武器輸出への警鐘

「かつては自分の子供のようなものだったが、今では私の手から離れていった。この子供をしつけることはもはや不可能だ」。
これは、世界で最も多く人を殺傷した銃の開発者の言葉である。その銃には、開発者の名前がつけられた。
「カラシニコフ銃」、全世界で推定1億丁製造された。ハマスの戦闘員が2023年9月のテロで使用したのも、この銃であった。
ソ連のミハイル・カラシニコフは、海外から「悪魔の銃の父」と非難される一方、母国ソ連では西側諸国に対抗する武器の開発者として賞賛された。
冷戦が終結すると、イデオロギーから解き放たれ、この銃の使用はさらに拡散する。アフリカ内戦では、双方がカラシニコフ銃で集団殺戮を繰り返した。簡単に扱える銃は子供も兵士に変えた。
カラシニコフは21歳の時、第二次世界大戦でソ連に侵攻するドイツと戦ったが、開戦から4か月後に負傷した。ドイツは新型の銃サブマシンガンを使っており、その銃のことが頭に残ってはなれず、自ら銃を開発しようと決めた。
農家で生まれたカラシニコフは、頑丈で誰にも扱えるものでないいと心にきめた。戦場では複雑な操作できるはずもないからだ。
カラシニコフは目隠ししても組み立てられるように、部品を極限まで削減した。さらには部品に少々の誤差があっても組み立てられた。
銃といえば精密な部品をすきまなく並べるのが常識だった。落下や水没でも大丈夫、部品の間にあえて隙間を設けることで、砂や水が外に排出される。
砂漠から北極までどんな環境でも使え、600キロもの速度で自動的に連射できる。
まるで部品の一つ一つが宙に浮いているように設計し、しかも安価で製造できた。息をのむほど美しく、その威力はすさまじかった。
カラシニコフ銃は6年間の試行錯誤で完成し、1947年に軍事試験に合格した。
銃の正式名称「AK47」に対してスターリンは、最高の「レーニン賞」を与えた。当初、国内生産に限定し、その技術を徹底的に秘匿したが、戦場で使えば武器は相手方に渡ってしまう。
スターリン死後、1959年ハンガリー動乱で、市民はカラシニコフ銃の威力を目の当たりにし、市民はそれを奪って反撃した。
ソ連はわずか1週間で制圧し、市民は打ちのめされたが、謎につつれた存在が公になり、カラシニコフ銃が東ヨーロッパに広がり始める。
1955年「ワルシャワ条約機構」ができるとフルシチョフは東ドイツを支援した。軍事援助の目玉としてフルシチョフが供与したのがカラシニコフ銃であった。
製造技術を公開し、東欧諸国で生産がはじまり、友好国の中国にも提供した。
1960年代、ベトナム戦争に投入された。ソ連や中国から「ベトコン」に銃が提供された。
アメリカもカラシニコフ銃に対抗して最新の自動小銃「M16」を投入した。軽くてその威力は大きく命中精度も優れ、カラシニコフ銃のそれをわずかに上回っていた。
しかし悪環境の戦場ではM16は動かなくなった。幾度となく作動不動に陥ったため、米兵は機会があればカラシニコフ銃を奪って戦うようになる。
1979年にソ連のアフガン侵攻で、アメリカはイスラム義勇兵を支援し、総額60億ドルの武器を提供した。その中に大量のカラシニコフ銃が含まれていた。
当時、中国とソ連は対立が深まっており、その数40万丁の多くは中国製だった。
アメリカはこの対立を利用して銃を買ってイスラム義勇兵に与えたのである。
ソ連が北ベトナムを支援し、アメリカに多大の犠牲を払わせたいわばリベンジだった。
ソ連は自国が開発した武器の銃口が向けられることとなった。
イスラム義勇兵の中にはオサマビン・ラディンもいた。オサマはアメリカの抑圧に怒りにもえてアフガニスタンに来ていた。
1989年、ソ連はアメリカ撤退、その2年後ソ連は崩壊する。ソ連崩壊は、カラシニコフ銃は世界に無秩序にあふれだした。
東欧諸国は武器輸出で不況を打開しようと、アフリカに売り込んだ。
