「かつては自分の子供のようなものだったが、今では私の手から離れていった。この子供をしつけることはもはや不可能だ」。
これは、世界で最も多く人を殺傷した銃の開発者の言葉である。その銃には、開発者の名前がつけられた。
「カラシニコフ銃」、全世界で推定1億丁製造された。ハマスの戦闘員が2023年9月のテロで使用したのも、この銃であった。
ソ連のミハイル・カラシニコフは、海外から「悪魔の銃の父」と非難される一方、母国ソ連では西側諸国に対抗する武器の開発者として賞賛された。
冷戦が終結すると、イデオロギーから解き放たれ、この銃の使用はさらに拡散する。アフリカ内戦では、双方がカラシニコフ銃で集団殺戮を繰り返した。簡単に扱える銃は子供も兵士に変えた。
カラシニコフは21歳の時、第二次世界大戦でソ連に侵攻するドイツと戦ったが、開戦から4か月後に負傷した。ドイツは新型の銃サブマシンガンを使っており、その銃のことが頭に残ってはなれず、自ら銃を開発しようと決めた。
農家で生まれたカラシニコフは、頑丈で誰にも扱えるものでないいと心にきめた。戦場では複雑な操作できるはずもないからだ。
カラシニコフは目隠ししても組み立てられるように、部品を極限まで削減した。さらには部品に少々の誤差があっても組み立てられた。
銃といえば精密な部品をすきまなく並べるのが常識だった。落下や水没でも大丈夫、部品の間にあえて隙間を設けることで、砂や水が外に排出される。
砂漠から北極までどんな環境でも使え、600キロもの速度で自動的に連射できる。
まるで部品の一つ一つが宙に浮いているように設計し、しかも安価で製造できた。息をのむほど美しく、その威力はすさまじかった。
カラシニコフ銃は6年間の試行錯誤で完成し、1947年に軍事試験に合格した。
銃の正式名称「AK47」に対してスターリンは、最高の「レーニン賞」を与えた。当初、国内生産に限定し、その技術を徹底的に秘匿したが、戦場で使えば武器は相手方に渡ってしまう。
スターリン死後、1959年ハンガリー動乱で、市民はカラシニコフ銃の威力を目の当たりにし、市民はそれを奪って反撃した。
ソ連はわずか1週間で制圧し、市民は打ちのめされたが、謎につつれた存在が公になり、カラシニコフ銃が東ヨーロッパに広がり始める。
1955年「ワルシャワ条約機構」ができるとフルシチョフは東ドイツを支援した。軍事援助の目玉としてフルシチョフが供与したのがカラシニコフ銃であった。
製造技術を公開し、東欧諸国で生産がはじまり、友好国の中国にも提供した。
1960年代、ベトナム戦争に投入された。ソ連や中国から「ベトコン」に銃が提供された。
アメリカもカラシニコフ銃に対抗して最新の自動小銃「M16」を投入した。軽くてその威力は大きく命中精度も優れ、カラシニコフ銃のそれをわずかに上回っていた。
しかし悪環境の戦場ではM16は動かなくなった。幾度となく作動不動に陥ったため、米兵は機会があればカラシニコフ銃を奪って戦うようになる。
1979年にソ連のアフガン侵攻で、アメリカはイスラム義勇兵を支援し、総額60億ドルの武器を提供した。その中に大量のカラシニコフ銃が含まれていた。
当時、中国とソ連は対立が深まっており、その数40万丁の多くは中国製だった。
アメリカはこの対立を利用して銃を買ってイスラム義勇兵に与えたのである。
ソ連が北ベトナムを支援し、アメリカに多大の犠牲を払わせたいわばリベンジだった。
ソ連は自国が開発した武器の銃口が向けられることとなった。
イスラム義勇兵の中にはオサマビン・ラディンもいた。オサマはアメリカの抑圧に怒りにもえてアフガニスタンに来ていた。
1989年、ソ連はアメリカ撤退、その2年後ソ連は崩壊する。ソ連崩壊は、カラシニコフ銃は世界に無秩序にあふれだした。
