全にも平和にも「推定」などという言葉をつける必要はない。
むしろ「推定○○」は「不調和」な世界にこそ似合う言葉である。
我々の生活には推定からの「誤差」が生じることが多い。予測できなかった事故、景気の思わぬ後退、天候不順、思わぬ失恋などにより生活や心の基盤が崩れていくこともある。
ただ「予定調和」の世界観では、「誤差」は再び「平常」の世界に戻り得ることを前提としている。つまり「誤差」はあくまでも異常なことであり、「誤差」による「負」のスパイラルがいつまでも続くということはありえない、とうことだ。
この「予定調和」はアダム・スミスの社会思想によって明示的に使われた言葉だが、各自はたとえおのおのの利己心を満足させるように行動しても「神の見えざる手」に導かれて社会全体の福利を達成できるという社会観である。
経済学的には、需要と供給によって価格が調整され、景気は不況から好況、好況から不況へ変動するものの常に「復元力」が働き、崩落の末に奈落の底へむかうことはあり得ないということである。
しかし最近のサブプライムロ-ン問題や長引く不況、ヘッジファンドの気ままな動きで一つの国にデフォルトがおきるなどの現象は、人々の意識の底流にある「予定調和」の観念をつき壊しつつあるように思う。
日本では年金問題などにみる政府への不信、不良債権を多く抱えた金融への不信感もそれに拍車をかけている。
不況からの脱出が困難に陥っている原因は様々あるが、根本的に意識下の「予定調和」の世界観が動揺しているからではないだろうか。
今日という人権の時代にありながらも、インタ-ネット上の中傷にみるように安易な推定で「罪アリ」と判するような風潮が目に付くのは、そういう「予定調和」の世界観の動揺と無関係ではないのかもしれない。
つまり「誤差」(ノイズ)としてあらわれるものはすべて消し去ってしまおうということだ。

最近、かつて読んだことのあるカフカの奇怪な小説「変身」が、現代を見通していた予言的な小説であったことを思わせられ、改めて感心している。
読み直してみると、それは突然「変身」した人間と世界の「不調和」そのものを淡々と描いている感じがした。
主人公のグレゴールはある日自分が虫になっていることに気がつく。作家は、「彼は甲からのように固い背中を横にして横たわり、頭を少しあげると、何本かの弓型の筋にわかれてこんもりともりあがっている自分の茶色の腹が見えた」と描写している。
グレーゴルは自分の部屋に閉じこもってひっそりと生活することになった。彼の世話をするのは妹のグレーテで、彼女はグレーゴルの姿を嫌悪しつつ食べ物を差し入れ、また部屋の掃除をした。
グレーゴルは日中は窓から外を眺めて過ごし、眠る時には寝椅子の下に体を入り込ませ、また妹が入ってくるときにも気を使ってそこに身を隠した。
そのうちグレーゴルは部屋の壁や天井を這い回る習慣を身に付け、これに気が付いたグレーテは、這い回るのに邪魔になる家具類を彼の部屋から除こうと考える。
グレーゴルは自分が人間だった頃の痕跡をすべて取り除かれることに抵抗を感じ、そうせまいと壁際にかかっていた雑誌の切り抜きにへばりつく。
しかし新しく勤めに就いていた父親が帰宅し、事態を悪く見た父はグレーゴルにリンゴを投げつけそれによって彼は深い傷を負い、満足に動くことさえできなくなってしまう。
かつての大黒柱が厄介者となってしまった一家は、母も妹も勤め口をみつけて働くようになる。
そのうち家族は誰もグレーゴルの世話を熱心にしなくなり、代わりにやってき手伝いの大女はグレーゴルを怖がるどころか、彼をからかいはじめるほどだった。
家族は生活のために空いた部屋をある男に貸すが、男はグレーゴルの姿を見つけるや家賃もはらわず出ていってしまう。
これを契機に家族はグレーゴルを見捨てるべきだと言い出し、父もそれに同意する。グレーゴルは憔悴した家族の姿を目にしながら部屋に戻り、そのまま息絶える。
以上の「変身」の話は現代人にとっても身につまされる話のように思える。目がさめたら虫になっていたという設定だが、誰しも次の日職を失ったとか、記憶を失ったとか、外に出られなくなったとか、「有罪」の烙印を押されたとかで「虫」になる可能性がなくはない。

