スキヤキと北国之春

最近、上海万博のPRソング「2010年はあなたを待っている」が、岡本真夜さんのヒット曲「そのままの君でいて」の盗作ではないかというニュースがあった。
その渦中、万博事務局の方から岡本さん側に同曲の楽曲使用の申請があったという。
国家の威信をかけるイベントで、中国の「知的財産権」への意識の低さが露呈されたのは、皮肉なことではあった。
近年、森進一氏が「おふくろさん」の歌詞を少々変えて歌ったら、作詞家であった「月光仮面のオジサン」が怒りまくり、森氏が「おふくろさん」を歌うのを全面禁止、ついでに出入り禁止となってしまったことがあった。
何もそこまでと思いつつも、作詞家(創作者)の作品に対する思い入れの強さを思い知らされた出来事であった。
ただ、岡本さんは事を荒立てず「上海万博に協力できて光栄です」という大人の態度で対応していたことが、個人的には好感が持てた。
ところで、日本発の歌は、ポップスでさえも海外で結構歌われるようになった。例えばサザン・オールスターズの「いとしのエリー」の英語バージョンをレイ・チャールズが歌っているが、この曲のメロディーはそのままにアメリカンポップスとしても通用するのだろう。
しかし、日本発の歌が海外の英語バージョンになった場合に、どんな歌詞になって歌われたのだろうか、実際に英語をわざわざ日本語に訳したものを見る事がないので、ほとんど知らなといってよい。
というのも、日本でヒットした韓国の名曲「釜山港へ帰れ」はもともと南北対立で兄弟が引き裂かれる哀しみを歌ったものだが、日本の歌詞では男女の別れの歌に変えられてしまった、ということもある。
そこで思い出すのが、1961年に全米でヒットした坂本九の「上をむいて歩こう」である。
この歌は、「SUKIYAKI」と題され、なんと全米ヒット・チャート1位を獲得した。
全米チャートの歴史の中でも、英語以外の曲が1位に輝いたのはたった3曲しかなかったが、3週間1位を続けたという曲は他にないそうである。
そして坂本九は、日本人として初めて全米ヒット・チャートのナンバーワンに歌手になった。
しかし坂本氏は、すっかり元歌の内容を変えて歌われた「SUKIYAKI」をどんな気持ちで受けとめたのだろうか。
実質「替え歌」というのは無制限に許されるのだろうか。
もし「替え歌」が元歌の品格を傷つける場合には、「知的財産権」の侵害にあたらないのかと思わせるほど、「SUKIYAKI」はひどかった。
次のとうりです。

