夢と怨念の国民経済

今年は地震のあたり年みたいで、それによっておこる津波はしばしば日本を襲う事も予想される。
が、実はそれ以前から日本社会は巨大なTUNAMIに呑みこまれていたのではないだろうか。
要するに「グローバリゼーション」の波にのみこまれ、その波の中でも市場開放や金融自由化の波は、松本清張の「波の塔」とでもいうべき、容赦ない高さで日本を襲ったのではないかという感じがする。

「グロ-バリゼ-ション」とは、情報や物資が国境を超えで速やかに激しく移動するために、国境が不明確になったあるいは大した意味がなくなった状態をいう。
しかしサブプライムに代表されるTUNAMIの力で世界経済が押し潰された感のある今、むしろ「国民経済」という言葉とそれにまつわる経済社会の有り様がかえってなつかしく思い出される。
その時代の目印は、一国の経済規模が「国内総生産(GDP)」ではなく、「国民総生産(GNP)」で表されていた時代と言い換えてもいいかもしれない。
「GNP」時代までの「国民経済」ではそれぞれの国家の国民の歴史的体験を担って営まれていた経済活動が主体であり、そのようにある程度「閉じている」ことが、歴史と伝統が育んだ智恵や創意も元気に息づくことができたのではないかということを思い至った。
ところが経済関係のスケ-ルが大きく国家の枠を超え、まったく国籍の違う住民が生産拠点を移して活動し、さらに「世界規格」やら「世界標準」というコンセプトが前面にでてくると、各々の国民経済の持つ「歴史性」が消去されてしまうのだ。
それは、かつての国民経済と地域経済との関係にも似て、すべてが国民経済に呑みこまれてしまうと地場産業や地域経済のコジンマリとした美質が失われていくということに対応している。
逆にいうと、しっかりした多様な国民経済こそは、行過ぎた「グロ-バリゼ-ション」への対抗力となるのだ。

かつてスイスのアルプス登山鉄道の基点・インターラーケンの町に滞在したところ、ウイリアム・テルの歌劇がどこそこのホールで開かれているというポスタ-がはりめぐらされていた。
そしてそのポスターには、「ウイリアム・テルこそはスイス人の魂である」ということが書かれてあった。
そして、スイスが「永世中立国」宣言に代表されるように、小国でありながらヨ-ロッパや世界の中で実にユニ-クな国つくりを行い独自路線を歩んでいることと、スイス人のシンボル「ウイリアム・テル物語」が私の内で結びついたのである。
14世紀、オ-ストリア・ハプスブルク家は、強い自治権を獲得していたこの地域の支配を強めようとして、ゲスラーというオーストリア人の代官を派遣した。
ゲスラ-は、その中央広場にポールを立てて自身の帽子を掛け、その前を通る者は帽子に頭を下げてお辞儀するように強制した。
しかし、テルは帽子に頭を下げなかったために逮捕され、罰を受ける事になる。ゲスラーは、クロスボウの名手であるテルが、テルの息子の頭の上に置いた林檎を見事に射抜く事ができれば彼を自由の身にすると約束した。
そしてテルはクロスボウから矢を放ち、一発で見事に林檎を射抜いたのである。そしてこの事件は反乱の口火となり、スイスの独立と結びついたのである。
そういうわけで14世紀のウイリアム・テルは、今なおスイス人にとって「独立のシンボル」ともいえる。
ところで、スイスという国は山に囲まれた産業もない小国で、国民は傭兵と出稼ぎによって生活の資を得ていたのである。ウイリアム・テルの武勇談もその時代の話である。
スイスという国の転機となったのは、フランスのルイ14世の時代に宗教弾圧を逃れてやってきた新教徒達すなわちユグノー達であった。
農業があまり見込めない国で時計製作やナイフ製作などの産業を興したために多くの資金需要が生まれ、また彼らが蓄積した富の保全のために自然と金融業が発達したのである。
特に18世紀以降に数多く設立された銀行は、もともと故郷を離れた亡命者達によって蓄積された富を管理していたため、何よりも「守秘義務」を最優先する銀行システムをつくりあげたのである。そしてその噂はヨ-ロッパ中に広がっていった。
スイスの銀行、なかでも個人銀行を有名にしたのが「番号口座」で、「番号口座」とは文字通り番号のみがつけられた口座で、一切の顧客情報は明らかにされない。
番号口座の匿名性が人気を得て世界中から資金が集まってくるのはよいとしても、犯罪や脱税にそれが使われるという批判はいまなお多い。
しかし、スイスの銀行は、度重なる各国当局の開示要求や司法の批判にさらされながらも、少しもひるまずそうした要求を退けてきた。
また、スイス銀行の「守秘性」には、弾圧されたユグノ-達の苦難によって兆した「怨念」さえ感じるのである。
「グロ-バリゼ-ション」の波に呑みこまれないスイス「国民経済」の根強さを思わせられる。

