「あれよ あれよ」の快進撃

マチュピチュは南米ペルーにあるインカ帝国の古代遺跡で、世界遺産に登録されている。
山の上に造られた天空都市の景色は素晴らしく、多くの観光客がマチュピチュを訪れており、26歳の青年・片山慈英士(カタヤマジェーシー)もそのひとり。
「慈英士」という変わった名前は、祖父が南米のトリニダード・トバゴ出身で、片山はクォーターだからである。
奈良県立二階堂高校時代に「奈良ジム」でボクシングを始めると、「インターハイ出場」「国体で全国5位」などの好成績を残し、特待生として大阪商業大学に進学した。
大学でもボクシングで好成績を収めていた片山だが、大学卒業後はオーストラリアに移住して働いた。
その際、ボクササイズのトレーナーをしたことで、ボクシング指導者の仕事に興味を持ち、ボクシングジムを日本に作るという夢を抱くようになった。
その後、世界一周旅行をしようと、2019年7月に滞在先のオーストラリアを出発し、様々な国を経て2020年3月15日に27ヶ国目となるペルーに到着した。
ペルーが世界一周旅行の最後の地で、マチュピチュ遺跡に3月16日に入るチケットを購入し、観光を楽しみにしていた。
しかし、マチュピチュ村に到着した3月15日に、ペルー政府が新型コロナ感染拡大を受けて緊急事態発令を出したため、マチュピチュを観光できなくなってしまう。
チャーター機で帰国を急ぐ多くの観光客同様、片山もその進退について大いに悩んだという。しかし彼が出した結論は村に留まることだった。
村でのいわば監禁生活を、自身の夢を叶えるための準備期間に充てたのだ。
マチュピチュ見学を諦めきれない気持ちもあって、宿泊先のオーナーにヨガを教わり、その家族や近所の子供たちに勉強やボクシングを教える日々を過ごした。
言葉がわからなくても、仲よくなりたいのだと笑顔でアピールすれば、心で通じ合えると気がついたときはうれしかったという。
そんな片山にマチュピチュを見せてやりたいと、周囲の ペルー人たちが支援活動を開始した。
そのきっかけは地方紙に「マチュピチュにいる最後の観光客」という記事が掲載され、彼のもとにはそれを見たという人たちからの励ましのメッセージがたくさん寄せられた。
その2日後マチュピチュ村役場に呼ばれ、「今リマに見学許可申請を出している」と状況を報告される。
そして、ペルー政府(文化相)から特別にマチュピチュ観光を許されたのである。
2020年10月10日当日は天候もよく、最高の見学日和。片山は、カメラマン2人とマチュピチュの管理責任者とマチュピチュ遺跡に入り、マチュピチュの絶景をほぼ独り占めすることとなった。
これで物語は終わらなかった。片山がマチュピチュ村での生活を経験していて、村の人たちとも仲良く過ごしたことは、コロナで止まってしまった旅行業界の観光再開の希望となっていた。
片山はニューヨークタイムズにもとりあげられ、わけもわからぬうちに「マチュピチュ観光大使」に押し上げられることとなった。マチュピチュ見学からわずか3日の出来事であった。

カメルーンはアフリカのほぼ赤道直下、「黄金海岸」を擁するギニア湾とその西岸を面する国である。
サッカーが盛んでアフリカチャンピオンをきめるアフリカネイションズカップで5回優勝している強豪国だ。
2002年の日韓共催ワールドカップでカメルーンが宿泊地地にしたのが、奇しくも大分県中津江村。
「奇しくも」というのは、第一に中津江村が東洋一の大金山とうたわれた「鯛生(たいお)金山」を擁した場所であるからだ。
1894年に行商人が拾った小石が金鉱石と判明したことをきっかけに発見されたと伝わる「鯛生(たいお)金山」は大分県、福岡県、熊本県の3県が接するところに位置する大分県日田市中津江村にある。
もうひとつの「奇しくも」は、カメルーンの主要輸出品の一つが木材であり、中津江村が属する日田市も木材の名産地であることである。
ちなみに、日田市を流れる三隅川に繋がった川の河畔に家具の街・大川がある。
日本は、カメルーンより家具や和太鼓の枠組みに使われるブビンガという木材を輸入している。
当時の中津江村役場の職員の長谷俊介は「鯛生スポーツセンター」の所長を務めていた。
老朽化のため改修して人を呼びたいと考えていたが、ちょうどその頃、日韓共同開催のワールドカップのキャンプ地募集の知らせが届いた。
市町村から条件を満たしたキャンプ地を候補地として、その中から海外の代表チームに視察に来てもらって選んでもらうという流れだった。
長谷は、仮にキャンプ地に選ばれなくても日韓ワールドカップのキャンプ候補地になった村ということだけでも箔が付くと考えた。
そうなれば村の知名度も上がってスポーツセンターを利用するお客が増えて国や県から施設を改修するための補助金も下りるはず。