「なつかしヨコハマ なつかし芸者ベビー
桜咲く木の下で 芸者ベビーともう一度  
二人でスキヤキ食べたい」

これが「上をむいて歩こう」の英語バージョンなんて、バカやってんじゃないよ~と言いたくなりませんか。
とても上を向いて歩く気にはなれません。
やや無理して解釈すれば「すきやき」は「好き」と「妬き」を連想するので(しない?)「芸者」の世界と繋がりますが、桜の木の下で芸者と二人でスキヤキを食べるというのは、考えにくいシチュエーションです。
要するに、「SUKIYAKI」は当時の外国人がもつ日本観光の定番である「芸者」、「横浜」、「桜」、「スキヤキ」を全部並べて単純に繋ぎ合わせただけの歌で、「低俗日本観光PRソング」という外はない歌にナリ下がっています。
だいたい「芸者」と「ベイビー」を衝突させて「芸者ベビー」とは、アメリカ人は自分を一体何様と思っているのでしょう。
ヤンキーと娘を合わせた「ヤンキー娘」の方がまだ品があります。
つまり私は「SUKIYAKI」の歌詞を知って、かなり怒ってしまったのです。
その怒りは、ジュデイ・オングの「魅せられて」を初めて聞いた時の怒りにも匹敵します。
あの歌詞の中に「私の中でお眠りな~さい」という歌詞がありますが、「好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る」そんなフラチな女に、誰が身をまかして「眠る」気になれるでしょうか。
自らの「潔癖」はそれを許さない。
それに、「レースのカーテンを引きちぎり、体に巻き付け踊りたくなる~」ような乱暴な女が、果たして男に安らな眠りを与えてくれるのでしょうか。
この歌を作詞した阿木燿子さん、もう少し考えなさい。
とはいえ、坂本九の人生は意外にも「花街」と縁があるので「SUKIYAKI」は案外に奥が深い歌なのでしょうか。
坂本九の父親は川崎の港湾請負の会社を経営していた。九番目の子供だったから「九」になったというのだが、坂本氏が中学二年の頃、両親が別々に暮らし始め、坂本氏は母親と共に川崎の花街に移った。
坂本氏にとってそこは三味線や義太夫がBGMの世界となったのである。
一方で坂本氏は、エルビス・プレスビーに憧れ、ホウキをギター代りにして真似をしていたそうだ。ホウキが無い時はたぶん「エアー・ギター」をやっていたと思う。
ちょうど中学生の私が、ホウキが無い時に「エアー・ソウジ」を誰よりも熱心にやっていたように。
坂本氏の姉の夫の友人がザ・ドリフターズのメンバーだったこともあり、坂本氏はそのバンドボーイとなった。
ちなみに、いかりや長介は、ザ・ドリフターズの3代目のバンドリーダーであり、ビートルズの日本武道館講演で前座をつとめたのがこの三代目率いる「ザ・ドリフターズ」だった。
坂本九は、アメリカンポップスと「お座敷」という両方の世界を肌に感じながら育ったといってよい。
それで、「うへほをむふういてあ~るこほほう」という独特な歌いかたには、とこかリズム・アンド・ブルースを感じる。
プララターズの「オンリーユー」をカバーした日本人バンドと同じ歌い方ですよね。
ただ、「上をむいて歩こう」がこれだけのヒットしながらレコード大賞をもらえなかったのは、その歌い方に難ありという見方があったことを否定できない。
ところで「上を向いて歩こう」がヒットした1961年に、アメリカ映画「テイファニーで朝食を」が公開された。
あの映画でオードリー・ヘップバーンの階上に「ユリウシ」という日本人が登場するが、チビ・デッパ・メガネ姿こそが日本人のステレオ・タイプであったことがよくわかる。
そう考えると、「スキヤキ・ソング」にイメージされる当時の日本像には、なるほどと思わざるをえないのである。

