「偶然」がもたらした吉凶

明治時代のはじめ、内務卿・伊藤博文がひとつの建議書を提出した。
それは「社会を乱した凶悪犯や政治犯たちは、ただ徒食させることは許されない。ロシアへの備えの意味からも開拓が急務である北海道に送り込んで、開墾や道路建設などにつかせるのが良い」とするものだった。
そうして北海道に重罪犯を収容する監獄を設けることが決まるが、建設地の候補として、北海道開拓使黒田清隆長官は、蝦夷富士(羊蹄山)山麓、十勝川沿岸、樺戸郡シベツ太の3カ所をあげていた。
この場所の選定調査から立ち上げにいたる最大の功労者が、福岡藩士・月形潔である。
月形潔は1847年、福岡藩士の子として遠賀郡中底井野村に生まれた。叔父の月形洗蔵は、尊皇攘夷を唱える筑前勤王党の首領であった。
1868年、藩の命で京都に学び、奥羽を探索。江戸で藩の軍用金の警備などにあたり評価を得る。
維新ののち、潔は新政府に雇われる。執政局や御軍事局で仕事をしたのち、福岡藩権少参事となり、今日でいえば警察官僚としての道を歩むことになる。
1879年には、内務省御用掛となるが、時の内務卿は、伊藤博文であった。
そして月形は、初代典獄(監獄所長)に内定し、開拓本庁で 調所広丈らから「樺戸郡シベツ太」を推薦される。
重罪人収容に適した未開の原野でありながら石狩川の水運を開発すれば札幌にもほど近く、土壌も農耕に適しているというのが理由であった。
月形潔はアイヌの人々に導かれるなどして、道なき道をひと月半あまりの調査行を行い、最終的に樺戸(かばと)に「樺戸集治館」が建設されることが決定した。
そこを中心に御用商人や、彼らを迎える旅館であったり、たくさんの関係者が集まり原野に町がつくられていった。
最盛期には昭和30年代で約1万人にも及んだ。
北海道には網走など「集治監」を中心に発展していった町がいくつもあるが、シベツ太はその第1号となった。
1919年に監獄はなくなるが、町は発展をつづけ待望の鉄道建設がはじまり、1921年札幌から沼田までの札沼(さっしょう)線が開通し、沿線は札幌に近い穀倉地帯として栄えた。
さて、「樺戸集治監(かばとしゅうちかん)」の初代典獄(監獄長)に月形がなって3年後、一人の”重罪犯”が送られてくる。
囚人の名は、熊坂長庵という神奈川県で小学校の校長をつとめていた絵の心得のある人物であった。
逮捕に至る経緯は不明だが、1882年、藤田組贋札事件の犯人として逮捕され、無期徒刑を受け北海道の樺戸集治監に収監されたのである。
ちなみに、藤田組は藩閥政府の一翼である長州閥出入りの「政商」で、現在も藤田観光グループとしてワシントンホテルなどを全国に展開している。
それにしても不思議なのは、熊坂長庵が月形典獄の下、特別な待遇をうけていることだ。
労役などほとんど何もしないで、絵を2年間ずっと描かせてもらっている。
紙は地元集治監で作っていた和紙だが、絵の具は当時大変高いものだったので、それを自由に描かせてもらっていたという。
松本清張は1980年5月6日に樺戸集治監の資料館を訪れている。
月形潔は福岡士族出身であり、小倉出身の清張自身も当事件への関心もあり、なによりも事件に”冤罪”のニオイを感じていたのだろう。
月形がなぜ熊坂を厚遇したのかについて、清張は作品の登場人物に語らせている。「月形典獄はおそらく長庵の無罪を知っていたのであろう。贋札事件の首謀者には、当初長州藩の大物の名があがっていた。熊坂はその身代わりだったのではないか」と。
月形にしてみれば、熊坂長庵が獄中から再び無実の愁訴を出したり、脱走してこれおを世に訴えたりしたら、ことはたいそう面倒なことになる。
清張は、熊坂を監視しそっと死を見届けることが、月形の使命だったと推理している。
そして入所から4年後の1886年、熊坂長庵は獄死する。
清張は小説「不運な名」を通じて熊坂の無罪を訴えたかったようで、その翌年の2月に「オール讀物」にて発表する。
しかし、作品発表後も熊坂に対しての無罪を求める再審請求は起こらなかった。
