平安時代の二大権力者、藤原道長と平清盛が当時の日本の「エルドラード」(黄金卿)ともいうべき、博多を重視しないはずがない。
平安時代の半ば、菅原道真の建議により894年に国による公式の使節団遣唐使が廃止されtたが、日本と宋との貿易は、様々なかたちで継続されていた。
中国大陸からの書物も財宝も、多額の費用とたくさんの犠牲をかけなくても、中国船を利用すれば入手できた。
なにしろ中国は日本よりも造船技術がはるかに進んでいたため、ほとんど毎年のように来航していた。,
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ちょうど現代において中国との国交回復(1972年)以前にも、民間貿易(LT貿易)が行われていたように。
朝廷や貴族たちは渡来する中国船と「私的」に貿易をして大陸の品物を手に入れるようになった。
907年に唐が滅んで五代と呼ばれる時代になったが、日本はそんなこともつゆ知らず、中国大陸と言えば「唐(から)」と思っていたようだ。
相変わらず輸入品を「唐物(からもの)」とよんでいたし、他の言い方をするとブランド価値が落ちると思ってしたのかもしれない。
日本は中国より律令制を学んだが宋の時代となった頃には、日本では「令外の官」を設けたり、荘園制度によって律用制度を骨抜きにして、藤原氏は勢いを増していった。
特に藤原道長の時代の時代には、摂関政治を通じて藤原氏は全盛期を迎えよとしたしていた。
宋の商人は博多や薩摩の坊津(ぼうのつ)越前の港に来航する。
個人的な話だが10年ほど前に、奈良時代に日本に来た鑑真上陸地点を探しに坊津に行ったら、上陸地点にはアメリカ映画「007は二度死ぬ」(浜美枝がボンドガールとなった)のロケ地の記念碑があった。
またその記念碑に近い岬の突端に、福岡出身の作家梅崎春夫の書いた「桜島」の文学記念碑が立っていて、いたく感銘をうけた。
梅崎春夫はこの地で通信兵として過ごしていた時期がああり、その経験が作品「桜島」に描かれえいる。
さて道長が「この世をばわがものとぞ思う望月の欠けたることもなしと思へば」の歌には、私的に中国の贅沢な文物を手にれることが出来たことと大いに関係がある。
というのも、公的な役割を果たしていた大宰府を「我がもの」としたからだ。
当時、国風文化が形成されつつある分、唐の文物に強い憧れをもった貴族は、硯や筆、紙、香料、絹などを「からもの」と呼び、こぞって手に入れようとした。
つまり、中国からの舶来品は貴族のステイタスで、「源氏物語」や「枕草子」にも、高貴な人たちを飾り立てる舶来品の素晴らしさが記されている。
さて紫式部が父・藤原為時と越前に赴任し、この地で「源氏物語」を書くのだが。この地で朱仁聡()という宋の商人と出会っている。
しかし、宋の商人の出入りが最も激しかったのは大陸に近い博多である。
博多では「鴻臚館」という公館を中心に、朝廷による貿易の管理が行われ、鴻臚館は大陸からの使節団の迎賓館としても使用されていた。
そしてその「実務」を現地で担当したのが大宰府の役人であった。
宋商人の貿易船に積まれてきた様々な「唐物」は、大宰府の役人によって様々な検査を受ける。
その後すぐに大宰府は、宋商人の来着を朝廷・天皇に報告し、宋商人たちの滞在・貿易の可否について指示をあおいだ。
このとき同時に、積荷全体の内容も報告されたが、多くの大宰府の役人は報告をごまかして暴利をむさぼった。
紫式部の夫・宣孝とその父親や甥っ子は皆大宰府の役人となっているが、そのため羽振りがよかった。
大宰府の役人は、唐物を天皇への献上品と貿易品に振り分け朝廷へ報告する。
