荒木村重(あらきむらしげ)という戦国大名の知名度は九州では高くない。
しかし関西では、織田信長や足利義昭と対峙した摂津37万石の大名として大きな存在感をもつ。
その荒木村重と、黒田官兵衛を通じて深く関わった人物の墓が、福岡市の博多駅に近い聖福寺にある。
荒木村重は1535年、摂津の国人・池田家の家臣の家に生まれた。
池田氏三代に仕えて勢力を拡大した、いわば腹心的存在であった。
しかし1570年、一族の内紛に乗じて三代目の勝正を追い出し、城を乗っ取ったかたちだが、見方を変ええると、主君の池田氏よりも村重が家臣を率いる能力、例えば人徳や人望が高かったともいえる。
織田信長は、1577年に足利幕府の最後の将軍・義昭を奉じて京都にはいるが、両者は次第に対立するようになる。
畿内にいた領主にとって、信長の力はいまだ未知数ではかりがたいものであった。
また、武田信玄が上洛してくるという噂があって、足利義昭が信長に「反旗」を翻す。
村重は池田氏の重臣で、池田家を代表する武将として京都にも知れ渡っており、その動静が注目されたが、窮地の信長に急接近し、臣従を申し出る。
二人の対面のエピソードがある。信長が刀で菓子を突き刺し無言で村重に差し出すや、手をつかわず饅頭を平らげた。
信長はこれにより村重の臣従を許し、この時以来、信長の家臣となる。
村重は信長と出会う前に、足利義昭の側近・和田惟政を打ち取っており、義昭側にはいられなかったという事情がある。
1573年ごろには「反信長勢力」が築かれ、この時、信長は四面楚歌の大ピンチであった。
そこに荒木村重が信長勢力に加わるとなれば、摂津の国が信長包囲網から脱落することによって、窮地の信長を救った大殊勲ということになる。
関西に土地勘もない信長にとっては村重は有難い存在であった。
実際に、村重は摂津の「反信長勢力」を一掃し、1575年摂津国をほぼ統一。
信長によって、国人の一家臣から、摂津37万石の領主へと大出世し、石山本願寺との闘いでは、毛利輝元の東方侵攻を播磨で食い止める功績をあげた。
1588年、足利義昭は京を追われ、西国の大・大名毛利輝元の元に身を寄せる。
その一方で、荒木村重と織田信長の関係に亀裂が生じ始める。毛利攻略をすすめる中国方面軍司令官に任命されたのは羽柴秀吉であった。
村重は播磨に赴任してきた秀吉の下につくことになり、秀吉に実権を奪われる。
播磨をまとめて毛利と戦い、摂津は自分で勝ち取った領土であるという意識のあった村重だけに、信長への怒りが募り、亀裂をうむきっかけとなったと推測される。
織田信長、荒木村重は年齢も一歳違いで、性格も似たタイプで牽制しあう存在でもあった。
信長からして、子飼いではない村重が大勢力になることを恐れたのかもしれない。
織田家中ではとうてい出世はできないと悟った村重は、信長との決別をきめる。
信長にとって、村重が「籠城」という謀反をおこしたのは、驚天動地の出来事であったのは確かである。
信長は村重の縁戚関係であった明智光秀や播磨での部下だった黒田官兵衛を村重のもとにつかわして説得するが、かたくなに拒絶する。
荒木村重が有岡城に籠城しのは、毛利方が足利義昭を擁して動き出すタイミングを見計らっていたということであろう。
しかし備前(岡山)の宇喜多直家が、秀吉の調略で信長に寝返ったために、義昭を守る毛利輝元の動きが取れなくなってしまった。
また、京都の東側を守っていた村重の家臣・高山右近と中川清秀が信長側に寝返るという「想定外」の出来事がおきた。
京都を攻められる心配がなった信長は、村重する憎しみは倍加したしたかのように、村重をおいつめていく。