東欧諸国は武器輸出で不況を打開しようと、アフリカに売り込んだ。
冷戦期でカラシニコフ銃は「米ソ代理戦争」で使用され、冷戦終結後は武器が残され、アフリカの部族間の内戦で使われた。
誰でも簡単に扱えて壊れにくい。しかも1丁10ドルから入手でき、「貧者の兵器」ともいわれた。
わずか9歳の子でさえ一度使ったら、もう一度使われずにおれないものだった。
我々がしばしば目にする、2001年同時多発テロの首謀者オサマビン・ラディンの映像の傍らに写ってしたのカラシニコフ銃である。
2013年94歳でカラシニコフが亡くなり国葬となった。プーチンは「銃の芸術」と称賛し、世界中からライセンス料を得ている。
この「銃の芸術」は、アメリカの銃乱射事件で使われ、パリの出版社襲撃などにも使われた。
現在、岸田内閣が閣議決定した戦闘機の輸出が問題化しているが、どんなに条件をつけても武器は我々の想像を超えた時と場所で使われる。それがどんな経路かで自国に向けられないとも限らない。
日米野球は1908年に始まった。太平洋戦争による休止期間を経て、1949年に再開して今日に至る。
アメリカが日本と野球では実力に大差があり、対戦するメリットはほとんどなかった。
にも関わらず、アメリカはわざわざ野球をして周り、それにカメラマンも同行した。
この疑問へのひとつの答えは1934年の日米野球にある。この時のアメリカは、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックなどそうそうたる面子をそろえて来日した。
しかしその中にひとりだけ「格落ち」とも言える選手が混じっていた。それが、モーリス・モー・バーグというキャッチャーであった。
バーグは数試合に出場した後、突然行方がわからなくなり、帰国していたことが判明する。彼がなぜオールアメリカンチームに選ばれたのか、日本人はみな疑問に思ったという。
その後、時は流れ第二次世界大戦へと突入する。アメリカは日本に東京大空襲をしかけることになるのだが、その時に地図として使われたのが、バーグの撮った東京の写真だったのだ。
さて、スペイン内戦中の1937年4月26日、ドイツ空軍がスペイン北部の都市ゲルニカに対して行った爆撃は、戦史上初の本格的な都市無差別爆撃とされる。使われた爆弾は「焼夷弾」であった。
それから7年を経て、米軍は1944年7月、マリアナ諸島のサイパン島を日本から奪い、周辺の各島に飛行場の建設を進めた。
B29の航続距離は6千キロ。成都からだと九州北部までが限界だったが、東京から約2400キロのサイパンを拠点にすれば、日本全域を攻撃目標にできた。11月から、本土空襲が本格化していった。
当初の空襲は、軍需工場や港などの軍事拠点を狙った「精密爆撃」。昼間に、高射砲を避けて1万メートルの高高度から爆弾を落としたが、風で流されるなどして攻撃目標を外れることが多く、目立った戦果は挙げられなかった。
1945年1月、欧州戦線でドイツの都市への爆撃を指揮したカーチス・ルメイ少将がマリアナ諸島を基地とする第21爆撃機軍団の司令官になる。
早期終戦を目的に、日本の厭戦気分を高めるため都市への焼夷弾攻撃を求める軍上層部の意向を受けて着々と準備を進めていった。
そして、3月10日の東京大空襲をきっかけに、民間人を巻き込む「無差別爆撃」が繰り返されるようになる。その際に、技量がない航空士でも成果が出せる「焼夷弾」が使われた。
研究者によれば、この時使用された「M69焼夷弾」は、米軍が日本の木造家屋を「効率よく焼き払う」ために開発した爆弾であった。
日本の家屋は火に弱い、火災こそが大きな兵器になると信じて疑わない人がアメリカにはいた。
