ザ・アニマルズの「朝日のあたる家」(The house of the Rising Sun/1965年)は、ジョーンバエズやボブディランなど多くのミュージシャンがカバーするフォークの名曲である。
この曲は、ある民謡研究家が1937年にケンタッキー州ミドルスバーグの炭鉱夫の娘から教わって採譜したもので、ニーオリンズの「ライジング・サン(朝日楼)」という娼館で暮らす女性を歌ったものである。
日本では歌手ちなきなおみが、日本語訳を見事に歌っている。
さて、アメリカの「伝承民謡」の一番の宝庫が実は刑務所なのである。
囚人たちは、服役中に各地・各層の歌を聞き憶え、出所する肉体労働のかたわら街頭で歌って生活していたからである。
トム・ジョ-ンズが歌った「思い出のグリ-ングラス」という曲は、森山良子によって日本ではカバーされたが、元歌の歌詞の中に驚きの情景が出てくる。
「目がさめると、灰色の壁に囲まれた部屋にいる自分。そうか、夢を見ていたんだ。自分の廻りには、守衛に、年老いた神父」。
「灰色の壁」は刑務所の象徴、そこに神父さんが居るということは、死刑囚に「お迎え」が来た時の場面なのである。
故郷や恋人の思い出から一転して現実に引き戻される心境を歌ったものである。
さて、ミュージシャンのジェリー・ウォーカーは、ニューオーリンズの刑務所での大道芸人との出会う。
ウォーカーはその時、公然の酩酊の不覚で刑務所に入っていたが、その時に「ミスター・ボージャングルス」と名乗るホームレスの男に出会う。
彼は、世間の注目を集めたある殺人事件にまつわる警察の貧困層捜索の一環として逮捕されていた。
重苦しい独房で誰かが気分を明るくするために何かをと要求したところ、ボージャングルスはタップダンスを踊り、一機に所内の雰囲気を明るくしたという。
「ミスター・ボージャングルス」は、そんなウォーカーの体験をもとにできた曲で、世界的エンターテイナーのサミー・デイビス・ジュニアは、この曲をテレビでタップダンスに乗って披露するや大反響が起こる。
以後、この曲はタップの名人サミーの「代名詞」となっていく。
日本では、あの山本リンダが「日本語訳」で歌っている。♪昔、ボージャングルズという一人の男がいた。僕が初めて彼に会ったのは、あの暗い監獄の中だった… いつもどこにいてもステップ踏んでいたよ飛ぶように軽やかに踊ってた昼も夜も僕に人生を語ってくれた優しいあの目で…なのに肌の色がちがう ただそれだけで でも彼はいつも言っていたよ 朝のこない夜はないさ ほら朝日が昇るよ♪
ところで、メキシコ湾に面したニューオリーンズは映画「イージーラーダー」(1969年)の撮影地である。
ステッペンウルフの「ワイルドでいこう」という音楽と、肩位置あたりまで伸びたハンドルのハーレーダビッドソンで疾走する若者二人がとてもカッコイイ映画だった。
それだけに二人が地元の住民に殺害される結末が、いまひとつ腑に落ちないものであった。
近年、NHKBS放送で「イージーライダー」をあらためてみても、その不可解さが払拭できないかと見入ってしまった。
ニューオリンズのあるルイジアナ州など、アメリカ南部の保守層がもっとも根強い州が連なる。
「イージーライダー」のあらすじを簡単にいうと、ロサンゼルスから来たワイアットとビリーはマリファナの密輸で金を稼ぐバイク・ライダーである。
二人の目的はニューオーリンズの謝肉祭に行くことで、南部の保守的な街にあってその外見とナリを受けいれてもらえずホテルを取れず、しばしば野宿をしていく。
ある日、ヒッチハイキングをする男と出会い、男に導かれて大勢の旅人を受け入れているコミューンへとやって来る。
そこで、いくばくかの自由な気分に浸り、二人はとある町に到着しするが、マーチング・バンドにバイクでついて行ったことが無許可デモだと誤解され、警察に捕まってしまう。
そこで、酔っぱらって刑務所に入っていた弁護士のジョージ・ハンセン(ジャック・ニコルソン)と同部屋になる。
意外にもハンセンは町の有力者を父親にもち、彼に取り合ってもらい、刑務所から出してもらう。
二人はハンセンと共に野宿をして過ごす。その晩またも3人は野宿をするが、3人は暴漢に襲われ、運悪くハンセンが死んでしまう。
翌日、娼館で出会った女性を連れて謝肉祭へと繰りだし、そこでドラッグを使用して過ごす。その後、いつも通り走っていると、「白人主義者」(KKK)と思しきの男たちが車で現れ、猟銃を撃って脅かそうとしてきた。
その放った銃が当たり、ビリーが倒れる。介抱をしたが怒りを抑えられずワイアットはバイクに乗り、急いで車を追いかけるものの、結局は撃たれて亡くなってしまう。
映画をみて誰もが思うのは、なぜ3人が殺されたのかということだ。逆にいうと、風采だけで人を差別したとしても、殺すほどのことがあるのか。
今見るとこの映画はドキュメンタリー風で、政治的なメッセージをこめたり、何かを告発したような作品とは思えない。