各国経済の底力は、結局は国民の歴史体験をベ-スにした「国民経済」の強さにあるのではないか思う。
そしてその「原質」は経済が停滞する時に意外な力を発揮したりすることがある。
アメリカを例にとると、西部開拓という社会的または経済的「原体験」に根ざす大胆な発想と実践こそが経済をV字回復させうるのではないか、などと思うのである。
アメリカでは、「ストック・オクション」という方式が一時成功したことがある。
ストック・オクションとは、企業が役員や従業員に対して、現金で給与やボーナスを支払うとは別に、「自社株を一定の価格え会社から買い取る権利」を与えることである。
このストック・オクションは当初、ベンチャー企業が研究開発などに資金を食われ過ぎて従業員に十分な給料が払えない時に、一種の「出世払い」的に自社株を渡していたのだが、後に大化けして億万長者が次々と現れたことから、特に急成長を見込めるハイテク:ベンチャー企業が人材を確保する手段として確保するようになった。
そうなると今度は大企業も人材流出を防止する対抗策として、次々にストック・オプションを導入していった。
こうしたストック・オクション方式の最大のポイントは、企業のオーナーでなくとも、つまり経営者や従業員であっても、一生剣命に働いて会社の業績があがれば、億万長者になるのも夢ではないという「アメリカン・ドリーム」に火をつけたということである。
他に「国民経済」のシブトサを思わせる例としては、オランダのケ-スがある。
ちなみにオランダは、Hollandつまり「窪んだ土地」という意味であるが、このことに取り組んだ歴史こそがユニ-クな国民経済をつくりあげた。
オランダは石油ショック以降、赤字財政と失業に悩んでいたが、1983年ハーグ郊外の小さな町ワッセナーに労使政府代表があつまり賃金抑制・労働時間の短縮・雇用確保・減税を約束し合意した。
この「ワセナー合意」以降、財政赤字も減らすことができ、一時「オランダ・モデル」ともよばれたが、インフレ連動型賃金が廃止されたために労働者の収入は実質的減少し、国民全般に大きな痛みをもたらす結果となった。
このため1994年の選挙で長期政権を担ったキリスト教民主同盟が歴史的敗北をしたが、次の連立政権の中心となった労働党は、前政権とは異なるアプローチで経済問題を解決しようとした。
政府がまず目をつけたのがパートタイマーの多さであった。そして正社員一人一日がかりでやっていた仕事を半分にして二人のパートタイマーにやってもらうなどして、徹底的な「ワーク・シェアリング」を行ったのである。
1996年にはパートタイマ労働を通常の労働と差別するのを禁止する画期的な法改正を行い、パートタイマーでも社会保障制度に加入できるなど正規雇用と同等の権利を保障した。
ワーク・シェアリングが浸透するにつれて、オランダ経済はみるみる好転していった。
一人一人の収入は伸びていないものの、共働きが当たり前になったために世帯当たりの収入が増加したため、家計支出が増えこれが消費全体の拡大を促し、やがて経済の活性化につながった。
所得増が税収増になり、また失業者の減少は失業保険の減少にもつながり、財政赤字をみるみる縮小させたのである。
こういうオランダの成功も昔から干拓と治水という苦しい事業を続けた歴史があってのことだ。
オランダ人つまり「窪んだ土地」の住人達は、長年その事業を通じて「自治」と「協働」の思想をはぐくんできたという歴史あってのことだ。