そのキャンプ候補地の条件というのは、バスで15分以内に練習場と宿泊場所があること。良質な芝のグラウンドが2面以上あること。60~70人宿泊できる施設があることの3つであった。
そして、なんとか条件を満たすようこじつけて立候補したところ、数々の応募の中から中津江村が84の候補地の一つに認定された。
これで長谷のねらいは一応達成されたことになる。
ところが2001年8月25日、カメルーン視察団が他の候補地視察のついでに中津江村にやって来たところ、予想外の展開がまちうけていた。
視察団は、長旅で疲れているのか中津江村にがっかりしているのか、イライラした様子であったという。
ところが近所の子どもたちが サッカーの練習をしているグラウンドを案内した時に事件が起きてしまう。
ジャージー姿の視察団を見た子どもたちがカメルーン代表の選手たちだと勘違いして、「あっ 海外のプロ選手だ!サインください!」と騒ぎ始めた。
するとカメルーン視察団は 一気にご機嫌になってしまった。
そして 数カ月後、本当に 中津江村がカメルーンのキャンプ地に決定の報告がくる。
「候補地」でよかったのに本当に「キャンプ地」になった。全キャンプ地で唯一の「村」だったからメディアにも注目されまくり。
後には引けず村の施設をカメルーンの要求どおりに改造することとなった。
筋トレルームが欲しいというので、部屋自体あることはあるのでマシンを渋々 購入した。
雑草だらけのグラウンドをプロがスタジアムの水準に替えるには芝の維持だけで数千万円かかる。
そこで長谷自身が専門書を読んで 芝を整えるはめになった。
また25メートルプールはあったが 要望どうり温水にするために3日間 お湯を入れ続けた。
またカメルーンは一流ホテル並みの部屋を要求してきた。しかしながら、1部屋に10人雑魚寝する畳部屋を一体 どうやって一流ホテル並みに変身させられるというのか。
長谷は、隣の村の潰れたホテルの家具をまるまる借り、さらに ベッドメイキングは福岡のホテル学校に相談し、生徒がボランティアで協力した。
引退した元一流ホテルのシェフがボランティアで協力したのである。
その結果、施設は 一流ホテル並みの環境になり、長谷俊介は今や「問題解決」の師匠にならんとしていた。そこには各方面からの協力者も現れたのも事実。
電波は届かないからトランシーバーでやりとりするしかない、と思いきや勢いというものは恐ろしい。
携帯会社の「au」が、電波が届かないなら 近くに鉄塔 建ててやろうということになった。
このように どんどん問題を解決した長谷だが、もうひとつの課題はカメルーン選手団の食事である。
何を食べるのかとか聞きたい事がたくさんあったのだが、なぜか突然 一切連絡が取れなくなってしまったのである。
そこで長谷は、アポなしで カメルーンへ直接会いに行くことにした。それがたまたま、アフリカ王者を決めるアフリカネイションズカップにおいてカメルーンが優勝したタイミングであった。
サッカーが国技でもあるカメルーン人にとっては国を挙げて大喜びのビッグニュース。
選手たちはもちろんチーム関係者も軍隊に警備されその周りを数十万の国民がディフェンスしている、とんでもないタイミングだったのだ。
その選手達にアプローチするのは至難のワザだった、はずだった。
しかし長谷が泊まったホテルで偶然にも優勝パーティーがあり、選手とスタッフ この時たまたま勢ぞろいしていたのである。
そこに長谷は難なく突入することができた。この奇跡の出会いで全ての問題を解決し準備は万全、あとは カメルーン代表が中津江村に来るのを待つのみであった。
しかし2002年5月19日到着するはずの日に、カメルーン代表がなかなか到着しない。
後で判ったことは、パリのシャルルドゴール空港で選手の報奨金をめぐる騒動がおこり、ビザやパスポートがなかったりして出発が見送られたのだという。
ようやく機上の人となっても、各地の空港で問題が続出し、上空通過の許可がおりず足止めをくらったりで、予定から5日も遅れて、深夜3時の中津江村到着となった。
深夜にもかかわらず、中津江村の鯛生スポーツセンターでは、村人150人が手作りの旗でお出迎えた。
当時の坂本休(さかもとやすむ)村長は、休むひまもなく、この日のために3月からフランス語の勉強に励んでいた。
選手達は時差をものともせず、翌日には地元の高校生との親善試合を行った。
そして監督も、村民との交流について「一つの家族のようになれた」と感謝の言葉を述べている。
そして2010年、ワールドカップ南アフリカ大会で対戦国が日本となり、この時日本は「0-2」で敗れている。 この試合で、どちらを応援するか一番迷ったのが、中津江村の人々でなかっただろうか。

アクション映界の大スター「シンシア・ラスター」は、香港での芸名を「大島由香里」といった。
1963年福岡市西区生まれで、中学の時に器械体操、中学3年生の時に剛柔流空手を学んだ。
