鈴木健三は、明治大学ラグビー部に所属していて、日本代表の予備軍として「ラグビーマガジン」表紙を飾ったことがある。
大学の放送部の女性から取材を受けたことがきっかけで、この女性と交際することとなった。二人は共に希望の就職先がテレビ局で、見事別のテレビ局に入社する事ができた。
就職してから1年経ったある日、アメリカにいた鈴木から交際相手の浩子に、いきなり「プロレスラーになるから」という電話があった。
浩子が驚いてその経緯を聞くと、次のようなものだった。
鈴木がスーツを仕立てに洋服屋にいって、たまたまプロレスのカレンダーを眺めていたところ、その姿を見た洋服屋の店長が誰かに電話をしはじめた。
店長は客の男性がプロレスに興味を持っていると思い込んでしまったらしく、店長が電話をかけた相手は店の常連だったプロレスラーの坂口征二であった。
鈴木が坂口と明治大学の後輩だったということもあり、さっそく鈴木は坂口に会う事となり、即座にスカウトされたのである。
鈴木には「迷ったって時は やりたい方を選ぶ」というポリシーがあった。
鈴木はテレビ局に入社してわずか1年でやめ「新日本プロレス」に入り「ケンゾウ」を名乗った。浩子も夢だった福島中央テレビのアナウンサーを辞めて、二人はめでたく結婚をする。
鈴木は有名プロレスラーの付き人としてスタートするが、忘れ物が多く付き人としては失格であった。
しかし、プロレスラーとしての才能は豊かあった。集中力がありゾーンに入ってしまうと凄みもあり、見栄えがよくて「華」があった。
プロレスラー「ケンゾウ」としてデビュー後わずか4カ月でタイトルを獲得する。
その後、別の団体へ移籍するが、ケンゾウとヒロコにとんでもないピンチが訪れる。
なんと移籍後、興行主にお金を持ち逃げされて資金ゼロになってしまった。
崖っぷちに追い詰められた夫婦であるが、ケンゾウは途方もない”無茶”を言い始める。
それまではカナダを拠点にしていたのだが、「WWE」というアメリカの超人気プロレス団体を目指すと言い出したのだ。
売り込む金もないので、ニューヨークで「WWE」がショーがあるタイミングを見はからって、その前後5日間のツアーに行った。
そして「WWE」の事務所を目指すも、当然のごとく門前払いを食らってしまう。
しかし元ラガーマンだけに、強引にセキュリティーを突破して、
着てるものを脱いでパンツひとつを身に着けて会場内をうろつきはじめた。
やばいヤツがいると警備員が来て、「WWE」の社長も騒ぎを聞きつけたやってきた。
そこで、ケンゾウは片言の英語で熱い気持ちを全力アピールした。
すると、それがちゃんと相手に伝わり、社長はケンゾウを気にいって、その日の「前座」の試合に出ることが決定したのである。
そればかりか、契約の支度金として500万円をその場でもらったという。
しかし、ケンゾウのアメリカデビューにあたっては、ある問題が浮上した。「WWE」では”ディーヴァ”というモデルが一緒に出場することになっている。
難航する人選の中で、「WWE」の社長にひとつのアイデアが閃めいた。
それは浩子が”ディーヴァ”になってはどうかというものだった。
ケンゾウが傍にいる浩子に一応打診したので、浩子は冗談かと笑っていたところ、それがオッケーというメッセージとして伝わったらしい。
ケンゾウがよろこんで、社長と抱き合っているではないか。
実は、浩子の情報を「WWE」はあらかじめつかんでいた。ケンゾウのリングネーム「ヒロヒト」が予定され、予告ビデオも作成されていた。
浩子がそのことを知って、この一連の扱いは日本や昭和天皇に対してあまりにも失礼であると「WWE」上層部に抗議していたのである。
彼女はすでに注目される存在になっていたのだ。
そして元地方ニュースキャスターの浩子は、「ゲイシャガール・ヒロコ」として夫と共にアメリカでプロレスデビューをする。
その際、ヒロコは白粉を塗って着物を着て登場するのだが、WWEのディーヴァはけしてお飾り的存在ではなかった。
時として、相手選手やディーヴァを襲ったり襲われたり、マット上で取っ組み合ったりもする。
しかしヒロコはデビュー戦を迎えて、今まで知らなかった「自分」に気づく。
相手選手からラリアットを食らった時、メラメラとした感情が沸き起こった。
ヒロコの口から、相手および観客に対する罵詈雑言が、途切れる間もなく出てくるではないか。
リングのそでに帰ると、「天性の悪役だ」とエージェントに褒められた。
大人気になったヒロコに、目つぶしの「必殺技」"ニンジャパウダー"が代名詞となる。白い粉で目つぶしを食らった相手がひるんだ隙に蹴りを入れるというワザだった。
ところが、人気絶頂のケンゾウが、子どもが3歳になった時、突然ヒロコに「以前、地方議員をやりたと言っていただろ」と切り出した。
