「ゼロ」がいい

「ゼロがいい、ゼロになろう」は、B’zの名曲「ZERO」のサワリですが、自分を「ゼロ」に近似したがる人々が結構いて、そのこと について考えてみた。
「ゼロ」に近似したがる人々といっても様々なタイプがある。
最近なくなった「ライ麦畑で捕まえて」のサリンジャ-氏は、この作品後自ら隠遁しこの世における存在の痕跡を限りなく「ゼロ」にした。
外出することもなくカ-テンをしめきりの生活で、92歳までの長寿であったことに驚きを禁じえない。
日本の女優の原節子もそんな感じの人かもしれない。

秋葉原で多くの人々を殺傷した男は自分について、事件前日に次のようなことを携帯サイトに書きこんでいる。
顔のレベル0/100、身長167、体重57、歳26、肌の状態最悪 髪の状態最悪 輪郭最悪。
普段会う人の数0、普段話す人の数0、自分の好きなところ無 自分の嫌いなところ無、 最近気を使ってい入ること無、これだけは他人に負けられないこと無、と書いている。
男性は派遣社員のつねとしてリストラに怯えていて、他人との繋がりをたもつ環境にないことは確かだが、それにしても「0」や「最悪」や「無」という言葉の羅列が目に付く。
この人、自身の人生を「ゼロ」に極限化したみたいだ。
この人物の家庭環境は週刊誌を立ち読みする程度のことしか知らないが、こういう人にとってごく平均的なことや標準的であることはすべて、「ゼロ」として認識されるみたいだ。
特に母親の過剰な教育熱で追い込まれていた体験からか、一番になれなかったとか、世間でさほど優等とは認められなかったことで自分のすべては全否定され、「ゼロ」として自己評価する傾向がある。
誰だって「考えすぎのムシがじわりじわりと湧いてきて」こんな気持ちに陥ることはあるのだが、この人物の場合「現実の」自分と「本当の」自分の主観的格差がよほど開いてしまったのだろう。
大概の人間はどんなに打ち消したい自分がいても、世の中に復讐しようなんて考えずに、「眠りたいもう眠りたい、全部凍らせたまま」ってな具合にB'zを口ずさんで布団にもぐり込んめば、済んでしまう。
しかしある人々にとっては、日々自分を「ゼロ」と散々に打ち消しているため、よほど偉大なことか逆によほど悪いことをしなければ、周りが自分の存在に気づいてはくれないという被認知飢餓地獄に陥っている。
一方でとてつもなく肥大した自我を抱えながら。

ところで同じゼロを感じるにせよシンクロナイズドスイミングの小谷 実可子さんが出あった「ゼロ」は全く性質の違うものだった。
小谷さんにとっての人生の転機は、ソウルオリンピックの後、野生のイルカと出会ったことであった。
家でテレをで見ていたら見知らぬアメリカのオジさんから突然電話があった。
「君の演技は素晴らしかった。でも水の中には君よりももっと美しく泳ぐもの たちがいるから会いに行こう。イルカを見ないか」と誘われるようになった。
そのオジさんから毎年ように電話がかかってきて、シンクロがだけが全てじゃない、などとお節介がましく言われ疎ましくと思っていた。
ところが次のバルセロナオリンピックで補欠になりアスリート人生に不安を覚えた時、「シンクロだけが全てじゃない」という言葉を思い出し、93年夏にイルカを見にバハマに行った。
そしてイルカと並走するように泳いだ時に体の中に電流のようなものが走ったという。
海と一体化し自分のちっぽけさを知りつつ幸福感に浸った。それから人生観が変わった。
かっこよく泳ごうとか、カメラ映りをよくしようとか、こちらの気持ちに邪心があるとイルカは近寄ってさえ来ない。
自分が自然と一体化して、イルカとたわむれようという気持ちになったとき、イルカも近づいてくる。
だからイルカと対面するためにいつもピュアな気持ちでいようと心がけるようになったそうである。
またイルカはけがをした仲間の動物をかばう性質があり、人間の中から病人を選別でき、その病人を特別扱いする習性がある。
イルカは人間の血圧の状態や脈拍がわかり、例えば右半身が麻痺している人が海に入れば、イルカは必ず不自由な右側を支えるような位置にまわってきて泳ぐという。
自閉症の子が泳いでいた場合は、イルカと一緒に泳ぐ事によって、自分はイルカに特別扱いされたと思い、自分の存在を認めてくれた喜びと自信を与えてくれるというのだ。
しかし小谷さんの体験は、こうしたドルフィン・ヒーリングの体験よりも深いものがあると思った。
人は世にあって競争や人間関係やら様々なしがらみに巻きとられ、自分を大きくみせようと必死に努力する。
オリンピックの出場権をめぐりライバルとしのぎを削ってきた小谷さんにとって、イルカ体験はむしろそういう自分の「小ささ」の体験であった。
そして自分がイルカを通じて圧倒的に大きなものの一部であるという認識が、えもいわれぬ幸福感に導いたのである。
その幸福感はメダルを取った時の喜びよりもはるかに大きいものだった。
小谷さん幸福感は、自分を「ゼロ」に近似させるほど大きくなっていくという性格のものであった。

