人類の紛失物

ユダヤ人にとって、とてつもなく重要な紛失物が存在する。
もしも誰かがそれを発見したならば、莫大な報奨金がころがりこんでくるであろう。
それによってその人物は、世界の富豪に仲間入りを果たすこと間違いない。
それはモ-セがシナイ山で受けた「十戒」が刻まれた石板2枚とそれを入れる「契約の箱」である。
契約の箱は、内にも外にも金が張りめぐらされており、エルサレムの神殿の「至聖所」といわれる場所に安置されていたものである。
イスラエル人が移動するに際しては、移動式神殿とともにその「契約の箱」も移動したのである。
それは、イスラエル人にとって、単なる金でも箱でもなく、神と古代イスラエル人との「契約の証」なのである。
欧米がしばしば「契約社会」いわれるが、この箱こそがその始源であるといっても過言ではない。
古代イスラエルが新バビロニアのネブカドネツァルによって攻められ、BC587年、エルサレムの神殿が破壊されるに及んで、その行方は杳としてわからなくなった。
旧約聖書には、この契約の箱が一時期ペリシテ人によって奪われ、古代イスラエルは力を失ったことがあったが、それを取り戻すに及んでイスラエルは力を回復することができたというエピソ-ドが記載されている。
中世ヨ-ロッパにおける十字軍遠征の一つの目的は、この「契約の箱」を探すこともあったのである。
実はフリ-メ-ソンだったマッカ-サ-は、占領期間に「契約の箱」を日本で探す極秘指令を実行している。
現代においてアメリカやヨ-ロッパには、シオニストと呼ばれる人々がいる。
彼らはイスラエル王国の復興を強く願っている人々で、政界や産業界でも強い影響力をもっており、実際に彼らの動向が世界の今後を占うといっても過言ではない。
彼らにとって「契約の箱」は、イスラエル王国の完全復興のためのシンボルとして、どうしても探し当てなければならない「紛失物」なのである。
しかも聖書の黙示録には、それが見い出されるという預言がなされてある(ヨハネ黙示録11章)からこそ、ますます彼らはそれを探し出そうとしているのである。
つまり「契約の箱」なくしてはイスラエル王国の完全復興はありえないのである。

聖書を読むにつて、その中に古代日本を感じる、あるいは古代日本の中に聖書を感じるが、実際に両者に何か繋がりがあろうなどとは、パレスチナと日本との遠い位置関係からしても、あまりに荒唐無稽な推量でしかないと思っていた。
ところが大学卒業のころ、古代イスラエルの十二部族のうち十部族が離散して行方不明となっていることを知って、俄然、大和盆地にかかる霞の向こう側にはユダヤのおぼろな影が浮かんでいたのかもしれない、などと思い始めたのである。
実はイスラエル十二部族のうちパレスチナに残った二部族のうちの一つ「ユダ族」の名前から、古代イスラエル人はユダヤ人という名前でよばれるようになったのである。
しかし、こういう思いは一部の日本人ぐらいかと思っていたら、けして少なくはないユダヤ人ラビが日本との関連に思いをはせ、遠く実地調査にまで及んでいることは驚きでもあった。
日本を旅行したアインシュタインは講演した折に、日本人の顔がユダヤ人に相似していることに言及している。
ユダヤ人といっても日本人とは外見上まったく遠い「白人系」ユダヤ人もいる。
八世紀にカザ-ル王国が周辺のイスラム国家にのみこまれたないために全国民が丸ごとユダヤ教に改宗したため、こうした白人系のユダヤ人が誕生したのだが、彼らアシュケナジー系ユダヤ人は、アブラハム・イサク・ヤコブの系統とは直接には関係のないものである。

