竜馬が架けた橋

サイモンとガ-ファンルのヒット曲に「明日にかける橋」というのがあった。
サワリを英訳すると、「自ら身を横たえ荒らぶる海に架かる橋のようになろう」という歌詞である。
そこで浮かんだのが坂本竜馬、否、坂本竜馬で浮かんだのが「明日に架ける橋」なのだ。
荒ぶる「幕末の海」に自らの身を横たえた坂本竜馬とは、「明日に架ける橋」のような存在だったのかもしれない、と。
ドン詰まりの時に、結びつかないものを結びつけて現状を打破する道を通した「橋」のような存在。
歌が「今船出の時だ。銀色の少女よ」なら、竜馬はさしずめ「今船出の時だ。草莽の志士よ」という感じで、「明日の新政府」つまり明治新政府へと繋がる道を指し示したのだ。
竜馬が開いた「明治新政府への道」の第一とは、幕府を倒すために薩摩と長州という不倶戴天の敵を結束(=薩長連合)させたことだ。
土佐から出て江戸の千葉道場で技を磨き剣客としの技を磨いたが、わずか数年で薩摩や長州の両方に顔がきくキ-パ-ソンになりえたのだから、なんとういう怪(快?)人物かと思わざるをえない。
竜馬が開いた「明治新政府への道」の第二は、薩長が幕府を倒すに躍起になっている時に、大政奉還に繋がるビジョン(「船中八策」)を語ったことである。
薩長はこれで幕府を武力で倒す名目を完全に失う。
徳川家が天皇方に政権を返上したところで到底政権担当力はもちえず、徳川家は大名会議で実質的な主導権を握れる、というヨミがあった。
これは薩長連合と矛盾する徳川家擁護論にも見えるが、ポイントはむしろ、土佐藩主がこの構想の提唱者となれば、土佐藩が新政府で主導権を握れるという構想であった。その点では竜馬もやはり土佐人であった。
この構想を竜馬は土佐から長崎にむかう船の中で語り、その内容に土佐藩の要人である後藤象二郎が飛びついた。
ドンづまり傾向の土佐藩にとって「渡りに船」とはこのことで、天皇方につき勢いを増す薩長に後塵を拝する土佐藩が繰りだす「ウルトラC」になるやもしれないのだ。
もっとも、薩長に勢いづかせた張本人こそが坂本竜馬であったのだが。
明治新政府において、「船中八策」が多少練り直されて「五箇条の御誓文」として発表されるが、驚くべきことに議会が大名会議であることを除けば、ほんど今日的政体を志向する内容になっていることである。
こういうスケールの大きな構想は、必ずしも坂本竜馬の独創というわけではない。
一番大きな影響を与えたのは、勝海舟という幕臣の影響だろう。
竜馬は幕臣である勝を斬りにいき、まずは話を聞いてから斬れと諭され、勝に日本が置かれている現状を聞きすっかり心服し、勝の弟子となる決意をした。
竜馬にはそういう柔らかさあり、人に好かれる素直さと天真爛漫さがあった。
勝海舟のほうも幕臣でありながら、倒幕の志士達と連絡を取りながら末期の幕政を操縦し、新政府への道へと導いたののだから、既成の枠組に収まりきれない人物であったにちがいない。
勝は当時の国際情勢から幕府と大名の海軍を合体して海軍を増強しなければならない必要性を誰よりも強く感じており、神戸に海軍操練所を創立する。
そして竜馬は他の土佐藩士を引き込んでこの操錬所で海運を学ぶ。
この海軍操錬所から禁門の変参加者が出た為に反幕的であるとして閉鎖されるが、一緒に学んだ仲間をひきつれて長崎の亀山の地に拠点を作った。
これが日本で最初の株式会社ともいわれる亀山社中である。
亀山社中が、当時幕府から徹底マークされた朝敵・長州藩が必要とする外国の武器を薩摩藩名義で購入し、それを長州藩に引き渡すというもので、これをもって「薩長連合」が実体をもつことができた。
長州が買い込む武器の中には艦船もあるだろうから、その引渡しには当然に船の航行術が必要になる。
竜馬は、操練所で学んだ仲間のの海運技術が生きるはずだ、と考えたに違いない。
そしてイギリス商人グラバーも長州の為に武器を用意し、約4300挺の銃が、長崎から薩摩の船で長州へと運ばれた。
かつて京都御所周辺で互いに激闘した薩摩と長州がこうした武器の受け渡しで結ばれたのだから、これは「ウルトラC」という他はない。
ところでこの坂本竜馬と同藩で、海運で財をなした岩崎弥太郎は、もともと土佐藩に所属する土佐商会を運営する一役人だったが、後藤象二郎と竜馬の会談で亀山社中は土佐直属の運輸機関「海援隊」となるが、このことにより坂本は脱藩の罪を許され、土佐藩を前面に出す「大政奉還」ビジョンを打ち出すのである。
もともと土佐藩の貿易を担当する事務方に過ぎなかった岩崎弥太郎はむしろ竜馬がつくった海援隊の規約の「翔天の鶴」の如き自由闊達さに心ひかれていた。
そして、竜馬が亡き後「海援隊」を抱き込んだ岩崎が、坂本竜馬の海外飛雄の精神を引き継ぐ気持ちに至った時に、岩崎も一藩士から脱皮できたと言えるかもしれない。
その後、土佐藩直属の土佐商会も海援隊も閉鎖されるが、岩崎は新たに九十九商会を創設して海運業を営み、これが日本最大の財閥三菱へと発展する。
つまり竜馬は若くして暗殺されるが、自らが身を横たえたその「架け橋」は、岩崎弥太郎を「介して」さらに大きな未来へと架けられるのである。

