徳島で「歓喜」と出会う

痛快、壮快、愉快など「快」が付く言葉をすべてを送りたい。
そんな気がするのが、第一次世界大戦中におきたドイツ人俘虜と徳島市民との交流の物語である。
約4600名のドイツ兵が中国青島で日本に敗れ俘虜になった。暗澹たる気持ちで日本にむかった彼らが徳島坂東で出会ったものは予期せぬ「歓喜の世界」であった。
彼等は俘虜の身に追いやられたものの、徳島の市民と交流し、山を楽しみ海を楽しみ、そして音楽を楽しむことを許された。
そこは「らくえん」のような「楽(がく)えん」でもあった。
彼らは俘虜の立場でありながら、ドイツから奥さんも娘さえも呼び寄せることを許され、徳島の俘虜生活を享受した。
ドイツ人俘虜は家族ぐるみで日本の片田舎の人々と交流を温めた。そしていつしか日本を愛すようになった。
戦争が終わった。彼等のうち少なからぬ人々がドイツ本国に帰るよりも日本での生活を選んだ。
日本人がいまだ知らなかった化学を伝え、ホットドックを伝え、ハムの作り方を伝え、バームクーヘンを伝え、サッカー技術を伝え、そしてベートーベンの「第九」を伝えた。
徳島の地をドイツ人の俘虜に「楽園」(がくえん)の地として提供したのは、戊辰戦争で「敗軍の惨めさ」を味わいつくした会津出身の坂東収容所長・松江豊寿であった。
ドイツ人は音楽好きで収容所で楽団を作ったのだが、三つの収容所が統合されてできた坂東収容所にはそうした楽団が三つも存在した。
その中のひとつエンゲル楽団は、日本で初めてベートーベンの「第九」を演奏した楽団としてしられた。
第一次世界大戦における中国青島で捕らわれたドイツ人俘虜は 日本各地の俘虜収容所に入れられたが、その俘虜達が日本に残した文化の度合において、坂東収容所は突出していた。
言い換えると、徳島の人々とドイツ人俘虜との交流がそれだけ深かったということだ。
さらに言いかえると徳島に送られた俘虜達の自由度がどこよりも高かったといえるのだろう。
戦争において勝者が敗者に文化を押しつけるのが一般的で、自由をうばわれた敗者の側が伝統や風土が違う勝者に何かを伝えるのは極めて考えにくい。
しかし徳島の坂東収容所で松江豊寿所長の国際的人道主義に基づいた采配によって、俘虜と市民との間で友好的交流がうまれ、俘虜達はあたかも母国の親善大使のごとき役割を果たすことになったのだ。

