世界はカオスに満つ

世界はカオスであり、生も死も、陽も陰も、真も虚も、善も悪もすべて分かちがたく結びついている。
松本清張という作家は、悪人を描くことはなかったといわれている。ほとんどの作品が、善人がどうして悪を行うに至ったのかが主張なテーマである。
だから逆に、100%の悪人を描くこともなかった。
芥川龍之介の「羅生門」は、中学生の頃読んでなんてことない小説だと思ったが、善人の心に悪が入りこむ萌しとその悪が一瞬で全体を支配するまでを、刻々とした時間の推移の中に描いた迫真の小説であると思うようになった。
松本氏の小説にも、ごく日常の中にあるちょっとしたワナにはまり込む人間の心のスキが描かれる。
あるアーテスィトは、松本作品を特に調子がいい時に自戒を呼び起こす為の、ある種「ホラー」小説として読むのだという。
彼は、市井の人間が日常に潜む落とし穴に入り込む一瞬を「清張ボタンを押す」と表現した。
しかし人間が一番恐ろしいのは何なのだのだろう。
とても長い時間を経てしか気づきようのないワナだってある。
例えば、親が良かれと思って施した英才教育が子供にどういう結果をもたらしたかは、随分後になってしか分からない。
あるいは、一つのものの見方に固執することの弊害かもしれない。
最近まで新自由主義を標榜して政府の顧問まで勤めた経済学者が、マ-ケット至上の経済理論のいかがわしさにウスウス気がついていたと振り返っている。
しかしその理論を降ろしたら、自分の政府顧問としての立場、または存在そのものを否定することにもなるため、その理論に固執することになった。
その学者は最近「転向宣言」したのだが、それは勇気ある行為だったと思う。
そうでもしない限り、その人は世界に閉じこめられ、二度とそこから出られることはなかったであろう。
人を固執させるものは、世間の常識であったり、高評価の保証だったり、組織の毒であったりするものかもしれない。
そう考えると、人間はある意味で「閉ざされた島」にすむ住人のようなものかもしれない。
最近見た映画「シャッタ-・アイランド」では「人間は世界を勝手に解釈する」という言葉が、サブタイトルになっていた。
つまり、その「解釈」でもって心地よく暮らしおうせる「島」に住んでいるようなものだ。
そして「シャッタ-・アイランド」では、勝手な「解釈」をラスト20分で覆してくれる体験を味あわせてくれた。
この映画を見て、今から20年ほど前にあったニコール・キッドマン主演の映画「アザーズ」を思い出した人も多いのではないだろうか。
「アザーズ」の面白さは、「生者の世界」と「死者の世界」が入れ替わるというラストの展開であった。
「シャッタ-・アイランド」では、「正気の世界」と「狂気の世界」がひっくり返ると言っておこう。
映画ではなく現実の世界で、人はその「解釈」が大きく揺らげば、目の前の世界が死屍累々たる世界に映るかもしれないし、命を吹き込まれた世界と化すかもしれない。
しかし大概の人間は一生その「解釈」を変えることはないし、それを望まない。むしろその解釈で一生過ごせるように無理にでも押しもうとする。
つまり一生同じ島の住人として生きているのである。
離島覚悟で広い海原に漕ぎ出そうとはしない。
しかしながら、島の向こう側には自分達の「解釈」を超えたカオスの世界が広がっており、そう単純な見方で割り切れるはずがないということにも気づいているにちがいない。
だからこそ、映画の中で、世界がひっくり返るような「ドンデン返し」が人々を刺激するのはないだろうか。

人間が世界の解釈を変えないまでもどこかで「カオス」に気がつくというのは、部分的には「自由」をもたらすようにも思える。
所詮人間は自分達の都合上、世界を区分けし枠組みをつくり、色分けしているにすぎないのだ。
いっそのこと、世界をまるごとカオスと見れば、誰も裁かず、誰からも裁かれず、心安らかでいられるかもしれない。
「カオス」の世界を視点としている面白い小説に、辻仁成の「海峡の光」があった。
この小説の舞台は、函館青年刑務所である。
物語は刑務官である主人公の前に、かつて自分を残酷なイジメで苦しめた優等生・花井が囚人として入ってくることに始まる。
閉じ込められたような「砂州の街」函館の海を背景に、主人公の心の動きや葛藤が面白い。
小説全体の雰囲気は息苦しい世界なのだが、監視されるはずの刑務官たる主人公が、いつか自分の過去がバレルのではないかと、花井という囚人に監視されているような立場の逆転が面白い。