ところで秋葉原事件の裁判のニュ-スを聞きながら、思い浮かべた人物がいた。
1950年7月2日深夜、金閣寺が炎上し、産経新聞京都支局の記者で福田定一という記者がスク-プをものした。 この記者は後に司馬遼太郎の名前で国民的作家として知られる。
新聞記者・福田のスクープは次のようなものであった。
第一報で駆けつけた時には、既に舎利殿から猛列な炎が噴出して手のつけようが無く全焼してしまった。
早朝、鎮火した現場に蚊帳のつり手や布団生地があったことから不審を抱いた警察は、行方のつかめない徒弟の1人で林承賢(当時21歳)の部屋を調べたところ蚊帳や布団などが無かったことなどから林が放火したと断定し、金閣寺裏山でうずくまっていた林を発見し放火容疑で逮捕した。
逮捕当初、林承賢は「世間を騒がせたかった」、「社会への復讐のため」との動機を自供して犯行を素直に認めた、と。
林承賢は1929年3月19日、京都府舞鶴市の西徳寺の住職・林道源の長男として出まれた。林承賢は生まれつきの吃音で、このことが死ぬまでトラウマとなっていた。
また父親は結核を患っており住職としての役務も満足に勤められず寝たっきりの状態だった。
当時の西徳寺の檀家は僅かに22戸で経済的にも困窮していた父親は43歳で死ぬ直前、伝手を頼りに金閣寺住職の村上氏へ子供の林承賢を弟子にして欲しいと依頼した。
林は金閣寺にて得度式を行い承賢は正式に村上氏の弟子となった。
林は父親代わりともなった村上氏の理解を得て大谷大学へ進学し犯行当時は大学3年に在学していたが、入学当時から比較して成績は下がる一方で登校もしなくなっている状況であった。
林は放火事件の数年前から金閣寺に疑問を抱くようになったという。その頃、生とはいかん 死とはいかん 人生なんて無意味である。人間てなんだろうとに書きなぐっている。
また林自身も父親と同じ結核に怯え悩み、息子が金閣寺の住職に出世することだけを唯一の楽しみとしていた母親の過剰な期待等がプレッシャーとなっていた。
生まれ故郷の舞鶴の小さな漁村で成績は常にクラスでトップできた。宿題が終わらないと周りの子とは遊ばない子だったという。
父を結核で失い、寺のひとり息子であった。母一人の手で育てられた。母親の過剰期待は秋葉原事件と共通している。
林自身の証言によると中学時代からすでに虚無的な気持ちを抱いていたという。
金閣寺放火の後に林は故郷に親子や親族との縁をきるという速達をだして欲しいと願った。そして母親と会うことを拒絶している。
また一方で母親は承賢の放火後に子供が黒コゲでしんでいて欲しかったと語り、京都での事情聴取の後に保津川に身をなげている。
1950年林は五年後刑期満了で京都刑務所を出所したが、1956年3月結核と重度の精神障害により入院中に死亡した。
作家の三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と林の心を読み、この事件をモデルに「金閣寺」を発表した。
しかし親友も違和感をもつ「美への反逆」などの言葉で、林自身も「真の気持ちは表現しにくい」と語っている。
水上勉は三島由紀夫よりも形而下に重きをおき「金閣炎上」という小説を書いた。「美に対する嫉妬」だけが伝えられたが、実はそういう美学ではなく、崇高であるべき仏教の教えはむしろこの金閣によって否定されているように思われたからではないかという視点に立っている。
寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火したと林の心を読んでいる。
臨済宗相国寺派の禅寺である金閣寺の実体は、観光客からの拝観料による潤沢な寺だが、その一方では金銭欲を持たず自身を無にする禅寺修行が行われず拝金主義であったことである。
得度を授かった徒弟より観光客の管理、運営に携わる事務方が幅を利かせている上下関係に林は嫌気をさしていた。
あるテレビ番組では、母親の過剰期待と金閣の美に呪縛され散ったように紹介されていたが、事件後に「おしょうだけがやってこんかな」と思ったという証言に彼の心の内を推測すれば、父とも思い自分の将来を左右する村上住職との関係に何か躓きがあったのかもしれないと思った。
結核の病もあって自分の将来がないというのは、最終的に自分を受け入れてはくれない世界のシンボルを灰燼にして自分もろとも「ゼロ」にしていまいたいという気持ちが働いたのだろうか。
金閣は、彼のめざすべき世界の世界のシンボルであり、父親のシンボルではなかったかと思うのですが、いかがでしょうか。
自分の存在を「ゼロ」とする者にとって、自分が愛着しなおかつ自分を拒絶する世界が自分が滅んだ後も、自分とはなんら関わりなくなお存在し続けることは許せない、というほどの心理がはたらくのかそこまではよくわかりませんが。
いずれにせよ、林承賢の死は「新金閣」落慶の二十日後のことであった。林の墓は母親と共に舞鶴市安岡の墓地に並んで眠っている。