このままでは毛利の助けは得られないと悟った村重は、1579年9月2日の夜、有岡城を妻子や家臣600人を残したまま抜け出す。
そのことから長く「卑怯者」と語られた村重だったが、義昭側についた武田四郎次郎あての手紙の「一国も早く援軍を求める」とあることから、「戦う意思」を捨てたわけではない。
つまり、村重の「有岡城逃亡説」は、戦うための「脱出」であったがいえるが、そこに情勢の逼迫によるアセリもよみとれる。
尼崎城を守っている息子の荒木村次が、信長との和睦を勧めるようになり、補給拠点の尼崎城が信長に陥ちた場合、これ以上の籠城は困難となる。
そこで、自らが尼崎城に乗り込んで、息子を説得し、従来どうりの兵站を維持し、戦線を建て直すのが「有岡城脱出」の目的であったのかもしれない。
しかし、村重が有岡城を離れた一瞬のスキを信長は見逃さなかった。指揮官のいない有岡城は信長の総攻撃であっけなく落城する。
信長は尼崎城の村重に、「尼崎城・花隈城を開城すれば一族を助命する」と最後の条件をだす。
妻子の命は信長の手にあったが、村重は首をたてにはふらなかった。
村重は、毛利輝元・本願寺顕如などといわば連合軍で戦っているので、村重ひとりの判断で城を明け渡す状況にはなかった。
村重は、尼崎城で3か月踏ん張ったが、有岡城の家臣からすれば裏切られたとしかみられなかった。
1579年12月、村重の妻子を含む数百人が京都六条河原で首を切られた。
処刑を前にした妻の歌が村重のもとに届く。
「荒霜がれに残りて我は八重むぐら難波の浦の底のみくづに」。
(霜枯れの冬に残る私は、幾重にも生い茂った雑草のようなもので、難波の水底の屑になってしまうのだなあ)。
それに対して村重も妻子や家臣を助けられない無力さを嘆く歌を返している。
「思ひきやあまのかけ橋ふみならし難波の花も夢ならんとは」。
(果たして思ったであろうか。これまで自分のやって来たことは、
漁師が間に合わせの、仮橋を踏んで平らにするように、
同じところを何度も往ったり来たりしていたようなもので、
難波の花も結局は夢のまた夢であろうとは)
村重はその後、毛利氏に亡命するが、本能寺の変で信長が倒れた後、堺に戻り茶人「道薫」として活躍する。
村重が、堺にでてきた理由は、羽柴・毛利間の和睦交渉・領土確定交渉であった。
一族を殺されながらも再び表舞台に登場した村重のしぶとさに驚かされる。
黒田氏は近江源氏の佐々木氏の流れと伝えられ、日本「三大地蔵」の一つがある滋賀県伊香郡木之本町の「黒田郷」からでている。
黒田家六代・高政(官兵衛の曽祖父)のときに、佐々木氏のもとで岡山に出て戦っていたが、「軍令」に叛いて功名をたてようとしたため足利義植の怒りをかい近江を追われ、流浪の末に備前国(岡山県)「福岡郷」に落ち着いた。
ここで、「黒田」と「福岡」の地名が結びつくことになる。
山陽本線・支線の赤穂線のJR「長船駅」で降りて、西に40分ほど歩くと黒田官兵衛の曽祖父高政と祖父重高の墓地がある妙興寺につく。
妙興寺からさらに10分ほど歩くと、「一遍上人絵伝」で有名な「備前福岡の市」の石碑と木の門構えの立っている場所に着く。
黒田氏はいわば「流托の身」でこの地に身を寄せたのだが、黒田氏の復興のキッカケは「武の力」ではなく、眼薬の販売という「商い」であった。
ここで黒田家は「家運」を盛り返し、姫路に進出することになる。
黒田官兵衛は、22歳のとき家督を継いで姫路城主となり、主君である荒木村重配下の播磨の小大名・小寺氏の家老に任ぜられている。
荒木村重は、室町幕府最後の将軍・足利義昭、石山本願寺と親しい間柄であった。