冷戦期でカラシニコフ銃は「米ソ代理戦争」で使用され、冷戦終結後は武器が残され、アフリカの部族間の内戦で使われた。
誰でも簡単に扱えて壊れにくい。しかも1丁10ドルから入手でき、「貧者の兵器」ともいわれた。
わずか9歳の子でさえ一度使ったら、もう一度使われずにおれないものだった。
我々がしばしば目にする、2001年同時多発テロの首謀者オサマビン・ラディンの映像の傍らに写ってしたのカラシニコフ銃である。
2013年94歳でカラシニコフが亡くなり国葬となった。プーチンは「銃の芸術」と称賛し、世界中からライセンス料を得ている。
この「銃の芸術」は、アメリカの銃乱射事件で使われ、パリの出版社襲撃などにも使われた。
現在、岸田内閣が閣議決定した戦闘機の輸出が問題化しているが、どんなに条件をつけても武器は我々の想像を超えた時と場所で使われる。それがどんな経路かで自国に向けられないとも限らない。

日米野球は1908年に始まった。太平洋戦争による休止期間を経て、1949年に再開して今日に至る。
アメリカが日本と野球では実力に大差があり、対戦するメリットはほとんどなかった。
にも関わらず、アメリカはわざわざ野球をして周り、それにカメラマンも同行した。
この疑問へのひとつの答えは1934年の日米野球にある。この時のアメリカは、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックなどそうそうたる面子をそろえて来日した。
しかしその中にひとりだけ「格落ち」とも言える選手が混じっていた。それが、モーリス・モー・バーグというキャッチャーであった。
バーグは数試合に出場した後、突然行方がわからなくなり、帰国していたことが判明する。彼がなぜオールアメリカンチームに選ばれたのか、日本人はみな疑問に思ったという。
その後、時は流れ第二次世界大戦へと突入する。アメリカは日本に東京大空襲をしかけることになるのだが、その時に地図として使われたのが、バーグの撮った東京の写真だったのだ。
さて、スペイン内戦中の1937年4月26日、ドイツ空軍がスペイン北部の都市ゲルニカに対して行った爆撃は、戦史上初の本格的な都市無差別爆撃とされる。使われた爆弾は「焼夷弾」であった。
それから7年を経て、米軍は1944年7月、マリアナ諸島のサイパン島を日本から奪い、周辺の各島に飛行場の建設を進めた。
B29の航続距離は6千キロ。成都からだと九州北部までが限界だったが、東京から約2400キロのサイパンを拠点にすれば、日本全域を攻撃目標にできた。11月から、本土空襲が本格化していった。
当初の空襲は、軍需工場や港などの軍事拠点を狙った「精密爆撃」。昼間に、高射砲を避けて1万メートルの高高度から爆弾を落としたが、風で流されるなどして攻撃目標を外れることが多く、目立った戦果は挙げられなかった。
1945年1月、欧州戦線でドイツの都市への爆撃を指揮したカーチス・ルメイ少将がマリアナ諸島を基地とする第21爆撃機軍団の司令官になる。
早期終戦を目的に、日本の厭戦気分を高めるため都市への焼夷弾攻撃を求める軍上層部の意向を受けて着々と準備を進めていった。
そして、3月10日の東京大空襲をきっかけに、民間人を巻き込む「無差別爆撃」が繰り返されるようになる。その際に、技量がない航空士でも成果が出せる「焼夷弾」が使われた。
研究者によれば、この時使用された「M69焼夷弾」は、米軍が日本の木造家屋を「効率よく焼き払う」ために開発した爆弾であった。
日本の家屋は火に弱い、火災こそが大きな兵器になると信じて疑わない人がアメリカにはいた。
「消せない火災」を起こすにはどうしたらいいか、彼らは1934年の函館大火や江戸の大火まで徹底的に調べ上げていたのである。