2001年夏の終わり、長距離バスで瀬戸大橋をわたって徳島の町に入った時は、もう夕闇の只中にいた。
翌日、あらかじめ調べておいた徳島市民とドイツ人との交流があったとされるポイントをまわった。
その一つは、戦後朝鮮から帰還した一人の日本人女性がドイツ本国に知られるまでの数年間、無償で一人で守り続けたドイツ人墓碑であった。
この墓碑は坂東俘虜収容所跡地からすぐ近くの山坂道にひっそりとあり、墓碑にはドイツ語が刻まれていた。
この「我々の愛する戦友たちの記念のために」と刻まれた墓碑の発見が、戦後における坂東とドイツとの交流の始まりとなった。
海沿いの町坂東から徳島までJRで駅ふたつぐらいにある。もう一つのポイントは、徳島市内にあったのが立木写真館で、女優の写真などでよく知られた立木義浩氏の実家があるところである。
この写真館でドイツ人達と徳島市民は、「第九の演奏」の練習をおこなったのだ。
映画「バルトの楽園」のセットと、実際の演奏がおこなわれた場所とは少々はなれているが、映画のセットでは俘虜収容所が見事に復元され保存されており、映画撮影が終わった後も、壊されずに残った。
そして徳島坂東でエンゲル楽団の第九が日本で演奏するに際しては、ドイツ人国から楽器をとりよせることが許された。
日本人が捕虜に対する意識とか、俘虜または捕虜を取り扱うに際しての因習的な意識をこえて、松江所長が国際的人権主義に立っていたことには驚きを感ぜざるをえない。
日本軍人は「生きて虜囚の辱めをうけず」という考えがあり、捕虜になるくらいならば潔く切腹した方がましという伝統的な考えがあった。
俘虜収容所設立にあたっては、命惜しさに生き長らえた卑怯者どもをなぜ我々が面倒をみなければいかんのか、という意見さえあったのだ。
。 松江所長の、時に俘虜に余りに自由を与えすぎることに警戒感を抱き始めた軍部を超えたところにあって大変豪胆に映るのだが、そこには彼がここに至るまでの人生の結晶がそうさせたともいえるかもしれない。
ちなみに俘虜と捕虜の違いは、当人の母国以外でつままったのを俘虜とよび、本国でつかまるのを捕虜と呼んでいる。
松江氏の俘虜待遇は、けして上から遇するということをしなかった、つまり敗者を誇りある人間として扱ったということだ。
これは松江自身が自らが敗者の境遇の中に生まれたことに関係しているだろう。
松江が生まれ育った会津は、戊辰戦争の戦後処理においてゆえなき「賊軍の汚名」をきせられ二十八万石を三万石に削られた。
会津開城後、会津軍の死体の埋葬が許されず、半年ちかくも路上に放置され極寒不毛の最北の地斗南に移住させられた。
明治以後も会津人は差別され出世も遅らされ、戦死者は靖国神社に合祀されず、最近までは会津には大学すらなかったのである。
薩摩や長州は陸軍・海軍で上層をしめたが、賊軍であった会津藩出身の軍人はこのような俘虜収容所に送られたということだろう。
夷(外国人)をもって夷を制すではなく、賊をもって夷を制す、ということである。
映画「バルトの楽園」の中で「賊軍」の家族が塗炭の苦しみを味わったことを、松江豊寿が幼少の頃に経験した悲惨極まる会津戦争や地獄の斗南藩開拓のシーンを織り交ぜながらたくみに表現していた。
23万石の会津藩は朝敵として下北半島(青森県)にわずか3万石(実質7千石)の斗南藩として移されたが、その実感は藩ごと流刑に処せられた様相であった。
斗南での常食はオシメ粥で、海岸に流れ着いた昆布わかめを木屑のように細かく裂いてこれを粥に炊く。臭気があってはなはだ不味い。
冬には蕨の根を砕き晒してつくる澱粉を丸めて串に刺し火にあぶって食べる。拾ってきた犬の肉を毎日食べる。
ついに喉を通らづ吐き気を催すと「武士の子たるをを忘れしか、戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ」 と叱られる。
賊軍として斗南までという追われてきたのだから、もし餓死して果てようものならば、薩長の下郎どもに笑われのちの世までの恥辱を蒙ることになる、と諭される。
ある藩士の記録によれば、ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞと心に刻んだという。
どうにか餓死を免れたのは、会津の国辱を雪ぐ迄生き延びるという会津武士の矜持であった、と。
松江はそういう日々をしのいで生き抜いできた会津藩士の子であった。
一方、松江が赴任した坂東は四国巡礼の一番札が霊山寺があり、こころ傷ついた人々を受け入れる素地がある優しい土地柄の地であった。
また、この神社の境内は、ドイツ人俘虜が収容所で作りだしたハムやパンなどを徳島の人々に紹介するよい機会となったのだ。
青森県斗南と対照的に、愛媛県坂東は、松江豊寿を心優しく包んだ町だったといえるかもしれない。