しかし彼らは織田信長と敵対関係にあり、板挟み状態であった。
1567年 織田信長が美濃の斉藤氏を滅ぼすと、官兵衛はこれからは「信長の時代」と読み、主君の安泰を願って織田家と接触する。
しかし、信長に反旗を翻した荒木村重を説得するために伊丹の有岡城に赴くが、
その際、息子の松寿丸(後の長政)を人質として信長に預ける。
黒田官兵衛は荒木村重と旧知の仲であり、荒木は官兵衛を追い返すのではなく、捕らえて幽閉してしまう。
織田信長は、黒田官兵衛までもが謀反したと勘違いし家臣に人質になっていた松寿丸の殺害を命じる。
しかし、家臣は松寿丸を殺した風に装って、実は殺さなかった。
とはいえ官兵衛は、1年あまりも牢に入れられるという苦難をなめるが、最後まで信長を裏切らなかった官兵衛は、信長に「忠義の人」と印象づけた。
10ヶ月もの間、幽閉された黒田官兵衛はやせ細り、以後、歩くことすらできなくなっていた。
それでも、死んだと思っていた松寿丸が生きていいることを知った官兵衛は歓喜したという。
。
さて黒田家は、このような存亡の危機に瀕する中、離反するものが相次ぐなか、黒田家に生涯忠義をつくすと誓った家臣たちがいた。
NHK「ファミリーヒストリー」で、そんな12人による「起請文」のひとりに、卓球選手・石川佳純の母方の先祖「小川与三左衛門」あることを知った。
さて、荒木村重の家臣のひとりに、官兵衛の土牢に閉じ込められるという絶対絶命の窮地を救った人物がいる。
加藤重徳(かとうしげのり)は、摂津国伊丹の伊丹康勝の子として誕生した。
伊丹氏は代々室町幕府の側近衆として仕え、細川藤孝などと同盟を結びながら、伊丹城を守っていた。
その中でも、重徳は「伊丹城に重徳有り」と知略・勇猛大剛の士としてならしていた。
伊丹親興を中心に将軍・足利義輝に仕え、第15代将軍・足利義昭の側近衆として仕えたが、のちに義昭が織田信長により追放されると、信長より摂津国を任された荒木村重に属した。
1578年10月、謀反を起こした別所長治との戦い(三木合戦)で織田氏家臣・羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城改め)にて突如、信長に対して反旗を翻す。
そこで、前述のように信長は村重と旧知の仲でもある官兵衛を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は官兵衛を拘束し土牢に監禁した。
1579年10月19日に有岡城が落城するまでの孝隆の牢番を務め、その世話をよくしていたのが加藤重徳とその一門であるとされている。
また、有岡城開城の際には、救出に来た官兵衛(孝隆(家臣)の栗山利安らとともに孝隆を牢より救出した。
加藤重徳は、荒木とともに滅亡を覚悟し、幼い次男の玉松らを官兵衛に託した。
そのため、玉松は姫路城官兵衛ので養子となり、のちに黒田姓を与えられ「黒田一成」と名乗っている。
一方、重徳はその後、長男の「吉成」を連れて、宇喜多直家や小西行長の順に仕え、1600年の関ヶ原の戦いで行長が敗れ処刑されると、浪人の身となる。
しかし、一成が主君・黒田長政(官兵衛の子)に願い出たこともあって、福岡藩に迎えられ、官兵衛を地下牢から救出した功により、長男・吉成の家系は代々中老職に列せられることとなる。
さて、中国の禅寺では本来、住持を隠退した者は、東堂・西堂の僧堂で雲水たちと共同生活をする決まりとなっていた。
時代が降ると、大寺の中に小庵を結びそこに住する者が現れるようになったが、一禅僧一代限りの措置であった。