B29爆撃機から投下し、上空約700メートルで分解し、散らばった無数の子爆弾が屋根を貫通して、屋内にとどまって爆発。火の付いた油脂が壁や床にへばりついて燃え、水をかけても消えにくかったという。
米軍は、日本の都市構造や建物の配置、国勢調査から分析した人口密度、都市ごとの火災保険の格付けまでも調べた。
砂漠の中に日本風の木造長屋を建てて、焼夷弾の実証実験を重ねた。そこまでして「M69焼夷弾」の開発にこだわった理由は何だったのであろうか。
鈴木冬悠人著『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか』(新潮新書)によれば、我々の与り知らない米軍内部の権力争いが背景にあった。そして沖縄戦を除いて地上戦が行われなかった理由も。
1945年3月10日の深夜の東京大空襲では、米軍のB29による爆撃で、一夜にして約12万人の命が失われたといわれている。
前述のように東京大空襲を指揮したのはカーチス・ルメイで当時38歳。非人道的な人物として語られることの多いルメイだが、上官にヘンリー・アーノルドからのプレッシャーがあったといわれている。
実際に、東京大空襲にどのような感情を抱いていたのだろうか。インタビューで次のように答えている。
「アーノルドには、話をせずに実行するつもりだった。もしアーノルドの許可をもらったのに失敗したら、アーノルドの責任になるだろう。黙って実行すれば失敗しても『愚かな部下が勝手に暴挙に出たから彼を首にした』と言って、他の誰かに私の任務を引き継がせ、B29の作戦は続けられる。アーノルドに迷惑をかけることだけは避けたかった。それは誰のものでもなく、私の決断であり、私の責任である。この作戦にかかっていたのは、アーノルドの首ではなく、私の首だったのだ。だから、自分で実行することに決めた」。
東京上空に到達したB29は、大量の焼夷弾を投下した。その数、32万7000発。夜間空襲にもかかわらず、辺り一帯が昼間のような明るさとなった。
燃え盛る炎は、大量の酸素を飲み込みながら、凄まじい上昇気流を発生させた。
爆撃の中心地として狙われた台東区、墨田区、江東区は、たちまち火の海になった。
ルメイは自伝の中で、「大量の爆弾を投下するときに、わずかでも想像力があることは、不幸なことである」と、道義的な責任を押し殺していたことを打ち明けている。
ルーズベルト大統領は、30億ドルという巨額の開発費をかけたB29が、戦争で決定的な仕事をしたと証明しなければならなかった。
国民は、戦争を早く終わらせてほしいと願い、降伏しない日本に対する強力な攻撃を求めていた。それらの要素すべてが、「無差別爆撃」へと繋がっていった。
しかしそんな大義(?)ばかりではなかった。日本軍内部で陸軍と海軍が対立していたように、米軍の内部でも「空軍独立」という野望を抱いていた航空軍が、太平洋戦争で戦果を上げなければならなかった。
当時、空軍は“冬の時代”を過ごしていた。空軍の予算が削られ、軍事資源が乏しくなっていた。
限られた資源を最大限に有効活用するための方法を探らざるを得ない状況に追い込まれていた。
こうして航空戦術は、軍事施設や工場をピンポイントで狙う戦略に注力していく。
それはのちに“精密爆撃”と呼ばれるようになり、太平洋戦争中に行われた日本への空爆で実行されることになる。
敵国家の心臓部をピンポイントで狙う精密爆撃は、戦争において、どれほどの効果をもたらすのか。アーノルドら航空軍は、自分たちが追い求めてきた航空戦略を実際に試す機会を待ち続けてきた。
そして、航空軍にそのチャンスが訪れたのは、1944年ののことだった。B29が実戦配備できるようになったのだ。
実はB29の開発計画は、「特別プロジェクト」として立ち上がったもので、短期間で最新鋭の超大型爆撃機を開発する無謀とも言える計画だった。
また、アメリカ軍のどの組織が指揮権を握るか、明確に決まっていたわけではなかった。