ヒロコが温めていた夢を夫はよくぞ覚えていてくれた。というより母親がいつまでも「凶悪ゲイシャガール」では子供の教育上まずいと思ったのかもしれない。
その後、日本に帰国してヒロコは、彼女の地元・千葉県船橋の市議会議員選挙に出馬を決意する。それまで散々ヒロコをふり回してきたケンゾウも選挙を全力でサポート。
そして鈴木浩子は、2015年見事に当選、2018年には千葉県議会議員選挙に当選し、現職である。
前職は”ディーヴァ”とあった。
明治の日本に「ケンゾウ&ヒロコ」によく似た、それを上回るスケールのカップルいた。「オトジロウ&サダ」、「川上音二郎と貞(さだ)」である。
貞は、日本橋の芳町のトップであった芸者だけが名のれる「奴(やっこ)」で「貞奴」とよばれた。
生家である商家が没落し、お茶屋の養女に出された貞は、利発で芸の覚えが早く、水泳や乗馬まで習って育った。
そして14歳の時、成田山に出かけた際のこと、貞はひとり野犬に襲われる。
助けに入ったのが、3歳年上の慶應義塾の学生・岩崎桃介(ももすけ)であった。
二人はすぐに惹かれあうが、恋は実らなかった。
桃介は福沢諭吉の次女と結婚し渡米したからである。
一方、貞は芸者となり。23歳の時に役者の川上音二郎と結婚する。
博多生まれの音二郎は芝居と言えば歌舞伎といった時代に、新しい演劇「書生芝居」の役者として世に出た。その生き方は自らを「自由童子」と名乗るくらい型破りで、世相を風刺する「オッペケペー節」を流行らせる。
伊藤博文の宴席に招かれた際、伊藤が次は君のオッペケペー節を聞かせてくれというと、音二郎は「お断りします。私のオッペケペー節は宴会芸ではありません。お聞きになりたいのなら小屋にきて木戸銭を払ってください」と答えた。
貞は、自分の芸に誇りをもち総理大臣が相手でも一歩もひかぬ音二郎に惹かれたのである。
1896年、音二郎と貞が劇場「川上座」を完成させると、千人近くの人々がお祝いに駆けつけた。
しかし資金繰りのために高利貸しに手をだした音二郎は、返済に困り1年で川上座を手放したのである。以後も借金は増え続け、夜逃げ同然で海路で関西に逃走。その時、嵐に遭遇し、二人は命を落としかける。
それでも懲りない音二郎、今度はアメリカで公演をやると言い出す。貞は世話係として同行することになった。
1899年5月、一座はサンフランシスコに到着。興行主の元から帰ってきた音二郎が貞に突然無茶を言い出す。
「女優をやってくれ。アメリカでは女は女が演じのが常識で、女形(おやま)はだめだといわれた」。
日本では江戸時代、風紀の乱れから女性が演じることが禁じられ、明治にはいっても女形が演じていた。
興行主がいうに「女形が出てくると客が席をたってしまう」という。
貞は「女優なんでできるわけない」と断るが、音二郎は「お前なら、大丈夫」と太鼓判を押す。
貞が出なければ幕があげられないというのなら、貞は悩みながらも舞台にたつ決意をする。
彼女は舞台で「貞奴時代」に踊ったことのある「道成寺(どうじょうじ)」を披露するも、外国人には理解されず不評に終わった。
さらに悪いことに興行主が売り上げ金をもって逃亡し、一文無しに陥ってしまった。
食うや食わずで途方にくれる二人を気の毒に思った劇場主が、一回だけならと興行を許してくれた。
そこで二人は、アメリカ人にも楽しめるよう内容を改めた「道成寺」を披露することになった。
ところが劇の終盤、死の場面で思わにことが起こる。
貞が「空腹」のあまり気を失って倒れたのである。もはやこれまでと落胆する音二郎達であったが、「倒れ方」にリアリティーがあると絶賛の声があがり、公演続行が決まったのである。
そして貞は「女性は役者になれない」という古い考えと決別し、女優の道を進むことになる。
評判は公演のたびに高まり、さらに「女優・貞」の成功を決定づけたのは1900年のパリ万博であった。
当時パリでは「ジャポニズム」がブームで、その追い風もあってか、パリ公演は大人気となった。
フランスの雑誌が貞奴の特集を組むほの人気ぶりであったが、日本に帰国した二人は日本では役者を蔑む風潮は相変わらずということを思い知った。
女性である貞が夫である音二郎より前に出ようとすると、非難して潰そうとする。
女優を辞めようとする貞に、音二郎は「本場の演劇をみせて女優とは何たるかを知らせるべきだ」と説得し、さらなる出演を求める。
夫に「貞がやらなければ、日本に女優の道は開けない」とまで言われ、日本で舞台にたつ決心をする。
貞には、乗馬や水泳の経験もあり、芸者で成功して鹿鳴館にて洋装でワルツも踊った。
欧米で見た女優達の発声からしぐさ、表情の作り方から所作を思い出しながら「役作り」を行った。
そして「オセロ」「ベニスの商人」「ハムレット」などのシェークスピア劇で女優の迫力を存分に示した。
世間は「新しいスター誕生」に沸き立った。女優としての地位を確立した貞は、音二郎と相談して「女優養成所」を設立した。