以前アメリカは、「機会均等」こそがアメリカの開拓魂に支えれらた自由思想の重要な要素であると書いたことがある。
その時点では、「独占禁止法」を大胆に適用して大会社をブッタギルのもそうした考えに基づくものでなのではないかと思っていた。
日本の財閥解体もそうしたアメリカ的発想が占領時代に適用されたのだ、というように。
この独占禁止法は、最近ではマイクロソフト社などにも適用されて話題にもなるが、むしろ日本では申し訳程度にしか適用されていない。
この差は「司法権優位」のアメリカと「行政優位」の日本との差だけで説明できるものとは思えず、そこにも国民経済の違いが横たわっているのだ。
なにしろ日本は戦争中、「重要産業統制法」をつくって、カルテル奨励の方向に進んでいたので、それに歯止めをかける方法を内発的には持たなかったのである。
しかし独占禁止法は、純粋な競争で富を獲得しようというアメリカン・ドリ-ムの国民経済とはどうしても相容れない部分があるように思える。
あるアメリカの経済学者が「第二の産業分水嶺」という本のなかで、アメリカ流の市場競争の基盤には、単に競争のル-ルを守らせるだけではない別の考え方があることを指摘していた。
それが「ヨ-マン・デモクラシー」というもので、「ヨ-マン・デモクラシー」における国家の役割とは、市場取引によって一つの集団が「永続的に」有利にならないよう、そして生産者のコミュニテーを可能にしている富と権力のバランスが掘り崩されないように、配慮されなければならないというものである。
つまり、市場での取引である特定の人や企業がいつも勝ち続ける状態は排除されることになる。そういう状態が起こったときには、強すぎる企業に対してその力を分散させる方法がとられる。
「ヨ-マン・デモクラシー」とは、すべてを無差別級で戦わせるのではなく、クラズ別にして常に似たような力を持つものだけで戦うことを要求している。
ここでは「無敵の王者」は認められず、例えばプロのスポ-ツ・チ-ムで九連覇をなしとげるような「巨人」が存在するならば、チ-ムを二分して力を分散する方法が必要だと考えられている。
もともと「ヨ-マン」とは14世~15世紀にイギリスに登場した、大地主でも農奴でもない独立した土地所有農民のことであるが、ヨ-マンの心が移民を通じていつしかアメリカ人の心になってアメリカ的な制度を根底で支えている。

以上見たように、各国経済には国民の夢や怨念が煮詰まって生み出されてきたのである。そういう意味では「国民経済」は「言語」にも似たものがある。
日本経済は石油ショックを見事にのりこえ絶好調の時代にはいり、世界は日本経済に注目しその社会の経済構造・組織・人間関係・商慣習までも研究の的にしてきた。
その矢先に、アメリカから出された「構造改革要求」に答える形で、政府の政策としての経済グロ-バリゼ-ションへと踏み込んでいった。
そして日本人が長年かかって作り上げた組織や商習慣を一つ一つと葬り去ってきた。
今振り返れば、何をみすみす、という感が深く残る。
さらに1990年代に入って独自性が強かった金融が「ビッグバン」し世界経済と連結された結果、そのマイナス影響をモロにかぶることになり、その衰退の度合いを深めている。
各国経済はハゲタカと呼ばれるファンドで食い尽くされ、デフォルト状態の国家が続出している。
そこで痛感させられることは、生物の多様性が自然システムの安定をもたらすように、各国の国民経済の「多様さ」こそが世界経済システムの安定に繋がるということである。
経済におけるグロ-バロゼ-ションは、世界経済の強靭さではなくむしろ脆弱さを生み出している、という方が真相に近い。