そのため、日本に迫っていた陸軍のマッカーサーも海軍のニミッツも最新鋭の大型爆撃機のB29指揮権を欲しがっていた。
陸・海軍どちらの司令官も航空戦力を分割して、自分たちの戦域に割り振ろうと画策していたので、航空軍がその指揮権を手にできない可能性について非常に深刻に受け止めていた。
アーノルドは、陸・海軍のトップやルーズベルトなどに『結果を出すので任せてくださいと交渉した。
陸軍と海軍の承認が必要だったが、どちらも肯定的ではなかった。
しかし最終的に、航空軍が独自の空爆作戦だけでなく、陸・海軍の攻撃のサポートもすることを条件にアーノルドは指揮権を手にした。
30億ドルという巨額の開発費をかけたB29の運用の全責任を負うことになったため、それを見あうだけの戦果をあげる必要があったのだ。
そして航空軍の真価が問われることになる実戦の場、それが日本への空爆だった。
ただアーノルドら航空軍にとっては、その成果を上げるためには、サイパン島、グアム島、テニアン島からなるマリアナ諸島に侵攻する必要があった。
マリアナ諸島は日本から往復で約4800キロメートルの距離にある。
航続距離5000キロメートルを超えるB29ならば、日本本土のほとんどを射程圏内におさめることができた。
アーノルドは、統合参謀本部で、日本軍が統治していたマリアナ諸島の占領を訴えていく。
航空軍がB29の指揮権を発動するためには、”直接”日本本土を空爆するより他に方法がなかったのである。
そして、ついに日本本土への空爆を実現する唯一の切り札を手にしたのだった。敵の反撃を受けずに爆撃できるB29ならば精密爆撃を実現できる。
アーノルドは、太平洋における日本との戦いで空軍力で単独勝利を勝ち取ること。日本への上陸を行うことなく、自分の指揮するB29を使って、陸軍が必要とならないように確実に実行しようと決心していた。
東京大空襲がもたらした結果は、すぐにアーノルドのもとに報告された。ルメイは、一報を受けたアーノルドが非常に満足していたため、安堵したと振り返っている。
東京大空襲の結果こそ、望んでいた戦果だと喜んだアーノルド。アーノルドは、30億ドルを賭けた“大博打”に勝ったのである。
このあとアーノルドら航空軍は、B29を使った焼夷弾による無差別爆撃を戦略の柱に据え、一般市民を犠牲にする非人道的な空爆を繰り返すことになる。
3月10日~19日までにターゲットとなった都市はすべて1943年に作成されていた「日本焼夷弾空爆データ」で計画されていた主要攻撃目標と一致する。
使い続けた焼夷弾が枯渇したため、鹿児島や福岡や静岡への空爆は計画より遅れ、6月から再開される。
一連の成果で空軍は独立した存在として認められ、アーノルドはやがて「空軍の父」と称されるようになる。
ところで、都市に対する無差別攻撃は、ナチスドイツによるゲルニカからヨーロッパ各都市へ、そして日本軍による重慶攻撃、さらには米軍による日本各都市へと繋がって、最後は広島長崎への原爆投下に至る。
ところで2024年3月閣議決定された戦闘機の第三国への輸出は、2023年末の弾薬や弾道ミサイルなどの輸出緩和に続くものである。
安倍内閣時代の集団的自衛権の容認の延長線上にあるものと推測されるが、戦闘機がたとえ同盟国によって使われたとしても、それが一般市民に向けられていく可能性は大いにある。
ちょうど米軍がイスラエルを支援で力を増した武力が、ハマスよりも一般市民を犠牲にしているように。