そんな中国の慣習が日本に伝わると、開山など重要な人物の墓所としての塔頭・塔院と同一視されて永続的な施設となり、日本独自の「塔頭」という存在が認知されることとなった。
官兵衛を保護した加藤重徳は1602年3月22日に亡くなり、長男・吉成と次男・一成は、博多の聖福寺に塔頭「節信院」を建立して加藤家の菩提寺とした。
そして幕末、この加藤家に黒田藩勤皇派の重要人物が現れる。
加藤司書徳成(のりしげ)は福岡藩の家老職2800石の要職にあった。
加藤司書24歳の時、1853年7月ロシア船が来航した時、藩兵500余人を指揮し長崎を警護、同艦隊を穏便に国外へ退去させる。
1863年3月、宮廷守護に当たっていた長州が解任され、尊攘派の7人の公卿も京を追放され、福岡の太宰府の「延寿王院」で藩が預ることになった。
翌年7月、蛤御門の戦いで長州は敗退するが、幕府は長州を討つために、広島に各藩の藩兵を参集する。
藩主・黒田長溥(くろだながひろ)は「外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし」という考えを元に、加藤に「建白書」を持たせ、徳川総督に提出している。
そして加藤司書と西郷隆盛が「参謀会議」を止戦へと導き、長州の恭順を条件に「解兵」が実現した。
その加藤司書の運命を大きく左右したのが「犬鳴(いぬなき)御別館」の建設である。
福岡県北西部、久山町と宮若市の境に犬鳴(いぬなき)山(584メートル)と、犬鳴峠がある。
司書は1854年7月、犬鳴(字金山・同多田羅)に藩営の製鉄所「犬鳴鉄山」(日原鉄山)を開いた。大砲・武器製造など海防・軍備強化の目的で、中国地方の石見津和野のたたら製鉄技術を参考にし、職人も呼び寄せた。
「犬鳴御別館」は、福岡城下が外圧による有事の際に、藩主が避難する場所として、加藤司書の推挙によって犬鳴谷の丘陵地に建設された。
犬鳴山は天然の要害であり、その丘陵地は犬鳴峠や薦野峠から福岡城下へも通じたためである。
その後、犬鳴御別館は藩主の「犬鳴御茶屋」として完成し、1869年、最後の福岡藩主、黒田長知が領内巡見の際に一度宿泊したこともある。
しかしこの犬鳴御別館建設は、思わぬ波紋を福岡藩内に投げかけた。
藩内佐幕派の讒言(ざんげん)により、司書の御別館築城が、「藩主の押し込め」「藩乗っ取り準備」の嫌疑をかけられたのである。
その後、福岡藩は、五卿を預かる微妙な立場から幕府の意向を過度に忖度したのか、1865年に勤王派の弾圧をはじめる。
世に言う「乙丑(いっちゅう)の獄」で、加藤司書はじめ野村望東尼など140数名もの維新で活躍が期待される有為な人材がことごとく断罪・流刑された。
博多駅から博多湾へ向かう大博通りの西側に、「第一生命ビル」が目にはいる。
その敷地内に、「加藤司書」の歌碑があるが、加藤は福岡の「勤王派」の代表的人物として、かつてこの場所にあった天福寺で切腹している。
その歌碑には、広島で長州藩解兵の際に詠んだ歌「皇御国(すめらみくに)の武士はいかなる事をか勤むべき ただ身ににもてる赤心を君と親とに尽くすまで」が記されている。
また福岡城に近い、福岡市中央区「桜坂」に加藤司書の屋敷があった。
桜ケ峯神社の近くに今も現存する巨大な敷地は、今は私有地になっているが、もとは加藤司書のお屋敷跡である。
加藤司書ゆかりの地「犬鳴峠」の犬鳴ダムの奥には、今でも犬鳴御別館跡の大手門と搦手(からめて)門跡などの遺構や、加藤司書の「忠魂碑」が残っている。
また、博多駅に近い聖福寺の塔頭「節信院」には、戦国の加藤重徳、幕末の加藤司書の墓がある。