この結果、博多での滞在・交易を許された宋商人に対しては、朝廷から「唐物使」とよばれる使者が派遣される。
そして唐物使は、交易の管理と「先買」とよばれる優先的な買付けを行う。
貴族も含めて交易を希望する人々は、この朝廷による「先買」ののちはじめて、交易を許されることになっていた。
博多での交易管理と優先的な買付けを終えた唐物使は、買付けた品をたずさえて都に帰還する。
そしてこれをうけて内裏では、「唐物御覧」とよばれる儀式が行われる。
宋商人たちはこの時天皇に献上品を差し出すことで、日本での安全かつ安定的な交易が天皇によって保証される。
日本史では長く、菅原道真が遣唐使を廃止したため、平安時代中期には中国と朝廷との交易がなかったといわれる。
しかし大宰府を拠点に、以上のような貿易が朝廷と宋商人の間で盛んに行われていたのである。
道長の「御堂関白記」には、道長が天皇や他の貴族たちと頻繁に唐物をやりとりしていた様子がうかがえる。
一条天皇は、学問・文章・詩・音楽などは並外れていたといわれ、左大臣となった道長はその娘・彰子を入内させ、中宮にしようと考えた。
しかし一条天皇にはすでに複数の后・妃がおり、そのなかでも中宮定子への寵愛は特に深かった。
道長は定子のサロンに負けないものを作ろうと、彰子のもとに赤染衛門や紫式部をよび集めた。
そしてさらに道長は、一条天皇を引き付けるために、唐物を効果的に利用していく。
定子は清少納言を女房にかかえ、唐の白居易の「白氏文集」などの漢詩文も学ぶというような、高い教養を身に着けていた。
第一級の唐物が身の回りにあり、定子のステイタスを象徴するものであった。
しかしそんな定子も兄の伊周が不敬を働いて中関白家がbつらくすると、やがて輝きを失い死去する。
道長は定子のサロンに定子を凌ぐ唐物を用意し、一条天皇の関心を引き付けようとした。
さのため道長は、唐物を所有する他の貴族や貿易を管理する大宰府の役人に手をまわしている。
紫式部の夫宣孝の甥、そして宣孝本人も当時の唯一の貿易港博多がある大宰府の役人となったのはそのためであると推測される。
道長は宋商人とも直接コンタクトをとるなど、権力者として利用しうる様々なコネクションを使って唐物を集めていた。
「栄花物語」によれば、彰子入内から一か月後、一条天皇が秋子の部屋を訪れた時、彰子の部屋には見事な唐物の調度品があった。
そしてそこには高い教養を備えた一条天皇が、のどから手がでるほど欲しがった中国の唐物が山のように積まれていた。
その後、一条天皇は「源氏物語」とともに、中国の貴重な書籍を読むために、毎日彰子のもとに通ったという。
彰子は、一条天皇の中国好きを知ると、紫式部に漢文を教えてもらうなどした。
いつしか愛が芽生えたのか、一条天皇と彰子との間に二人の皇子が生まれることになる。
彰子は後一条天皇と後朱雀天皇の国母となって、道長は摂関政治の頂点を極める。
平安時代後期にこの博多の利権をフル活用しようとしたのが平清盛であるが、それは瀬戸内海の航路の開発とも結びついたスケールの大きいものであった。
博多では貿易の統制権をめぐって頻繁に争いが起こっていた。
清盛は日本で最初の人工港を博多に築き、日宋貿易を本格化しようとした。
そのため寺社の干渉を廃止し、瀬戸内海航路の整備にも力を入れた。
また来航した宋の商船を厳島神社に参拝させるなどユニークな方法で日宋貿易を盛り上げた。
平清盛は藤原氏が日宋貿易をわが手にしようとした私的利益の追求とは違って、現在の神戸に近い「福原」を新しい都にするためのインフラ整備を行ったといえる。
