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財布を預かる国

進行する円高に対して政府が有効な経済対策を打ち出せなかったところから、株価が低落し日本経済の見通しはまたしても霧の中に迷い込んだ感じがする。
菅総理が首相就任当初、唐突に10パーセント消費税を打ち出し、使い道として社会保障の充実、雇用創出などを掲げた際に、チラッと「スウェーデン型」社会について言及した。
消費税10パーセントをガッツンと叩かれて以来すっかりトーンダウンされたので、菅総理のめざそうとしたヴィジョンが何なのか霞かかってしまったが、「宝さがし」のつもりで「スウェーデン型」社会とは何かを調べてみた。
結論をいうと、スウェーデン社会には日本に決定的に欠けたものがある。それが「政府への信頼」である。 したがって「スウェ-デン型」をめざすならば、日本はその前提条件をほぼ満たしていないので、現実的なモデルとはならない。
しかしながら、「スウェーデン型」は、日本社会の問題点を「ネガ」として浮き立たせる意味では、格好のモデルだと思う。
スウェーデンは25パーセントもの消費税が取られている。そんなことが果たして可能なのかと、まず思う。
しかしスウェーデン国民は、その分の「見返り」が返ってくるという信頼があるから、高い税金を取られることに不満が大きくはならない。
つまり「高負担」に納得している。
日本の場合、政府になぜ信頼がないかというと、(言い古されているが)国民から税金をたくさんとってそれが公共事業を通じて一部の建設会社や土建屋を潤すとか、議員の集票力にプラスになるにしても、国民には真の利益として還元されていないなどという意識が強いからである。
それも、公共事業が景気浮揚に繋がる時代ならばまだよかった。国民全体が景気拡大によって潤うからそれも許されたわけだ。
実は今の時代公共事業の「景気浮揚効果」は極端に低下しているらしい。
投資には「乗数効果」というのがあって、例えば「乗数=3」の場合に、投資を1兆円ふやすと総需要は3兆円増えるというものである。
新規投資をしたら、そこで働いた人々の給料が増えそれが消費需要となって企業の雇用を増やし、それがさらに給料を増やすといった連鎖がおきて、新規投資額の「何倍か」の所得増、すなわち景気浮揚に繋がるわけである。
しかし、今日本の公共投資の「乗数」は相当低落している。なぜであるか。
政府が建設会社に公共事業を発注すると、次に鉄鋼会社に発注がいくが、その鋼材を作る会社が海外に拠点があるならば、需要増(=所得増)の連鎖が海外に逃げてしまうからである。
つまり日本はかつてのような重化学工業の時代とは違い、知識集約産業にシフトしているため、こうした公共投資の「景気浮揚効果」が国内ではあまり期待できなくなっている。
多くの分野の民間企業が、日本で投資するよりも、例えば中国で投資するほうが収益率が高いので生産拠点を移しているということもある。
つまり、大掛かりな公共事業はほんの一部の大手ゼネコンを潤すだけで、国債増発による「財政の悪化」という結果しか招かないのである。
そこで日本で景気浮揚をはかるために公共投資がダメならば、消費需要を喚起させるしかない。
ところが菅総理は、消費税を増税するという。
消費税をたくさんとったら消費は落ちるが、とったその分を政府が等しく支出すれば、国民全体の観点から見て「個人消費」が「共同消費」に転換しただけで、景気の上ではマイナスとはならない。
それも単に金を使うというのではなく、「雇用を増やす」形で上手に使うならば、それは理論的には「景気浮揚効果」を持ち得るといえる。
国民の財布の紐が固いのならば、政府が代わって使ってあげよう、個人が考えうるよりも皆に利益が回るように効果的に政府が支出しよう、ということならば。
実は、これこそがスウェーデン型なのだが、そのあり方は「スウェ-デン国民は財布を政府に預けている」ように見える。
しかし日本の場合、とても政府に財布を預けるなどという気にはならない。
例えば、1996年の厚生官僚の頂点に立つ事務次官の逮捕を思い起こす。
特別養護老人ホームの建設・運営を手がけている社会福祉法人の理事長から多額の利益供与や自動車の無償提供の利益供与を受け、国や自治体の「補助金交付」(すなわち税金)で便宜を与え、私腹を肥やすといった収賄容疑であった。
そんな政府に財布をあずけられない。結局、税金は「取られるもの」でしかないのである。