2024年3月26日 21時51分  政府は26日、英国、イタリアと共同開発する次期戦闘機の日本から第三国への輸出を解禁する方針を閣議決定し、国家安全保障会議(NSC)で武器輸出ルールを定めた「防衛装備移転三原則」の運用指針を改定した。  防衛装備移転三原則 防衛装備品(武器や防弾チョッキなど)の輸出や、海外への技術移転のあり方を定めた政府方針。 岸田政権は2023年12月、三原則と具体的なルールを定めた運用指針を抜本改定し、これまで原則禁じてきた殺傷能力のある武器の輸出を一部容認した。 共同開発した武器の完成品の第三国輸出は結論を先送りしていたが、自民、公明両党が3月、次期戦闘機の解禁に限って合意した。 憲法の平和主義を逸脱し、国際紛争を助長する恐れがあるが、野党を含めた国会の関与がないまま、政府・与党のみの協議で決めた。 林芳正官房長官は26日の記者会見で「わが国にとって必要な性能を満たした戦闘機を実現するための見直しだ」と意義を強調した。  運用指針の改定では、無制限な輸出拡大を防ぐ歯止め策として (1)輸出対象を次期戦闘機に限定 (2)輸出先は、国連憲章の目的に適合する使用を義務付けた協定の締結相手に限る (3)現に戦闘が行われている国を除外 の3点を明記した。  ただ、対象となる武器は追加が可能で、今後増える余地を残す。輸出先となりうる協定締結国は現在、米英伊など15カ国だが、現在交渉中のバングラデシュなど、締結国が増えるのは確実。 輸出時点で戦闘が起きていなくても、その後に紛争当事国となって輸出した戦闘機が使われる恐れがある。 次期戦闘機を輸出する場合は、個別の案件ごとに閣議決定することも定めた。与党協議を行った上で、輸出の可否を審査する。ただ政府・与党のみで決めることに変わりはなく、武器輸出に議会の報告・承認が原則必要な米国と比べ、厳格性や透明性は低い。 次期戦闘機は35年に配備予定。機体設計を巡る3カ国の協議は近く本格化するが、日本が重視する航続距離の長さなどの性能が優先されるかは確定していない。    政府が26日の閣議などで決定した、英国、イタリアとの共同開発による次期戦闘機の日本から第三国への輸出解禁が、日本の防衛政策全般に及ぼす影響について、安全保障に関する民間シンクタンク「新外交イニシアティブ」代表の猿田佐世弁護士に聞いた。  政府・与党の協議では「三つの限定」などの歯止めに集中して、本質的な議論が置き去りにされた。集団的自衛権の行使容認や敵基地攻撃能力の保有に続き、抑制的な武器輸出政策を転換させ、平和国家という日本の国のあり方を大きく変える方向に進んでよいのか、国民全体で一度立ち止まって議論すべきだ。 今回の決定は、日本社会にとって取り返しのつかない選択になる恐れがある。米国のように軍や軍需産業が社会に組み込まれ、その影響力から抜け出せなくなるかもしれない。  中小企業も含め、軍需産業の存在感が大きくなれば、そこで収入を得る人たちや、企業税収に頼る自治体が依存するようになる。しだいに軍需産業が政治で発言力を増してきて、輸出推進の声が高まることも予想される。 今後、英国、イタリアからも「日本の技術が製造に必要だ」と言われ、別の兵器を共同で造る流れもできるだろう。歯車に一度入ると未来永劫(えいごう)抜け出せなくなるリスクを真剣に考えてほしい。 日本政府は対中国の抑止力強化のために輸出解禁が必要だと言うが、軍拡競争は際限なく、それより外交で緊張緩和をする方が現実的だ。 日中両国の国民や政府機関のあらゆるレベルが持続的につながる仕組みをつくる外交努力をしてほしい。両国の関係が深まれば、戦争が起きた場合に自国が被るリスクが高まり、戦争を避けるようになる。 ルメイは、B-29の指揮権を握った功績は計り知れないほど大きいと手放しで賞賛していた。
アーノルドは、B-29のみを装備した第20航空軍を新たに立ち上げ、自らが司令官に就任する。それは、ワシントンにいながら戦地の指揮を執るという前例のない措置だった。

アーノルドは、B-29の指揮権を自分が握るため、陸・海軍の指揮命令系統から切り離す異例の体制づくりに尽力する。だが、マッカーサーやニミッツのような重鎮は、自分の力だけでは説得できなかった。政府や軍の要人のもとを走り回り、自らにB-29の指揮権を委ねて欲しいと頼み込んだ。
