世界の戦史上最も愚劣といわれるほどに過酷を極めた、歴史上最も悲惨な戦いといわれるインパール作戦において、「うたう部隊」と呼ばれた部隊があった。インド・ビルマ国境方面に配備された、第31師団の歩兵58連隊で、 武蔵野音大卒の兵士などで攻勢され、収容所で捕虜となっている間に演芸班を結成して披露し、喝采をうけていたという。
この部隊の存在こそが、竹山道雄の小説「ビルマの竪琴」の素材となり、主人公のモデルとなった中村一雄氏も、この「うたう部隊」に所属していた。
この部隊の存在こそが、竹山道雄の小説「ビルマの竪琴」の素材となり、主人公のモデルとなった中村一雄氏も、この「うたう部隊」に所属していた。
イギリス軍を主力とする連合軍に押されて、日本軍は壊滅状態になって、イギリスが宗主国であったビルマを逃れて、同盟国タイに逃げ込もうとしていた。
ある夜、敵に囲まれるが皆で歌った「埴生の宿」がイギリス兵の心をうち、敵味方の合唱へと発展する。
実は、「埴生の宿」の原曲はイギリスで作られたもので、これによって日本兵は終戦を知り、戦いをやめて捕虜となって収容所にいれられる。
その一方で、敗戦を知らず頑強に抵抗している部隊を説得しに行った水島上等兵は、目的も果たせず「行方不明」になってしまう。
収容所の日本兵達の間では、戻ってこない水島が「死んでしまったのではないか」という噂がたつ。その一方で肩にカナリアをのせた水島によく似たビルマ僧がいるという「目撃情報」が寄せられる。
そしてあのビルマ僧が水島であることを確信するようになる。
そして帰国の時、日本兵は鉄条網を挟んで、水島に一緒に帰国することを促しつつ「埴生の宿」を歌う。
その仲間に対して、その僧は無言のまま竪琴で「蛍の光」を奏でて別れをつげる。
その後水嶋は、帰国した仲間にあてた「手紙」の中で、ことの真相を明かす。
水島は密林の中で高僧によって助けられるが、隊に戻りたい一心で恩人のビルマ僧の袈裟を盗み、僧になりすましてビルマを横断し、収容所に向かおうとする。
しかし、その途中で無残な日本兵の屍を目にする。
山の斜面にミイラ化した無数の死体、川の浅瀬にゴミのように積まれた白骨化した死体、密林で木にもたれたまま息絶えた兵隊の死体。
インパール作戦は失敗し、アラカン山脈から逃げ帰った兵隊の死体は街道を埋め尽くし、その街道は[白骨街道]と呼ばれた。
その道中、水島の心の中で今までとは違う「何か」が芽生える。その心の「葛藤」を次のように書いている。
「あの”はにゅうの宿”は、ただ私が自分の友、自分の家をなつかしむばかりの歌ではない。
いまきこえるあの竪琴の曲は、すべての人が心に願うふるさとの憩いをうたっている。
死んで屍を異郷にさらす人たちはきいて何と思うだろう!あの人たちのためにも、魂が休むべきせめてささやかな場所をつくってあげりのではなくて、おまえはこの国を去ることができるか?おまえの足はこの国の土をはなれることができるのか?」と。
フィクションと事実がないまぜの「ビルマの竪琴」だが、小説並みに面白い史実もある。
1590年4月5日、伊達政宗は、母・義姫に小田原参陣の陣立ちの祝いに招かれ、膳に箸をつけたところ、たちまち具合が悪くなり、投薬を受けて一命をとりとめた。
母親が政宗をきらい小次郎に伊達家を継がせるために母が毒殺をはかったのだが、その背後に義姫の兄・最上義光の陰謀があったといわれている。
その後、政宗は母親を殺すわけにはいかず、4月7日に弟小次郎とその傅役・小原縫殿助を手討ちにする。その晩、義姫は実家の最上家へ逃げ帰ったのだという。
この出来事は、信憑性の高い歴史書「貞山公治家記録」に記され、定説となってきた。
しかし近年、政宗の手紙などと照らし合わせると、明らかに矛盾する点が見つかった。
