壁を超えた音楽
1940年代~50年代、アメリカのジャズ・エイジを駆け抜けた女性ジャズシンガーのビリー・ホリデーが歌った「奇妙な果実」は、内容があまりに過激だったためレコード化を引き受けるレーベルが存在せず、「封印」されようとしていた。
曲の始まりは、♪南部の木には奇妙な果実が実る♪というものであったが、「奇妙な果実」とは、白人に暴行をうけて木に吊るされた黒人の死体を意味するものであった。
この曲の歌詞を書いたのは、ユダヤ系アメリカ人の学校の先生、レコード化を引き受けたのも、ビリーホリデーの才能を見出しプロデュースしたジョン・ハモンドも、いずれもユダヤ系アメリカ人であった。
また、ビリーホリデーの影響を受けメッセージ性のあるプロテストソングを街頭で歌い始めたボブ・ディランもまたユダヤ系アメリカ人であった。
さらには、ボブディランの才能を見出し、周囲の反対を押し切ってレコード・レーベルと契約を結んだのも、ジョン・ハモンドであった。
この曲「奇妙な果実」は、たとえ一時は地下の眠っていたようでも、黒人差別に反対する黒人暴動が起きるたびに、蘇ってきた奇妙な果実だった。
ボブディランのある黒人少年の死を歌った「エメット・ティルの死」に触発された黒人シンガーのサム・クックの「変化はいつか起きる」というプロテスト・ソングを生んだ。
後年、バラク・オバマ大統領はそれを引用して、2008年の大統領就任演説で「CHANGE」というスローガンをかかげた。
またアメリカには、本人も知らぬまま、40年の時を経てある国の反体制ソングとなり大ヒットしていたミュージシャンがいる。天才とよばれるも忘れ去られ、あるドキュメンタリー放送をきっかけに40年もたって脚光をあびたフジコ・ヘミングを思い浮かべる。
1968年、ミシガン州デトロイトの場末のバーで、ロドリゲスという男が歌っていた。
実力的にもルックスも申し分なかったが、商業的には大失敗に終わり、多くのミュージシャン同様に、レコードもお蔵入り、跡形もなく消え去った。
しかしその「音源」は、知らぬ間に反アパルトヘイトの機運が盛り上がる南アフリカに上陸していた。
そしてロドリゲスの歌に秘められたメッセージ性は、アメリカにおけるボブ・ディランにも匹敵した。
それは、正規のレコードではなく「海賊版」に乗って流布し、彼のはいつしか「シュガーマン」と呼ばれるようになる。
しかし、シュガーマン・ロドリゲスとは一体何者なのか、情報も不確かななかステージ上で自殺したという都市伝説までもが広がった。
そして一部のファンが、歌詞に登場する地名など数少ない情報を頼りにロドリゲスの居場所を調査したところ、ようやく本人にたどり着く。
その時ロドリゲスは3人の娘を肉体労働で養いつつ、どうにか生計をたてていた。
実は、「シュガーマン探し」のためにラジオで流れた「その声」が父親の声であることを通報したのは、なんとその娘達であった。
そして、ロドリゲスは、アメリカで陽の目をみることのなかった自分の「声」が、地球の裏側の南アフリカに飛んで「大ブレイク」sしていたことをようやく知るに至った。
そしてまもなく、シュガーマン・ロドリゲスは南アフリカに招かれ「凱旋ステージ」が実現する。
本人の第一声「生きてたぞ!」に、待ちわびていた観衆の中から大喝采が湧き上がった。
各地での公演は「売り切れ」続発したものの、ロドリゲスはそのギャランティのほとんどを寄付にあてる。
そして、何事もなかったようにアメリカに帰国し、元の工事現場に戻った。
それでも娘たちは、父親が本物の歌手であったことを再認識し、彼の生き方は彼の三人の娘のインタビューからも伺える。
「私たちの生活は貧しかったけど、それとは別に心の豊かさはあるでしょう。父は一流のものを知りなさいと、一流の人たちがいく場所に連れて行ってくれたわ。美術館や図書館、博物館にもよく連れて行ってくれた」。
アフリカでの公演の後、生活は随分と変ったでしょうという質問に対して「いいえ」と答える娘の一人。
