サプライ・サイダー

需要と供給によって価格がきまる。
つまり需要の側と供給の側のどちらが価格を決定するかは、いわばハサミの左右の刃のようなものであり、両刃とも決定的な力はない。
古典派経済学はこの市場機構というミクロの理論をマクロに拡張して、総需要と総供給が一致したところで物価水準が決定するとしたが、ケインズは大恐慌という事態を前にして、この総需要と総供給が一致した「均衡点」は必ずしも完全雇用を保証しないという問題意識から「経済全体」を見渡した。
つまりケインズにとっての問題は、価格調整が不十分な独占資本主義下の「大恐慌」からの脱出のための処方箋を書くということであった。
すなわち総需要と総供給が一致する点は、調整済みの真正の「均衡点」ではなく、経済全体が「価格の硬直化」によって調整しきれずに止まってしまった「不完全雇用均衡点」であり、その未調整ゆえに大量の「失業」が生じており回復の見込みもない。
この状況の打開ための「処方箋」をかくということであった。
ケインズの経済学では、労働組合の力によって賃金がこれ以上下がらないことと、「流動性のワナ」によって利子がこれ以上下がらない、という二つの「価格調整の不全性」が大きなポイントとなっている。
このうち前者「賃金の調整不全」をはずしてもケインズ理論の本質は失われないが、後者「利子の調整不全」こそケインズ理論の本質であるといってよい。
一般に深刻な不況期では資金の借り手は少なく低金利となるが、どんなに金融の緩和によって設備投資を活発化させようにも、金利はこれ以下がらない水準まで達することがある。
この場合、国債などの債権価格が高すぎて、それは早晩暴落する予測があるために、人々は少々の利子を生む債権を購入するよりも、利子を生まないおカネの「流動性」の方を選好し、おカネをそのままじっと持つ現象が生じる。
これが人々が「流動性のワナ」にはまり込んでいる状態で、この時政府がどんなにマネーサプライを増やしても、利子は下がらずお金はちっとも回らないことになる。
ケインズはこうした人々の「流動性選好」という行動に着目し、ミクロの理論(価格理論)をマクロにそのまま拡張して全体の経済を捉えることは出来ないとして、新しいマクロ分析の道具を考案した。
それが「有効需要の原理」である。
物品の供給により各人の給与が実現していき、それが貨幣の裏づけのある「有効な需要」を生み出し、その需要水準が生産活動の水準を決定づけるというのがケインズの「有効需要の原理」である。
そして、有効需要は消費需要と投資需要からなり、消費されなかった分すなわち貯蓄部分が「金融」を通じて企業に貸し出され、そのまま投資需要としして再登場すれば、供給は自らの需要を生みだし完全雇用を実現する。
しかし、不況期には、貯蓄と投資を橋渡しするオカネが「流動性のワナ」に陥ったりして、そうスミヤカにまわらないし、経済への見通しがが暗いため金融緩和をしても設備投資が伸びないことから、結局「貯蓄>投資」となってしまう可能性が高い。
そして経済水準は、貯蓄が投資に等しくなる経済水準にまで縮小する。
ケインズは、不況期には有効需要が過少で、経済は完全雇用水準以下で均衡し、大量の失業が生じていると分析したのである。
この状態での金融緩和は、民間の設備投資への拡大効果には繋がらず、結局、政府による公共投資による投資需要を生み出して有効需要を喚起し、経済を完全雇用水準にまで浮揚させるしかないと考えたのである。
ケインズの理論は、需要が経済水準を決定するという意味で、「デマンドサイド・エコノミクス」と言うことができる。

1930年代の大恐慌時に、本国イギリスでは必ずしも受け入れなかったケインズの「処方箋」を、アメリカのルーズベルト大統領が採用し「ニュ-ディール政策」として実施して一応の成功をおさめ、ケインズ政策は世界的な信認を得ることになった。
アメリカの「ニューディール政策」がケインズ経済学の信任の機会であったとすれば、1990年代クリントン時代はサプライサイド・エコノミクスがそこそこの信任を得た時代だったといえるかもしれない。
しかしサプライサイドエコノミクスといえば、それより10年前のレーガン大統領の時代に登場した言葉であった。
レーガン大統領の時代にアメリカは確かに好景気をむかえたものの、それはサプライサイド政策の成果というよりは、むしろ「デマンドサイド改善」の兆候の方が大きかったのである。
ケインジアンの消費支出および生産への減税効果を重視するのに対して、サプライサイダーは長期的な潜在的な生産能力への効果を重視する。
レーガン大統領の時代は、経済の一時的な景気よりも、アメリカの国力を長い目でいかに強くしていくかが主要なテーマだった印象がある。
しかし、サプライサイダーがネラッたように貯蓄も増えなかったし、労働供給も増えなかったし、投資支出の割合が増えたわけではなく、減税の効果はむしろ需要喚起として表れ、その需要が景気をひっぱったのである。