ところで、株式会社というものは、もともと海運の歴史の中から生まれたものである。
中世ヨーロッパにおいて、冒険のスポンサーは国家(王家)や貴族であることが一般的であった。
冒険の結果もらたされる異国の富や植民地に出来る土地の発見によって、国家を富ませるという目的があったからである。
その後、ある程度自立した商人達が共同で船をだすようになる。
危険な航海に関して取引が行われた場合もあった。商人の中には、地中海やアフリカ沿岸の航海が成功するかどうかを賭ける人もいた。
船がたくさんの荷物を積んで戻ってくれば、共同お金を出し合った人は儲けたが、沈没したり海賊に略奪されたりしても、一人当たりの損失はそれほど多くはないようにして、資金を集めた。
彼らはいわば「賭け」の証明書を発行して、それを他人に売った。
共同でお金を出した船が戻ってくるか不安になれば、商人は自分の持ち分を他人に売ることができた。
そして持ち分の売り買いについては相場がついたのである。こうした持ち分は利益を貰う権利だから「株」と同じ機能をもつことになる。
また大海を渡っていく航海のリスクを少なくするために、お金を何人かで出し合って船の装備や船員をそろえる人もいた。
1602年、オランダで「持ち分の商売」に画期的アイデアが生まれた。何人かの商人が船の装備や船員を準備する団体を作ったのである。
一度航海が終わったら解散というのではなく、それまでのように各自が別々の商売を行うのではなく、そのまま一緒に活動を続ける。彼らの会社は東インド会社と名づけられた。
ちなみに長崎出島にできたオランダ商館は、正式には東インド会社長崎支店である。

坂本竜馬が今NHK大河ドラマで放映され、竜馬ブーム、長崎ブームとなっている。龍馬がブームになる理由は、もちろん主役を演じる福山人気に拠るだけではない。
閉塞感のある時代に、竜馬のようなスクールの大きな構想力、水と油の関係にあるものを結びつけるウルトラC、そして身近な持ち物や身につけるものからも見られる「時代を先取りする精神」などが待望されているからだろう。
また、人々が「竜馬が今生きていれば」と今の時代に置き換えてみたくなる人間的な面白さだろう。
竜馬が交渉をした長州藩の桂小五郎は勇猛果敢であったが、危機一髪で逃げおおせた為に「逃げの小五郎」といわれた。
桂小五郎は女性にもてた為に、実際は女性がいつも「逃げ口」を用意してくれたが為に生き延びた面もあるのだが、その小五郎が木戸孝允として明治政府に置かれると、「守勢」に入ったのか精彩を欠いた感が否めない。
そこで竜馬が生き延びて「維新の三傑」のプラスワンの「四傑」に数えられたならば、どんなに大きな政治力を発揮したかとも思わぬでもないが、逆に勲章だらけの坂本竜馬は若き日とは全く違った生き方をするようになったかもしれない。
坂本龍馬の本領は、魑魅魍魎の政治の世界ではなく、むしろ国際的な経済人として生きる方向にあるのではないか。
その点で岩崎はあまりにも「政商」とし側面が強く、竜馬についてはもっと自由な立場で世界の海へ勇躍する姿をイメージしたい。
多くの勲章をつけ元老とよばれたり、利ざとく「政商」などどよばれる坂本竜馬は見たくはない。
実は岩崎弥太郎も長く生きたように見えるが、37歳て実業に身を投じ52歳で比較的早死にしたので、本当に働いたのはわずか15年にしかすぎない。
岩崎ほど短期間に多くの仕事をしたものもなく、また彼ほど大きい富を作った者もないといえるかもしれない。
ところで、その岩崎弥太郎には17歳年の違う弟の弥之助がいた。
岩崎弥之助は米国へ遊学し三菱財閥の二大代目総帥となり、その後日本銀行を掌し財界の重鎮となった。
日本の財界にも岩崎を通じて竜馬の「心の遺伝子」は受け継がれた。