ロドリゲスはこの後も6度もアフリカを訪れて公演をし、チケットは全て完売。そして彼は公演の報酬のほとんどを家族や知人達に与え、彼自身は40年間住んでいる家に今も住み続け、彼自身の生活も何ら変ることなく暮らしている。
長女エヴァは「父は日雇い労働者としてビルの解体や、誰もやらないような清掃も完ぺきにこなした」。仕事への態度が人とは違っていた。
彼にとって音楽とは精神世界であり、生活の糧を得る肉体労働は、神聖なものであるかのようだ。
1995年に42歳で急逝したテレサ・テンは台湾生まれなのだが、多くの中国本土の人たちは彼女を自分たちの一員だと言いはるほどの人気である。
彼女の父親は中国の河北省北部で育ち、内戦で毛沢東の共産党と戦った国民党軍の一員だった。
中国では1970年代末に「改革解放政策」が始まり、その一環として最初に流入した外国人歌手の曲のひとつがテレサの歌だった。
ところが、彼女の歌は西側からの「精神汚染」を阻止するという共産党政権のキャンペーンの一環として、すぐさま禁止されてしまった。
一方台湾側は、彼女の音楽を心理戦の武器として使い、中国本土に近い位置(金門島)から拡声器でそれを流した。
テレサの音楽テープは中国本土の「闇市場」に出回り、彼女の人気は誰にも否定することはできなかった。
しかし近年、中国政府はテレサの音楽に寛容になり、2011年には当局はテレサの父の故郷・河北省大名に記念館を開設、彼女の命日にファンたちが集まってくる。
レストラン兼ミュージアムのオーナーは、「多くの人にとって、それは実に新鮮な体験で、文化大革命中に聞いていたのとはまるで別モノだった」。
「人びとは今、それを聞いて、若いということはどういうものかを思いだすのだ」と語った。
最近では習近平が最近、台湾の独立の動きには武力で立ち向かう可能性もあると警告するなど中台関係が悪化しているなか、テレサは両者を結ぶシンボルとしてもてはやされるようになったという。
しかしテレサの歌は、政治を抜きにしても、「音楽に境界はない」ということの証左といえそうだ。
テレサの家族ば、敗走する国民党とともに台灣に移住してきて、いくつかの土地を転々としたあと、台北県蘆洲郷にある眷村(けんそん)に移り住んだ。
「眷村」は、台湾語を話せない「外国人」であった人々が、肩を寄せ合って暮らす場所であったという。
テレサも家族を豊かにするという気持ち一心で、香港から日本で歌手としてデビューすることになる。
台湾は蒋介石による「戒厳令」下にあって香港に来てテレサは自由のありがたさを知った。
この香港におけるテレサの活動に、日本のレコード会社も目をつけるが、すでにアジアの大スターでもあるテレサの父親は日本に行くことに反対した。
そこには互いに矛を交えた日中戦争のシコリが消えていなかったといわれている。
しかし、必ず成功できるというレコード会社の説得に、家族はテレサの日本行きを承諾した。
テレサ・テンが日本でデビューしたのは1974年、デビュー曲の「今夜かしら明日かしら」は、営業的にはうまくいかなかったものの、次に演歌路線に転じた「空港」が大ヒットする。
実は、彼女の姓は共産党指導者・鄧小平(トン・シアオピン)と同じ字だったので、時には「小鄧」と呼ばれた。
そして、「昼間は老鄧(鄧小平)のことを聴き、夜は小鄧(鄧麗君)を聴く」という言葉がはやった。彼女の姓は共産党指導者・鄧小平(トン・シアオピン)と同じ字だったので、時には「小鄧」と呼ばれた。
1979年、突然のテレサのニュースに驚かされる。日本に再入国する際に、不正発給されたインドネシアのパスポートを使ったことにより、テレサ・テンは1年間の国外退去処分になる。
これは日本と台灣「中華民国」が断交したことにより、出入国の手続きが煩雑になっていた状況が原因で、他の台湾人たちも同様に複数のパスポートを持っていたようだ。
その結果彼女は、日本はもちろんのこと、台灣にも戻れなくなって、アメリカで1年数ヶ月を過ごすことになる。
台灣の国府は、彼女を不起訴とする際の条件に、「国府への協力」を求めたとされている。