「消せない火災」を起こすにはどうしたらいいか、彼らは1934年の函館大火や江戸の大火まで徹底的に調べ上げていたのである。
B29爆撃機から投下し、上空約700メートルで分解し、散らばった無数の子爆弾が屋根を貫通して、屋内にとどまって爆発。火の付いた油脂が壁や床にへばりついて燃え、水をかけても消えにくかったという。
米軍は、日本の都市構造や建物の配置、国勢調査から分析した人口密度、都市ごとの火災保険の格付けまでも調べた。
砂漠の中に日本風の木造長屋を建てて、焼夷弾の実証実験を重ねた。そこまでして「M69焼夷弾」の開発にこだわった理由は何だったのであろうか。
鈴木冬悠人著『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか』(新潮新書)によれば、我々の与り知らない米軍内部の権力争いが背景にあった。そして沖縄戦を除いて地上戦が行われなかった理由も。
1945年3月10日の深夜の東京大空襲では、米軍のB29による爆撃で、一夜にして約12万人の命が失われたといわれている。
前述のように東京大空襲を指揮したのはカーチス・ルメイで当時38歳。非人道的な人物として語られることの多いルメイだが、上官にヘンリー・アーノルドからのプレッシャーがあったといわれている。
実際に、東京大空襲にどのような感情を抱いていたのだろうか。インタビューで次のように答えている。
「アーノルドには、話をせずに実行するつもりだった。もしアーノルドの許可をもらったのに失敗したら、アーノルドの責任になるだろう。黙って実行すれば失敗しても『愚かな部下が勝手に暴挙に出たから彼を首にした』と言って、他の誰かに私の任務を引き継がせ、B29の作戦は続けられる。アーノルドに迷惑をかけることだけは避けたかった。それは誰のものでもなく、私の決断であり、私の責任である。この作戦にかかっていたのは、アーノルドの首ではなく、私の首だったのだ。だから、自分で実行することに決めた」。
東京上空に到達したB29は、大量の焼夷弾を投下した。その数、32万7000発。夜間空襲にもかかわらず、辺り一帯が昼間のような明るさとなった。
燃え盛る炎は、大量の酸素を飲み込みながら、凄まじい上昇気流を発生させた。
爆撃の中心地として狙われた台東区、墨田区、江東区は、たちまち火の海になった。
ルメイは自伝の中で、「大量の爆弾を投下するときに、わずかでも想像力があることは、不幸なことである」と、道義的な責任を押し殺していたことを打ち明けている。
ルーズベルト大統領は、30億ドルという巨額の開発費をかけたB29が、戦争で決定的な仕事をしたと証明しなければならなかった。
国民は、戦争を早く終わらせてほしいと願い、降伏しない日本に対する強力な攻撃を求めていた。それらの要素すべてが、「無差別爆撃」へと繋がっていった。
しかしそんな大義(?)ばかりではなかった。日本軍内部で陸軍と海軍が対立していたように、米軍の内部でも「空軍独立」という野望を抱いていた航空軍が、太平洋戦争で戦果を上げなければならなかった。
当時、空軍は“冬の時代”を過ごしていた。空軍の予算が削られ、軍事資源が乏しくなっていた。
限られた資源を最大限に有効活用するための方法を探らざるを得ない状況に追い込まれていた。
こうして航空戦術は、軍事施設や工場をピンポイントで狙う戦略に注力していく。
それはのちに“精密爆撃”と呼ばれるようになり、太平洋戦争中に行われた日本への空爆で実行されることになる。
敵国家の心臓部をピンポイントで狙う精密爆撃は、戦争において、どれほどの効果をもたらすのか。アーノルドら航空軍は、自分たちが追い求めてきた航空戦略を実際に試す機会を待ち続けてきた。
そして、航空軍にそのチャンスが訪れたのは、1944年ののことだった。B29が実戦配備できるようになったのだ。