ところで日本人の大好きなベートーベンの「第九」とはどんなものだろう。
暗い神秘な曲ではじまるが、威嚇するような音は人間の前にたちはだかる運命を感じさせる。苦しみを忘れそうな牧歌的な歌が響くがもとの曲相に戻っていく。
しかし警告音のような音が響き、いつまでも夢に浸っている事はゆるされず、運命と戦う事を余儀なくされる。
激しい音で切り裂き、その後道が開け光明がさすような崇高な音楽と変奏曲が流れるが、こんな安逸じゃダメとばかりに敢然と否定する。
その後、光がさしこむようにいわゆる「歓喜の歌」の曲調が兆し、次第に世界を覆うかのように「歓喜の世界」が溢れだし、暗きは割れんばかりの「歓喜」に道をゆずっていく。
「歓喜の歌」の流れはまるで文学で語っているようで、我々にも分かりやすいのがよい。
ベートーベンの大きな像がたつ坂東のドイツ館に行ったときの発見の一つは、ドイツ館のすぐ傍に賀川記念館があったことである。
神戸新川の社会福祉事業に携わった賀川豊彦は神戸で生まれたが徳島で育ち、坂東の地とも縁が深く収容所でのドイツ人俘虜達のへの処遇から国際人道主義というものを学んだのではないかと思うのである。
賀川は1921年、豊彦は日本農民組合を組織し全国各地に出向いて小作争議を指導し、坂東の地にも農民福音学校を開き農村の青年たちの教育に力を注いだのである。農閑期に民家を借りて学校が開かれ遠くからも人が集まった。
賀川氏はアメリカので学び、その活動は日本よりも国際的に知られ、「日本のガンジー」と呼ばれノーベル平和賞の候補にも挙げられる「世界のカガワ」でした。
この時期はほぼ坂東収容所が開設された時期の直後で、徳島市民とドイツ人俘虜たちが交流の名残がまだきえてはいない時期であり、ドイツ人によってプロテスタントの種が蒔かれたその地の影響を受けたと思われるのである。
私がここを訪れたのが911テロの記憶がまだ新しい時期であった。そのためか、異国の敵対する人間がしかも収容所でこのように友好を深め得たということに非常に感動をおぼえたものである。
さてベートベンの「第九」は一般に「歓喜の歌」と知られ歌詞はドイツの詩人シラ-の作である。
べ-ト-ベン自身のつくった歌詞も一部付け加わっている。

「さあ友よ!本当に喜びあふれる歌を歌おうではないか。
友よ。歓喜の優しき翼のもとすべての人々は同胞となる。
今こそ 重き苦悩の雪を払え 鉄の鎖を断ち切れ
断固として夜明けの光を 新しき希望の歌声を
もっと快い、もっと喜びに満ちたものを 歌い出そうではないか
苦悩を突き抜けて 歓喜へ」

聴力を失ったべ-ト-ベンのこの曲の歌詞を読んで、この歌は、超克の歌ともいえるのではないかと思うようになった。
べ-ト-ベン自身の苦難の「超克」であり、人類の絶望の「超克」である。
そして坂東という日本の小さな村で国家(対立)が「超克」され、人々は「同胞」となった。
人々を暖かくむかえいれた「坂東」、松江豊寿を生んだ賊軍の地「会津」、そして「べ-ト-ベン」のドイツの奇跡的な出会いが生んだ「超克」である。
「第九」が日本のどこかで最初に歌われるならば徳島坂東で歌われてこそもっともふさわしい。
なぜならば「第九」に歌われた「歓喜の世界」とは、このわずか2年10か月間に坂東で実現した世界のように思われるからである。
1982年の市制施行35周年・鳴門市文化会館落成の「こけら落とし」と日本初演の地を記念し、市民の合唱団の参加による「第九」交響曲演奏会を開催した。
以来、鳴門市(旧・坂東市)では6月1日を「第九」の日と定め、毎年この日に一番近い日曜日に演奏会を開いている。
1989年には、全日本 「第九を歌う会」連合会が発足し「第九」の輪は全国に広がり、世界平和を願う人々の心が一つになって「歓喜の歌」を高らかに響かせている。