それだけに、自然に流れる風景とともに、そうしたことが自然にヤレてしまう時代と土地があったということに、不気味さをおぼえた。まるで「異人狩り」だ。
最近、ビリー・ホリデーの「不思議な果実」という歌が与えた影響の大きさを伝える番組を見た時、「イージーライダー」の白人たちの「異人狩り」は、結局はかつての「黒人狩り」の変奏曲ではなかったかと思った。
1940年代~50年代、アメリカのジャズ・エイジを駆け抜けた女性ジャズシンガーのビリー・ホリデーが歌った「奇妙な果実」は、内容があまりに過激だったためレコード化を引き受けるレーベルが存在せず、「封印」されようとしていた。
曲の始まりは、♪南部の木には奇妙な果実が実る♪というものであったが、「奇妙な果実」とは、白人に暴行をうけて木に吊るされた黒人の死体を意味するものであった。
この曲の歌詞を書いたのは、ユダヤ系アメリカ人の学校の先生、レコード化を引き受けたのも、ビリーホリデーの才能を見出しプロデュースしたジョン・ハモンドも、いずれもユダヤ系アメリカ人であった。
また、ビリーホリデーの影響を受けメッセージ性のあるプロテストソングを街頭で歌い始めたボブ・ディランもまたユダヤ系アメリカ人であった。
さらには、ボブディランの才能を見出し、周囲の反対を押し切ってレコード・レーベルと契約を結んだのも、ジョン・ハモンドであった。
この曲「奇妙な果実」は、たとえ一時は地下の眠っていたようでも、黒人差別に反対する黒人暴動が起きるたびに、蘇ってきた奇妙な果実だった。
ロックの定番「プラウド・メアリー」を歌ったのは、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルというサンフランシスコを拠点とするバンドである。
CCRには1970年「雨を見たかい」(Have You Ever Seen the Rain)という大ヒット曲がある。
当時ニクソン政権下、ベトナムに雨のよう降ったナパーム弾を表した反戦歌と捉えるむきがあったが、本人達は肯定していない。
個人的に「プラウドメアリー」の日本語歌詞を始めて知った時、その意外さに驚いた。その歌詞の一部を紹介すると次のとうり。
♪プラウド・メアリー号よ、燃料を燃やして俺は進む、進む、進むよ、川を。メンフィスでは町中を転々としニューオーリンズじゃたくさんの娘たちをナンパでも気づかなかったよ、都会のいいとこ 川を進む汽船に乗るまでは。大きな車輪が回ってる♪。
メアリーは女性の名ではなく、川を行き来する渡船の名前だったのだ。
また「プラウドメアリー」この歌にでてくる「メンフィス」は、ニューオリンズからミシシッピ川(途中からテネシー川)約100キロばかり北上した処に位置する河畔に建てられた街である。
テネシー州メンフィスを世界的に有名にしているのは、「リズム&ブルース(R&B)」の発祥地にして「エルヴィス・プレスリーの故郷」であること。
基本的にメンフィスは南部の保守的な街で、エルビスのようなスタイルで歌うのは、若者を不良にしていまうという批判が根強くあった。
また、それ以上に白人が黒人のリズム&ブルースを歌うことへの反発も大きく、エルビスの人気が高まれれば高まるほどに、批判は増していった。
プレスリーの体にしみついた(R&B)は、メンフィスの歴史を抜きに語ることはできない。
メンフィスは、19世紀に綿花の集散地として発展する一方で奴隷市が開かれた歴史を持ち、今でも人口の約6割をアフリカ系アメリカ人が占める。
南北戦争以前には、メンフィスは綿花産業を支える奴隷を売買するための大市場となった。
1862年6月6日のメンフィスの戦いで合衆国軍(北軍)がメンフィスを掌握し、メンフィスは終戦まで北軍の支配下に置かれた。
戦時中のメンフィスは北軍の補給基地となり、南北戦争中も繁栄を続けた。
メンフィスは常に人種のるつぼだった。南部で作られる商品を求めて、北部からは交易商人がやって来たことで、アメリカの他都市では見られないような形で、黒人と白人の文化が交わった。
そして、メンフィスで取引されていた商品の中でも、「音楽」こそが特に重要なものであり続けた。
メンフィスでは、ミュージシャンやプロデューサー、エンジニアの中に、人種を気にする人がほとんどいなかったためだ。
当時の南部では、黒人がリンチされ殺害まで至ることが生活の一部として残り続け、店やレストラン、公共スペースや交通機関は白人用と黒人用に法律で分けられていた。
人種隔離が常識だった南部において、黒人と白人が仲良く働く業界は、メンフィスの音楽業界以外にはありえなかった。
こうしてブルース、カントリー、ゴスペルが融合し、「新たなサウンド」が誕生した。
それこそが、ロックン・ロール、リズム&ブルース、そしてソウルである。
メンフィス音楽大殿堂博物館」には、スタジオの機材や楽器、エルヴィス・プレスリーやジョニー・キャッシュのステージ衣装、南部の日常生活を再現した展示物などが並べられている。