そのひとつが前述したように、大陸にほどちかい金門島から大音量で大陸向けの宣伝として再生されることであり、彼女自身も金門島に慰問にでかけている。
ともあれ1980年代前半から、テレサ・テンの曲は中国大陸で幅広く聞かれるようになり、それゆえに鄧小平の指導による「精神汚染一掃」のやり玉にあげられたという経緯であった。
しかし、テレサの歌は「闇市場」を通じて購入され、歌い継がれていった。
またテレサは、日本の歌をしばしば歌い、「北国の春」など日本の歌がアジアに広がった。
その意味では、テレサテンは日中文化交流の一翼を担った存在でもあった。
2021年12月2日に、アンゲラ・メルケル首相の退任式が行われた。
退任式では、連邦軍ブラスバンド・オーケストラが、退任する人の希望の曲を演奏することになっている。
旧東ドイツで育ち、牧師の娘でもあるメルケル首相は、18世紀のキリスト教の聖歌のほか、戦後ドイツの人気女優・歌手ヒルデガルト・クネフの「私には赤いバラが雨のように」、さらには、東ドイツ出身の人気パンクロック歌手ニナ・ハーゲンが東独時代にヒットさせた曲を選んだ。
ただ、さすがにニナ・ハーゲンが歌う「カラーフィルムを忘れたのね」には多くの人々が驚かされた。
この曲は、旅行で恋人がカラーフィルムを忘れ、記念写真が白黒になってしまったと怒る女性の歌であるが、カラーフィルムが簡単に買えない物資不足と、独裁政権下で「色を失った国家」の閉塞感を表現したものだった。
メルケル首相にとっては、この曲が「私の青春時代のハイライト」というほどの思い入れの強い曲だったそうである。
もっとも歌ったニナ・ハーゲンは、最初このニュースを聞いた時はフェイクかと思ったという。
ベルリンの壁は長く東西冷戦の象徴となっていたが、我々の目には、その崩壊はあっけなく映った。
しかし、それは突然起きたことではなく、そこに至る小さな奇跡の集積の上で起きたことだった。
その中には、日本の花火も一役かっていた。その花火師の言葉「花火は西からも東からも美しく見えます」が人々の心を揺さぶった。いわゆる「バタフライエフェクト」である。
1970年代、デビット・ボウイは、化粧を施し斬新なコスチュームで歌う前衛的なロックで、世界的スターとなっていた。
しかし様々な重圧に精神が疲弊し行き詰って、若者たちが多く暮らす庶民的な街で音楽作りに専念するために西ドイツを訪れた。
その頃、ボウイが音楽作りをしていたスタジオからベルリンの壁まで200メートルしか離れていない場所に位置していた。
壁を見つめる中で、ボウイにある曲想が浮かぶ~東西に引き裂かれ自由に会うことができない恋人たち。
そんなイメージから生まれた曲が「ヒーローズ」であった。
この曲がきっかでボウイは、ニューヨークに向かい、メガヒットを連発することになる。
その一方、80年代半ばになるとソビエトの「ペレストロイカ」に端を発し、東ドイツでも変革を求める声が高まっていく。
1987年、ボウイは世界ツアーを行い、8年前「ヒーローズ」を作った西ベルリンを再び訪れた。
そしてベルリンの壁からわずか20メートルの処に野外ステージを設け、壁の向こうにもよく聞こえるように、スピーカーの4分の1を東ベルリン側に向けたのである。
そして本番当日、西ベルリンの会場に大勢の人が集まるばかりではなく、東側でも 多くの人が壁の近くに集まってきていた。
東ドイツでは、許可なく自由に集まることは中止されていたが、その数はどんどん膨れ上がり、最終的には6000人から1万人にもなった。
誰もがこのイベントがどんな結果をもたらすかも知らず、嵐の前の静けさという感じであったという。
実際に、騒動は激しくなって逮捕者も出るなか、若者たちはかまうことなく声を上げた。
そしてボウイがベルリンの壁を見ながら得た曲想から生まれたあの曲「ヒーローズ」が、大きな時代のうねりを作り出していった。
さて、東ドイツの若者たちの心に自由の火の「導火線」を用意したマーク・リーダーという男がいた。
後に音楽プロデューサーとして著名になるマークはイギリス生まれであった。