レーガン大統領のいう「強いアメリカ」は、ソ連に対する軍事的な対決姿勢にも表れていた。
1980年代はじめ、アメリカは半導体などのハイテク分野で日本企業におされ、日本のだぶついたお金で、ロックフェラーセンタービルをはじめ、アメリカが誇りとする建物や企業を次々と買収したために、自信喪失気味になっていた。
ところが日本企業が不況に陥り、改革もすすまないまま泥沼状態にある時、アメリカではリストラが進み、大企業が蘇ったのをはじめ、ハイテク分野で次々とベンチャー企業が誕生し、急速に力を回復した。
特に、クリントンは「ニューエコノミー」を掲げ、1990年代後半には「IT革命」とよばれるインターネット関連産業が経済を押し上げ、株式も空前のブームに沸いた。
この間、日本では不良債権をうまく処理しきれない金融機関を救うために、長期間超低金利政策をとったために、国内で行き場を失った大量の資金がアメリカの債権や株式に投資され、アメリカの景気拡大を支える力となったことは、皮肉な感じがする。
この間、アメリカはベンチャー企業を優遇するために減税を行ったり、IT関連のネットワ-ク基盤の整備というサプライ・サイドを重視の政策にあたったといえる。

経済学の歴史を見ると、経済学の比重は当初より「サプライサイド」に傾いていた。
つまり古典派経済学の時代には、経済学者といえばほぼ全員、「サプライサイダー」だったのである。
古典派経済学において、商品の価値は「労働量」によってきまるという「労働価値説」は、まさにサプライサイドの見方である。
マルクスの「資本論」の資本の蓄積や生産力と生産関係などの分析もサプライサイドの視点である。
アダムスミスの「商品の使用価値」という「デマンドサイド」の考えはなかなか進展しなかったが、1870年代ジェボンズ・ワルラス・メンガーといった「限界学派」とよばれる人々が、財の「効用」(=限界効用)の概念を導入してようやく「デマンド・サイド」の分析に光を当てた。
そして、これがいわゆる「近代経済学」の幕開けとなったのである。
しかし、経済分析がミクロ(価格理論)に止まる限りでは、「デマンドサイド」とか「サプライサイド」という見方自体、存在しなかったことを断っておこう。
ケインズ経済学は、マクロ的見地から有効需要(デマンド)が経済水準(サプライ)を決定付けるというのは、有効需要のスケールにあわせて供給が決定されるという意味である。
それでは有効需要がありさえすれは、必ずそのような調整がおきるのであるか、という疑問も生じる。
様々な規制や制度、情報不足、地域性によって有効需要水準まで経済水準が到達しないこともあり得るのではないか。
このことは、完全雇用に達するずっと前から物価が上がり始めるという「フィリップス曲線」の実証例からもわかる。
したがって経済の自由化と規制緩和は、サプライサイドの発想に立つ「キーワード」となった。
イギリスのサッチャー首相やアメリカのレーガン大統領が「サプライサイド・エコノミクス」の支持者とされ、特にサッチャーが、規制緩和、自由化、競争化、減税を行い「イギリス病」からの離別をはかったことはよく知られている。
またレーガンは個人的体験から、高率の限界税率(追加的所得にかかる税率)の重荷についてよく理解していたといわれる。
1940年代から50年代に高所得にかかる税率が高かったために、いくら稼いでも税引き後の可処分所得は随分ひくくなったために、俳優として絶頂期であったにもかかわらず、年間に出演する映画の本数を減らしている。
経済学の理論的見地から「サプライサイド・エコノミクス」を見ると、一見ケインズの「デマンドサイド経済学」と正反対の結論を導いているかに見えるものがある。
ケインズ経済学では有効需要を減ずる貯蓄は「悪徳」と見なされるが、サプライサイド・エコノミクスでは経済的活動の趨勢は貯蓄水準によって決定するために、貯蓄は美徳なのである。
なぜなら供給面で生産能力を拡大するには「資本蓄積」が必要であり、そのための投資の原資となるのは「貯蓄」に他ならないからである。
したがって、貯蓄率が高い経済では資本蓄積が進んで経済活動が拡大するのに対して、貯蓄率が低い経済では、低い生産性と経済活動の停滞に悩むということになる。
こうした理由からサプライサイド・エコノミクスでは、貯蓄促進策を是として、貯蓄抑制的な制度や政策は改革すべしとする。
デマンドサイド・エコノミクスにとって「減税」は、資源の活用や完全雇用をネラッて総需要と刺激することであるが、サプライサイド・エコノミクスにとっては、人々の働く意欲を刺激し、貯蓄を奨励し、新しい事業に投資させることである。
サプライサイド・エコノミクスの研究対象が、公的年金制度が貯蓄に与える影響などにあるのは、そういう理由からである。