その一つは、毒殺未遂事件の後も、政宗と義姫が手紙のやりとりをしていて、七通の手紙いずれも親子の情に溢れる内容だという。
近年、これを解く鍵となる史料が発見された。
まず、首謀者である母「義姫」は、会津黒川城(福島県)からすぐさま出奔したことになっていた。それは1590年4月7日のことで、実家である最上家(山形県)へ逃げ帰ったということだ。
しかし、母「義姫」の出奔の日が、別の資料で覆されることになった。
なんと、政宗の人生の師である「虎哉宗乙(こさいそういつ)」禅師の手紙によれば、出奔の日付は、1594年11月4日。つまり事件の4年後である。
場所も黒川城ではなく、岩出山城(宮城県)から最上家へと帰ったようだ。
政宗も会津黒川城から岩手山城に移っていたので、同じ城下で手紙のやりとをしていたのだ。
これにより、「事件を見直す」必要が生まれた。
また、東京都あきる野市に「大悲願寺」という寺があり、そこに注目すべき記録が残されていた。
寺の15代目住職の秀雄(しゅうゆう)が、「政宗の弟」だというのである。
大悲願寺には、1622年8月21日、当時の住職である13代目・海誉上人にあてた、政宗の手紙が伝わっている。
内容は、大悲願寺を訪れた政宗が庭に咲いた白萩の美しさに心奪われ、江戸に帰ってから株分けを所望したものである。
この手紙の包み紙の内側には、「実は大悲願寺の15代目住職の秀雄は、伊達輝宗の末子で、伊達政宗の弟である」と記されていた。
これを書いたのは、江戸時代中期の住職・如環とされ、大悲願寺の過去帳を整理するなかで、秀雄を政宗の弟とする根拠を見出し、記したのである。
具体的には、秀雄が15代目住職を務めていた1636年5月24日の記録に、政宗が没した時に秀雄がその回向(供養)を行なった記述が残っている。
過去帳は言うまでもなく住職が書くものであり、つまり秀雄自身が「政宗は自分の兄」と記したことになり、政宗の弟は小次郎ただ一人である。それ以外の弟は、系図上一切出てこない。
事件から70年後「貞山公治家記録」を編纂する際、史料として参照されたのが、当時の伊達家の日記「伊達天正日記」である。
原本を見ると、政宗が小次郎を手討ちにしたとされる天正18年4月7日の部分が、”何行分か切りとられ”ていて、残された部分には、政宗が小次郎の傅役だった小原縫殿助を、自分の屋敷に呼んで手討ちにしたとある。
前述の「貞山公治家記録」にある、2人とも政宗によって手討ちにされたという内容と矛盾している。
それでは、このミステリーをどう解くか。
当時、伊達政宗は関ヶ原を前にして小田原の秀吉に会いに行く際に一番心配だったのは、自分の留守中に小次郎を擁立した内乱が起きかねないことだった。
義姫が弟をかわいがり、自分を疎んじている、自分はいずれ亡き者にされて弟が跡を継ぐ、また義姫の背後には敵対する最上義光がいる。
政宗は伊達家の一本化を図るため、弟を排除する必要があったため、れまで胸の内に抑えていた不信感を率直に義姫に伝え、それを聞いた義姫も政宗の想いを汲み取り、そこで考えられたのが、この「狂言」になったのではなかったのではなかろうか。
つまり、小次郎と小原を殺したことにして、小次郎の身を小原に託し、寺に逃したのではないかということである。
2人で申し合わせていたのなら義姫が最上に逃げ帰ることはなかったのだが、事件の翌年、政宗の初めての実子・秀宗が生まれる。
しかし1622年10月、最上家の改易により、義姫は山形から仙台の政宗のもとに戻って、その約9カ月後に亡くなった。
「小田原参陣」とは、伊達家にとってかくも大きな犠牲を払うほど、重大な局面だったともいえよう。
さて、東京あきるの市といえば秋川渓谷に恵まれ、江戸時代より材木や炭が生産され豊かな山林地主が輩出していた。その一人の深沢権八の土蔵よりいわゆる「五日市憲法」が発見された。