デビット・ボウイの音楽に憧れ、20歳の時にボウイの後を追うようにベルリンを訪れ、人づてにボウイが住んでいたアパートの中を見せてもらったりして、ボウイの質素な生活ぶりに驚いたという。
そればかりか、当時あった24時間ビザを利用して東ベルリンを訪ね、多くの人は監視の恐怖で萎縮していた反面、彼らが求めているのは西側の最先端の音楽だということを知る。
マークは カセットを自分の体にテープで貼り付けて検問所を通りぬけた。幸いなことにボディーチェックはなく、テープの密輸を100回以上繰り返し、それは東ベルリンで瞬く間にコピーされ広がっていった。
また西側のバンドに東側で演奏させようと「クラフトワーク」というバンドに声をかけた。
世界的には無名だったが確かな実力派で、マークがライブ会場として選んだのは、なんと「キリスト教会」であった。
東ドイツでは国民の多くがキリスト教徒だったため、社会主義体制下でも教会への露骨な弾圧はできなかったからだ。
わずか30名の極秘ライブだったが、マークは万が一のために入り口で見張り役をした。
ライブは邪魔されることなく成功したばかりか、客の中には監視するはずのシュタージ(秘密警察)の関係者もいたことを後で知った。
そして東側では西側の音楽を聴く若者が増え、彼らの自由を求める声も大きくなる中、ついに政府が認めたコンサートを東ドイツで行うという決断を下す。
そして 壁崩壊1年前の1988年、当時人気絶頂だったアメリカのロックスターであるブルース・スプリングスティーンが東ベルリンでコンサートを行うことになる。
それは、かつてデビット・ボウイがべルリンの壁の近くで行ったような挑発的なコンサートをさせないための苦肉の策だった。
当時、ブルース・スプリングスティーンは貧しい労働者たちの夢や苦悩を歌っていたため、労働者階級に寄り添うもので、東ドイツの思想にも合致するとみられていたからだ。
そして「ボーン・イン・ザ・U.S.A」が始まったものの、 会場にいた誰もが盛り上がっていいものか悩んでいたという。
それが「自由の国に生まれた」という意味だということは、そこにいた全員が分かっていたからだ。
しかしもう誰も止めることはできなかった。
「ボーン・イン・ザ・U.S.A」は数十万人による大合唱になっていった。
コンサート後、「自由」を求める声は、もう抑えきれないほどに膨らんでいた。
それは、1983年のベルリンの壁崩壊へと導く響きとなっていった。
伝統的な台湾と中国の民謡を感傷的な西洋風のヒット曲にしたことで名声を博した。
コンサートであれだけの思いをしたら、もっと自由になりたいという思いが出てくるのが自然なこと。
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まるで売れない傑作を作るのはそれほど珍しくもない。
アルバムをリリースするも、ヒットをものにできず、そのまま姿を消したアーティストというのはさほどめずらしくない。
しかし、それらのアルバムが再発見され、そのアーティストが約40年後に国際的なスターになるというのはめったにある話ではない。
シクスト・ロドリゲスのストーリーが特別に刺激的な理由はまさにそこにある。
退任式でアンゲラ・メルケル首相が選んだ曲は、ロック、シャンソン、そして聖歌だった。
2021.12.5
退任式でアンゲラ・メルケル首相が選んだ曲は、ロック、シャンソン、そして聖歌だった。
Die Musikauswahl der scheidenden Bundeskanzlerin Angela Merkel war ja eine Überraschung: Hildegart Knefs „Für mich soll’s rote Rosen regnen“, das Kirchenlied „Großer Gott, wir loben dich“ und Nina Hagens Hit „Du hast den Farbfilm vergessen“.
