不器用の達人

”右手に見えます一番高いのが中指です”の山田邦子風"バスガイド芸"にも負けない"テンネン"バスガイドがいた。
歌手のまきのめぐみは、もとはバスガイドだった。バスガイド出身の歌手といえば八代亜紀以来で、テンネン・キャラという点で、両者とも似通ったところがある。
まきのさんは、高校卒業後、高橋真梨子にあこがれて歌手を目指し宮城県から上京し、とりあえず好きな歌が歌えてお給料までもらえるバスガイドになったという。
たまたまバラエティー番組の"貧乏バトル"に出演し、「わだすは歌手になりでぇ~」というアピールが、スカウトされるきっかけになった。
まきのさんは、2003年に「つぐみ」という曲でデビューしたが、NHKの番組で「日本放送協会」を「ニッポン放送」といい間違え、一躍“脚光”を浴びた。
実はバスガイド時代も数々の“伝説”の持ち主で、山を紹介する時、お地蔵さんと添い寝すると子宝に恵まれるというべきところを"オジサンと添い寝すると子宝に恵まれる"と言い間違え、運転手さんから、そりゃそうだ、と言われたそうだ。
「鴛鴦(おしどり)」という歌のリクエストを「オシボリ」と聞き違えたり、水戸の「偕楽園」を「失楽園」と言い間違って、乗客を大いに沸かせた。
一方、先輩バスガイド出身の八代亜紀の方は、父の反対を押し切ってまでなったバスガイドを、わずか1年足らずで辞めている。
思い描いていたのとは違って、仕事で歌うのは民謡ばかり、それに名所旧跡の台本の勉強やバスの掃除と、目指すクラブ・シンガーへのステップアップになりそうになかったからだ。
友人に「その世界に飛び込まないとダメ」と押し出され、当時16歳だったのに18歳とウソをついて八代市内で一番大きなキャバレーのオーディションを受けた。結果は「すぐ専属で歌ってほしい」であった。
バスガイドを辞めたことを知らない父は、「帰りの夜道は危ない」と迎えに来てくれていたが、小さな町なのですぐにバレてしまった。
父は「おまえは不良になった」と八代を往復ビンタしたが、「東京に出て本格的に歌の勉強をして歌手になりたい」と泣いて懇願した。
「オレはもう知らん。娘じゃない」と勘当同然となり、父は心労から1週間寝込んだという。
東京に上京するも仕送りは一切なし。昼は音楽学院に通い、夜は歌の仕事ができる店を探した。
その時スカウトされたのが、新宿・歌舞伎町にあった有名な「美人喫茶」であった。
コーヒーは1杯80円程度だったが、その店は1杯600円もして、給料はバスガイド時代の10倍にもなった。
初めて給料をもらった夜、アパートに帰ると部屋に電気がついていた。どんな暮らしをしているのか心配した父が、母を娘の様子を見ル為に寄越したのだった。
母に給料袋の10万円を見せると「どこで盗んできた」と勘違いされたが、説明したらようやく、「すごい」と言ってくれた。
次にスカウトされて銀座のクラブに移ったときには、給料はさらに20万円に倍増、一般サラリーマンの月給分を家賃に払う生活を送るようになっていたという。高額の化粧代も余裕で払えるようになった(たぶん)。
クラブ歌手を4年間続けたあと、1971年に八代亜紀の芸名でデビューした。
レコードを聞いたら、自分でも「こんな歌、聴いたことがない。すごい声だし。きっと売れる」と思いこんだが、全然売れなかった。
しかも給料は5万円とクラブ時代の4分の1で、1カ月のほとんどを新曲キャンペーンでキャバレー回りがつづいた。即売レコードの売り上げをマネジャーが持ち逃げするし、クラブ時代が恋しくなるほど苦闘の日々が続いたという。
1973年に「なみだ恋」が大ヒットし、1980年には「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞した。