また平清盛が宋銭を大量輸入したことは、当時の日本経済にとっても大きな転換点となった。
実は宋船は船底を安定させるために大量の宋銭を敷いており、その重さを調整することで貨物を積んだときの船のバランスを取ったのである。
清盛はそんな貨幣の目新しさと利便性に目をつけ、宋銭を大量輸入したのである。予想どおり人々は宋銭に飛びつき、貨幣経済が進展していく。
また大量の宋銭は、末法思想の広がりとともに、溶かして仏像を作るための素材ともなった。
鎌倉の大仏は、そのようにして造られたのである。
平氏の滅亡後、鎌倉時代になると日宋間の国交は途絶える。
中国は元の時代となり、北条政権で大宰府に代わって「鎮西奉行」が博多を統治し、幕府は民間貿易を認めるようになる。
貿易は南宋の末期まで行われ、禅宗がもたらされた。
禅宗は幕府に手厚く保護され、日本の文化に大きな影響を与えた。
栄西が臨済宗を、道元が曹洞宗をもたらし、武士たちに広く受け入れられた。
博多の地にあって臨済宗の寺は後鳥羽上皇建立の聖福寺や黒田藩の菩提寺である崇福寺が知られる。
また曹洞宗の寺では、野村望東尼の墓がある明法寺や通称「穴観音」の名で知られる寺塚の興隆寺が有名である。
さて平清盛が博多を重視したのは、平家の荘園が近くにあったことも大きな理由で、それは博多の総鎮守「櫛田(くしだ)神社」の由来とも関係している。
佐賀県東部に位置する神埼(かんざき)市は、古代から中世にかけて「院領荘園」である神埼荘の中心地で、その荘園の総鎮守社が「櫛田宮」なのである。
有力豪族の中には、国司の重い税から逃れるため自分の土地を皇室や藤原氏などの中央の有力貴族や大きな寺院に寄進して税の免除を受け、自分はその土地を現地の管理をする荘官となる者が多く現れる。
これにより、藤原氏や院政を布いた上皇、さらに平安時代末期には平氏が多くの荘園を所有し、各地の領地から送られてくる年貢が重要な財源となり、政治の実権を握っていたのである。
「神埼荘」は、佐賀県の荘園の中でも最大規模の荘園となり、その広さは最大3千町もあった。
当時、宋からの交易船は博多港から入ってきたが、神埼荘は有明海や筑後川に近く、海上交通の要衝であったため、東シナ海から有明海に入港する宋船もあり、国内外交易による莫大な利益があり、皇室にとってなくてはならない荘園であった。
鳥羽上皇の時代には、平忠盛(清盛の父)がこの荘園の管理を任されてたことは、博多の開発にとってもこの上なく重要な出来事であった。
それが平清盛による博多の「袖の湊(そでのみなと)」開発へと繋がるからだ。
ところで、西鉄大牟田線の二日市駅と久留米駅の中間ぐらいに「大善寺駅」がある。
大善寺にあるある高良玉垂宮(こうらたまたれぐう)の現在の祭神とは、高良玉垂と八幡神、住吉宮であるが、神宮皇后以前は航海の神様(宗像三神)であったと推測されている。
この周辺では、荊津(おどろつ)や、住吉という航海や交易に関係した地名が残っている。
この周辺の「三瀦(みずま)」の地は内陸にあるが、5世紀ごろでは筑後川の河口と有明海の境目にあり、古くから大陸交易や畿内との交易の拠点であった。
この地から約20キロほど西に位置する神埼市内の遺跡から宋銭や宋時代の陶磁器などが数多く出土しており、神埼荘で「有明海」を通じた貿易が行われていたことを物語っている。
神崎にある櫛田宮が特に栄えたのは平安時代で、当時は多くの末社をもち、「九州大社」とも称されていたほどであった。
1115年に当社を鳥羽天皇が修造した際、伴兼直(とものかねなお)が勅使となって下向し、伴兼直が「執行(しぎょう)家」となっており、現在の(神崎)櫛田宮の宮司は「執行家の後裔」である。