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2021年12月2日に、アンゲラ・メルケル首相の退任式(der Große Zapfenstreich) が行われました。そこで、メルケル首相が自分で選んだ曲は、ニナ・ハーゲン (Nina Hagen) の「あんたカラーフィルムを忘れたね」(Du hast den Farbfilm vergessen)と、ヒルデガルト・クネーフ (Hildegart Knef) のシャンソン 「私のために赤いバラの雨が降るのよ」(Für mich soll’s rote Rosen regnen)、そして聖歌「われ神をほめ」(Großer Gott, wir loben dich)でした。
退任式では、60人編成の連邦軍ブラスバンド・オーケストラ (Musikkorps der Bundeswehr) が、退任する人の希望の曲を演奏することになっています。今回、メルケル首相が自分で選んだ曲の中にニナ・ハーゲン (Nina Hagen) の曲が含まれていたことは、多くの人を驚かせました。日本でもこの部分は、例えば東京新聞の12月4日の筆洗で「過去にクラシックなどが演奏された場で、驚きの選曲として、報じられている。」とし、ニナ・ハーゲンのことを「出身の東ドイツを離れて、西側でも人気を得た『パンクロックの母』である」と紹介しています。Yahoo!ニュースでは、テレビ朝日系 (ANN) の動画を交えて報じていて、「この曲は、旅行で恋人がカラーフィルムを忘れ、記念写真が白黒になってしまったと怒る女性の歌です。」とし、さらに「…カラーフィルムが簡単に買えない物資不足と、独裁政権下の閉塞感を “色” で表現しています。」と解説を付けています(歌詞の最後の部分を引用すると:Zitat: Du hast den Farbfilm vergessen Bei meiner Seel’ Alles blau und weiß und grün und später nicht mehr wahr Zitat Ende)。
送別曲“パンクのゴッドマザー”メルケル首相退任式(テレビ朝日系(ANN)) – Yahoo!ニュース
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他方、当のニナ・ハーゲンは、自分の Nina Hagen | Facebook で、こんなことを11月28日にはこの選曲について聞き知り、最初はフェイクニュースではないかと思ったそうです。というのも、「あんたカラーフィルムを忘れたね」の作詞者は、クルト・デムラー (Kurt Demmler, 1943 – 2009) で、東ドイツの「国家的詩人」(Staatsdichter) として特別な地位を与えられていて、後に児童への暴行の罪で有罪判決を受け、二度目の投獄の際に自殺した人物だったとか。この話は、
Ihr Klassiker beim Zapfenstreich: Nina Hagen verwundert über Merkel-Wahl | 02. Dezember 2021 | n-tv.de や、Nina Hagen, Angela Merkels Zapfenstreich und ein verurteilter Sexualstraftäter – Lifestyle | 3. Dezember 2021, 20:00 | derStandard.de でも取りあげられています。
メルケル首相にとっては、「私の青春時代のハイライト」(ein Highlight meiner Jugend) であり、東ドイツの出来事を歌っており、かつての自分の選挙区でも演奏されていたことから、思い出深い曲だったそうですが、作詞者のことを知っていたのかどうかは分かりません(出典:Liedwunsch für Zapfenstreich : Merkel nennt Nina-Hagen-Song „Highlight meiner Jugend“ | 3. Dezember 2021 um 09:01 Uhr | rp-online.de )。
ニナ・ハーゲンは、上で取りあげた n-tv.de の記事の中で、クルト・デムラー のことは知っているし、過去を無きものとすることはできない、として今でもこの曲を歌い続けていると語っています。
ある時期にヒットしていて繰り返し聞いている曲には、個人個人で思い入れがあるものです。おそらく、メルケル首相にとってのこの曲は、思い出に深く刻まれているものなのでしょう。
987年6月6日、イギリスのロック・ミュージシャン、デヴィッド・ボウイが、ベルリンの壁の西ベルリン側でコンサートを開催した。
第二次大戦後、分断国家となったドイツは、かつての首都ベルリンも東西に分かれた。社会主義国である東ドイツの建国にともない東ベルリンが同国の首都となったのに対し、資本主義圏である西ベルリンは、東ドイツ領内に取り残された陸の孤島と化した。ベルリンの壁は、東西ベルリン間の住民の移動を遮断するため、1961年に東ドイツにより東西ベルリンの境界線上に築かれたものだ。ベルリンでのコンサートで、ボウイは観衆にドイツ語で「今夜はみんなで幸せを祈ろう。壁の向こう側にいる友人たちのために」と呼びかけた。このとき会場に設置されたスピーカーのうち4分の1は、東ベルリンに向けられていた。壁の向こう側には、コンサート前から若者たちが集まり、その数は5000人にもふくれあがる。終演後も群集はなかなか立ち去らず、東ドイツ当局による逮捕者も出た。
