「平家終焉の地」芦屋

福岡県北部遠賀郡の港町・芦屋に行って、それまで「源平の合戦」に対し抱いていた観念が覆された。
第一に、平家が瀬戸内海を西に漂って壇の浦で滅びた経緯において、第二に、源義経を破った水軍が存在したこと、第三に、平家終焉の地は壇ノ浦とばかりはいえないことなどである。
「源平の戦い」といえば、平家が都落ちした後、瀬戸内海を西へ西へと敗走し、最後に壇ノ浦の戦いで滅びたという経路が思い浮かぶ。
しかしそうした直線経路は、福岡県にある二つの「安徳天皇行在所」の存在によって否定される。
平安時代末期、高倉天皇と平清盛の娘である徳子との間に出来た子が安徳天皇である。
東国の源氏に対して、平氏は瀬戸内海の海賊や鎮西の叛徒平定によって功名を立て、清盛兄弟が太宰大弐に任じられ、また一門から九州諸国の受領が続出し、当時もっとも高い経済収益の手段である「日宋貿易」を手中に収めた。
九州一円の武士団はこのような権勢をもつ平氏に追従し、大宰府の官職や郡司に取り立てられ、平氏の権威を背景に押領や開発によって所領を広げていった。
しかし「反平家」の勢力の広がりとともに、1183年7月に木曽義仲に 京を追われ、安徳天皇も平家に連れられ「三種の神器」とともに九州に向かう。
この時の「安徳天皇行在所伝承地」が福岡県那珂川町に在り、それを見つけた時いたく感動した。
安徳天皇は壇ノ浦の合戦の前に2ヶ月の間、こちらに滞在していたので、地名もずばり「安徳台」。
新幹線で博多駅から通勤用支線である博多南駅まで10分、そこからコミュニティバスで10数分で安徳台につく。徒歩っで15分ほどで旧公民館辺りから高台へ登ると、耕作地の片隅に祠と石碑がある。
ここは安徳天皇を迎え入れたこの地の豪族である原田種直の屋敷があったところという。
周囲には、「現人(あらひと)神社」や「岩門城址」などの地名を残しており興味つきぬ場所である。
九州北部には「反平氏」の勢いは高まっておらず、もともと平家の地盤としてあった地なので、安徳天皇らは身を寄せたのであろう。
そしてもうひとつ「安徳天皇行在府」が、北九州の若松に近い響灘(ひびきなだ)に面した遠賀郡芦屋町にある。
芦屋津は、律令体制下においては太宰府の観世音寺所領の年貢を奈良・東大寺に送るための積み出し港として栄えた。
平安時代以来、太宰府の府官や西海道諸国の受領への赴任や任期を終え私腹をこやし私財を山と搭載しての帰京の船がこの津に寄港した。
さらに荘園制度の隆盛とともに、遠賀川流域を含む北・西部九州の多数の荘園から都や宇佐神宮などへ運航し、年貢米を運ぶ船舶の出舟・入船が芦屋津を賑わせた。
芦屋は室町時代、茶の湯の名器として一世を風靡した「芦屋釜」の里でもある。 「芦屋釜の里」として整備されたこの公園のある辺りは「山鹿(やまが)」という地名である。
遠賀川河口を見下ろす城山公園の山上に「山鹿城跡」がある。
芦屋橋に近いヨットハーバーから200mあまりのこの城山公園に登ると、その斜面に「安徳天皇行在府」の石碑が立っているのである。
さて、平家一門は前述のように筑紫国(原田種直領)に身を寄せたが、平家に叛く勢力もあらわれる。
豊後の緒方惟義の攻撃をうけて、太宰府(筑紫国)からも追われることになる。
安徳天皇を手與に乗せ、建礼門院はじめ女房らは徒歩(かち)はだしで取るものもとりあえず逃げ出した。
住吉神社、筥崎宮、香椎宮、宗像神社を伏し拝みながらようやく海岸に出たが、女房たちの足から流れ出る血が白い袴や着物の裾を紅に染め、砂浜は赤く変わったという。
その時、軍勢を率いてお供に馳せ参じたのが、安徳天皇に館を提供していた原田種直である。
そしてもう一人が山鹿城の城主・山鹿秀遠(やまがひでとう)である。