ところで、この小説のタイトル「不運な名」には、どんな意味が込められているか。
実は、平安時代の伝説上の盗賊に、「熊坂長範(くまさか ちょうはん)」という人物がいた。
室町時代後期に成立したとされる幸若舞や謡曲などに登場する。
牛若丸(源義経)とともに奥州へ下る金売吉次の荷を狙い、盗賊の集団を率いて美濃青墓宿に襲ったが、かえって牛若丸に討たれたという。
不運にも平安時代の野盗・熊坂長範と一字違いのために、贋札事件の濡れ衣を着せられた気の毒な人物ということである。
資料館には、熊坂が獄中で描いた「観音像」「かに」「ざくろ」「梅花女人の図」の四点が展示されているものの、現在も熊坂長庵を事件の"冤罪"を被ったというかたちでの説明はない。
2020年春、85年間月形町の暮らしをささえてきた札沼線(北海道医療大学~新十津川)は、北海道の鉄道整備計画により廃線となった。
樺戸集治館があった地の駅名は「石狩月形駅」で、「札沼線開通の歌」をつくったのは月形の福岡県遠賀郡の小学校時代の恩師であったという。
元小学校校長の熊坂長庵が”不運な名”である一方、月形は功労者としてその名を”地名”として留めることになる。
ただ月形は、贋札事件のことを一切語らぬまま世を去ったため、事件の真相はいまだ藪の中である。

世界の喜劇王・チャップリンの秘書は、高野虎市(こうのとらいち)という日本人であった。
高野は、広島の裕福な家庭に生まれるが、自由に憧れて1900年、15歳のときに移民としてアメリカに渡った。
当初は従兄弟を頼りに暮らしながら雑貨店などで働きながら現地の学校に通った。
1916年にチャップリンが運転手を募集していたため赴いたところ、採用された。
特にチャップリンのファンであったわけでもないが、当初は運転手としての雇用だった。
そのうち、後にチャップリン邸の秘書となる。
チャップリンは高野の仕事に対する一途な姿勢に感銘をうけ、一時期家の使用人全てを日本人にしたほどである。
また、チャップリンが日本贔屓であるのも彼に由るところが大きい。
高野に最初の子息(長男)が誕生した際には、チャップリンは自らのミドルネーム(スペンサー)をその名前として与えている。
そんな中1931年に公開された「街の灯」が興行収入500万ドルを越える大ヒットとなった。
しかしその直後人気絶頂にあったチャップリンが次回作のプレッシャーに追い詰められ部屋に閉じこもるようになってしまう。
人々を楽しませなければならないプレッシャーと孤独の闘いに苦しむ天才チャップリン。
その姿を見た高野はどれだけキツくてもチャップリンを支える事を決意し、公私ともにあらゆるワガママに応えていった。
素人同然にも関わらずチャップリンの命令で無理矢理映画に出演させられたり、 挙げ句の果てには、チャップリンの妻の浮気調査までさせられていた。
自由を求めてアメリカに来たはずの高野には、子供たちと過ごすことも出来ず束縛される日々が続いた。
チャップリンの高野への信頼度を示すことのひとつが、 家の使用人17人を全て日本人に変更したことがあげられる。
そのチャップリンが日本に初めて訪れたのは1934年5月14日。つまり、歴史的事件でもある515事件の前日である。
当時、国民には政党政治への不信が蔓延し、1932年5月15日、海軍将校・陸軍士官学校候補生らが決起し、「憲政の神様」とも評された犬養毅首相宅に押し入った。
犬養は、毅然とした態度で青年将校を抑えとどめる。「諸君はいったい、なんの用で来たのか」「乱暴なまねはするな、靴ぐらい脱いだらどうだね、おたがい話せばわかることだ」。
しかし、将校は 「問答無用、撃て」 将校が発砲した弾は頭部を貫通。こめかみに入った弾丸は、鼻の辺りに止まる。だが、出血が止まらない。意識は薄らいでいき、犬養は夜中に死去した。
以上が世に言う5・15事件の顛末であるが、実はこの日に首相官邸でチャップリンの歓迎会が行われる予定であった。