コンサートを通じて西側の「自由」を知った人々は、その2年後、1989年11月にベルリンの壁を崩壊させることになる。昨年、2016年1月にボウイが亡くなったとき、ドイツ外務省はツイッターで「壁の崩壊に力を貸してくれてありがとう」と弔辞を送った。
文春オンライン
そのライブの時に、壁の向こう側の人々を最も興奮させた曲が、Heroesだと言われています。
このHeroesという曲は、ベルリンの壁の監視塔の下でデートを重ねる恋人達について歌った曲です。
この曲に関して自分が特にとても好きなのは、「Heroes」という曲名です。
Heroes は、ヒーロー達、英雄達、のような訳し方も出来ますが、自分は「主人公達」という訳がこの曲の場合一番しっくりくる気がします。
主人公達、つまり、壁の向こう側の人々(壁の向こう側に閉じ込められた人々)も、一人一人が主人公達である。一人一人自分の物語があって、恋人がいて、家族がいて、友人がいる。
という事も、この曲は言っていたように思います。
そして自分は、この曲がただの"東ドイツ政府への批判の曲"ではなく、"ラブソング"である事にとても大きな意味があると思います。だからこそ「Heroes」であり、「主人公達」である事が伝わったのだと思います。
人間がドラマや映画を見て涙するのは基本的に、パーソナルな問題や、パーソナルな葛藤に共感するからだと自分は考えています。それと全く同じで、"ラブソング"は、とてもパーソナルなものです。
敵を作り批判するのではなく、切実に、曲の主人公達の抱えている葛藤、想いを表現した事。
それが、当時この曲を聴いた人達の心を震わせたのではないかと感じています。
David Bowieから離れますが、Green Dayの名盤 "21st Century Breakdown"にも、自分は似たようなものを感じます。
そのアルバムの中の曲は、当時のアメリカの抱えていた問題(貧困、自殺、戦争等)についての曲もありながら、それらの社会問題に一切関係ない純粋なラブソング"Last Night on Earth"等もあります。
そのような、ただただパーソナルで切実な曲がある事で、生きている全員一人一人が、「Heroes(主人公達)」である事を実感出来て、そんな主人公達が生きている世界がこの世界であると実感する事が出来る。だからこそ、より社会問題の深刻さの実感や、どうにかしなくてはという想いが湧いてくるのかもしれないと自分は思いました。
お読みいただきありがとうございました。
最後に、Heroesの和訳動画をお借りして貼り付けておきます。
秘密警察に追いかけられた東ドイツ時代 30年以上ベルリンを偏愛し続けた敏腕プロデューサー、マーク・リーダーの今 -前編-
投稿日2021-11-17
Author冨手公嘉
MUSIC
冒険する
ベルリンの壁崩壊前の自由な西ベルリンから厳しく統制された東ベルリンに音楽を“密輸”していたマーク・リーダー。インタビュー前編はベルリンの壁崩壊以前の体験から話を聞く。
音楽密売人・マーク・リーダー。この冠言葉は決して大げさなものではない
スコットランドからベルリンに渡ったマーク・リーダー。1989年のベルリンの壁の崩壊。それを後押ししたとされるパンクシーンの台頭。それから同時期の1980年代にアメリカのデトロイトをきっかけに勃興したテクノシーン。ドイツ統一後、ヒッピーカルチャーやテクノカルチャーが融合し、世界最大級のレイヴとして後まで語り草となるラヴパレードにも立ち会ってきた。一方でプロデューサーとしてはニューオーダーとしてリリースされた「Blue Monday」の制作に立ち会い、ベルリンに石野卓球など日本のテクノミュージシャンを送り込んだ張本人で、プロデューサーであり、リミキサーでもある。
要するに時代の境目を常に目撃してきた音楽文化の変遷に影響を与えてきた生き証人なのだ。その意味もあって彼の活動の本筋は、冒頭の「音楽密売人」という言葉に集約される。
ニューオーダーのバーナード・サムナーとの2ショット
アンダーグラウンドに生きる人々とニック・ケイヴといった西ベルリンに惹かれ住んでいたアーティストたちとの交流やインタビューなどが克明に記された彼の自伝的ドキュメンタリー映画『B-Movie:Lust & Sound In West-Berlin 1979-1989』(以下、B-Movie)が公開されてからからはや3年。
今なおベルリンに住み続けながら、次のムーブメントを目撃し、仕掛けようとしている。彼が指定したクロイツベルクのカフェで、これまで語られてこなかった貴重な証言を収めたロングインタビューを前後編でお届けする。前編では映画に付随して、ベルリンの壁崩壊以前の体験から話を聞く。
ベルリンの壁崩壊以前、東ドイツで見た景色
―― 映画『B- Movie』では、東ベルリンにカセットやレコードなど音楽文化を“密輸”している姿が印象的でした。ベルリンの壁崩壊前で危険だと感じることはなかったのでしょうか?