山鹿秀遠は、この逃避行において多数の一族・郎党を率いて幼帝に供奉し、宗像・遠賀の境にある垂水峠を越えて、山鹿の城郭に導いている。
原田種直の方は、山鹿秀遠が数千騎を率いて迎えにくるとの噂を聞き、自分がいては都合が悪かろうと途中から引き返したという。
藤原一族の山鹿氏と大蔵一族の原田氏は、11C頃から大宰府上級府官の地位を世襲していた。
両者には、大宰府における覇権争いがあり、不仲の間柄であったようである。
山鹿秀遠は一門を山鹿城に迎え入れるが、それも束の間、山鹿へも敵の手が回り安全な場所ではなく、再び海上へ逃れることになる。
その際に、平家一行は「芦屋」といいう地名にある種の親しみを覚えたようである。
日本書紀には、「これは我々が都から福原へ通うとき、見慣れた里(現在の兵庫県芦屋市)の名である」と感慨を述べたことが記さている。
山鹿城から程近い茶臼山(ちゃうすやま)には、一時安徳天皇の御在所が置かれて、いつの頃からか、安徳天皇を祀った「大君(おおきみ)神社」が建てられた。
以上まとめると、平家は木曽義仲に攻められ都落ちをした後、一旦は「反平家」勢力の弱い九州北部に逃れて、軍勢の立て直しをはかり、その後瀬戸内海を「北上」して源氏と戦ったのである。
その点、南北朝時代に、足利尊氏が北部九州に逃れ南朝勢力を結集し、福岡市東区の「多々良川の戦い」に勝利し、巻き返しをはかった構図と重なる。
ただし、平家は尊氏のように捲土重来というわけにはいかず、瀬戸内海に出てからは一の谷・屋島の戦いに敗れ、再び九州北部の壇ノ浦に後退し、滅びてしまったのである。

山鹿秀遠は「菊池系図」によると、有力府官「藤原政則」を祖とした粥田経遠(かいたつねとう)の子で菊池氏と同族でである。
秀遠は父・粥田経遠の所領筑前国粥田荘のほかに叔父山鹿経政の所領山鹿荘を継ぎ、本拠を山鹿荘(現在の福岡県遠賀郡芦屋町山鹿)に置いて「山鹿兵藤次秀遠」(やまだひょうどうじひでとう)と称した。
粥田経遠は京都にのぼり、鳥羽上皇の武者所にも出仕していた。そのころ上皇の院司であった忠盛(清盛の父)との関係が生まれたと推測される。
さて戦国の世、黒田長政は大友氏を警戒して豊前国との境に6つの城を築いた。遠賀川流域には、その中の2つがある。
嘉麻郡大隈城の城主は、後藤又兵衛基次であり、鞍手郡鷹取の城を預けられたのが里太兵衛友信で、いずれも講談で知られる人物である。
後藤又兵衛は、大坂の陣で豊臣方について孤軍奮戦したことで知られ、母里太兵衛は、福島政信から名刀「日本号」を受け取り、黒田武士の意気を示し、この出来事は「黒田節」の由来となった。
ただ、彼らは黒田長政とともに、岡山(備前国)より福岡に入府したいわば「取り立て衆」であった。
それに対して、この福岡の地で育った武将が「山鹿秀遠」なのである。 会津出身の儒家・兵法家の山鹿素行は、筑前.芦屋の山鹿が祖先の地だとしている。
山鹿素行(やまがそこう)は、1622年に浪人・山鹿貞以の子として陸奥国・会津に生まれた、江戸時代前期の軍学者・儒学者である。
先祖が筑前山鹿の出身と言う説もあるが、山鹿秀遠が滅びた後に山鹿城を与えられた宇都宮家政(下野豪族宇都宮氏一族。山鹿荘地頭代。麻生氏の祖でもある)の子孫も山鹿姓を名乗っており、会津(福島県)と宇都宮(栃木県)は隣接しているので、素行はこちらの系統の子孫である可能性もある。
山鹿素行は、戦国時代からの武士の存在意義が崩れ始め、それを模索する社会の中で、素行は新しい武士道を提唱した。
素行は、1628年の6歳で江戸へ出て、9歳で林羅山の門下として朱子学を学び、15歳になると甲州流の軍学を修めた。