八代はまた、幼い頃から絵を描くのが好きで、画家を夢見たこともあった。そんな彼女は45歳の頃から本格的に油絵を学び、画家としても才能を開花させた。
フランスの「ル・サロン」展に5年連続入選して、日本の芸能人として初の正会員になるなどの活躍をしている。
また彼女は、ボランティア活動にも熱心で、ペルーの子供たちのために基金を作ったり、1992年には同地に工業技術学校を設立しているという。
最近では、八代が自ら作詞したテンネン「替え歌」が評判で、テレビで歌った「舟歌」の替え歌「ズレてる」もなかなか好評であった。
歌詞を紹介するとそのテンネンぶりが如何なく表現されている。
♪食パン耳しかたべれない。餃子は具なしの皮が良い。お寿司は回らぬ方が良い。/ お皿が速くてつかめない。
ぶくぶく沈むカナヅチよ~~。スポーツジムで溺れたよ~~。
このまま死ぬかとおもったら~~。浅いと気づいたひざたけよ~~。/ 散歩行くたび迷子になるよ~。タクシー拾ってヨ 帰宅する、三度め~。
びくともしないエアコンが~~。テレビのリモコンむけていた~~。/ コピー機きらりとひかったら~~。漏れると思った放射能~~。♪

大歌手が自分の大ヒット曲をこういう「替え歌」にするところがスゴイですね。

一昨年、宮崎県の都井岬に旅したことがある。JR串間駅でおりて一日ニ本しかないコミュニティバスに乗り40分ぐらいでつく。
海岸と灯台、草原と馬のコントラストがなかなか素晴らしく、何度でも来たくなる場所だった。
帰りは、再びJR線で大隈半島の志布志に夜に着き、そこで宿泊した。
コンビナート開発の為の埋め立てをしており、意外や人が多い街だった。
假屋千尋(かりやちひろ)は、この志布志で生まれた。農家の四男であり成績は優秀であったが、経済的に進学は困難で馬の種付けの見習いとなった。
しかし、貧しい生活を苦にせず、いつも穏やかで、人から頼まれれば、決して断ることのない優しい男だったという。
そして、何より動物が好きで、特に馬を愛した。
1934年、農林省鹿児島種馬所へ入り、1938年1月、陸軍に徴兵され熊本へ行き、 さらに、千葉県にある陸軍野戦砲兵学校へ入校した。
そこは、馬で分解した砲や弾薬を運ぶため、全国から馬の扱いに長けた人が集められていた。
同級生によれば、陸軍の野砲学校へ入学できたのは、千尋は並みではない優秀な人間だったからだという。
この学校で最優秀だったため、大尉で中隊長代理だった朝鮮王族の李公の馬番に任命された。
日中戦争が拡大するにともない、千尋はと馬とともに戦線に送り込まれた。
分解された砲だけでも1トン、弾薬も入れると2トンを運ぶ、地面がぬかるんだ場合など、馬には相当の負担がかかった。
同じ部隊にいた人は假屋千尋が馬をさばく姿をよく憶えていた。
「ある時、川沿いの道を行軍中に馬が川へすべり落ちた。すると假屋軍曹が、すぐに飛び込んで馬を引き上げました。 馬は耳に水が入るとだめなので、手で馬の頭を高く挙げて、そのままの形で泳いで対岸まで行った。 馬に玉が当たって処分しなければならない時は、本当に泣きながらやってました」と。
1932年10月、5年間の兵役が終わり除隊し鹿児島松山村へ帰郷したが、所属した隊はソロモン諸島のブーゲンビル島へ転進し、約8割が戦死したことを知った。
その後、種馬所時代の先輩の娘と25歳で結婚して二人で福岡県小倉へ出て、陸軍兵器補給廠で工員として働いた。
長男が生まれたが喜ぶもつかの間で肺炎で死去した。終戦後、夫婦で鹿児島県松山村へ帰郷。農作業のかたわら、種付け師の仕事を始めた。
しかしその妻も腹膜炎で25歳の若さで死去した。
生きる目標を失い意気消沈する千尋であったが、周囲の薦めで再婚することができた。相手も病気の夫と死別していた。そして生まれたのが美尋(よしひろ)であった。