マーク・リーダー(以下、マーク):正直に言って今の方が危険だと思うよ(笑)。昔は生命を脅かす危険はなくて、“政治的な意味合い”でのみ危険だったというか。当時のベルリンは世界の潮流から切り離され、共産圏ど真ん中という感じ。でもだからといって道を歩いてたらいきなり強盗にあったり、誰かに突然刺されたりするような危険は特になかったよ。映画『クリスチーネ・F』(※カルト的な人気を博したドラッグに溺れる10代を描いたベルリンが舞台の映画)のような麻薬中毒者はベルリン動物園駅周辺にしかいなかったし。でも最近ではU-Bahn(地下鉄)でヘルマンプラッツからアレクサンダープラッツに向かっていると、5分おきに麻薬中毒者の物乞いが乗ってくるよね。昔はそうではなかった。
――それにしても音楽の聖地・イギリスからまだ政治的な抑圧の最中にあったベルリンを住処に選ぶのは勇気のいることだと思います。
マーク:僕はスコットランドの片田舎に住んでいたんだ。文化的なものが豊かでない街で、10代の頃にバイト先のレコード屋で“クラウトロック”を発見して。イギリスではポップが全盛。そんな最中にビートルズを聴いて育った。曲の長さは3分。でもドイツの曲には20分続くものがあったり。展開がずっと変わらなかったり、サビがなかったり……まるでクラシック音楽のようでさ。
子どもの頃にバイオリンを弾いていたし、クラシック音楽に元々興味があったからクラウトロックにビートルズやジミ・ヘンドリックスなど主流の音楽とクラシック音楽とのつながりを見出すことができたんだ。
――どんな音楽を聴いていたんですか?
マーク:例えばカンやクラフトワーク。それからタンジェリン・ドリーム。あとはアシュ・ラ・テンペルもいるね。こうしたユニークなアーティストを発見して、視野が格段に広がったんだよ。それからベルリンのシーンを見てみたいと思うようになっていったかな。
若き日のマーク・リーダー
――実際にベルリンに行ってみてどうでしたか?
マーク:最初は「レコードをたくさん買えるかな」程度の気持ちだったんだ(笑)。レコードを買って少し観光するために1日だけ行こうって。でも行ったら街の雰囲気が重くて灰色で、カルチャーショックで。ベルリンが第二次世界大戦で戦地になったとは知っていたけれど、街が実際にどんな状況だったかまでは知らなかった。だから実際に行って建物を見てみると、窓越しに銃撃戦が起こっていたのだろうな、というのがよくわかってさ。なかでも一番驚いたのが、街の東側に入った時だね。
――マークは壁をうまくすり抜けられたんですね。
マーク:うん。実はベルリンを訪れるまでは、東側の音楽について知らなかったんだ。前提として東ドイツは社会主義の背景があったから。その首都である東ベルリンも政府当局に人々が監視されていたんだよね。(東側の)テレビでは幸せな家族や花、社会主義についての歌が流れてた。
――映画『グッバイ・レーニン』で観るような世界観ですね。
マーク:確かに。でも、それ以外にも絶対にあるだろうと(笑)。実際に行ってみると東側の人達が西側のラジオを密かに聴いてたことを知ったんだ。ということは、東ドイツのアーティストもいるはずだ! 東ドイツのオルタナティヴ音楽シーンがあるはずだ! って思ったんだよ。
それから教会のライヴや地下室やガレージで政府から隠れて演奏してる若者達を探そうと試みた。そこに行けば何かしらの文化はあるだろうと思って。それからパンキッシュな髪型や服装をした若者を東ベルリンの電車で発見した。それから彼が電車を降りた瞬間追いかけたよ。彼の肩を軽くたたいて、尋ねてみたんだ。「どんな音楽が好き?」と。
若かりし頃のマーク。ブランデンブルク門の前で
東ドイツの電車で見かけたパンクスとの出会い。音楽を密売した映画のような半生
――鼻が利くマークらしいエピソードだと思います(笑)。
マーク:東ドイツの国家が許可しているロックコンサートが気に入らなかったからね。まずは「パンクロックのギグを知らないか」と尋ねてみた。いやあ、変な顔をされたねぇ(笑)。彼はすぐに「パンクは禁止されている」と答えたんだ。でもそこで諦めないで「何かしらアンダーグラウンドシーンはあるだろう?」と尋ねたら「それもない」っていうんだ。
残念だけどこの場では明確な情報は得られないだろうと思って。彼に僕の住所を書いた紙切れを渡したんだよね。「何か見つけたり聞いたりしたら、ポストカードで教えてくれ」と。でも結局半年以上、何の音沙汰もなかったな。
――そんなに映画みたいにうまくはいかないですね。
マーク:でもね。ある時とある女性から「会いたい」という手紙をもらったんだ。「共和国宮殿」という東ドイツの議会の中にあるカクテルバーで会いたい、と。
――おお! 急展開じゃないですか。
マーク:それから日時を複数提案してくれて。気分はもうジェームズ・ボンドのスパイ映画のような感じ(笑)。当然、会いに行ってさ。彼女は東ドイツのパンクシーンに関わっていると言うんだ。パンクは違法だったから、彼女は慎重でいろんな質問をしてきて。「僕が何者なのか、何を求めてるのか」など人物像を探っているようだった。
――秘密警察(シュタージ)からの内部調査みたいでドキドキしますね。
マーク:まさに。
――え?
