聖書の言葉(後ろをふり返るな)

人には、過去をふりかえる習性があるようだが、聖書には後ろを振り返って「塩の柱」になった人がいる。
それは、ソドム・ゴモラの滅びの日、アブラハムの甥のロトは家族と共に町から逃れるが、ロトの妻は神が禁じたにもかかわらず、後ろを振り返った時のことであった。
1979年制作の「天地創造」では、この場面で一瞬にして「塩の柱」となったことが特殊撮影で描かれていた。
ところで「塩」はイスラエルでは日本同様に「清め」のために用いられる。
それは、イエスの次の言葉でしることができる。「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである」(マタイの福音書5章)
考古学的調査によれば、ソドムとゴモラの町は、死海の底に眠っているらしき、よほど悪徳の街であったためか、死海の塩分濃度は異様に高い。
以前、湖に傘をさして浮かんでいる人の写真をみたことがある。
聖書には、「主は川を野に変わらせ、泉をかわいた地に変わらせ、肥えた地をそれに住む者の悪のゆえに塩地に変わらせられる」(詩篇107篇)という言葉さえもある。
さて、旧約聖書によれば、アブラハムと甥ロトの一族、そしてその子孫は面白い絡み方をしていく。
ちなみにアブラハムの子イサク・ヤコブの流れがイスラエルで、その甥ロトの子孫はモアブ人、イスラエルからすれば「異邦人」のくくりとなる。
紀元前2千年ごろの大昔、アブラハムの一族は神の声に従ってメソポタミアをでて「約束の地」カナンの地にむかうが、カナンとはどのような場所であったのであろうか。
当時のカナンの地は、「エジプトの川から大河ユーフラテスに至る」(創世記15章)細長い地域だから、今日のパレスチナよりも広く、パレスチナの語源となったペリシテ人ばかりではなく「カイン人、ヘテ人、ペリジ人、エブス人、アモリ人」などの先住民がおり、それぞの王が抗争を繰り返していた。
それでも、神はアブラハムにこの地を彼等の子孫たちに与えると約束している。
それにアブラハムには、身内との争いも加わった。
カナンの地に入る頃一族の数が増えて、家畜などをめぐり甥であるロトの一族と争いが絶えなかった。
そこでアブラハムは自分の一族とロトの一族とが分かれて生活をすることを提案する。
そしてアブラハムは丘にのぼって見渡す原野を前にして、ロトにどちらの道に行くか良いほうをロトに選択させるのである。
つまりロトに優先権を与えるが、ロトはその時点で見た目が「豊かで麗しく」見えた低地の方を選んだ。
ところが、ロトが住んだ場所は、ソドム・ゴモラという悪徳の町が栄えることとなり、自分の娘達を犠牲にするほかはなかった。
旧約聖書の記述の中でも、ソドムとゴモラの滅亡とともに、そこから救われるロトの脱出劇は、緊迫感がよく伝わってくる。
神は、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。
御使いたちはそこから身を巡らしてソドムの方に行った。
そこでロトは出て行って、その娘たちをめとるむこたち「立ってこの所から出なさい。主がこの町を滅ぼされます」と告げた。しかしそれはむこたちには戯むれごとに思えた。
夜が明けて、御使いたちはロトを促して言った「立って、ここにいるあなたの妻とふたりの娘とを連れ出しなさい。そうしなければ、あなたもこの町の不義のために滅ぼされるでしょう」。
彼はためらっていたが、主は彼にあわれみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って連れ出し、町の外に置いた。
彼らを外に連れ出した時、御使いが「のがれて、自分の命を救いなさい。”うしろをふりかえって見てはならない”。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」といった。
ロトは御使い達に「わたしは山まではのがれる事ができません。災が身に追い迫ってわたしは死ぬでしょう。あの町をごらんなさい。逃げていくのに近く、また小さい町です。どうかわたしをそこにのがれさせてください。それは小さいではありませんか。そうすればわたしの命は助かるでしょう」と訴えた。
するとみ使は「わたしはこの事でもあなたの願いをいれて、あなたの言うその町は滅ぼしません。急いでそこへのがれなさい。あなたがそこに着くまでは、わたしは何事もすることができません」と語った。
ロトがゾアルの町に着いた時、主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。
その逃れる際、ロトの妻は神が禁じたにもかかわらず、うしろをふりかえったのである。