フランスのジスカ-ルデスタン大統領の片腕となった人物サムエル・ピサールの伝記「希望の血」という本を読んだことがある。
サムエル・ピサ-ルは、ナチスのホロコ-ストを最年少(16歳)で生き残った人物である。父母も妹も皆殺されたのだが、とっさの機転と、生にしがみつく意欲のたくましさと、多少の幸運に支えられて生き延びた。
アメリカ軍によって解放され、各地を転々として紆余曲折を経たあげく、ハ-バ-ド大学、ソルボンヌ大学といった名門大学を出て国際弁護士として活躍した。
ピサ-ルはフランスの政府高官してアメリカの国務長官との会談のためにニュ-ヨ-クからワシントンに向かったことがある。
その途中に飛行機が事故をおこし、ニュ-ジヤ-ジ-のマグワイア基地に緊急着陸したのだが、そこで見たシ-ンはピサ-ルにとって一生忘れがたいものになったという。
「この基地は、きちんと並んだ無数の格納庫や事務棟、居住用の建物などで構成されており、その目的はただひとつ---待つ ことであった。
将校や兵士と同じように、ここで働く者は全員、敷地内を歩き回ったり、ビ-ルやコ-ラを飲んだり、あるいはテレビで昔の映画をみたり、フットボ-ルを投げたりするほかは、ほとんど何もしていないのである。ただ座っていりだけのものもいた。そしてただ待っているのである」
あらゆるエネルギ-と能力の発揚を寸でのところで押し殺している姿は、とっても「不調和」な世界そのものである。
それは「入力」と「出力」とがあまりにバランスを欠いた世界といっていいかもしれない。
「この基地にいる男たちは、注意深く選ばれ、高度に訓練されており、その存在の目的といえば、命令一下、何の疑問もなく、ただちに、もはやとりかえしのつかないあの最終行動をとることなのである」
その光景を見たピサ-ルに一瞬閃いた恐ろしい考えがうかんだという。その指令はすべてからの「解放感」をもたらすかもしれない、ということだった。
そんなことを思わせるほど、砂漠の兵士達はジリジリと「その時」を待っていたのである。
東西冷戦の時代に「核の恐怖」が高まった時期が何度かあった。しかしその時代は少なくとも「核の使用」が国家に委ねられた時代であり、国家同士の相互作用により、それなりに「予定調和」の世界が前提としてあったように思う。
しかしソ連崩壊後に国家による「核の管理」は杜撰になっており、その核や科学者そのものが「売買」されその使用が、国家を離れある個人や団体に委ねられる可能性が大きくなってきた。
そういう意味では、国家同士の「核拡散防止条約」は意義を失いつつあるのだ。
また国家同士の「イデオロギ-対決」の時代からキリスト教とイスラム教の「文明の衝突」の時代には、いついかなる時にテロが暴発するかわからず、そうした意味で日常生活の「平和」にも「推定」という用語を陽表的につけなくてはならないのかもしれない。
昔から「怖いもの」の代名詞は「地震、雷、親父」であったが、それはいつ暴発するか予測不能というのが「怖さ」の根拠だったのかもしれない。
サミュエル・ピサ-ルの伝記を読みながら、最近なくなった作家の小島信夫氏の「小銃」の冒頭が思い浮かんだ。 小島信夫はカフカ的作家であるそうなのだが、作家は「小銃」を美しい女性を描くように官能的に描いていた。
だがどんなに「小銃」が静謐の装いをしていても、その目的上「暴発する」宿命をもっている。「小銃」とは火を噴くその時をひたすら待つ存在なのである。
机上に置かれた黒光りする「小銃」は、それを取り巻く環境の変化によって一気に「変身」する妖気を漂わせている。
人間の世界とそれを取り巻く自然界もウイルスも、治安も、消費生活も、国際情勢も、予測誤差が大きな振幅で生じる「非調和」の世界では、暴発の危険性を高めていっている。
こういう「非調和」もしくは「変身」の時代には、あらゆる場面で「推定」という言葉をつけておくのが正しいことなのかもしれません。
「推定安全」、「推定雇用」、「推定お金」、「推定カップル」、「推定善人」、「推定明日」、などなど。