マーク:彼女にどこで僕の住所を入手したか聞いてみると、パンクスの男性からもらったと。1989年のドイツ統一後に、シュタージが集めた僕に関するファイルを見ることができたけど、そこであの街で声をかけたパンクスは実はシュタージの一員だったことが判明してさ。
――そんなことって本当にあるんですね!
マーク:衝撃だったよ。僕が彼に住所を渡した直後にシュタージに連絡して、「イギリス人に会ったのだが、彼はアンダーグラウンドを探しているらしい」と報告したみたいで。あとから知ったことなのだけど、東ドイツで“アンダーグラウンド”という言葉は“アンダーグラウンド”な音楽シーンではなく、政治的なアンダーグラウンド組織を指していたみたいで。要するに政府に対して「このイギリス人は何を探してるのか」と警戒したそうなんだ。どうやら僕は彼を通じて、東ドイツ国家から監視をされていたみたいなんだよね。MI5やCIAスパイだと疑って(笑)。
――本当に映画みたいなことが現実で起きていたんですね。
マーク:でも当局の職員が夜遅くまで僕のことを調べてると思うとおもしろいよね。僕の目的が「打倒政府」ではなく、「音楽を探してる」なんて思ってもなかったんでしょう。
――それにしても、当時ベルリンの壁を抜けて東ドイツに足を踏み入れるのは恐ろしくなかったのでしょうか?
マーク:ベルリンの壁は僕の「東ドイツの人達を幸せにしたい」という気持ちを留めることはなかった。彼等は僕と同じように音楽を愛していたし、欲しいレコードが東ドイツでは手に入らなかったから、ハンガリーとかチェコスロバキアといった東ドイツと比べて規制が緩い都市にわざわざ旅行で行ってジョイ・ディヴィジョンとかのレコードを買ってたみたいなんだ。それを見て、「彼等が欲しがってるレコードを全部持っているから、カセットに入れて東ドイツに持ち込もう」と決めた。誰かにそのカセットを渡せば、その人がまた違う人にカセットを渡して、という連鎖が起こる確信があったんだ。
当時からマークは既に音楽という国境を越える文化を使って、街から街への往来を続けていたのであった。後編では、マークがベルリンの中で関わり合いをもっていたミュージシャンたちとのやりとり。そしてこのコロナパンデミックが起きて以降の世界を様々な時代の変遷を見つめてきたマークがどのように捉えているのかについて、話を伺ってみることにしよう。
(後編に続く)
マーク・リーダー
英国マンチェスター出身。1978年からベルリン在住。自らニューウェイヴ・バンドを結成するなどしてミュージシャンとして活動する傍ら、ベルリンでは女性アヴァンギャルド・バンド、マラリア!のマネージャーを務め、Factory Recordsのドイツ代理人としてニューオーダー等のバンドのツアー・マネージャーとしても活躍。また1990年にはダンス・ミュージック専門レーベルMFSを設立し、ベルリン・テクノ黎明期にシーンに深く関わり、若きポール・ヴァン・ダイクやマイク・ヴァン・ダイクのキャリアを後押しした他、ベルリンへの電気グルーヴや石野卓球の招聘にも携わった。2008年からは自身の音楽制作も再開し、デペッシュ・モード、ペット・ショップ・ボーイズ、ニューオーダーのリミックスや映画やCM音楽を手がける。2015年に80年代の西ベルリンにおける彼の体験を描いた長編ドキュメンタリー映画『B-Movie: Lust & Sound in West Berlin』が公開された。