世紀の救出劇

8月5日に起きたチリ・サンホセ鉱山落盤事故における33名の生存確認のニュースは、世界中に嬉しい驚きを与えている。
鉱山の坑道は落盤を防ぐためにラセンを描くように迂回しながら掘られているそうだ。
事故後に、生存を確認するために直径13センチの穴を地下シェルターまで直線的に掘ってみたところ、引きあげたドリルの先に「33人は地下避難所にいて全員無事」と赤ペンで走り書きしたメモがついていたという。
さっそく「われわれはあなたたちと共にいる」といった励ましの手紙を降ろした。
そして現在、全員が避難している地下シェルターへ人間が脱出できる大きさの穴を掘り進めており、順調に作業がすすめばクリスマスキャロルが聞こえる頃には、奇跡の全員生還が実現するかもしれない。(実際は、必死の作業で10月中旬に全員救出が実現した)。
しかしニュースを聞いてまず驚いたのは、鉱山の作業が地下700から800メートルの深さで行われていたことだった。
サンホセ鉱山では銅の採掘がおこなわれいるが、どんな鉱産資源でも採掘が進めば「レア」となり、鉱山仕事の危険度が増すということだ。
しかも、こういう鉱山資源の採掘は、新興国で行われているケースが多く、そうした資源の恩恵を受けている先進国が多いことを考えれば、サンホセ鉱山に閉じ込められた人々が国際的な関心をよぶのは当然なことでもある。
ところでチリは世界でも指折りの銅産出国であり、日本の送電線の銅線等は、チリから輸入した銅によってつくられており、サンホセ鉱山から大きな恩恵をうけている。
日本の近代史を振り返れば、火薬の原料である「硝石」もチリの鉱山で産出されたものを使っていた。
日本は1920年ごろに硝石が化学合成されるまでは、鉄砲用、大砲用、花火用等の黒色火薬用の硝石は、チリ産を中心にたくさんに輸入していたのである。
現在救出に向けて掘り進められている直径70センチの縦坑の掘削には、スペイン、オーストラリアの水圧式大型掘削機が採用されたという。
まず心配なのは、食糧、栄養面などで、すでに体重も10キロほど減量している者もでている。
水は地下水を使える態勢を整えたが、食糧はきわめて限られた量しかない。
現在の小さな穴から食料品、懐中電灯、医療品など可能な限り送り続けているという。
しかし閉塞感のある長期の生活に対しては、精神面や体力面の消耗との戦いでもある。
幸い換気は正常におこなわれているそうだが、何しろアパートの小さな一室に33名が暗闇のなかにいるのだ。
また、ほとんど運動していない彼らは、専門のスポーツ・トレーナーの指示に従ってエクササイズを始めてるという。
シェルターにいる最年長で63歳の作業員の手紙が新聞に公開された。
「愛する妻へ。片時も君への思いがやむことがない」「生きて外にでる我慢して信じてくれ」
国際的な協力のもと救出が行われているという意味でも、全員の救出が成功すればその「感激」はヒトシオだろう。
さっそくこの事故を映画化するという話がもちあがりすでに現地で映画撮影が行われているそうだ。
サンホセ鉱山の落盤事故では、アメリカのNASAの「宇宙ステーション」での生活のノウハウが、地下シェルターにおける生活における実際面に活用されている。
いずれにせよサンホセ落盤事故からの救出は、「世紀の救出劇」になりそうである。

地下資源開発が宇宙開発と結びついた映画といえば、まずは「アルマゲドン」を思い出す。
地球への隕石衝突を防ぐ為、ブルースウィルス率いる石油採掘士達が宇宙に行って、隕石を爆発させる話である。
サンホセ鉱山では、地上のスタッフと地下シェルターの被災者が連携しながら脱出(or救出)を図っている。