1950年に朝鮮戦争が勃発し、千尋は警察予備隊に誘われたが断わった。息子の美尋が小学校の頃、千尋が馬に乗って授業参観にきたため、生徒は騒然となり、それ以来、美尋のあだ名は「種馬」となった。
しかし、耕運機が普及しだし種付け師は廃業となった。
それにもかかわらず千尋は、近隣をくまなく歩き回り、100組もの縁談をまとめたほど面倒見の良い男だった。
馬を直接的に誕生させることから、間接的ではあるが人間を誕生させることにエネルギーを注いだのか。
息子の美尋は東京の大学へは自力で行くことになった。1969年3月25日、都城駅にて父親は息子に1万円だけ渡したという。
その時、父は「いま我慢すれば、きっとよか日がくる」と励ました。
美尋は大学卒業後に芸人になるが、まったく芽が出なかった。父・千尋はそれをとても心配して、息子が森進一の専属司会者をしていた時、森に「マムシ入りの焼酎」などを贈っていたそうだ。
1997年4月2日、父・千尋は耕運機に乗っていて、耕運機ごと4mほど転落して死亡した。享年79歳であった。
それから5年後、息子・美尋は「綾小路きみまろ」の名で爆発的にブレイクした。
旧知の人々は、「綾小路きみまろ」の語り口は、父假屋千尋にそっくりだと証言する。
そして「馬のたてがみ」風のヘアスタイルも、昔「種馬」とあだ名をつけられた名残なのか。
その語り口は、笑いをよぶ職人芸になりつつあるが、その一部を紹介すると次のとうり。
”今日はきみまろが来るというので、何を着ていこうかしら。もっている一番いい服を着ていこうとおもって、アンナ感じ。(客を指差し爆笑)。前にお座りのかたなんかナフタリンの匂いまでします。
人それぞれ悩みをかかえていきているのでございますが、ご主人は汗水たらして働いて、酒と薬を交互に飲みながら、手となり足となり首になり、会社にいけば上役にしごかれ、部下に陰口をタタカレ、奥さんはそんなことはツユしらず美容室に通い、磨き上げたツモリが、首から下は骨董品。腰から下は掘り出し物。
ご主人は家に帰れば女房になついたイヌに吠えられ、二言目にはフケツだキタナイなどとののしられ、毎晩毎晩女房の方が一番風呂。女房が入った後のアカを桶ですくい取り、いつまでも逃げる女房のアカ。汚くてぬるい湯にはいったところで疲れなんかとれるわけはない。風呂から上がれば下着は自分でさがす。寝床にはいれば、男よりでかい女房のイビキ。出あった頃の女房は食べたくなるほど可愛かった。あれから40年、ギャザーのついた顔。あの時、食べとけばよかった。会社よりも女房に出したい退職届。”
~てな、具合です。

飄々としてとぼけた味のマギー司郎は、茨城訛りのトークで人気の手品師・タレントである。
「縦ジマのハンカチを横にして横ジマのハンカチにする」などの一見「インチキマジック」を行いつつ笑いを取りながら、 終盤には必ず正統派のマジックを見せる。
そしてマギー司郎の言葉は、いまや名言として本にまでなっている。
人間は遅咲き、早咲きがありますから、遅く咲く人間のことをじっくり見守ってあげる事が大事である。
だって、種まいてすぐには花は咲かないでしょ?「これでよかったのかな」と不安になることもなく、挫折したこともない。だって将来の計画など立てないから。
早咲きの花もあれば、遅咲きの花もある。
もしかしたら、ずっと咲かないものだっているだろう。でも、それでもいいじゃない。皆が綺麗に咲くわけじゃない。 中には咲かない花があっても、それもまた花なんだから。
自分の弱点は武器になる。弱点をさらけ出せば人は強くなれる。人間って、ダメになろうとしている人は、1人もいない。
すぐに幸せになれなくても、ゆっくり幸せになればいいんだよ。あんまり無理しないで、ダラダラやってんのも芸のうちかなと思ってね。
普通に生きているだけで、100点だよ~っていってんの、てな具合です。