『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか』(新潮新書)鈴木冬悠人 著
太平洋戦争が始まってから、2年あまりが経っていた1944年。戦況はアメリカ優位に形勢逆転していた。開戦当初こそ、苦しい戦いが続いたアメリカだったが、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島を巡る攻防に勝利。アリューシャン列島を占領し、ニューギニアも制圧する勢いだった。物量と兵器の差で圧倒し、国力の違いを見せつけるアメリカ軍は、日本本土へと着実に迫っていた。
マッカーサーとニミッツは、陸・海軍の威信をかけて、どちらの軍が早く日本本土へ上陸できるか、競い合っていた。
この2人の関係は、公の場でののしり合うほど険悪で、犬猿の仲だとよく知られていた。そのため、互いに調整することなく、独自の作戦を展開していた。
こうした中で、航空軍が戦果を上げるには、B-29を使って日本本土を直接爆撃するしか方法がなかった。そのための拠点として、アーノルドが目を付けていたのが、マリアナ諸島だった。
アルフレッド・ノーベルは、1833年、スウェーデンの首都ストックホルムに生まれた。
父のイマヌエルは発明家だったが、生まれた時には破産していて、ノーベルが生まれたころは一家は貧乏暮らしだった。
しかし、イマヌエルが発明した「機雷」がロシア軍に採用され、一家はロシアのサンクトペテルブルクに移住し、一家は一転して裕福な暮らしとなった。
ノーベルは家庭教師から英才教育を受け、若いころは文学に熱中し、本気で文学者の道に進むことも考えていたほどだった。
1853年、クリミア戦争が始まり、イマヌエルの工場は急拡大した。
しかし1856年、クリミア戦争が終わると兵器の需要は激減し、イマヌエルの工場は潰れてしまう。ノーベルの一家はストックホルムに戻り、いちからやり直すことにした。
ノーベルは、ある化学者から発明されたばかりの薬品「ニトログリセリン」の破壊力を聞き、これを爆薬として開発しようとした。
ニトログリセリンは、強い爆発力が有ったものの、液体であるためショックですぐに爆発するという危険性があった。
実際、スウェーデンにニトログリセリンの小さい工場をつくったが、爆発事故が起こり、工場が破壊されたのはもちろん、5人の労働者が死亡した。
その中は末の弟もいて、父親も事故にショックを受けて亡くなってしまう。
彼は残った兄弟たちと協力して、この爆薬を安全なものにしようと研究に打ち込んだ。
そして、火薬を導火線で爆発させる仕組みを考えた。この起爆装置を「雷管」といい、以後世界中で使われるようになった。
しかし確実に爆発させることは出来ても、意図しない爆発が起きてしまう不安定さは相変わらずだった。
ノーベルは、固形化すれば良いと思いつき、試行錯誤の末、近くの湖でたまたま珪藻土(けいそうど)が油を吸っているところを見出した。
これで試してみると、なんと三倍のニトログリセリンを吸収したうえ、爆発力はニトログリセリンと遜色なかった。
1年後、彼はギリシャ語で「力」を意味する「dunamis」から、発明品を「ダイナマイト /dynamite」と名付け、1867年に特許を取得した。
ダイナマイトは、アルプス山脈を貫くトンネルなど、それまで不可能と思われていた土木工事に大いに活用された。
1870年にプロイセンとフランスの戦争「普仏戦争」が勃発した。ドイツ諸国家の一部に過ぎず弱小国と思われていたプロイセンは、ダイナマイトを橋の破壊などに活用することで、大国フランスに勝利した。これはダイナマイトが兵器として活用された初の戦争となった。
しかし、煙が残り相手に発射場所が確認できやすく、軍事目的には相応しくなかった。