しかもその花井は、人の気持ちを弄ぶことができる天才的なイジメッコなのであった。
そして刑務官は、何も言わない花井に自分のすべてを読まれているような気がしてくるのである。
さらに主人公は「規律の中に自分を浸して生きる」生活を送るのだが、花井のように世の中の外側にいられることの自由に憧れを抱いたりするのだ。
花井は主人公の目に、世の中の内側にはいられなかったけれども、刑務所の内側に居場所を見つけたようにも見えてくる。
刑務官は、自分の世界観にアンチ・テーゼを突きつけるかのようなこの囚人と共生していく他はないという、「囚人」のような気持ちにさせられていく。
これこそ、「シャッター・アイランド」の世界である。
ふと、井伏鱒二の「山椒魚」のなんかが脳裏を横切った。
ところで「逆転の世界」といえば、トリックともいってよい世界を描いた宮沢賢治の「注文の多い料理店」もなかなかの世界観がある。
山猫の狩にきた二人の男が腹がへって料理店に入ると、扉を通るたびに様々な注意書き(「注文」)が書いてある。
髪をきちんとして靴のの泥を落して下さいから始まり、鉄砲と弾丸をここへ置いて、帽子と外套と靴をおとり下さい、ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、その他金物類、ことに尖ったものは、みんなここに置いてください、と続く。
さらに、壺のなかのクリームを顔や手足にすっかり塗ってください、早くあなたの頭に瓶の中の香水をよく振りかけてという注文になり、最後には壺の中の塩をたくさんよくもみ込んでください、という奇妙な注文になっていく。
そしてようやく二人は気がつく。沢山の注文というのは、向うがこっちへ注文しているということだ。
通常、お客はレストランに入れば、食べたい料理を注文するが、この状況では料理を注文するお客が逆にいろいろな注文を受け、お客が料理人に食べられそうになる。
山猫をつかまえにやってきた二人が、実は山猫に食われる食材になっているという「どんでん返し」の世界なのである。
  「注文の多い料理店」は大正の好景気の時代を背景にしたもので、この物語の二人の紳士は、狩猟の服装や装備をみても、狩猟には不似合いなイギリスの兵隊の服装で、狩猟初心者のぴかぴかの鉄砲を持っている。
二人の紳士は、にわか狩猟家仕立ての新しがり好みの素人で、にわか成金家のご令息かなんかのようだ。
当時、狩猟は西洋貴族たちの趣味だったのだが、台頭する近代資本主義のブルジョワ文化のシンボル的な娯楽を指している。
となれば、この物語には、宮沢賢治のモダン文化への痛烈な諷刺がこめられている、かと思う。
「注文の多い料理店」が刊行されたのは1924年だが、この5年後に世界恐慌がおこり、日本もいわゆる「軍国主義」の時代に突入していく。
アジアを「食う」つもりで近代装備を整えた日本が、最後には「食われ」てしまう時代の経緯が自然に頭に浮かんだ。

かつて、韓国映画で「シュリ」という大ヒット映画があった。政府要人の狙撃の指令をうけた女性スパイの銃のターゲットの先には、その要人を警護する自分の恋人がいたという衝撃のラストであった。
最近衛星を使ったGPSや携帯が発達すると、互いの顔が見えないままの人々の動きが活発となり、このことから世界の「カオス」度が増幅しているようにさえ思える。
そして映画「シュリ」ような人間同士の皮肉な出会い方も、まるで「虚構」とばかりは言えなくなる状況が生まれている。
最近の犯罪で目を引くのは、正体さえ知らぬ「主犯」からインターネットで高額の報酬と見返りに見知らぬ者同士が集められ、「犯罪」のニオイをする行為を行うように命じられる。
ただ個々の人間は、自分の行動が「犯罪」全体の中でどんな役割を果たすのかもわからぬままに、「主犯」の指令のままに動いていく。
そして、(主犯の)目的を遂行し終わると即解散するといった新種の「組織的犯罪」も生まれている。
こういう組織集団はかつての社会学でいう「ゲマインシャフト」や「ゲゼルシャフト」という分け方でいえば、ゲゼルシャフトつまり利益追求のみに集まった会社などをさすのだろうが、利益目的を一点に極限化した、ピンポイントの「利益集団」のあり様といってよいかもしれない。
こういう「顔の見えない」状況で犯罪が行われるならば、例えば「誘拐」ターゲットが自分の「息子」だったというような可能性がないわけではない。(ないっか?)
