クンマと牛と人間

受験勉強が人の意識に投げかけるものは、良きにつけ悪しきつけ、結構大きなものがあると思う。
ある文化勲章をもらった学者が、人生で一番嬉しかったことは何かと聞かれ、予備校の試験で一番になったことだと答えている。
一方、遠藤周作や安岡章太郎や井上陽水らの小説や曲には、どこかしら「受験」の影が常につきまとっているようにみえる。
特に安岡章太郎の場合は、様々な意味での「落第」が小説のモチーフにさえなっているくらいである。
二十年ほど前に、福岡市南区の徳洲会病院の待合室で何気なく、徳洲会創立者であり今話題の徳田虎雄氏の「生命だけは平等だ」という本をとって読んでみて、胸をうたれた。
何に胸をうたれたかというと、氏の医療への情熱ではなく、徳田氏が徳之島からでて大阪の予備校に通いながら大阪大学医学部を合格するまでの受験勉強であった。
つまり、この本を「受験体験記」として読むならば、これほどの壮絶な受験体験記を読んだことがない。
受験にやる気がでないお子様をお持ちの親そして先生方にも、お奨めの本です。

徳田氏は、鹿児島県徳之島で育った。3歳の弟が下痢と嘔吐で苦しみ始め、漆黒の山道を何度も転びながら走り、往診を頼みに行ったが、医者は来てくれなかった。
医者にみてもらえずに死んだ弟のことを思い出すと、悔しさでいっぱいになり、「医者になろう、医者にならなければならない」と思ったそうだ。
つまり、徳田氏が医者を目指すきっかけとなったのは、少年時代に幼い弟を病気で無くした体験に深く根ざしている。
徳田氏は貧農の八人兄弟の長男である。
徳之島は、昔は琉球王朝に、そして薩摩藩に、さらに戦後は米軍の信託統治下に、奄美大島、徳之島は、入れ替わり立ち替わり支配者の圧制に苦しめられてきた。
かつて島の農民が苦労してつくったサトウキビは、一本のこらず藩に召し上げられた。
農家の幼い子がそのサトウキビをかじっただけで一家が棒たたきの刑をうけて、密売者は死刑になったという。
米軍の信託統治下でも、島民たちは生活のために多くがそれを行っていた。豚の密貿易をやっていて警戒船が近づくと、豚を海に投げ捨てたという。なかには対岸に泳ぎ着く豚もいて、そういう農家は大いによろこんだという。
密貿易者も没収されるくらいなら、という気持ちで豚を海に放ったのだ。
徳田氏の父が密貿易で捕まり奄美大島に送られていた時に弟が病死したために、悔しさが何重にも重なったのである。
徳田氏の少年時代の思い出に「闘鶏」がある。人々が鶏を戦わせて、多少の金を賭けあうものである。
大きな体力もありそうな鶏とやせっぽちでクチバシの欠けた鶏とが戦うことになり、参加者は皆大きな方に賭けたが、徳田父子のみやせっぽちの鶏に賭けた。
そして命がけで必死に戦ったやせっぽちの方が勝利したのである。
この時、徳田氏は自分が選んだ鶏に賭けてくれた父に深い愛情を感じたのだという。