そしてチャップリン自身も襲撃のターゲットになっていたのである。
チャップリン訪問のことを事前に知っていた軍人たちは、欧米の退廃文化にかぶれた連中を効率よく殺すことができる と考えたからだという。
ところが5月15日の歓迎会の日、首相官邸にチャップリンの姿はなかった。
チャップリンは勝手な思いつきで総理との面会をキャンセルし、相撲観戦へと足を運んでいたのだ。
5月18日、犬養毅の葬儀が執り行われ、チャップリンは「友国の大宰相犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」という弔電をよせた。また、襲撃現場に立ち寄り、追悼の意を示した。
高野は1934年までチャップリンの下で秘書を務めた。
チャップリンの当時の内縁の妻ポーレット・ゴダードの浪費癖を指摘したところ、ポーレットがこれに激怒。
高野は、自分を取るか、ポーレットを取るかとチャップリンに迫ったところ、チャップリンは高野をクレイジーだと応じたため、高野は自ら辞任した。
とはいえチャップリンは高野に莫大な退職金とアメリカの映画配給会社ユナイテッド・アーティスツ社の日本支社長の地位を用意したが、日本の興行習慣に高野が馴染まなかったため長続きはしなかった。
高野はその後いくつかの事業を試みるがいずれも成功せず、妻イサミを病気で失っている。
日米開戦後には日系人の一人としてモンタナ州の強制収容所に収容された。
高野は「特に親米的な日本人」として待遇も良かったものの、日本の敗戦後も収容が続き、6年間の抑留を経て釈放されたのは、戦争終結から3年後の1948年8月のことであった。
高野は、収容所の中で自分の故郷・広島に原子爆弾が投下されたことを知ったはずだ。
1956年に、第二次世界大戦中にアメリカ市民権を失った日系アメリカ人のアメリカ市民権回復運動への支援を日本で募る目的で日本に帰国した。
晩年は故郷の広島で過ごし、1971年に、86歳で死去した。

1964年10月1日、東京オリンピック。雲ひとつない晴天の日に点火された灯火は、大会最終日の10月24日まで燃え続けた。
この「聖火台」が作られたのは、1962年に公開された吉永さゆり主演の映画の舞台となった「キューポラのある街」である。
埼玉県の川口市は、火鉢などの鋳物を製造する街として知られ、その巨大な煙突のような溶鉱炉をキューポラという。
川口の鋳物師(いもじ)、鈴木萬之助のもとに聖火台の製作依頼がきたのは、アジア競技大会まであと半年という切羽詰まったタイミングだった。
このアジア競技会とは、1958年5月に開催された第3回アジア競技大会のことである。
川口鋳物師の心意気を見せようと、萬之助は期限が迫る中、採算を度外視して引き受けた。
聖火台の製作期間は3カ月。作業は昼夜を問わず行われ、2カ月後には鋳型を作り上げ、1958年2月14日、鋳鉄を流し込む「湯入れ」を迎えた。
ここで「湯」とは、キューポラとよばれる溶解炉で溶かした約1400度の鋳鉄のこと。液状になった鋳鉄を鋳型に流し込む作業が「湯入れ」だ。
強度を均一にするため、注ぐ「湯」の温度管理には繊細な注意が求められる。
しかし、この作業が始まってまもなく、鋳型が爆発、湯入れは失敗に終わる。精根尽き果てた萬之助は、その8日後に帰らぬ人となった。享年68。
その壮絶な死は、息子の文吾には伝えられなかった。
完成までに残された期間はわずか1カ月。父の死を知れば重責を引き継いだ鈴木文吾にかかる重圧が大きすぎると心配した家族の苦渋の決断だった。
やがて葬儀の日がやってきて、文吾は初めてそのことを知ることとなった。
父親を見送る文吾は「弔い合戦」と決意を固め、プレッシャーと戦いながら、寝食を忘れて作業に没頭した。
やがて迎えた湯入れの日、そしてついに成功。
ゆるやかに冷やされ、はずされた型枠の中からは、父子の魂が創り上げた見事な聖火台が姿を現した。
この聖火台は、アジア競技大会で聖火が点火され、それから6年後の東京オリンピックの開会式で、全世界が注目する中、開会式で聖火を燃え上がらせた。