坂本竜馬の架け橋は、共和政体を志向する「船中八策」、経済的な海外発展を志向する「海援隊の規約」を柱として、日本の未来へと長く延びていった。
まさか竜馬が薩長連合をなしとげたような「ウルトラC」の遺伝子が、戦後の財界にまで生きているとは言わないが、大きな政界再編のビジョンは実は政界からではなくて、財界から出ているのである。
1955年社会党の左派右派が合同した為に、財界は自由党と民主党が合同しなければ安定した保守政権は望めないと要望し、保守合同が行われた。
つまり55年体制が敷かれたのは、財界が起源なのである。
また、最近実現した保守政党による二大政党制も一見、小沢一郎氏らがデザインしたように見られがちだが、実際には財界が主動因となったのである。
1989年の総選挙で自民党が惨敗し、与野党の勢力が逆転した。
自民党の惨敗の理由は、リクルート事件の広がり、コメ自由化、消費税導入問題などで国民は、NOを突きつけたのである。
加えて、社会党のマドンナ候補の勢いに押された面も大きい。
この自民党の敗北で、長年日本の保守支配を続けたパートナーすなわち財界との不協和音が目につくようになってきた。
そして、経団連副会長で昭和シェル石油会長であった永山時雄氏の口から「保守合同の歴史使命は終わった。中道までを含めた二党で政策を争うべきではないか。議会制民主主義の本来の”二党制”に戻るのがいいと思う」という発言が飛び出した。
そればかりか、財界は土井たか子を党首とする社会党へ接近を始めたのである。
その背景には、OECD加盟の先進24カ国のうちすでに10カ国で社会党を名乗る政党が政権に参加しているため、 日本社会党が「西欧型の社会民主主義」を目指すのであれば、財界とて社会党ことさら敵視する必要はないという機運が高まっていたのである。
「西欧型の社会民主主義」に共通する原則はマルクス・レーニン主義と決別し、①階級政党から国民政党へ、②「西側」の一員としての立場を明確化する、③自由主義体制の維持、だった。
とりわけ西欧の各党は経済界との関係を修復、支持を取り付けたが、政権政党維持のカギとなっているという認識があった。
財界は社会党がそうした西欧型の社会民主党への脱皮を期待したのだが、財界と社会党との接近を知り、選挙で破れた自民党の気分が良かろうはずはない。
海部政権で幹事長になった小沢氏が、1990年「体制選択選挙」をかかげて、経団連ルートではなく直接業界へ働きかけて人的協力および献金を呼びかけたことは、自民党と財界のミゾの広がりを物語る一面でもあった。
ただ財界内部にも社会党左派への警戒感が消えすにいたが、財界との表裏の関係にある「連合」は穏健な労使強調路線をとり、社会党を中心とする野党の現実路線の推進役となるとみられた。
そして1989年発足の官民合同による新「連合」が政界再編の主役を担うことになり、その新連合が民主党の支持母体となるにおよび、民主党が自民党と対抗するもう一つの保守政党としての役割を担い、二大政党制が実現したという流れであったかと思う。

いずれにせよ今日の竜馬ブームの背景には、道なきところに道をつくる構想力と、改革の為に命を捨てる覚悟のある人物への待望ということかもしれない。
亀山社中は現在も保存されているが、そこから歩いて200mほど先にブーツを履いて長崎を展望できる場所がある。
ブーツといっても石で作られており、そこに両足を入れて望遠鏡で長崎市外を見る趣向になっている。
竜馬はブーツを日本人ではじめて履いた人物ということで、こういうややユ-モラスな場所ができたというわけだ。
今日の政権担当者も財界の重鎮も、ここで石のブーツに足を突っ込んで世界を眺めてみたら、竜馬の気概が伝わるのではないか、という気もする。
ただし、靴の容量が大きすぎて、あまり履き心地はよくはありません。