日本人とユダヤ人との「人類学的」相似性という問題は置いておくとして、宗教的、精神的な部分でどのような共通面があるだろうか。
かつてイザヤ・ベンタソンは「日本人とユダヤ人」のなかで、相互を鏡として両民族の特質をあぶり出したが、冒頭部分の「日本人にとって水と安全はタダ」という説は印象深いものであった。
ベンタソンは、両者の「相違性」の方に重きをおいた斬新な比較文化論を展開したが、私はむしろ両者の「相似性」の方に気持ちが傾くのである。
新約聖書の冒頭にはイエスキリストの系図が載っている。
アブラハムから始まって16代でダビデ王、ダビデ王からはじまって16代めに、イエス・キリストの誕生となっている。
系図の中にボアズという富豪もいればダビデという国王さえいる、なのに同じイエスの系図の中には、ラハブという売春婦も入っておれば、異邦人(モアブ人)ルツもはいっている。
こういう聖書全体を一筋に貫く血統の不思議は、世界の王室の中で唯一古代より今に至るまでも続く日本の天皇の血統の「不思議」を想起させるものがある。
しかし血統のことをいうならば、イエス・キリストの系図よりも「レビ族」の系統との相似性にふれる方が適切であるかもしれない。
実はレビ族はユダヤ社会にあって代々祭司職を務めた血統であり、世俗の職から離れ神へのささげものを食することが許され、「契約の箱」を運ぶことを許された唯一の人々で、その血統は今も続いている。
すなわち彼らは「契約の箱」の最も近くにいた人々であり、契約の箱を運ぶのは、日本の神輿そっくりの乗せ物で運んだのである。
新約聖書の中には、日本人の「言霊信仰」を思わせるところが出てくる。
「また船をみるがよい。船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。
それと同じく、舌は小さな機関ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である」(ヤコブの手紙三章)
また日本人の「和」の心と通じるところは、イエスの次のような言葉にもあらわれている。
「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタイ五章)
この部分は「和」の精神というよりも、捧げモノをするときには、身も心も清めるという日本人の心に通じるものがある。
さらには、パウロは「ロ-マ人への手紙」の中で、律法と信仰について次のように語っている。
「しかし、律法によらなければ、私達は罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が貪るなといわなかったならば、私は貪りをしらなかったえあろう。
しかし罪は戒めによって機会をとらえ、わたしの内に働いて、あらゆる貪りを起させた」
この箇所を読んで思い起こすのは、本居宣長がいうところの「コトアゲ」、すなわち「言葉にする」ということである。
本居宣長は、中国や仏教の教えが伝わるにつれて、日本人は「直毘の霊」を喪失し堕落したとみている。
仏教道徳や儒教倫理は、物事の良し悪しを「コトアゲ」することによって、自然で素直な心の様を失わしめ「サカシラ」な心を生んだという。
本居宣長は神話の研究を通して、古代日本の人々の素直で明澄であり、自然なままの「直毘の霊」を宿していたことを指摘している。
ところでパウロは、律法に従えず罪を犯してしまう自らを「何とミジメな人間なのだろう」と告白している一方で、「しかし讃むべきは神なり」と語っている。
すなわち、イエスの復活と昇天後に下った聖霊(御霊)によって、その力にあずかることによって、何ら「コトアゲ」することもなく、自然に律法にかなう自分があるという「救い」を体験している。
聖書の中には、聖霊の実として「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制」をあげているが、これはあくまでも聖霊の働きの結実なのであって、聖霊の力なくして自らの力によってなそうとする「道徳的人間」または「律法的人間」は、「自己の義」をたてる律法の奴隷なのであり、親鸞の言葉を借りれば「自力作善の人」であるともいえる。
「自力作善」はしばしば、自分だけは間違いないというおごりをもたらしやすい。
パウロは、こうした実をもたらす聖霊は同時に、「イエスを主」と告白する信仰の霊であるから、「律法による義」ではなく「信仰による義」を説いたのである。
イエス・キリストは、自分は充分な捧げモノのをして断食もして何ら罪も犯していない義人だと称して他人を見下げているパリサイ人と、天に目をむけることもなく胸をたたいてあわれみを祈った取税人を比べて、神に義とされたのは取税人の方で、「自分を高くするものは低くせられ、自分を低くする者は高くせられる」(ルカ18:13)と語っている。
パウロは、律法は罪を知らしめるのみで何ら人を救うことは出来ないとし、律法の要求するところの高さからいえば「義人はいない」ということを語っている。
パウロは結局、聖霊に「オノズカラ」従う信仰の生活こそが「救い」であると語った。
パウロの思想には、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(悪人正機説)と説いた親鸞は、「他力本願」という点でパウロの「聖霊依存」とも響きあうものがある。
パウロは「律法が入り込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、 罪が増すところに恵みもますます満ち溢れた」
「では、私達はなんというか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない」(ローマ人への手紙5章~6章)
親鸞はまた「よしあしの文字をもしらぬひとはみなまことのこころなりけるを、善悪の字しりがおはおおそらごとのかたちなり」と語っている。
この言葉に、本居宣長がいうところの「コトアゲ」しない「直毘の霊」を思い起こす。

空海などは、中国長安でネストリウス派のキりスト教すなわち景教に接している。密教を学んだが、実は相当に景教の影響をうけていることがみてとれる。
空海作といわれる「イロハ歌」をならべて、四方のかどかどに置かれた文字を選んで並べると、「イエストカナクシス」になる。
すなわち、「イエスは咎がなくて死んだ」というメッセージが「イロハ歌」の中に暗号のように埋め込まれていることを、一人のユダヤ人が指摘した。
空海が景教の経典を密教経典とともに日本に持ち込んだ可能性は極めて高く、「パウロ書簡」が親鸞などの目に入ったということは大いにあり得ることある。

アシンシュタインは離日に際して、自然の美しさ、神社仏閣の荘厳さに心動かされ、「純粋さと穏やかさ、しつけと心の優しさなど日本人固有の価値を忘れないでほしい」という言葉を残している。
日本人が神話の中で自らを「天孫」と呼んだことにも、「高天原」などという言葉の中にも、ひょっとしたら現代の日本人があずかり知らない記憶が隠されていされているのかもしれない、などと思うのである。