実は日本の経済課題の中で「いつまでかかるのか」と言いたくなるのが「不良債権」問題である。
スウェーデンでも「不良債権」は相当深刻な問題であったが、それをを非常に短期間に大胆に解消している。
スウェーデンでは、不良債権で苦しんでいる銀行が救済を政府に申し立てした場合に、その銀行が国営銀行になることを義務づけた。
自分の銀行の株を全部国に売るわけであるが、それをすれば不良債権を「不良債権処理銀行」に移していいことにした。
「不良債権処理銀行」とは国鉄清算事業団のようなものだが、ここに不良部分を移せば、銀行本体にはイイものしか残らない。
銀行は国営になって所有権を握っているので、公費を投入してもなんら問題はない。
この「不良再建処理銀行」は、政府が当時GDPの約5%にあたる巨額の資金を投じて一気に解消した。
景気がよくなり業績が回復すると、国は持っていた銀行株を売りに出した。
捨て値で買った銀行株が値上がりしたので、国は大もうけをして、投入した資金を取り返した。
日本では長期信用銀行が潰れそうになって外国の投資機関に売って「新生銀行」として再出発をしたのを思い出すが、再生の方向性がスウェーデンとは全く対照的である。これも政府への信頼度への違いかもしれない。
スウェーデンの「不良債権処理」を見ると、政府と日本の銀行はいつまでズルズルやっているのか、と思いたくなる話である。
ところでスウェーデンと日本との大きな違いは、「政府の信頼度」なのだが、その信頼度の根拠としては、北欧社会一般に見られる政府や行政の「透明性の高さ」ということがいえる。
すなわち汚職が少ないのが最大の特徴である。
スウェーデンでは、議員に対して交通費、通信費、交際費などなど丸投げというようなカネの使わせ方をしていない。
国会議員が使った「タクシーの領収書」一枚でもすべてがファイルにしてあり、それを国民はいつでも閲覧できるようになっている。
居酒屋タクシーもなければ、身内が議員パスで都合よく旅行したりできない「透明感」があるのだ。
政治家が一般人と違う行動をすれば、それだけ次期の選挙で当選する可能性はサガっていくと思ってよいそうだ。
国会議員の給与は900万円で、日本の議員の2分の1である。運転手ツキ公用車はなく、秘書などスタッフも少ない。
一流ホテルのような議員宿舎なんかなく、国会の中に簡易な議員宿舎がある。320人の議員のうちの半分ぐらいは、そこで寝泊りできるそうだ。
もちろん、国情も国が抱える課題の大きさも違うので、スウェ-デンと日本を同列に考えることはできない。
スウエーデンは900万人の国で、日本の人口の10分の1の国だが、そこで思い出した話がある。
「シンガポールの奇跡」を主導したのは、リー・クワンユー首相であった。
リー・クワインユーが中国の鄧小平に「シンガポ-ルの奇跡」をどう評価するのかと尋ねた。
鄧小平は、私にもそれができたと答えた。「ただし上海だけだったら」とつけくわえたという。

スウェ-デンの国民の生活をやや仔細に見ると次のとうりである。
消費税は25%であるが、食料品については12パーセント、新聞は6%、である。所得税は31%で「累進性」はない。
保険料を含む国民負担率は、66%で、日本の39%と比較して二倍近くあり、相当高いといってよい。
ただし、ライフラインである電気・ガス・水道は無料に近いほどの低料金で、住居は集合住宅であってもかなり広い。
子供は、病院代は歯医者も含めて18歳まで無料で、大人でも一回の平均で1800円程度、手術をしても、12000円以上はとられない。
社会福祉は「在宅主義」で、自立した生活への補助こそが基本理念である。
老人の側にも子供には別の生活があるという意識から、ほぼ独立した世帯での生活をしている。
家族と離れた老人に対しては介護ヘルパーが一日6回自宅にくる。看護士・ヘルパーが責任をもって必要な薬をとどてくれ、緊急ブザ-でいつでもきてくれる。
年金についでは、収入が低く保険料を支払えなかった人でも、最低限の給付を受けられるようになっている。
教育については、全くといいほど費用がかからない。
大学でも学費がかからないのでで、学資資金の積み立てなどの必要もない。
スウェーデンは、子供をもつ家族にとってはとてもすごしやすい国なのである。
義務教育の小学校では、早くも円卓で授業している。教室に五つくらいに円卓が置いてあって、どんな授業でもグループごとに討論していく。
自分で学んだことを他者に伝えうること、他者が学んだことを取り入れうる事が重要という教育理念がある。
これは「共生の思想」を自然に育てているということにもなる。
給食は児童の好みに応じて希望の多い順から20種類ほど提供している。
人間の能力と人々の繋がりが社会的インフラになっていくので、教育は重要な「経済政策」でもある。
福祉・医療・教育にしっかりとセ-フティネットがはられ「安心」が提供される。安心は失敗をおそれずチャレンジできる環境ともなっている。
スウェーデンには、有名なボルボという自動車会社や、ノキア・エリクソンといった通信機器の世界的企業が存在している。
ところで、ここ10年ほど日本では「小さな政府」が志向されてきた。公共部門が大きくなると効率性に欠けるという考え方からである。
また「大きな政府」をつくり、法人税を高くすると企業が外国に逃げるとか、所得税が高いと優秀な人材がいなくなるなどの説もある。
しかし、現代のように「高付加価値産業」が主流となると、たとえ税金が高くても、高い教育を受けた人間がたくさんいるとか、犯罪の少ない安全な場所に、企業は拠点を築こうとする。
となると高い教育こそは人々をひきつけるものであり、スウェーデンのような税金が高い国でも、エリクソンやノキアなどの「高付加価値」メーカーが存立しているのである。
スウェーデン社会の大きな特徴は、女性の労働力に期待する度合いが高い。裏を返せば、女性にも税金を払ってもらわなければならないということでもある。
したがって女性が働くことへのハンディを徹底して取り除いている。
両親あわせて最長16ヶ月の育児休暇が認められ、13ヶ月は賃金の8割支払われる。
また、病休で休んでも給料の80%の手当てで支払われる。550日までは75%の手当てが支払われるから、大病を患ってもそう大きな負担とはならない。
そうした財源は、基本的には企業が負担する。エリクソン社では、社員に支払う給与の33%を社会保障税として支払っている。