それでいくと宇宙の密室である宇宙船と地上の管制センターが連携して、見事宇宙からの脱出劇をはかったアポロ13号で起こった出来事によく似ている。
この実際の出来事は1995 年に「アポロ13」としてトム・ハンクス主演で映画化されたが、不慮の事態に遭遇したときの、宇宙飛行士と管制官をはじめ、関係者の問題処理能力の高さ、冷静な判断力、総合力の高さを、CGを駆使して見事に映像化した。
1970年4月11日、アポロ13号は月面着陸を目指し「嵐の海」フラ・マウロ高原に着陸する予定であったが、事故が発生したため、月面着陸どころか帰還さえ危ぶまれる事態となった。
打ち上げから6日後、酸素タンクが爆発して電力と酸素の供給が低下し、アポロ宇宙船は機能を失いかけた。
パイロットの3人はヒューストン管制センターからの指示で、月面着陸船アクエリアス号の方に避難する。いわばアクエリアス号を「救命ボート」とする「離れ技」で司令船オデッセイ号の電力や酸素や燃料を温存することにしたのだ。
地球の大気圏に再突入するまでそれらを残しておかねばならなかったからである。
しかし「救命ボート」になるはずの月面着陸船では、二酸化炭素濃度の上昇、電力の不足がおきていたが、船内では残存電力を保つために最低限の電力しか使わず凍るように寒くなるが、乗員同士支え合った。
そして地上では、管制官達だけでなく、宇宙船のメーカーからエンジニアが召集され対策が練られた。
映画では、直前に病気になって搭乗しなかった宇宙飛行士が「飛行船シミュレータ装置」に乗り込んで乗員の実際の動きをとらえつつ、乗員をバックアップしたのが印象的だった。
事故のために13号がコースを外れていることも判明したが、地球へ帰るためには予定軌道の修正も必要で、着陸船の姿勢制御エンジンを使ってそれをやりとげた。
誘導コンピュータは電力を使用してしまうため起動できず、手動噴射による姿勢制御を決断した。
窓の外は船外を漂うゴミと、船内の室温低下とで曇っていてよく見えず、地球だけを唯一の目印として手動噴射を行いそれが見事に成功したのである。
そして月をまわって、最後の山場「大気圏突入」へとむかった。
映画の中のシーンとして印象的だったのは、地上の管制センターではコンピュータですべての計算が行われるのではなく、スタッフが「計算尺」で計算しつつ指示を出していた点で、1970年という「時代」を感じた。
そして最後のヤマ「大気圏再突入」では、通常通信が約3分間途絶してしまうという。
つまり最も乗員の生死があやぶまれる時に通信が途切れるのである。
そしてこの場面こそがこの映画のハイライトだが、地上で人々はその3分間が経過するのを祈るような思いで待った。
しかし3分間が経っても宇宙船からの返答はない。
時が凍っているかのようだったが、約4分後、ついに交信が入った。
管制センターで人々は感声を挙げ抱き合い涙を流し合った。
そしてついに、限られた資源と時間その他あらゆるリミットの中で、乗員と管制センターの人々が能力をフルに出しつくした連携により、全員無事に地球に帰還することに成功できたのである。
「輝ける失敗」という言葉は、時々使われる言葉かもしれないが、アメリカの宇宙開発における「アポロ13号」の失敗をさす言葉として「固有名詞化」している。
つまり月アポロ13号の救出劇は、月面着陸の成功に劣らない評価の高い「失敗」への対応であったということだ。

しかしいかに救援者の努力や連携の力、ハイテク技術があったしても、一番根本的なことは被災者自身の「生きようとする意思」あるいは「生命力」あるいは「運」が生存を左右するのだと思う。
日本で起きた新潟県中越地震における幼い男の子の救出劇がそれを物語っている。
2004年10月、地震による土砂の中で四日間、救出を待ち続けた39才の母親と幼い二人の子供がいた。