ところで、米軍が奄美大島や徳之島を信託統治下においたのも、沖縄に基地をつくる労働力の供給源としてであった。
つまり徳之島は島民が島民自身の幸せのために働いたことはなく、その為、差別感や屈辱感を抱き続け、農民達は、殺されることを覚悟でムシロ旗をふり、一揆をおこしてきた。
そして医療において取り残されたようなこの島で、貧しい人の為に本当の医療を願った徳田氏の気持ちと通じるものがあった。
1953年に徳之島は本土復帰となり、徳田氏は嫁いだ姉を頼り蓄膿症の手術を大阪大学医学部で受けたことがある。その時に見た白衣の医者達の姿が、徳田氏の心に焼きついたという。
徳之島に戻り、医者になるために大阪の高校に転向したい気持ちを両親に伝えると、「金がなくなるか、お前が阪大にいれないか、親子で勝負しよう」という返事が返ってきた。
両親は何も言わず息子の決意に賭けているようだった。
しかしその話を担任に持ちかけると、驚きとともに嘲けりの表情が浮かんだ。
とりたてて優れたところも無い貧農のせがれが、旧帝国大学の医学部を受けたいと言い出したのだから、嘲笑されても仕方のないことではあったが、担任には「絶対に通ってやる」と啖呵をきった。
1955年3月10日大阪への転高のために、徳之島をあとにした。桟橋で父親が厳しい声で言った。
「成功するまで生きて帰るな。死ぬんだったら、鉄道もある。海もある!」と。
二流または三流といわれる大阪の高校に転校が許されたが、阪大医学の合格者は3年間に1人いるかいないかで、一番でも合格できるかどうかわからないということであった。
その学校での最初の試験で百六十番ぐらいの成績しかとれず、トップから10番までの連中の頭の中はどうなっているのだろうと、劣等感に叩きのめされてしまった。
二流高校の彼らに比べてさえ、頭も顔も悪く、読むのも計算するのも遅く、何ひとつ勝てるものがなかった。
徳田氏は絶望し後悔もし、転校するんじゃなかった、阪大医学部に行くなど言わなければよかった、と思った。
しかし阪大医学部を諦めたら、「嘘つき」よばわりされたら徳之島に帰れなくなる。
徳之島は素朴な心の島で、「ウソつき」といわれたら、生きていけないところだ。
その頃、ノートに「生か死か」と書きなぐるようになり、どうしたら彼らに追いつけるかを必死で考えてみた。当時の徳田氏には、できるだけ勉強の時間を生み出す外には思いつかなかった。
まず食事の時間は3分にきめ、便所も大便は2分、小便は歩きながらボタンをはずし、3メートル前にはオチンチンをだすようにした。そして、風呂に入るのも、10日に一度ときめた。
こうして生活時間を極度にきりつめ、一日16時間以上机に向かっている時間を生み出し、それを鉄則としたのである。
しかし睡魔にはなかなか勝てなかった。
睡魔センと決意して図書館に行くと、貧乏ゆすりをしている者で居眠りをしているものは一人もいないことに気がついた。
そして居眠りをしている人は、足が眠っているのである。足が起きているかぎりは、居眠りをすることはない。そう徳田氏考えた。
そして徳田氏は、「効果的な貧乏ゆすり」をしようと練習に励み、ついにコツをつかんだ。
椅子に深く座ってはいけない。浅く腰かけて、背を真っ直ぐに伸ばし、そうして貧乏ゆすりをリズミカルに行う。
一ヶ月すると、勉強のスピ-ドが貧乏ゆすりのピッチに合って、予想以上にはかどるようになった。
徳田氏は、一日16時間の貧乏ゆすりをしているわけだから、受験生にありがちな運動不足の解消にもなっていた。しかし、ここまでやっても、卒業時には学校で40番前後がやっとであった。
最も尊敬する教師から、阪大は二浪しないと無理だから諦めなさいと言われ、逆に、二浪すれば合格できるんですか、と問い返したという。
しかし最初の大学受験はとんでもない不出来で、結果もみずに東京の予備校への転校を考えた。
少しでもレベルの高いところで奇跡を起こしてやろうと気持ちになったからである。
上京の際に熱海の海を見た時に忘れかけていた海を思い浮かべ、畑を切り売りしてでも仕送りを続けている両親の姿を思い浮かべ、涙がとまらなかったという。
東京の下宿生活は、勉強だけではなく空腹との戦いともなった。
ギリギリの生活となり、寒い、ひもじい中で一日16時間勉強の鉄則は守り続けた。
しかし、二度目の受験では奇跡はおこらなかった。やはり担任教師の目は節穴ではなかったのだ。
合格発表の日、実力が無いものが合格したいと思うことは、詐欺にも等しい行為だと自分に言い聞かせて、三本立ての映画を二箇所ハシゴして帰宅した。
その一週間後、夜蕎麦のラッパに誘われて外に出たら、いつしか淀川の堤防をフラフラと歩いていた。
その時、死んだほうがよほど楽になるという思いが胸をよぎった。
しかしそんなことが自分に許されるハズはなかった。ここで死んだら親兄弟までも飢えに追い込むことになる。
自分には退路はない、前に進むほかは無いのだ。
そして二年目の浪人生活に入り、自分でもこれが最後と覚悟をきめた。
ただ予備校の模擬試験で、天上人のように優れていると思っていた同級生と席次が逆転していることに気がついた。同級生だって懸命にやってきたはずなのにである。
それは努力次第で何とかなるという思いを抱かせるに充分な結果であった。
徳田氏にとって大阪への転校以来、二年の浪人生活を含む四年間は最も苦しい時期であったが、後の病院つくりの困難に直面した時には、この四年間を思い起こすのだという。本気でやればどんなことでもやれるという自信を得ることができた。
1959年3月18日、阪大医学部の合格発表の日に自分の名前を見つけ、ようやくたどり着いたことができたことを実感した。
合格したことをを両親に電報を出したところ、折り返し「早く島に帰って来い」という電報がきた。
島影が見えたときに、溢れる涙を止めることができなかった。再会の時、本人も両親も無言だった。
両親は、もうこれ以上の仕送りはできない状況に追い込まれていたし、徳田氏ももうこれ以上、苦しく嫌な勉強をするに耐える気力は残っていなかったのである。
交わす言葉はなくとも、そのことが通じ合った。

