チャンドラ・ボースの死

2024年5月19日にイランのライシ大統領が東アゼルバイジャン州(イラン国内の州)を視察中に乗っていたヘリコプターが墜落して死亡した。
濃霧の悪天候の中で山岳地帯を飛んでいたので気象条件が事故の要因であったといわれている。
とはいえイスラエルのガザ地区侵攻が過激さを増し、ハマスを背後で支援するイランの大統領の死だけに様々な憶測が飛んでいる。
何よりも、ライシ大統領は現在のイランの宗教指導者ロハイニの後継者と目されただけに イランばかりか世界が大きな衝撃を受けた。
世界には、「このタイミングでなんでこの人が亡くなるのか」といった出来事が時々起こるが、インドのチャンドラ・ボースの死もそれにあたるであろう。
20世紀、インドは大英帝国イギリスの最大の植民地であった。
広大な土地と安価な労働力、インドはイギリス本国への綿花の一大供給地であり、イギリス本国で作られた綿製品の巨大な市場でもあった。
1915年、イギリス領南アフリカからひとりの弁護士ガンジーが帰国する。
ガンジーイギリス支配に対する人権闘争を繰り広げて、宗教の垣根を越えて、インドがひとつになる独立をめざした。
独立運動の象徴としたのが、古来よりインド人が誰でも使っていた綿から糸をつむぐ、糸車であった。
イギリスの機械製品をボイコットし、糸車という伝統に回帰することで、イギリスと戦おうと説いた。
そしてガンジーの名声を高めたのが、「非暴力闘争」であった。
例えば、イギリスの警官隊が作った人垣を、インド人が丸腰で突破しようとする。何度突き飛ばされても無抵抗で再び立ち向かっていく。
この運動は宗教や宗派を問わず、インド人の心をつかみ、 多くの若者が地位や出世を捨て、ガンジーのもとにインド全土から集まってきた。
その中に、ガンジーより28歳年下でエリート階級出身だったチャンドラ・ボースもいた。
イギリス留学から帰国したその足で、まっさきにガンジーをたずね、非暴力闘争に身を投じた。
1930年、ガンジーはこれまでにない大規模な公民運動をおこなった。
ガンジーは周到な作戦を用意していた。公民運動を始める日を、欧米のメディアに知らせ、その一部始終を取材させたのだ。
ガンジーは4時に起き、1日20キロの道を誰よりも早く歩いた。
78人の弟子とともに始めた行進は、数千人にふくれあがった。 出発から3週間、目的地の海についた。そして人々とともに海水から塩を作り、インド人が塩を自由に作ることを禁じた専売制にたいする抗議で、これが「塩の行進」とよばれる。
もしガンジーが汽車を利用して海岸に到着していたら、人々は心を燃え上がらせることはできなかっただろう。
ガンジーは、時間をかけて全国民を激励しながら回った。イギリスの警官隊はこれを武力で鎮圧したものの、無抵抗の人々を殴る映像が世界に配信された。
国際世論の非難が高まる中、イギリスはインドの自治を検討する会議をロンドンで開くことを表明、その席にガンジーを招くと約束した。
1931年9月、インド独立の期待を一身に背負い、ガンジーはロンドンに到着する。
歓迎に沸くイギリス市民、その中に喜劇王チャップリンの姿もあった。ガンジーを支持するチャップリンは、ひとつの疑問をなげかけた。
「わたしは、あなたのインドの自由のための戦いには共感するのですが、あなたが機械にむける敵意が理解できません。だって機械を使えば人は労働から解き放たれ、あまった時間で人生をより楽しむことができるじゃありませんか」。
それに対してガンジーは次のように答えた。
「インド人は、イギリスの支配から解放されない限り、人生を楽しむことができません。そのために機械で作られたイギリス製品をボイコットし、自分たちで糸おつむぎ自ら布を織るのです」。
チャップリンの「モダンタイムス」は、機械文明が人間の尊厳をゆがめる姿を描いた。この作品は、この時のガンジーとの会話が制作のきっかけになったといわれる。
しかし招待された会議では、思わぬ事態がガンジーをまっていた。イギリスは異なる宗派の代表者など87人もの代表者をまねいていた。
その中には、イギリス統治を認める者も多くいた。「完全自治」を主張したガンジーは孤立し、まったく相手にされなかった。
ガンジーは会議の構成メンバーすら知らず、なんの計画もなく出席した。インドの聖者ガンジーは策略家マクドナルドの敵ではなかった。イギリス側に巧みに手玉にとられたのである。
最後にマクドナルド首相は、次のように表明した。
「インドに与えられるのは完全自治ではなく、あくまでイギリス連邦の傘下における自治領としての地位だけである」。
この表明を聞いたインドの人々の失望は大きかった。ガンジーに心酔していたボースも「非暴力闘争」に限界を感じた。
ボースはこののちガンジーから距離をおき、「武装闘争派」のリーダーとなる。