そこでノーベルは、1876年、新兵器「無煙火薬」の開発に着手し、フランスに拠点を構え、1844年、ニトロセルロース・ニトログリセリン・樟脳を混ぜて作る無煙火薬「バリスタイト」を完成させた。
この功績で、ノーベルはフランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を贈られ、ノーベルの人生の絶頂期であった。
また、世界各地に約15の爆薬工場を経営し、ロシアにおいては「バクー油田」を開発して、巨万の富を築いた。
しかし、ノーベルの人生には"翳り"が見え始めるのは1888年のこと。
ノーベルの兄が死亡した際に、新聞社はノーベル本人の死と取り違え、掲載した死亡記事では、「人類に貢献したとは言い難い男が死んだ」と書いていた。
また翌年には、ノーベルの母親が死亡。フランス軍は、ライバル会社の無煙火薬を採用し、「バリスタイト」は生産中止に追い込まれてしまう。
ノーベルは1890年にイタリア軍にバリスタイトを売る契約を結ぶが、フランスの新聞からはフランスで研究した火薬を他国に売った裏切り者と非難された。
ノーベルはフランスを出てイタリアに移り住む羽目になったが、この頃から持病の心臓病も悪化していった。
ノーベルは、病室にあってベルタ・フォン・ズットナーの書いた「武器を捨てよ!」という本に出会う。実はズットナーはノーベルの知人で、かつてはノーベルの秘書を勤めたこともあった。
1892年、ノーベルはズットナー主催の平和会議に出席した。しかし、ズットナーが平和のためには各国は武器を捨てるべきと主張したのに対し、ノーベルは各国が究極の兵器を持つことで互いに「恐怖」のため戦争をしなくなって平和が訪れると主張し、二人の考えはすれ違った。
ノーベルは自分の主張を推し進めるように、1894年にはスウェーデンの兵器工場を手に入れ、大砲の生産を開始した。
この時、爆発事故で家族が亡くなったことの他にショックだったことは、前述のように彼が死亡したと誤認され、死亡記事に「人類に貢献したとは言い難い男の死」と伝えられたことだった。
ノーベルは遺書で、自分の遺産を安全確実な有価証券に変え、その年利を前年に人類に貢献した人物に与えるように指示していた。
授与する分野は「物理学」「化学」「生理学および医学」「文学」「平和」だった。
1896年12月10日、ノーベルは脳出血で63歳にして亡くなった。生涯未婚で使用人一人に看取られただけの寂しい最期だった。
ノーベルは、総資産の94パーセント、現在の日本円で250億円を遺していた。そればかりかこの遺産を研究者に与えるとして、その構想はスウェーデンたけでなく国外でも大反響を呼び「ノーベル賞」と名付けられ、1901年からノーベルの命日12月10日に授賞式が行われることになった。
彼の死後、ノーベル財団(本部・ストックホルム)が設立され、1910年からノーベル賞の授与が始まった。最初は五部門でスタートしたが、1969年に「経済学」が新設され6部門になった。
多くはノーベルが若いころに興味を持って学んだものだったが、なぜ「平和」を入れたのかは奇妙である。
ノーベルの遺言書では「平和賞」の趣旨を「国家間の友好、軍隊の廃止または削減、及び平和会議の開催や推進のために最大もしくは最善の仕事をした人物」としている。
彼の秘書としてかつて働いていたズットナーが、戦争反対をテーマにした小説「武器を捨てよ!」(1889年)が、当時欧米で話題になっていた。
かつてノーベルの身近にいたアシスタントが書いたこの小説が、ノーベルの「平和賞」創設に影響を与えたと推測される。
実際、女性としてはじめて「ノーベル平和賞」を受けたのは、1905年あのズットナー(第5回)である。彼女は作家として、戦乱相次ぐ欧州で生涯を平和運動に捧げたことが評価された。