外国で大ヒットした曲といえば、もう一つ千昌夫の「北国の春」がある。
「上を向いて歩こう」のように外国でどういう歌詞で歌われているのか気になるところだが、それほどヒドイ歌詞の「作り替え」は起きていないようだ。
インターネットで調べると、かなり元歌に近い歌詞の形で中国語に訳してある。
つまり中国でも「北国の春」は、故郷を離れて生きる青年の「望郷の歌」となったのである。
ところで「北国の春」には次のようなエピソードがある。
日本からの出向者が「北国の春」を歌ったら、「もうこの歌には日本語の翻訳もあるのか」と言われた。
「これは日本の歌だ」と説明しても誰も信用してくれなかったという。
あげくに、生意気な新入社員が「日本人は、いいものはすぐ真似て自分のものにする」と言ったら、みんなが「そうだ、そうだ」と歓声をあげたそうだ。
そして彼らが日本人を前に、何の衒いもなく中国語で歌い始めたのが「津軽海峡冬景色」であったという。
こういうことって意外にあってドボルザークの「新世界」は、日本では「遠き山に日は落ちて」とか「家路」のタイトルで日本語詞をつけられているが、どっから聞いてもやはり「日本の歌」なのである。
ドボルザーク交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」をラジオで聞いた時には、「何でぇ?」と思ったくらいなのである。
さて「北国の春」の歌詞をかいたのは、作詞家のいではくという人物であった。レコード会社の依頼で 歌手・千昌夫の為の新曲の詞を考えていた。
千昌夫は「岩手県出身」と言っていたから北国の歌をイメージして作ろうと思った。
いではくは、長野出身であるが千と同じく雪深い故郷があることには変わりはない。
「北国の春」のイメージは岩手ではなく長野であり、歌詞にでてくる「コブシ咲く」は、実は作詞家いではくの故郷・長野県南牧村の風景なのである。
いではくは、故郷の様々な湧きでる思いを詞にして並べたら、歌い出しは「白樺 青空 南風」「雪解け せせらぎ 丸木橋」「山吹 朝霧 水車小屋」とで名詞ばかりになった。
上京してこの歌詞を作曲家の遠藤実氏に渡したら、ちょっと待ってくれといって二階に上がっていった。
五分もせずに戻ってきたので、忘れ物かと思ったら、もう「北国の春」のメロディーが出来上がったという。
実は遠藤氏の故郷もやはり北国の新潟であった。
父は刑務所の看守で単身赴任し、母親は枯れた松葉を集めて売り3人の子を育てた。
同級生からは「ボロ屋」とよばれ、夜中に雪が枕元に散っていたという少年時代だった。歌う時だけが冷たい現実から解放される時だったという。
「北国の春」の作曲では、春になり雪がとけ、林の上に青空が広がった時の晴れやかさが心に浮かんだ。
そんな思いが迸り出てきて、ほとんど歌う速さで「北国の春」のメロディーが出来上がったのだという。
実は千昌夫にとっても北国の思いがこの曲に結集していたといってよい。少年時代は千氏にとって「冬」の時代であった。
小学校の時、父親が北海道の出稼ぎ先で急死し、母親が工場で働き3人の子供を育てた。
千氏は自ら身を立てようと高校でボクシング部に入り、相撲とりになろうと思った時期もあったが、根本的に「体」が不足していた。
家に橋幸夫のレコードがあり、作曲家に遠藤実の名前があった。弟子入りする他ないと高校2年の春休み友人からカンパしてもらい上京した。
遠藤氏の家を訪ねたが何度も断られ、三日三晩通いようやく「面接」の約束をとりつけた。
ノックの仕方も知らず怒鳴られ、部屋に入った時につい「あッ、テレビそっくりだ」ともらしてしまった。ふかふかのソファーに座ったために、ふんぞり返る姿勢になったという。
ただタイミングが良かった。遠藤氏の内弟子に「アキ」ができていた。早速、高校の退学届けをだした。
そして北国の美少年が歌う「星影のワルツ」が大ヒットしたが、当初そのウブな無口さがうけた。
「夜のヒットスタジオ」という番組ではほとんど司会の芳村真理のオモチャになっていた。
美少年が一旦喋り出すと、「東北訛り」でイメージが崩壊するので、できるだけ「喋るな」といわれていたのだそうだ。
千昌夫は遠藤氏に呼ばれて「北国の春」を歌った時に、ヨレヨレのコートで街を歩く岩手県人の姿が 脳裏を過ぎったという。
そして周囲の反対もあったが、自身もそのヨレヨレコートを来てこの歌を歌うことにした。
わたしの勝手な推測では、不動産で富を築き「歌う不動産屋」とまでいわれ、モノマネのコロッケからは「金もってるドォー」とまで言われると、ヨレヨレコートに扮装して歌わない限り、「北国の春」は歌い辛かったのかもしれない。
すでに千氏は大スターであり「春」真っ盛りであったのだから。
私は大学の時、新潟出身の友人から雪国の雪かきの大変さを聞いたことがあるが、北国の人にとって春の訪れは九州に住む我々が想像する以上のものがある。
それはまさに「しばれる」世界からの解放なのである。
春が人間にとっての解放ならば、あらゆる生命にとって、食ベモノのない重苦しい時間の圧迫からの「救済」の時にあたるのかもしれない。
それは一斉に命が芽吹きだし活動を始める「音連れ」の時でもあるのではないだろうか。
突然に、英単語の”Deliver”という言葉が浮かんだ。
”Deliver”という単語の用法は多彩で、「出発」とか、「配達」「分娩」とかいう意味がある。そして「救う」という意味もある。
北国の春は、雪国に住む人にとっての”Deliverance”の時なのである。

遠藤実氏がほとんど5分で作曲したこの曲は中国で「北国之春」の題で大ヒットし、1988年に「過去十年間に最も親しまれた外国曲」に選ばれた。
そして台湾・香港・モンゴル・インド・ベトナム・タイ・フィリピン・ハワイ・ブラジルにも広がり、世界最大のヒット曲とまで言われるようになった。
北国の春の意味を体に沁み込ませた作曲家・遠藤実、作詞家・いではく、歌手・千昌夫の思いの力が三乗の効果となって、「北国の春」は15億人の愛唱歌となったのである。