福岡の高校卒業後、体育教師を志して日本体育大学女子短期大学部体育学科に進学した。
友達に誘われて香港映画「ヤングマスター 師弟出馬」を観て、ユン・ピョウのアクションに衝撃をうけ、「自分の仕事はこれだ」と思ってしまった。
しかし、体育の先生になるという約束のもと2年間東京に出てきて、アクションスターへの道を目指すなんてこと。まして「香港へ行く」などとはいえるはずもない。
東京と福岡の距離なら親にはバレないので、ますは東京でアクションスターを目指すこととした。もらった役が「戦隊もの」の悪役、ちょい役だったので「無問題」のはず、出演をオーケーした。
しかし当初「ちょい役」だったはずが最終話まで生き残り、少しだけ名前を知られた大島にあるオーディションが舞い込んできた。
香港サモ・ハン・キンポー監督のお正月映画のキャスティングが日本で行われたのだった。
そうそうたる日本の女優が名前を連ねていて勝てる見込みはないと思いつつも、面接時に手紙3枚を用意して手渡した。
自分は器械体操をやってきており「宙返りをしながら蹴れる」とか、有名女優が出来そうもないことをアピールした。
そして無名のオオシマが大抜擢されることになり、ついにオオシマは念願の香港映画のデビューを飾ることになった。
しかし、アクションばかりに気をとられ、大事なことを忘れていた。映画に出演する以上はせりふがある。中国語(広東語)など話せるはずもない。
しかし、「無問題」の神様はオオシマを見捨てなかった。実は、香港映画には戦時中にアジアや上海から戦禍をのがれてきた人々など多様な人々がいた。
そのおかげで全員 口パクだったのだ。 「今日は何文字ですか」と聞いて、助監督にいわれた数を「575」などにして自分で適当に言葉をて作って発した。
言葉に合わせて雰囲気や表情をつくるだけでよかったのだ。
その点では無問題であったが、スタッフは皆アクションが好きだから、カメラマンや照明さんまでもが「オオシマは、そこは違う」などと横やりをいれてくる。
監督も、誰かれが何の達人とか経歴をよく知ってるので一目おいていて、少しのミスでもなかなかOKがでないこともあった。
結果的に、これがオオシマの技能を向上させる。
ある映画の出演では日本で起きたのと同じことがおきた。麻薬を扱う組織の殺し屋という「ちょい役」で撮影期間は1週間だと伝えられていた。
しかし1週間を過ぎても撮影に呼ばれ、得意の「無問題!」を連発していたら、気付いたら3カ月間に延びていた。
最終的に組織のボスを殺し敵の組織が全員死に、オオシマがボスにのしあがっていた。
つまり、オオシマの素晴らしいアクションのおかげで、毎日もらう台本が変わっていく。そしていつのまにかオオシマが主演というようになってしまうのである。
そうこうするうち大人気となって映画撮影をかけもちするまでになる。
香港は狭く現場が近く、車で移動できる。ABCの撮影が同時進行したとしても「無問題」。
Aの撮影所にいると、Bの撮影所で「そろそろ オオシマ迎えに行ってこい」、Bで撮影をしてる時にCのプロデューサーが同じことを言う。
Cのスタッフが迎えに来てほぼ 拉致状態で連れていかれるといった具合。
ほとんど失踪レベルの苛酷さだが、オオーシマは根性と「無問題精神」で乗り切っていく。
そうした日本人女性の噂は広がり、ジャッキー・チェンと 同じ事務所に入った、いわば「ジャッキー・チェンの弟子」となって、いつしかオオシマは「女ドラゴン」の異名でよばれるようになる。
オオシマが33歳の時、アメリカ人の男性が訪ねてきて写真をみせ、「これは あなたですか?」と尋ねてきた。自分の写真だったので 「ああ そうです」と言うと、「アクション映画を撮りたいので来てみないか」といわれた。
やっと広東語をおぼえてきたのに、アメリカでイチからやるのは ちょっと無理、 「アイム ソーリー」とやんわり断った。
すると男性は「僕のこと、知っているか」と、ようやく名をなのった。その名前はなんと「オリバー・ストーン」。
この時オオシマは巨匠相手に、「無問題」以外の言葉を発したのである。
オオシマは1997年に活動拠点をフィリピンに移す。香港では大島由加里の芸名で活動していたが、この頃から「シンシア・ラスター」の別名でクレジットされるようになる。
彼女はフィリピンにおいても国民的なスターとなったばかりか、マレーシア、タイ、ベトナム等で幅広く活動を続けていった。
出演した映画は約80本、主演作品は約70本を数え、東洋の大アクションスター「シンシア・ラスター」となっていく。まるでアクション界のテレサ・テンのような存在である。
1998年、撮影中の事故で負傷したのをきっかけに帰国し、故郷福岡の総合学園ヒューマンアカデミー福岡校で特別顧問を務め、アクション俳優を養成する全日制のアクションスクール」を開講している。