こうしてガンジーとボースは袂を分かったが、この頃の二人の手紙のやり取りが残されている。
「親愛なるマハトマ、失礼な物言いを許していただきたいのですが、最近のあなたの運動保身に私は魅力を感じません。なぜ全国一斉に計画的立ち上がり、独立のために戦わないのでしょうか。
実は何百万ものインド人が内心ではその方がいいと思っています。ただあなたを気遣って言い出せないのです」。
対してガンジーは「あなたの考えていいることは私の考えととは正反対です。もう歩み寄る余地はないように思えます。私たちの考え方の違いが、私たちの友情をも壊すことがないことを願っています」と答えている。
1939年、ボースはインド国民会議の議長選挙で、ガンジーが推薦した候補を破り、インド独立運動のリーダーとなった。
そしてこの年、第二次世界大戦が勃発し、イギリスの植民地であるインドは「連合国軍」に参加させられる。
その頃ボースはインドから忽然と姿を消す。人々はとまどい、ボースはどこに、「死亡説」さえとなえられた。
1941年、ヨーロッパではドイツが快進撃を続けていた。
ボースは大戦勃発をインド独立の絶好の機会ととらえ、イギリスと敵対するナチスに近づいたのである。
ヒトラーと手を結び、その庇護のもとでインド独立のための軍隊をつくるのが狙いだった。
ドイツには敵国イギリスの捕虜が多くいた。その中には徴兵されたインド人もいた。
ボースは、彼えらを祖国独立のための「インド義勇軍」として再編成、ナチスのもとで訓練を重ねた。
しかし戦局が進んでも、「インド義勇軍」には戦闘の機会は与えられなかった。
ヒトラーは「我が闘争」のなかで「私はゲルマン人としてインドは他の国に支配されるよりはイギリスの統治下にあるのをむしろ望ましく思っている」とを語っている。
ヒトラーの支援は望めないと感じたボースは、潜水艦Uボートに乗り込みドイツを離れ、向かった先は日本だった。
日本にはインドの独立運動を支援しようとした一群の日本人がいた。
ちょうど、孫文の中華革命を支援した人々と同じように、彼らもまた西欧の列強の圧迫から、アジアひいては日本の独立を守ろうとしたのだ。
またチャンドラボースに先んじてインドから日本に身を寄せ独立運動の拠点をつくろうとしていたラス・ビハリ・ボースがいた。
混乱しやすいが、ラス・ビハリ・ボースが新宿中村屋の相馬夫妻と交流をもった「中村屋のボース」とよばれる人物である。
そして彼の側近のアナンド・サハイも、1923年から日本にやってきて神戸に身を寄せていた。
サハイは、日本でインド独立の機運を盛り上げようと、カリスマ的存在であるチャンドラ・ボースの招請を画策した。
そのために妻と偽装離婚し、当時インド中部のコルカタにいたボースの元に「秘密裏」に送り、訪日を促した。
チャンドラ・ボースはそれに応え、大時化のインド洋上で潜水艦を乗り継ぐという「離れ技」を演じるなどして、念願の来日を果たしたのである。
そして、チャンドラ・ボースは集まった日本人に語った。「いまこそインド国民にとって、自由の暁のときである。日本こそは、19世紀にアジアを襲った侵略の潮流を止めようとした、アジアで最初の強国であった。ロシアに対する日本の勝利はアジアの出発点である。アジアの復興にとって、強力な日本が必要だ」。
チャンドラ・ボースの来日は、日本でインド独立を志す人々に新たな生命を与えた。
そしてチャンドラ・ボースはインド国民軍の最高司令官となり、シンガポールで「自由インド仮政府」を樹立して独立を宣言した。
1943年6月に日本を訪問、ボースが「インドと日本とは古代からの文化の絆によってむすばれていましたが、英国のインド支配はこれを断ち切りました。しかしインドが独立した暁には、日印関係は再び復活強化されるでありましょう」と語った。
日本政府はそれに答えるようにアジア五か国を集めて、東京で「大東亜会議」を1943年11月に開催、アジア各国の団結を訴えた。ここにインド仮政府の代表として参加したのがボースであった。
ボースは東京からインド国民へラジオで呼びかけている。
「インドの諸君 いま私は東京にいる。我々の敵は無慈悲で暴力的だ。そのような相手にボイコットや非暴力の不服従だけではとてもかなうものではない。インドをイギリス支配から解放するためにはわたしたちは敵と同じ武器をもちたちあがらねばならない」。
1943年7月、ボースはシンガポールに到着する。ここにも日本軍の捕虜となった本国のイギリス兵がいた。その中にはインド人もいた。ボースは彼らを集めい、ここでも祖国解放のための軍隊をつくった
。 インド国民軍は、頭にターバンを巻いた兵士はシーク教徒、〇帽をかぶるのはヒンズー教徒と、まるでインド多神教を反映した混成軍だった。さらに女性部隊も組織された。