徳田虎雄氏の阪大医学部合格は、徳田氏周辺に予想以上の影響をもたらした。
徳田氏は若くして、小学校時代から意識して一緒に勉強した一歳下の女性と結婚したが、彼女も銀行をやめて大学をめざしたいと言い出した。
何しろ彼女の方が、小中高を通じて徳田氏よりも成績がずっとよかったのだ。
彼女は二度目の受験で私立大学の薬学部に合格することができた。
その翌年に父の死を知ったが、一家の生活が徳田氏の両肩に一挙に押し寄せてくる感じがしたという。
徳田氏の次の弟は、兄が阪大なら自分は京大だと二浪して合格することができた。三男は箸にも棒にもかからない男の子だったが、六浪して国立宮崎医大に入ることができた。
四男も医学部に行きたかったらしいが、三男よりも早く行っては悪いと、料理屋の皿洗いなどのアルバイトをしながら勉強を続け、三男が宮崎医大に合格した頃合を見計らって、七年おくれて奈良県立医大に合格している。

徳田氏の徳洲会設立は、1973年、「失敗したら自殺してその保険金で返す」と説得して銀行から金を借り「徳田病院」を大阪府松原市に設置したことにはじまり、1975年、医療法人徳洲会を設立した。
地方自治体や医師会とたびたび対立しながらも、全国各地に病院や診療所を開設していった。
1990年の衆議院総選挙に無所属で初当選し、自由連合を結成した。その3年後の衆議院総選挙では、選挙直前自民党に入党し、再選した。
しかし、日本医師会の意向で、わずか3日で追放されたという。
2002年病による療養ため国会に出席できず、2005年9月11日の衆議院総選挙に後継として次男の徳田毅が立候補し当選した。
2010年4月28日に普天間基地代替施設移設問題に絡み、有力な移設先候補である徳之島に多大な影響力を持っている徳田虎雄氏に対し、毅の立会う中、鳩山由紀夫首相が面会し、協力を要請したが徳田はそれを拒否したという。

徳之島にはクンマというサトウキビをしぼる原始的な機械がある。これを引いて回す牛と一緒に人々はただ黙々と同じ円周の上を、グルグルと回っていく。
ほおっておくと、牛はすぐに立ち止まってしまう。
そこで一刻も休まず、牛の尻を叩きながら、後を追い続けていなければならない。
徳田氏の少年期の思い出によると、疲れたり寒かったら休めと父は言ったが、牛だって朝から重いクンマを引き続けている。ただ後ろからくっついていくだけの人間が休んだら、牛に負けることになる。
途中でやめたら何か大切なものが失われるような、自分が駄目になるような、そんな気がしたという。
私はクンマがサトウキビを潰して砂糖のエキスを搾り出すのを沖縄で見たことがある。
数本のサトウキビを巻き込み押し潰していくのだが、ほんのわずかな「甘い汁」しか搾り出せない。
あのクンマは、人間に与えた数々の試練のように見えてくるし、牛を「僻地医療」または「年中無休24時間医療」と読み替えてみると、その「牛」を追いかけてきたのが徳田氏である。
そして、この「クンマと牛と人間」の風景の中に徳田虎雄氏の原点があるように思えてならない。