そして母親と長女3歳に対する救出は遅れたが、2歳の長男皆川優太君が奇跡的に救出された。
この日、ハイパーレスキュー隊の隊員らが到着し、さっそく土砂崩れの現場で呼び掛けつつ、土砂の上にリモコンの小型へりなどを飛ばした結果、かすかに「うめき声」を聞いた。
色めき立つ隊員達は、「絶対出すぞ」との決意をもって懸命の土砂の除去作業を行った。
そして、車と岩のわずかなすき間に立つ優太君を見つけ、ほぼ丸四日間真っ暗闇の中で耐え続けた小さな命を抱き上げた。
車は運転席が下になり、車底と岩の間に幅五十センチ、高さ一メートルほどのすき間ができていた。優太君はちょうどその空間に白いトレーナーにオムツを履いた状態で発見され、泣いてはいなかったという。
光が全く届かない中、水分があったことと瓦礫の下で温度があまり下がらなかったことが生存を可能にした。
優太ちゃんは「車の中でミルクを飲んだ」と話しているが、事故の前後は分からないという。
ところでこの救出劇は、余震の中での作業となり隊員達にとっても「命がけ」の作業であり、救出に際して利用されたハイテク技術の活躍も見逃せない。
実は、ハイパーレスキュー隊は東京消防庁の消防救助機動部隊の通称で、阪神大震災を教訓に1996年12月に設置されたもので、当時高度な専門技術を持つ126人の隊員を擁していた。
彼らが東京から救援の為に新潟の被災地にかけつけたのは、土砂やがれきに埋もれた生存者を探すためのハイテク機器を装備していたからである。
この時の生存者の捜索では、電磁波を放射して生存者の鼓動や呼吸をキャッチする人命探査装置「シリウス」や、ファイバースコープでがれき内部の状況を確認する画像探査装置「ボーカメ」などを駆使した。
しかし、そんなハイテク技術より一番の驚きは、雄太君の生命力の強さと強運であった。
雄太君は車の中から自分で出たのか、投げ出されて車外に出たのかは分からないが、意識は朦朧としていたもののほとんど怪我はなかった。

映画(or小説)「栄光への脱出」は、イスラエル建国(1948年)における実際の出来事を描いた映画である。
この映画の舞台は1947年の地中海のキプロス島であるが、当時キプロス島にはイスラエルに帰ろうとするユダヤ人たちがイギリス軍によって収容されていた。
アラブ人がすでに定住しているパレスチナを委任統治していたイギリス軍は、そこに流れこもうとするユダヤ人達を紛争をさけるために収容していたのである。
そこにひとりのアメリカ人女性キティが、キプロスで死んだカメラマンの夫の足跡を調べるためにやってきた。
そして現地のユダヤ人たちの窮状をみた彼女は、看護婦として収容所で働くことになった。
そこで彼女は、ユダヤ人美少女カレンやユダヤ人少年ドヴ・ランドーと知り合あった。
またその頃、1人のユダヤ人地下組織のリーダーがキプロスに潜入した。ポール・ニューマン演じるアリ・ベン・ケナンである。
元英軍将校だったアリの任務は、ユダヤ国家再建のためキプロスのユダヤ人たち2800人をエルサレムに送りこむことだった。
イギリスの軍服を活用して、彼は貨物船オリンピア号を「エクソダス号」と改名し、ユダヤ人たちをのせて港を出ようとした。
美少女カレンを養女にしようとしたキティも、少女とともにこの船の中にいた。
しかしイギリス軍はこれを察知して停船を命じたが、ユダヤ人達はこれにハンストをもって対抗した。
やがて世界中でイギリス軍に対する批判がわきおこり、世論に負けたイギリス軍は「エクソダス号」の出港を許し、一行はイスラエル北部にある地中海沿岸の都市ハイファの町に着いた。
そしてカレンらユダヤ人の少年少女達は丘の上にあるユダヤ人達の「青春の村」におち着いた。