アブラハムは朝早く起き、さきに主の前に立った所に行ってソドムとゴモラの方、および低地の全面をながめると、その地の煙が、かまどの煙のように立ちのぼっていた。
一方、神はアブラハムに対して「あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。あなたがたの領土は荒野からレバノンまで、あの川、ユーフラテス川から西の海までとなる」(申命記11章)という約束をする。
ただ、じっとしていてそれが実現していくのではなく、「あなたの足の裏がふむところ」とあるように、その土地を攻め取りなさいという意味なのだ。
異民族との戦いに明け暮れるアブラハムに対して、神は「あなたを祝す者を祝し、あなたを呪う者を呪う」(創世記12章)という保証を与えている。
実際、アブラハムが住む地は守られて祝福され、イサク・ヤコブとその子孫が繁栄していくのである。

「出エジプトの物語」は神の栄光の物語であって、イスラエルの民にとっての誇りの物語とはいいがたい。むしろその真逆である。
また荒野には、イスラエルの民の腹を満たすような食物はなかった。
聖書には壮年の男性だけで50万人とあるので、女性や子どもを合わせれば200万を超えていたはず。
民衆は食べ物について不安を抱き、モーセに訴える。そこでモーセは民衆の不安を神に訴えた。
すると、神は毎日「マナ」というパンのような食物を降らせた。
これを集めるに当たって神が命じたことは、必ず毎日1日分のマナを集めなさい、ということであった。
そし神は、明日の分まで集めてはいけないとい命じたが、イスラエルの民の中には、それを信じることができず、翌日の分までマナを集め、取っておこうとする者がいた。するとマナには虫がわき、悪臭を放った。
安息日の前の日に集めたマナだけは、翌日になっても腐ることはなかった。
民衆の不満は次第にエスカレートし、同じ食べ物であるマナに対する不満をもモーセにいいだす。
それは「肉が食べたい」から「エジプトに帰りたい」、さらには「我々を荒野で殺すために、砂漠に導いたのか」など、不信仰や不満にもとずくつぶやきを繰り返した。
ところで聖書は「この世」のことを「エジプト」にたとえている。
それはモーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの人々がシナイの砂漠で食べものや戦いなどの危機に直面すると、再びエジプトを慕い始めたことによる。
民衆はモーセに、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」(出エジプト16章)。
「ああ、わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに。この荒野で死んでいたらよかったのに。なにゆえ、主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、またわたしたちの妻子をえじきとされるのであろうか。エジプトに帰る方が、むしろ良いではないか」(民数記15章)と不満を訴えて神を怒らせる。
またモーセがシナイ山に登って「十戒」を授かる際、麓に残った民衆が偶像崇拝に陥った。
彼らは子牛の像を造り、その偶像に供え物をささげ、自分たちの手で造ったものを祭ってうち興じていた。
後に使徒に加わった ステパノは、イエスをメシアとして受け入れないイスラエルの不信仰を、その時の偶像崇拝を引き合いに出して次のように語った。
「そこで、神は顔をそむけ、彼らを天の星を拝むままに任せられた。預言者の書にこう書いてあるとおりである。
『イスラエルの家よ、 四十年のあいだ荒野にいた時に、 いけにえと供え物とを、わたしにささげたことがあったか。 あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。 それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。 だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう』」(使徒行伝6章)。
ステパノはこの演説の後に、石を投げられて殺害されるが、その死に加担したパウロは後に回心して次のように語っている。
「神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた。 しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。 (ガラテア人への手紙4章)。
パウロは「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 」と語っている(ピリピ人への手紙3章)。