1221年の承久の乱で後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敗れると、神埼荘は幕府に没収され、有力御家人が地頭に任命される。
さらに元寇の際には河野通有(こうのみちあり)はじめ400人余の御家人に恩賞地として分け与えられてしまい「神埼荘」は消滅する。
さて元寇はモンゴル軍と戦ったのは武士だけでなく、神々も蒙古を迎え撃ったとされ、神社も幕府に戦功を報告し恩賞を求めている。
櫛田宮も元寇に霊験を顕わしたとされる。櫛田宮の「霊験記」によれば、「弘安の役の際に当社から剣を博多の櫛田神社に送れ」との託宣があり、博多へ宝剣を移して異賊退散を祈り、霊験(戦功)あってモンゴル軍が退いたという。
この報告が認められ、正和年間(1312年~17年)に櫛田宮(神崎)の修築が鎮西探題・北条政顕(まさあき)の肝いりで行われている。
しかし、戦国時代になると、次第に武士によって社地が奪われて困窮し、社殿も荒廃していった。
江戸時代になり、藩主鍋島氏の保護を受け社地が寄進され、社殿の造営修築などはすべて「藩費」でまかなわれていた。
1952年、櫛田神社(神崎)とよばれてきたものを創建時に復して「櫛田宮」と改称された。
現在の櫛田宮は国道34号線沿い、神埼市庁舎に隣接している。一の鳥居・二の鳥居ともに鍋島氏が奉納した「肥前鳥居」である。
以上のように、櫛田宮本社は、「神埼荘の総鎮守」として中央と綿密な関係をもった神社である。
夏の「祇園山笠」の舞台となる博多の櫛田神社は、社伝では創建は757年とされているが、平安時代末期に平清盛が日宋貿易の発展と博多の繁栄を祈願して、神埼荘の「櫛田宮」をこの地に勧請したという説が有力とされている。
当時の博多の人々は、町の発展に尽力した平家に恩義を感じ、清盛の嫡男重盛が1179年に病死した際、その霊を慰めるために始めたのが5月に開催される「どんたく(博多松ばやし)」の始まりだと伝えられている。
歴史的にみると、肥前の櫛田宮が本元で博多の櫛田神社は出先ということもできる。それは肥前の神崎荘の倉庫群(倉敷)が博多港という位置つけを映したものとみることができよう。
中世の博多は、御院領神崎荘園の倉敷として「袖の湊」という人口の港がつくられた。浜の形が着物の袖に似ていたことがその名の由来ともいわれる。
博多には11世紀の終わりごろから「大唐街」とよばれる南宋人街が形成された。そのシンボル的存在が、「綱首」(ごうしゅ)であった謝国明(しゃこくめい)である。
このころの日本と南宋との貿易を行ったのは、南宋から来航して博多に住み着いた商人・貿易商であった。聖福寺・承天寺などの宋風の禅寺が建設され、中国の港町のような街並が形成された。
博多とは、中国語で「土地広く、物品多し」という意味で、西区の今津では、南宋で焼かれた碗などの大量の輸入陶磁器が発掘されている。
「大唐街」には南宋人の町としておおよそ3000軒の商家が集まっていたが、文永の役の際に町全体が焼失し、多くの南宋商人たちが殺された。
「大唐街」は博多駅近くに復元され観光名所となっているが、正確な位置はよくわかっていない。
博多と神崎には脊振を経由しての繋がりがありそうだ。なにしろ脊振山の佐賀側には平家が管理する御院領「神崎荘」があり、博多側には平清盛により開かれた「袖の湊(そでのみなと)」(現在の呉服町辺り)があるからだ。
両者を繋ぐ県道385号線は、那珂市内を縦断するルートで、その沿道には黒田官兵衛の弟・黒田養心(津屋崎城代)の別邸や安徳天皇の行在所もある。