21歳にして素行は「兵法神武雄備集」を著し、江戸で軍学を講じるなど、この頃には名高い山鹿流の基礎は固まっていたようである。
山鹿流は素行が創始した軍学の一派で、戦法学に儒学の精神を合わせ、武士の日常的な心構えや道徳などを、これからの武士道(士道)としてまとめ、教育化された軍学である。
これまでの戦国時代が武士道であるなら、これからの平和の時代の武士は、士農工商の頂点に立つ以上は、道徳的な指導者としての精神修養を怠ってはならないという、「士道」を提唱した。
幕末の吉田松陰が相続した吉田家は、代々山鹿流を家学として師範を務め、藩主に講じており、松陰の思想の根底にも「山鹿流の思想」があったことは否定はできない。
1652年からの約8年間、赤穂藩にまねかれ仕えた素行は藩主・浅野長直に破格の待遇を受けている。
長直は、赤穂事件の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の祖父であり、藩士の教育に素行を当たらせた。 素行の思想が赤穂事件に影響したかは不明ではあるものの、そういった土壌が素行を必要としたのは事実である。
素行は、赤穂藩を辞した後も研究を続け、1665年に「聖教要録(しょうぎょうようろく)」を著し、江戸幕府の官学である朱子学に異議を唱え、赤穂藩へ流罪となる。
藩主・長直は、素行を客人としてもてなし、再び藩士の教育に当たらせ、門弟には大石内蔵助(おおいしくらのすけ)も在籍していた。素行は、赦免されるまでの約9年間で、赤穂藩の気風をより確固たるものとした。
朱子学は、身分の上下を非常に重んじたため、幕府は戦国時代の風潮を根絶するため朱子学を利用した。
幕府は社会統制の維持のために朱子学を官学として採用する。
素行は「聖教要録」で朱子学を批判したことは前述したが、素行はそこで古学を提唱している。
古学の祖は素行であるが、同じ古学派である伊藤仁斎が唱えた古義学と、荻生徂徠が唱えた「古文辞学」と区別するため、素行の古学は「聖学(せいがく)」と呼ばれる。
素行は、封建的な朱子学よりは、孔子や孟子の教えに立ち帰ることこそが儒学の本義ではないかという立場を取ったのである。
これに危機感を感じた幕府・老中の松平定信は、寛政の改革で朱子学意外の学問は異学とし、統制を始める。これを寛政異学の禁と呼ぶ。
素行が赤穂藩に幽閉されていた中で著した著書に「中朝事実」があるが、この書は古学の立場から歴史に即して皇統を論じた歴史書である。
儒学が流行した江戸時代は、その中華思想に染まっていたが、それに反論したのがこの書である。王朝が度々交代する中国よりは、外国に支配されたこともなく、万世一系の天皇がいる日本が真の「中朝(中華)」だと述べている。

一般に平家終焉の地といえば「壇の浦の戦い」で、平時子とともにわずか6歳で入水した安徳天皇をはじめとする、多くの平家方が続々と自ら命を落としたとされる。
しかし、それがすべての終わりというわけではなく、そうした者たちの舟や遺体はどこかに流れ着いたはずである。それが発掘により、遠賀郡芦屋にあることが明らかになっている。
「平家物語」巻11によると、壇ノ浦の合戦は、当初は平家方が優勢だった。それは「九州第一の精兵」でもあった山鹿秀遠の海を熟知した「戦術」による。
山鹿秀遠は壇ノ浦合戦では、山鹿水軍を率いて平家舟戦(ふないくさ)の先陣を務め、九州一番の強弓の威力で、緒戦に義経軍を破っている。
彼は500余艘(そう)の船を率い、平家方総勢1000余艘の先陣となって、源義経が率いる3000余艘の船と対峙した。
その際秀遠は、強弓の者500人を選び、彼らを各船の艫(とも/船尾)と舳(へ/船首)に並ばせ、一斉に矢を放たせた。