スウェーデンは、皆で高い税金を払って「安心」を買っている社会といえる。安心は公共財によって提供されるものが多く、個人消費よりも「共同消費」の方が効率がよい。
つまり国に財布を預けたほうが低いコストで高いサ-ビスがえられるというわけである。
そのせいか、スウェーデンと日本には際立った特徴があらわれる。
日本は世界でダントツに貯蓄をする国で、スウェーデンはダントツ貯蓄をしない国である。
逆にいえばスウェ-デンは将来の不安に備えて貯金する必要がない社会だともいえる。
何があっても、誰かが何らかの形で助けてくれるという、安心がある。
つまり「共生の思想」が行き渡っているのである。
「共生の思想」がここまで育った背景については知らないが、少なくとも高福祉がかつての「イギリス病」のように働かずに食って暮らそうというようにならない高質の「共生」意識が育っていることは確かなようである。
例えば、失業者に単に失業給付金をマルマル与えるのではなく、働きうる能力を育てるサービス(リカレント教育など)を提供すれば、仕事の範囲を広げられるし、働くことに新しい喜びを発見できる可能性もある。
つまり、サービスを提供する側にも、される側にも「新しい雇用」が生まれるのである。
スウェ-デン社会では、社会福祉が新たな雇用を生むという内容でプログラムされているといってよい。
スウェーデンの雇用大臣によると、国の政治責任は「全ての人が働いていなければならない」ということである。裏をかえせば全ての人が税金を払ってもらわなければならないということだが、そういう意識の為に全国に雇用が広くいきわたり、森と湖のスエーデンには「限界集落」というものがないそうだ。
以上まとめると、「スウエ-デン型」社会とは、共生の思想・女性が仕事ができる環境、福祉が雇用に結びつくプログラム、そして政府の「透明性」である。
「大きな政府」は社会的効率が悪いというのは、スウェ-デンではあてはまらないかもしれない。 そして新自由主義へのアンチテーゼをつきつけているともいえる。
国際競争力でスウェーデンは日本を上回っているし、一人あたりの国民所得はスエーデンが7位で日本19位を上回っているし、生活満足度は9位で、日本21位をうわまわっている。
大きな政府がけして「非効率」になっていない。その結果、スウエ-デンは、「国民が財布を預ける」稀な国となったといえる。
政府が良いものだといえば、国民はそれを信じる。そして高い税金を受け入れているのである。
芸術はバクハツだの岡本太郎のおかあさん・岡本かの子女史がとてもユニークな恋愛小説を書いている。
ある男が、好きな女性にラブレターを書くのだが、「せめてこれくらいの返事が欲しい」という内容のものを自分で書いて送ったのである。
相当ヘンナ男です。
まさか国民が日本政府政にラブレターを出すことはないが、もしも政府が10パーセントに増税するならば、その切実さにおいてはラブレターに負けないかもしれない。
その払った税負担と引き換えに、「せめてこれくらいのサービスを自分に提供して欲しい」という気持ちをシタタメて、税務署に納めに行きたい気分になる。

旧約聖書には、荒野で放浪するイスラエルを養った「マナ」という不思議な食べ物の話が登場する(出エジプト16章)。
イスラエルの民は、日々ふってくるマナで荒野の生活をしていくわけだが、逆にいえばマナは日々に消費されてなくなってしまうという食べ物である。
誰だって明日マナは降ってくるのか死ぬほど不安になる。もし明日以降マナが途絶えれば死ぬしかない。
不安になった者達が明日の為にマナを貯めようとしたところ、翌日フタをあけたらすべて腐ってしまっていたという。
つまり日々に「明日のマナ」を信じて生きて行く他はなくなったのである。
イスラエルの場合は、神が信仰を与えるためにそうしたのだが、もしも何も貯める必要もなく不慮の出来事が起きても「明日のマナ」を信じられる社会とは、なんと素晴らしい社会なのだろうか、と思う。