実はB29の開発計画は、「特別プロジェクト」として立ち上がったもので、短期間で最新鋭の超大型爆撃機を開発する無謀とも言える計画だった。
また、アメリカ軍のどの組織が指揮権を握るか、明確に決まっていたわけではなかった。
そのため、日本に迫っていた陸軍のマッカーサーも海軍のニミッツも最新鋭の大型爆撃機のB29指揮権を欲しがっていた。
陸・海軍どちらの司令官も航空戦力を分割して、自分たちの戦域に割り振ろうと画策していたので、航空軍がその指揮権を手にできない可能性について非常に深刻に受け止めていた。
アーノルドは、陸・海軍のトップやルーズベルトなどに『結果を出すので任せてくださいと交渉した。
陸軍と海軍の承認が必要だったが、どちらも肯定的ではなかった。
しかし最終的に、航空軍が独自の空爆作戦だけでなく、陸・海軍の攻撃のサポートもすることを条件にアーノルドは指揮権を手にした。
30億ドルという巨額の開発費をかけたB29の運用の全責任を負うことになったため、それを見あうだけの戦果をあげる必要があったのだ。
そして航空軍の真価が問われることになる実戦の場、それが日本への空爆だった。
ただアーノルドら航空軍にとっては、その成果を上げるためには、サイパン島、グアム島、テニアン島からなるマリアナ諸島に侵攻する必要があった。
マリアナ諸島は日本から往復で約4800キロメートルの距離にある。
航続距離5000キロメートルを超えるB29ならば、日本本土のほとんどを射程圏内におさめることができた。
アーノルドは、統合参謀本部で、日本軍が統治していたマリアナ諸島の占領を訴えていく。
航空軍がB29の指揮権を発動するためには、”直接”日本本土を空爆するより他に方法がなかったのである。
そして、ついに日本本土への空爆を実現する唯一の切り札を手にしたのだった。敵の反撃を受けずに爆撃できるB29ならば精密爆撃を実現できる。
アーノルドは、太平洋における日本との戦いで空軍力で単独勝利を勝ち取ること。日本への上陸を行うことなく、自分の指揮するB29を使って、陸軍が必要とならないように確実に実行しようと決心していた。
東京大空襲がもたらした結果は、すぐにアーノルドのもとに報告された。ルメイは、一報を受けたアーノルドが非常に満足していたため、安堵したと振り返っている。
東京大空襲の結果こそ、望んでいた戦果だと喜んだアーノルド。アーノルドは、30億ドルを賭けた“大博打”に勝ったのである。
このあとアーノルドら航空軍は、B29を使った焼夷弾による無差別爆撃を戦略の柱に据え、一般市民を犠牲にする非人道的な空爆を繰り返すことになる。
3月10日~19日までにターゲットとなった都市はすべて1943年に作成されていた「日本焼夷弾空爆データ」で計画されていた主要攻撃目標と一致する。
使い続けた焼夷弾が枯渇したため、鹿児島や福岡や静岡への空爆は計画より遅れ、6月から再開される。
一連の成果で空軍は独立した存在として認められ、アーノルドはやがて「空軍の父」と称されるようになる。
ところで、都市に対する無差別攻撃は、ナチスドイツによるゲルニカからヨーロッパ各都市へ、そして日本軍による重慶攻撃、さらには米軍による日本各都市へと繋がって、最後は広島長崎への原爆投下に至る。
ところで2024年3月閣議決定された戦闘機の第三国への輸出は、2023年末の弾薬や弾道ミサイルなどの輸出緩和に続くものである。
安倍内閣時代の集団的自衛権の容認の延長線上にあるものと推測されるが、戦闘機がたとえ同盟国によって使われたとしても、それが一般市民に向けられていく可能性は大いにある。
ちょうど米軍がイスラエルを支援で力を増した武力が、ハマスよりも一般市民を犠牲にしているように。