アリの父や友好的なアラビア人達が一行を迎えたのだが、アリの伯父アキバは戦闘的なユダヤ人地下組織のリーダーで、アリたち平和主義者と対立していた。
そしてドヴ・ランドー少年はこの過激派に加わったのである。
エルサレムでアリと再び巡り逢ったキティは、次第に彼に愛情を感じるようになる。
その頃アキバ一派は暴動をおこしてイギリス軍に捕らえられ刑務所に入れられるが、アリはアラブ諸国の妨害を排除するにはユダヤ人組織を統一するのが必要と考えアキバ達を救出した。
しかし傷ついた伯父アキバはアリの腕の中で死んでいった。
1947年11月、国連はパレスチナ分割を可決しユダヤ人の国イスラエル共和国が誕生した。
しかし、そのことは同時にユダヤ人とアラブ諸国の争いが本格化することを意味していた。
アリは少年少女を「青春の村」から脱出させ戦闘体制を整えた。美少女のカレンは銃弾に倒れたが、今やアリと行動を共にする決意したアメリカ人女性キティも銃をとる。
この映画は1960年の作品だが、ユダヤ人内部の穏健派と過激派の内部抗争描かれていると同時に、アラブとイスラエルの今日に至る紛争も予見されている。
したがって映画の内容は「栄光への脱出」というほど晴れがましいものではない。
この映画の原題「Exdous」は、ユダヤ人が乗った船の名前である「エクソダス」であるが、さらにこの「エクソダス」という言葉は、旧約聖書の「出エジプト」をさす言葉である。
すなわち映画「十戒」でも描かれたモーセによるユダヤ人の「出エジプト」の物語のことである。
聖書は「出エジプト」以外にも脱出劇や救出劇に溢れており、それこそが聖書の主要なテーマの一つといっても過言ではない。
例えば、洪水からのノアの家族の救出、追っ手エジプト軍からの紅海における脱出、ソドム・ゴモラの破壊からのロト一家の脱出、エリコ要塞の崩落からのラハブの救出、さらに巨大魚に呑み込まれたヨナの脱出、ダニエルのライオンの穴からの脱出などである。
キリスト教における「救い」というのは、一般的には罪の赦しと復活の保証など「霊的な救い」を意味するが、マタイの福音書の24章以下にイエスが「憎むべきものが聖なる場所に立つのを見たならば、ユダヤにいる人々は山に逃げよ」などと具体的に語っているように、(そういう時代に生きた者達にとっては)人間の肉体的(身体的な)な救出をも意味している。
ところで、ユダヤ人の最大の祭り「過越の祭り」は、まさにユダヤ人最大の危機からの「脱出劇」を記念する祭りなのである。
紀元前13世紀半ば頃、飢饉が起こってエジプトに逃れてきたユダヤ人はエジプト人とともに生活するが、 しだいに人口が増えるとエジプト人との争いが絶えなくなり、故郷カナンへの帰還をエジプトの王パロに願いでる。
ところがパロは、その願いを受け入れなかったので、神はエジプトに様々の災いを下す。
そして、イナゴの大群の襲来やナイル川の「水が血に変わる」などの様々な災いが下ることになるのだが、最後に疫病によって各家の長子の命を奪うという恐ろしい災いが下ることになる。
その時に、神はユダヤ人に家の入り口の鴨居に「羊の血をぬる」ことを命じる。
そしてこの「羊の血」を目印に、神の災いは「過ぎ越す」のである。この救出劇を記念して行われるのが、ユダヤ人最大の祭り「過越の祭」である。
ところでこの「羊の血」は、新約聖書における「イエス・キリストの血」の「ヒナ形」である。
そしてイエスが行った最初の奇跡、つまりカナの町での結婚式で行った「水が葡萄酒に変わる」奇跡は、「水が血に変わる」という「洗礼」をさししめしている。ここが神道の「きよめ」と根本的な違いである。
したがって、洗礼とは「羊の血」を身に帯びるということであり、イエスは罪の許しをもたらす「贖いの羊」とされる。