こういう「家庭内誘拐?」は現実的にも確率的にないと言っていいが、もっと現実的なのは「家庭内不倫?」かもしれない。
携帯の出会い系サイトを使って待ち合わせをしたりしたら、そこに現れたのは「古女房」だったというような悲哀をなめたオヤジも本当にいるのではないかと思う。(こういう場合、娘でなくて本当に良かったと胸をなでおろす他はない)
スパイの夫が妻の不倫を疑い、その組織網を使ってその不倫を調査しようとしたカオス的公私混同映画があった。
A・シュワルツネッガー主演の映画「トゥルーライズ」だが、夫とは知らずホテルのベットに色気満開で入り込もうとする妻の姿は、(個人的)映画史に残る爆笑シーンであった。
ちなみに「トゥルーライズ」は「本当の嘘」の意味である。
そういえば1974年にカオス的展開をみせた実際の誘拐事件がおきた。いわゆる「パトリシア・ハースト誘拐事件」である。
アメリカでも十指に入る大富豪ハースト家の令嬢、パトリシアが誘拐された。
犯人グループSLAは貧民や虐げられた黒人や有色人種の解放を求める過激派であった。
犯人グループはその後、「パトリシアの解放と引き替えにカリフォルニアの貧民に1ヶ月1人につき70ドルを出せ!」という要求を発表した。
それは大富豪のハースト家といえども支払うことの出来る額ではなく、その結果 、パトリシアは、解放されないままに時間が過ぎていった。
マスコミは連日連夜、この誘拐事件を大々的に取り上げ、様々な憶測報道を繰り広げる。事件は一体どうなるのか、大衆は固唾を飲んで見守っていた。
ところが、事件はあまりに意外な展開を見せる。
誘拐事件から2ヶ月後、SLAは銀行を襲撃した。
そしてその時、銀行の監視カメラに映し出されたのは、誘拐されたパトリシアが、マシンガンを持ち、SLAメンバーと共に銀行強盗を行う姿だったのである。

互いの顔が見えないというのは、最近のアメリカの軍事行動にもみられる。
最近のアメリカ軍のイラクなどで見る軍事行動も、それまでとは全く異なるものになってきているらしい。
従来、国と国がぶつかりあう戦争では、軍隊というピラミッド型の組織が必要であった。
米軍最高司令官すなわち大統領を頂点とした組織の中で、上意下達の命令ですべて行動が決まった。
ところが9・11同時多発テロが発生した時に、このテの組織が全くといっていいほど機能しなかったために、新たな軍事戦略を構築することが急務となった。
そこでアメリカは、従来のピラミッド型組織を解体し、兵士1人1人が自らの判断で攻撃できるシステムを構築することになったのである。
このシステム変更への第一弾として、2001年10月8日に始まったアフガニスタン侵攻およびイラク進行で、小型衛星通信機を装備した兵士を投入している。
ペンタゴンが解析した情報を、組織の命令系統を経ることなく、直接、前衛にいる兵士1人1人におくり、情報を受け取った兵士は、上官の命令を待つことなく、自らの判断で行動できるようになったのである。
そうした情報が末端の兵士まで瞬時に共有できるようになったので、情報の把握、命令、行動、報告等かつて軍隊という組織の中で行われていたことが、兵士という「個人の中で完結」するようになったのである。
さらに重大なことは兵士一人一人が小型核兵器や化学兵器などの大量殺戮兵器を携帯するようになったのである。
この方式でアメリカはイラクとの戦争で大勝利を収めたのであるが、今上映中のイラク戦争を描いた「グリーン・ゾーン」にそうした「進化した歩兵」の姿が描かれている。
ただこの「進化した兵士」が、探すように命じられた「大量殺戮兵器」なんかどこないもないという疑問を抱き、衝撃の真実を知ることになるというストーリーである。
様々な分野で、軍事は民生に転換してきた。
イラクでの軍事行動に見られような人間行動の操作は、これから民生の世界に広がっていく可能性が高い。
ソフトバンクの社員は、孫社長のツイッターを毎日見て行動するそうである。
従来、上司の気質や互いの性格やなどを知りぬいた上ではじめて成り立つ組織的行動とは違い、そこには機能的に結び付けられた「顔のない」人々が中央解析の指令のみで動かされていく世界がある。
しかし、ナイものをアルとされて探せと命じられる。
そんな「中央指令」が飛んでくるのならば、世界はますますカオスの度合いを深めていくという他はない。