聖火台には「鈴萬」の文字が刻まれていた。
ところで、市川崑監督の記録映画「東京オリンピック」に印象的な場面がある。
聖火トーチが富士を背にもうもうと白煙を上げ、風にたなびく。
市川作品に収められた前回の東京五輪用トーチを製造したのは、「日本工機」(東京)の前身、「昭和化成品」であった。
組織委員会から課されたのは「雨にも風にも消えない炎」「夕闇でも目立つ大量の白煙」との難題二つ。
その難題に挑んだのは、同社技術者であった門馬(もんま)佐太郎である。
門馬は戦時中海軍火薬廠で照明弾の研究製造に従事し、戦後は民間会社で発煙筒など扱って来た。
トーチは横浜の同社の戸塚工場で作られたが、その時、門間は工場の技術課長の地位にあった。
東京オリンピック以前に、アジア大会の時に日本体育協会の依頼で作ったことがあった。
その時門間は研究課長で、薬剤に何を使えばよいか分からず、東大に知恵を借りに行ったりもした。
また、厳粛な式典にふさわしい火でなくてはいけないというので、薬剤の主体を「赤リン」にした。
リンは昔から神秘的な感じのものでメラメラした橙色の光を出し、環境意識も低く白い煙も演出効果満点だと好評であった。
当時の門間は、火が雨風や振動で消えないばかりではなく、火の粉を出さないようにするためにも、品質管理を徹底して行った。そのため8000本作るのに1000本のテストをやり、採算など度外視したことなどを語っている。
ただ門間はその2年後の1966年2月4日、全日空機60便の羽田沖墜落事故により死亡(享年46)。
2019年7月、「はやぶさ2」に搭載された衝突装置により、人工的にクレーターをつくり、内部物質の採取に成功した。この衝突装置を開発したのが日本工機、なんと門間佐太郎のトーチは「はやぶさ2」に引き継がれていたのだ。
聖火点火の場面こそは、ものつくりに執念をもやした鋳物師・鈴木萬太郎と砲弾職人・門間佐太郎との互いの人生が交叉した瞬間であった。
そしてもう一人、このトーチをもって聖火台に登った聖火最終ランナー坂井義則との三者の出会いであった。坂井義則は早稲田大学の陸上選手で、大学卒業後、フジテレビに入社し、癌で早逝したアナウンサー逸見正孝と同期である。
その大役に選ばれた理由は、「広島出身で原爆投下の日を誕生日とした」ためで、オリンピックが平和の祭典であるというメッセージをその走りに込めたものだった。

そして東京オリンピックに向けて制作したトーチの特徴は、強く振っても消えないし、雨にあたっても平気、水の中でも燃えるというほどの自信作となった。
そして同伴した高野も、チャップリンが日本で受けるであろう敵意に対しても敏感だった。
5・15前夜に皇居付近を自動車で走行中、チャップリンに「車を降りて皇居(当時は宮城)の方角に向かって会釈してほしい」と依頼した。
これはチャップリンに対する不穏な動きを察知してか、印象を少しでも良くするために行ったものであったが、チャップリンはそれに従ったものの、その真意を測りかねていたという。
明治のはじめ、長州藩下で藤田組も贋札事件の関わった疑惑が持ち上がった。
それは、1878年12月のこと、府県からの地租などの貢納金のなかに贋札が発見されたことに端を発した事件だった。
藤田組が長州藩出身の井上馨(かおる)と結託して、贋札を発行したとして嫌疑をかけられた。
翌年9月には家宅捜索を受け、幹部の藤田伝三郎、中野梧一らが検挙された。
ドイツに滞在中の井上が藤田組の営業資金にしようとしてドイツで紙幣を偽造したと伝えられたためである。
実際、当時の日本の紙幣はドイツのナウマン社の技術力なしでは、印刷できなかったからだ。
事件そのものは藤田組に関係なかったが、明治初年以降の藤田組の急激な成長が藩閥政府の官僚との癒着によっていたため、おりからの自由民権運動のなかで政治問題化したのである。
この贋札事件につき、松本清張は「不運な名」という短編を書いている。