マギー氏の家庭は父は数々の事業に失敗しとびきりの貧乏だった。9人兄弟の7番目、体が小さくて、なぜかいつもころんでしまう。右目が斜視で、ほとんど視力がなかったことによる。
学校で黒板の字が見えないから勉強がえきるはずもなく、友人からもいじめられた。それは母親は動物が子供を守るように、本能のままに司郎を守ってくれたという。
小学校4年の時に母親がメガネを買ってくれた。メガネは家庭にとって高価なもので二升のコメをかついでいって手に入れたものだった。ある時眼鏡をこわして米粒で張り合わせてなんとか直したが、母に怒られるよりも申し訳なくてうつむいてご飯を食べた。母親はそれに気づいて何もいわなかった。
母親は自分を不憫に思ったようだが、司郎は自分を不憫だと思ったことは一度もなかった。
小さい体でも歩いたり走ったり出来たし、皆と同じように階段ののぼり降りができたからである。
友人から「この前すれちがった」といわれても、片方が視力がないので気づかないことが多かった。無視しているとおもわれたくなから、いつもニコニコしていようと思ったという。
自分の食うくらいは自分でしようと思いつつ、16歳の時に布団背負って東京にでた。 中学を出てバーテンなどをして働いた。食べるものがない辛さは小さい頃から馴れていた。
19歳の時ににマジックに出会い、不器用な自分に出来るはずはないと思いつつ、それでもストリップ小屋の余興を仕事を得ることができた。
客は余興を見に来ているわけでないので、モタモタしていると早く消えろといわんばかりの罵声ばかりあびせられた。
そのうちついホンネがでた。「ゴメンネ~。実は僕、マジック下手なんですよ~」と。
茨城訛りの田舎臭い話し方と正直な言葉がむすびついてそれが観客の心をつかんだ。これが32歳の時、マジックをはじめて10年以上がたっていたが、ようやくコレダと思った。
上手なマジシャンならばたくさんいる。しかし自分から下手だというマジシャンはいない。
この時「マギー司郎」が誕生したといえる。
マギー司郎氏は、一日4回のマジックを15年間つづけたというから、それだけでも大変なもだ。
その間に、アパートも3畳一間から板間つきの4畳半に変わった。
司郎は、いつもこれで十分だと思った。それよりも踊り子さんたちから色んなものを学んだという。
皆、何らかの事情を抱えて必死で生きていたからだ。
踊り子さんの出産に二度ほど立ち会ったし、馬小屋のような状況ではあってもけして悲しいものではなく、本当に人間的な美しさに感動したという。
マギー司郎氏が出演したNHKの「課外授業ようこそ先輩」は大反響をよんだ。
せっかく神様がこの世にうみだしてくれたんだから、幸せにならないと申し訳ないよ。
今、僕は幸せ。六十を過ぎた今も、仕事の依頼があって、舞台ではお客さん笑ってくれて、そして九人の 弟子がして。何も無いところから始まって、ここまでいかしてくれたことに本当に感謝しているの。
子供の頃、僕はまったく勉強できなかったのね。家が貧しくて栄養が足りなかったせいか、片方の目がほとんどみえなかった。
早々と低学年で落ちこぼれドッジボールもすぐにあてられて早々と退場していった。
そして臆病でいつも端っこにいた。上京してしバーのバーテンをした。 ストリップの前座もウケなかったが投げ出さずにつづけてこられたのは、子供の頃、母親から生きていく本能を教えてくれたからだという。
「アタマがよくなかった僕は、本能を信じる他はなかった。
できないことばっかりで、人と比較したら負けてばかりだった。人と比べたりあせったりしてヨクバルとろくなことはないとわかるようになった。
ムダに頑張りすぎると誰かにメイワクをかけるので、自分の呼吸や自分のリズムを大切にした」
と、"人生の達人"は語った。