メンフィスが世界最大の綿花の集散地ばかりではなく、「木材の集散地」となったことから、世界的なギター・メーカーの「ギブソン」の工場があり、ギターの製造工程を見学できる。
メンフィスを世界的に有名にしているもうひとつの理由は、マルチン・ルーサー・キング暗殺の場所であること。
1960年代には、メンフィスは公民権運動の渦中にあった。
1968年4月4日には清掃労働者の待遇改善を求めるストライキの応援に訪れていたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師がロレイン・モーテルで暗殺された。
メンフィスには「公民権運動博物館」があり、ここロレイン・モーテルのバルコニーがある。
1968年4月4日、キング牧師が暗殺された場所で、ちょうどケネディ暗殺の「ダラス」と同じように、「メンフィス」の名を聞いて心が揺さぶられるもうひとつの理由がそこにある。
トム・クルーズの映画「ザ・ファーム」(法律事務所)では所々がメンフィスで撮影されている。
特にクライマックス・シーンではダウンタウンとミシシッピ川の中州にある「マッド・アイランド」を結ぶモノレールが登場する。
そこからメンフィス名物の1つガラス張りのピラミッドがみえる。なぜピラミッドなのか、この町の名前の由来はエジプトのメンフィスだからだ。ここにも黒人奴隷の記憶が残るのである。
メンフィスからさらにミシュシッピ川を北東に数百マイル北東にあるケンタッキー州ナッシュヴィルの街に着く。
ニューオリンズがジャズ、メンフィスがR&Bなら、ナッシュビルはカントリー・ミュージックの故郷といえよう。
このケンタッキーに、「清潔さ」絵にかいたような好青年が彗星のように登場する。
その青年パットブ-ンが歌った「砂に書いたラブレター」が世界的にヒットした。
パット・ブ-ンは、アメリカ開拓史上にその名を残すダニエル・ブ-ンの子孫で、アメリカでは貴族扱いの家に生まれている。
ダニエル・ブーンは、1734年生まれのアメリカ西部における初期の開拓者としてケンタッキーを探検し、狩猟活動を行った。
ダニエルは、勤勉なクエーカー教徒の両親の息子としてペンシルベニア植民地の辺境で生まれた。
農夫であり鍛冶屋であった両親からは鍛冶の手ほどきをほんの少し受けただけで、学校教育はほとんど受けなかったという。
狩猟と原野を愛し独立心に富んでいたブーンは、すでに13歳のときから狩猟し鉄砲うちの名人といわれていた。
ダニエルの勇敢な冒険談は小説にも書かれ、アメリカのみならず世界的にその名を知られた。
その子孫たる「パットブーン・ファミリー」は、アメリカのキリスト教の伝道番組で「理想家族」として毎週テレビで、歌と語りを通じて、あるべきキリスト教の信仰を伝えていったのである。
そんなケンタッキーと隣接するテキサス州で生まれたのがジャニス・ジョップリンである。
ジャニスは1943年テキサス州ポート・アーサー生まれで、彼女の家はどこにでもある中産階級のサラリーマン家庭であったが、彼女自身は明らかに他の子供たちとは違っていた。
詩を書いたり、絵を描いたりするのが好きで、自分の中にある何かを常に吐き出さなければ苦しくて生きてゆけない、情熱の固まりのような少女だったという。
自然、イジメの対象になって、彼女が10代にして目覚めたのは、過激な自己表現を持つ「ビートニック」と呼ばれる若者文化であった。
そしてもコーヒーハウスで、ブルースを歌うようになるものの、保守的な南部の町でかなり「浮いた存在」になる。
ジャニスが17歳の頃に家出し、サンフランシスコに向かった。そこではサイケデリックと呼ばれる幻覚と陶酔を求める芸術形態が持てはやされ、1966年、ジャニスはその一つビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーのヴォーカルに迎えられた。
彼女は、ロック魂が爆発したような「Move Over(ジャニスの祈り」という曲で世界的に知られる。
そんな彼女のヒット曲の中に、アメリカ南部の風景をバックに流された名曲「サマー・タイム」がある。
「夏になれば 暮らしは楽になる/魚は跳ね 綿がみのる/父さんはお金持ちで
母さんは美しい/だから坊や 泣かないで/ある朝 あなたは 唄いながら立ち上がる/翼をいっぱいに広げ 大空に飛び立つ その朝が来るまで/何も心配はいらない/父さんと母さんが ついているからね」
この曲は、いっぱいいいことを言ってでも赤ん坊泣き止ませないと叱られるから、という子守りする黒人少女の哀切さを表現した、嘘も承知のうえでの「子守唄」なのである。
1970年10月4日、ジャニスはアルバムの録音のため滞在していたロサンゼルスのホテルで死亡しているのが発見された。
使用したヘロインが致死量を越えたことが原因であるとされている。この時彼女は27歳、故郷テキサス州に近い海ならばメキシコ湾であったが 遺灰はカリフォルニアの海へ撒かれた。