独立をかちとった暁には宗教や男女の違いに関係なく、平等に権利を認める国を作りたいというボースの願いがこめられていた。
サハイの娘のアシャもこの部隊に参加した。アシャはは日本名「朝子」を名乗り、神戸の小学校を卒業後、東京の昭和高等女学校(現昭和女子大)に進学する。そして2年の時に「インド独立運動」に身を投じる。
サハイの娘アシャは居ても立ってもいられず、妹とともに出征を志願。
するとボースが「花のような娘たちが戦えるのか」とからわれて、ムッとしたアシャは「私たちが国のために死ねるのを閣下は知らない」と言い返した。
結局、アシャだけ入隊を認められ、1945年3月、軍服姿のアシャは日の丸と万歳三唱で見送られた。
インド国民軍は、1944年3月より日本軍と「インパール作戦」を行い、デリーの英軍攻略をめざした。
独立を勝ち取るために立ち上がったインド兵士の士気は高かったものの、インド国民軍をまつけていたのは過酷な戦場だっ。
補給もないままの無謀な長距離行軍によって、多くの犠牲者をだすことになる。
敵のイギリス軍にもインド出身の兵士が多数いた。インパール作は同じインド人同士が殺しあう悲惨なた戦いでもあった。ボースの兵士6000人のうち3000人ちかあくが戦死もしくは行方不明、800人が捕虜となった。
バンコクで念願のインド国民軍女性部隊へ入隊するものの、インパールから飢餓や感染症で壊滅状態となった日本とインドの兵士が次々に戻ってくる。
サハイ家のアシャは、訓練を終え「少尉」になった矢先、マラリアにかかってしまい、病み上がりで終戦を迎えた。
1945年8月、日本の敗戦によって第二次世界大戦は終結する。
インド国民軍は解体、戦争に乗じてインド独立を勝ち取るというボースの夢は破れた。

1947年8月15日、インドはイギリスから独立した。 しかしヒンドゥー教徒を中心とするインドとイスラム教徒を中心とするパキスタンに分裂した。
インドは独立したものの、パキスタンを失っての独立は、ガンジーやチャンドラ・ボースらが目指した独立とは違っていた。
そこで、チャンドラ・ボースはソビエト軍に投降して「祖国独立」の新たな活路を模索しようと大連へと向かおうとする。
ところが、チャンドラボーズを「悲劇」が襲う。台北・松山飛行場で、離陸直後の飛行機墜落事故によって、帰らぬ人となったのだ。
「ボース、飛行機事故で死亡」のニュースはインド全土をかけめぐった。だがガンジーはボースの訃報をしばらく信ぜず、彼はその目的を果たすために敵を欺き、姿をけしているけではないかと考えたという。
その翌年1948年1月30日。今度は「ガンジー暗殺」のニュースが世界を駆けめぐった。犯人はガンジーと同じヒンズー教徒の若者で、ガンジーはイスラム教徒の肩をもつ裏切り者として、至近距離から数発撃った。
ガンジーの遺体は、多くの人々に見守られながらガンジスに流された。
さて東京・杉並区の地下鉄新高円寺駅に高い場所に日蓮宗・蓮光寺がある。
何も知らないでこの寺に足を踏み入れたら、境内にある「胸像」と出会って驚くにちがいない。
その「胸像の主」こそ、台北で墜落死したチャンドラ・ボーズに他ならないからだ。
実は、事故死したボーズの遺体を引き取ったのがインド独立連盟日本支部長で自由インド仮政府駐日公使を兼務するラマムルティであった。
彼らは「進駐軍(連合軍)」への敵対行動ととられないよう、控えめな葬儀を計画した。
そのため、偽装離婚したサハイ夫人の自宅がある荻窪周辺の寺を探しだが、イギリス官憲がマークする戦犯容疑者との関わり合いを恐れて、首をタテにふるところがない。
そこで、ようやくたずね当てたのが杉並区当時の蓮光寺の住職は「霊魂に国境はない。死者を回向するのは御仏につかえる僧侶の使命である」とその場で快諾したのである。
9月18日の夜、百人を超えるインドと日本の関係者が参列して、「密葬」がいとなまれた。
葬儀のあと、ラマムルティが住職に「遺骨をあずかっていただきたい」と申し出る。
住職はあくまで「一時的」なものと思い、それをすんなりと受け入れた。
しかしその後、インド独立連盟に関係した在日インド人たちは国家反逆罪の容疑で本国に送還され、ボースの「遺骨」だけが日本に取り残されることになる。
結局、チャンドラ・ボースの遺骨はこの蓮光寺に安置されてきたのである。
この半世紀、寺の住職や旧日本軍関係者によって、ボースの遺骨を祖国インドに返還しようという運動が熱心に展開されてきたが、いまなお実現されていない。
ボースの遺骨はなぜ祖国に帰ることを許されないのか。
ひとつ考えられる理由は、独立後、政権を長らく担当してきた国民会議派、とくにネールにとってボースは「政敵」であったこと。また親族も含めて、インド国内に「英雄ボース」の死を認めたがらない人達がいることなどが考えられる。