古代イスラエル社会では、貧しい者と寄留者には、収穫後の「落ち穂」拾いの権利が与えられていた。
そこで麦を運ぶものは、荷車から落ちた穂を"振り返って拾ってはいけない"、というものであった(レビ記19章/申命記24章)。
この「落ち穂拾い」の場面がよく登場するのが、旧約聖書の「ルツ記」である。
面白いのは、ルツという女性はロトの子孫で、ロトの長女がモアブで「モアブ人」とよばれた。
さて飢饉のため家族とともにモアブの地に移ったナオミという女性がいた。
その地で夫エリメレクが亡くなり寡婦となった。
また二人の息子も、モアブ人の女性を嫁として迎えたが、10年の歳月を過ごした後、ナオミは、二人の息子にも先立たれてしまう。
飢饉がすぎナオミは故郷に帰る決断をするが、異邦人(モアブ人)の娘はいじめられる可能性が高く、ナオミは嫁二人にモアブに留まることをすめた。
ナオミの嫁のうちのひとりはモアブに残るが、もうひとりの嫁ルツはどうしてもナオミとともに生きたいと願った。、そこでナオミは嫁のルツを連れてカナンのベツレヘムの地に帰還した。寡婦二人だけの帰還はどんなに心細かったであろう。
ナオミの旧知の人々はナオミに「お帰り」と声をかけた。ナオミは、名前が喜ぶという意味であるが、悲しいことが多すぎて「苦しみ」とよんでくれというほどであった。
それでもナオミは信仰に富んでいた。
嫁のルツをして「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」といわせしめている。
二人がベツレヘムに到着したのは、大麦の刈り入れの始まった頃、つまり落ち穂拾いには絶好の時期であった。
ナオミには、夫エリメレクの一族で、非常に裕福なひとりの親戚がいて、その名をボアズといった。 ボアズは見知らぬルツをみて刈り入れの監督の者に誰の娘かと聞いた。
すると「あれはモアブの女で、モアブの地からナオミと一緒に帰ってきたのですが、 彼女は『どうぞ、わたしに、刈る人たちのあとについて、束のあいだで、落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。そして彼女は朝早くきて、今まで働いて、少しのあいだも休みませんでした」と応えた。
ボアズはルツに「ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。人々が刈りとっている畑に目をとめて、そのあとについて行きなさい」と語った。
ルツは地に伏して拝し、ボアズに「どうしてあなたは、わたしのような外国人を顧みて、親切にしてくださるのですか」と聞いた。
ボアズは「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主から充分の報いを得られるように」と応えた。
要するにボアズはルツの信仰を讃えたのである。そして若者たちに「彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい」とまで命じた。
こうして彼女は夕暮まで畑で落ち穂を拾って持ちかえったものを取り出してナオミに与えた。
するとナオミは、「あなたは、きょう、どこで穂を拾いましたか。どこで働きましたか」と聞くとルツは「わたしが、きょう働いたのはボアズという名の人の所です」と語った。
ナオミは神の祝福を感謝してルツに「その人はわたしたちの縁者で、最も近い親戚のひとりです」。
そして「その人のところで働く女たちと一緒に出かけるのはけっこうです。そうすればほかの畑で人にいじめられるのを免れるでしょう」と語った。
ルツは「落ち穂」を拾っていくうちに、はからずもナオミの一族で有力者となっていた「ボアズ」の土地に入っていたのである。
童話『ヘンゼルとグレーテル』で、主人公が森で迷子にならないように通り道にパンくずを置いていった、というエピソードを思い出す 。
彼女はボアズのところで働く女たちのそばについていて穂を拾い、大麦刈と小麦刈の終るまでそうして、その間ナオミと一緒に暮した。
その後、神の不思議な導きの手によってボアズとルツは、結婚することになる。
その子孫は、オベデからエッサイへ。そこからなんとイスラエルの王ダビデと続き、さらにはダビデの系図から「イエス・キリスト」が誕生するのである。
そしてイエス誕生の地こそ、この物語「ルツ記」の舞台ベツレヘムである。
ところで、「落葉ひろい」のいいところは、「施し」という意識が双方に残らない点ではなかろうか。
それは神の恵みであり、落ち穂を落とした者が「後ろを振り返るな」というのはイエスの言葉とも合致する。
「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイによる福音書5章)。