そこには貞の確固たる思いがあった。海外では役者の地位が高いのに、日本は対照的に低い、特に日本では女優の地位の向上が不可欠だと思ったからだ。
しかし悲劇がおそう。音二郎が急性腹膜炎で倒れ、なんとか舞台に立とうとするが、ついにかなわず、47歳の若さで亡くなる。
男が一座を率いることがあたりまえの時代に、貞は「川上座」を自ら率いて、舞台を守ろうとした。
東京赤坂に「コパカバーナ」というナイトクラブがあった。そこには選り抜きの美女で英語が堪能な女性達が働いていた。
ファイサル国王も、インドネシアのスカルノ大統領もやってきており、よく知られたエピソードは、「コパカバーナ」でホステスをしていた通称「デヴィ」と呼ばれた女性(本名:根本七保子)がいたことである。
根元七保子は、東京霞町(港区西麻布)に生まれる。
中学では成績優秀で、特に英語を得意とし、日本舞踊を習っていた。
しかし大工の棟梁であった父親が病気となり、定時制高校に通うも、中退せざるをえなかった。
母親も福島への疎開の後に足を悪くし、七保子は自分が母親と弟を守ると心に決めた。
七保子は「コパカーナ」のトップホステスとなるが、彼女の運命は「仕組まれた」かのように展開していく。
彼女は、「東日貿易」の秘書に仕立てられて、スカルノと接触する。
東日貿易は、児玉誉士夫が指揮をとる日本の商社で、インドネシアにさらなる進出を目指していた。
彼女は見事に「役」を果たし、スカルノ大統領の第三夫人に収まり、スカルノの末っ子を生んでいる。
そして「東洋の真珠」とよばれるようになる。
1960年代、日本は高度経済成長の時代に入り、インドネシアには石油はじめ重要な資源が多く、両国には緊密な関係を築く必要があった。
「デヴィ夫人」は、日本の財界トップのビジネスマンのいわば「接待係」となったのである。
そして川上貞の人生「第二幕」は、「デヴィ夫人」が果たした役回りと似ている。
貞の人生は、1913年にひとりの男が訪問したことをきっかけに、次のステージに移る。
その男とはかつて恋人であった福沢桃介で、名古屋電灯の常務の地位にあった。
その時貞は。音二郎が役者人生をかけて建設した大坂北浜の帝国座を借金のかたに取られたばかりの失意の時であった。
当時桃介は木曽川の電力事業に力を注いでおり、桃介が貞に語ったのは、「僕の仕事を手伝ってくれないか。それは君にしかできない仕事だ」ということだった。
1917年、桃介の願いを受け入れ、貞は女優を引退する。
名古屋市に引退後の貞と桃介が住んでいた旧邸が残っている。この邸は電力事業をすすめる桃介の意向で、「ゲストハウス」の役目も兼ね備えたものだった。
電気の素晴らしさをアピールするために、当時高価だった電灯をいたるところに設置し、各部屋にユニークな電気仕掛けも備えられていた。
桃介は人々が「御殿」称したこの邸宅に政財界の実力者や外国人投資家や木曽川流域の有力者を招き、頻繁にパーティを開催した。
こうした際に、「接待役」をつとめたのが貞であった。これこそが桃介が貞に頼みたい仕事だった。
伊藤博文が認めるほどの芸者、その後は女優として欧米で活躍し、英語も西洋式マナーも習得、気むづかしい人物から外国人まで、上手に話をかよわせた。
才能豊かな貞の助けを得て、桃介は支援者を増やし、電力事業は急速に普及していく。
また、貞は桃介ととおもに木曽川のダム建設現場に進んで出かけた。
或る時、台風など予想外の出来事などで建設がおくれていた。現場を励まそうとやってきたが、現場関係者の中には、これを「大名視察」とみなし、特に貞に反感をもつ者もいた。しかしその空気が一変する。
桃介が資材をおろすゴンドラをみて「一緒に行くものはいないか」と言った。
そのゴンドラは人を乗せるものではない。さらに高低差は50メートル、誰もが尻込みし手を挙げる者はいなかったのだが、そこに名乗り出たのが貞であった。
これにはさすがに桃介さえ引き留めたが、貞はものともせずゴンドラへ。そして現場に降り立つと飯場に向かい、おにぎりを握って配ったのである。
これには現場の人も大感激。それまでの悪評などなかったように貞を慕い、その仕事に励んだのである。
貞の協力もあり、日本初のダム式発電所「大井発電所」が完成する。
木曽川に七つの発電所を建設した桃介は「電力王」とよばれる。
貞も発電所が完成した翌年、貞はやり残した仕事に戻ろうと、「川上児童楽劇団」を立ちあげる。
しかし世界大恐慌、満州事変が起き、娯楽を楽しむ風潮ではなくなり、劇団を閉鎖に追い込まれる。
そして桃介との同居を解消した貞は、木曽川が流れる岐阜県各務ヶ原に寺を建立。「貞照寺(ていしょうじ)」に立つの観音像の視線は大井川ダムを向いている。
1938年 桃介は70歳で死去、その8年後の1946年 貞75歳で死去。