敵の大将・源義経は真っ先に進んで戦ったが、秀遠側の攻撃が凄まじく、対抗することが叶わなかった。
とはいえ最終的に平家方は、体勢を立て直した源氏方の猛攻に敗れ、自滅してしまう。
遠賀川の河口から響灘へと連なる道筋に、響灘に突き出るように鬱蒼と木が茂る一角がある。
かつては2つの小島だったのだが、第二次世界大戦後に埋め立てられ、現在は陸続きになっている。
沖の方にあるのが「洞山」で、手前側が「堂山」で、両者は「とうやま」と同じ読みになる。
なんといっても洞山は中央に高さ約10メートル、幅約2メートル、奥行約30メートルの神秘的な洞穴洞穴があいていて、反対側の景色をすことができる。
特に響灘サイクリングコースの狩野岬からみる「洞山」は絶景ポイントとなっている。
洞山の方にはかつて、「平家の公達を祀る墓があることから、洞山に登ると、馬に乗る荒武者が現れて、岸壁から突き落とされる」という言い伝えがあり、地域の人々から恐れられていたという。
一方の堂山の入り口には、無人の「蛭子(えびす)神社」の鳥居がある。
それをくぐって石段を登り切ったところに、小さな本殿があり、その右脇に回ると、300基以上にも及ぶ、高さ50~60センチの、全体的に小ぶりな古い五輪塔・板碑・石仏が祀られている。
これが「堂山の石塔群」とよばれるものである。
土中に供養のために石碑を埋納するという風習は、九州地域ではとても珍しく、また、用いられている大理石も、近在で採れる石材ではない。
今のところ、肥後八代(現・熊本県八代市)近辺で作られたものが船でここまで運ばれたのではないかと推定されている。
また、石碑そのものの様式が、主に平安末期〜鎌倉初期に見られるものであることから、安徳天皇を含む平家一門の供養のために、後々生きながらえた落人(おちうど)たちによってなされたか、または山鹿秀遠が率いた水軍の水主(かこ/船乗りのこと)や楫取(かじとり/船頭)たちの鎮魂のために、芦屋の人々がなしたものではないかと考えられている。
茶臼山辺りの地名は「大君(おおきみ)」であり大君神社にしても、落武者の幽霊が出ると言われた洞山、そして無数の石碑が祀られた堂山にしても、時がすべてを侵食したかのように穏やかな場所へと変てしまっているが、個人的には、この芦屋の地こそが、「平家終焉の地」とよぶにふさわしいように思える。
さて、壇ノ浦の敗戦後、鎌倉幕府によって、平家方についた九州の有力な武家である原田・菊池・粥田、山鹿、香月などは頼朝の厳しい追及を受け、その所領の多くを没収された。
それに代わって、北九州に勢威をもったのが、武藤(少弐)氏や中原(大友)氏などである。
彼らは「下野(しもつけ/栃木県)に興った宇都宮氏の一族であったが「鎮西奉行」として入国し、「下り衆」とよばれた。
山鹿荘など遠賀郡へ「下った」宇都宮家政がその「平家没収領」を与えられ、彼はのちに姓を「山鹿」と変え、さらには「麻生」と名のるようになる。
これが中世期遠賀川下流域の覇者「麻生氏」の起こりである。
冒頭で述べたように、室町時代に九州落ちをした足利尊氏は、芦屋津にその第一歩を跡しているが、山鹿・麻生氏は尊氏勢として「多々良浜」で戦い、1336年に尊氏に随臣して上洛し、楠木正成を自刃せしめた「湊川の合戦」など各地を転戦した。
その後も麻生氏は御目見以上の御家人として室町幕府の「奉公衆」として忠勤を励み、遠賀郡のほぼ全域、さらに鞍手郡や企救郡にまで所領を拡張していった。
江戸期には、福岡藩主・黒田長政によって「芦屋」は更に開発・整備が進み、明治以降は、石炭の積出港として多いに栄えていった。
明治にはいって麻生多賀吉はじめ有力政治家を輩出した麻生財閥の繁栄は、芦屋の良港と遠賀川の流れの「賜物」であったといえよう。