その他に、利子所得に対する課税が貯蓄に抑圧的な影響をもたらすことや保険料の「賦課方式」は、家計貯蓄の減少分だけ経済全体の貯蓄を減らし、生産性の低下をもたらすことになることを明らかにした。
また法人税は、投資資金が借り入れで賄われないかぎり資本コストを高めることを分析した。
企業が当初の取得費用にもとづいて建物や設備の減価償却を決めた場合にインフレーションが起きると、資本財の更新はインフレを組み込んだ価格で行わなければならず、償却費用過小の見積もりが課税ベースを増やし、その分税負担も大きくなり投資活動にマイナスの影響もあること等をを明らかにしていった。
結局、サプライサイド・エコノミクスは、従来のケインズ経済学を否定しようとするのではなくて、そこで「欠けていたもの」を補うという側面が強いように思える。
「貯蓄は美徳か」という点でケインズ経済学とサプライサイド・エコノミクスは、正反対の結果を出しているかに見えるが、これは経済を短期的問題(雇用水準や物価水準)と捉えるか、長期的問題(成長と資本蓄積)と捉えるかの相違でしかないのである。
その点で、資本主義経済を「創造的破壊」と捉えたサプライサイド重視のシュムペンターは、ケインズが貨幣経済に内在する不安定性を見出したことは高く評価する一方、それが短期の現象にその範囲を限った部分的な理論にすぎないと批判したのである。
シュムペンターは、ケインズが分析の対象となり変数を所得と雇用と物価水準に限ったことにより、「分析の適用範囲をたかだか2~3年に、現象に即していえば、仮に産業設備が変化しないものと想定した上で、その"稼働率"の大小を支配することになる要因に限定してしまった」といっている。
ケインズ経済学における有効需要の構成要素である「投資」すなわち機械の更新や生産設備の拡大は、単に経済活動の「デマンド」ではなく、それが備えつけられたアカツキには産業設備の向上つまり「サプライ」にも繋がるのである。
だからケインズ経済学では、投資の「量」が問題であるが、サプライサイド・エコノミクスでは、投資の「中身」が問題なのだ。
結局、ケインズは設備投資による「生産性向上」という長期の視点を欠いているのであるが、ケインズからすれば、差し迫った問題を最も効果的な方法で解決できる「処方箋」を書いたのであるからして、何が長期的視点だ!そんな悠長なことを言っておられるか!と反論するかもしれない。

経済学は、日進月歩という学問ではない。論文は多いのに大して進んでいないように思える。
しかし、時々「新しい考え方」が登場して多少の「色合い」を我々素人にも与えてくれるように思えることがある。
その一つが「情報の費用」という概念である。
「情報の費用」を考えると、「知りたいが金がかかりすぎる」、「知ってどうなるの」あるいは「知りたくない」といった状況で、「知らない」ことを選択するという事例がたくさん浮かんでくる。
高齢になって癌であると知っていまさらどうなろう、米軍海兵隊の抑止力の実際を知りたいが、正確な知識を得るには相当な金と時間がかかる、「核の闇取引」の現状を知ったところで不安になるだけ、恋人の過去を知ってどうなろう。
サンプルが悪くてスイマセンが、以上のような場合で人々は「合理的無知」に留まろうとするであろう。
アメリカの政治経済学者のA・ダウンズ氏は次のように言っている。
「民主主義国家における政府の政策には、ほとんど常に、反消費者、生産者支持の傾向が見られる」
これは「ダウンズの命題」とよばれている。
つまり政策情報の収集・分析や、政策に影響を及ぼすための政府への働きかけには費用がかかる。
が、一般消費者はこれを負担しようとしない。
これは消費者の「合理的な無知」の結果であるが、それゆえに政府・与党の政策決定に影響を及ぼせない。
一方、生産者は情報の費用負担に意義を見出し、負担能力もある生産者は政策にも精通し、利益団体を作るなどして、影響力を行使するかもしれない。
また、天下り官僚を会社に迎えるという「情報の費用」までも負担するかもしれない。
自民党の政治こそ、利益団体から「カネ」と「票」を吸い上げ、その果実を分配する政策こそが「政治的」サプライサイド政策そのものであったともいえる。
鳩山政権が掲げた「コンクリートから人へ」は、そういう政治のあり方への決別ではなかったであろうか。
菅首相は先日、財政の「出」の方向性は語らす、「入」の消費税は5%から10%のアップ、そして法人税は40%から20%へのダウンという「サプライズ発言」をした。
厚生大臣当時には、HIV問題でで製薬会社というサプライサイドの非を明らかにした総理でもあるが、なんとなく「政治的」サプライサイダーに「変身」中みたいです。
それとも、もともと「仮面サプライサイダー」だったのでしょうか。
そして、菅総理もまた「ダウンズの命題」を立証することになるでしょうか。