奈良遷都1300年記念のコンサ-トで、NHKの「天地人」を書いた書家でが語った言葉を思い出す。
奈良唐招提寺を創った鑑真和尚を「自分の存在をゼロ」にできた人と語っていた。
唐招提寺に実際に行ってみて一人の創健者という人間の精神性がを感じるという意味では、聖徳太子法隆寺のとともに双壁であると思ってる。
鑑真の木造は盲目である。四回の来日の失敗で潮風にあたって目がつぶれてしまった。それでも日本に渡ることを諦めずに5度目にして来日に成功した。
仏教を日本につたえようという使命感たるや壮絶なものがあったということは、この木造が何よりもよく物語っている。
鑑真は自分の使命のために己をゼロにすることができたということだろう。
人は自分をどんなに卑小だと思っても、自分を満たすべき素晴らしいものがあればけして「空洞」にはならない。
むしろ、より高いもののために限りなく自分をゼロにできるのはとても幸せなことなのだ、と思う。
新約聖書のパウロは若きエリートパリサイ人の一人として、強いプライドの意識に動かされた「完璧主義者」だった。
だからこそ「熱心の点ではキリスト教の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」と自負し、そのように自分を高らかに誇ることができた。
「しかし、私にとって益であったものこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
私は、更に進んで、私の主イエス・キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのもを損とおもっている。キリストゆえに、私はすべてを失ったが、それらのものをふん土のように思っている」とピリピ人への手紙に書いている。
こういうパウロにとっては自らを「ゼロ」に近付けることこそ、神の偉大さに与る道に他ならなかった。