江戸時代の天領であったこの地は、戊辰戦争の賊軍にあたる会津藩士や仙台藩士が身を隠すのに適した条件があったともいえる。
1872年に学制が発表され、五日市にも公立の観能学校がつくられるが、その教員になったのがこうしたいわば「流れもの」が、五日市憲法の制定に関わったのである。
色川大吉が「民衆史の発見」で仙台藩の千葉卓三の行跡を中心に明かされたが、千葉の他に北海道に流れて波乱の人生を歩んだ人々もいた。
秩父困民党の大隊長の飯塚森蔵と会計係の井上伝蔵である。
秩父地方は明治の初め反政府的活動の震源地であり、彼らは東京から派遣された警察部隊と激戦を交えている間に、山間を抜け出して消息不明になる。
色川教授の調査によれば、飯森の方は欠席裁判で重罪となるが、北海道にわたりアイヌの人々に匿われながら釧路あたりで亡くなったという。
また井上の方は、口の中に綿を含んで顔を変え、覆面をして山から山へと奥羽山脈を伝わって北海道に渡り、苫小牧から札幌の方に逃げたといわれている。
井上は「死刑」判決をうけたものの、北海道で伊藤房次郎という「偽名」を使って代書屋を開業している。
そして、新しい妻をむかえそこで4人の子供をもうけ、それを立派に育てあげたという。
豪放磊落である反面、温厚で教養もあり人の面倒もよくみる人物で、当時接した人々によれば一点の暗さも感じさせない人物だったという。
井上の俳句をみて色川教授は、「どこか空の一部を突き抜けたような精神を持った人、なにか過去をのりこえて明朗な境地に到達した人でないと歌えない歌である」と書いている。
「死んだはず」の井上伝蔵は、北海道の大地で伊藤房次郎として「回生」したかのようだ。
1936年2月25日、東京は記録的な大雪に見舞われた。午前0時を過ぎても、総理官邸は和やかなお祝いムードに包まれていた。
午前1時、総理大臣・岡田啓介は、選挙を終えたばかり。官邸にいたのはいつも岡田啓介を身近で支える人ばかりあった。
ところが午前5時ごろ、凄まじい銃声が静寂を破り、目が覚めた秘書官の福田耕は外を眺めた。
福田の目に飛び込んできたのは、数多くの歩兵部隊が向かいの首相官邸を取り囲んでいる姿であった。
後に判明したことは、首相官邸を襲ったのは陸軍の歩兵部隊約300人で、同じ頃には別の部隊が警視庁などを襲撃、陸軍省を含む東京の中枢を占拠した。
そんな中、福田は応援を頼もうと、憲兵隊曹長に電話を掛けるが、かつてない大クーデターの前に為す術がなかった。
その時福田が耳にしたのは、兵たちの「万歳の声」。それは岡田首相が殺害されたことを示すものだった。
そして襲撃から4時間経った26日午前9時、寝室には遺体が安置された。
首相官邸は襲撃部隊に完全に制圧され、静けさを取り戻していた。
事件発生から14時間が経った午後7時、ラジオや新聞の号外が岡田首相の死を伝えた。
それを聞いた親戚が早く弔問させるよう訴えてきた。福田も同僚の秘書官を伴い線香を上げたいと官邸の中に入った。ところが寝室に通された二人は予想もしない事態に直面した。
遺体は岡田首相ではなく岡田の義弟で私設秘書官の松尾伝蔵大佐だったのだ。つまり、「岡田首相は死んではいない」ということになる。
時間を遡って、ここに至る経緯をたどってみたい。
兵士のけたたましい銃声に異変を知って官邸に松尾伝蔵陸軍大佐が私服警官とともに駆けつけた。
そして、間もなく襲撃部隊が官邸になだれ込んできた。
見つかるのは時間の問題だった。
そして二人は女中部屋に向かった。そこには身を固くして座り込んだまま動かない女中たちの姿がいた。
尋ねると女中の一人が「お怪我はありません」と答えた。
福田たちはこのとき岡田首相が無事であることを直感した。
さらに女中たちは押入れの前から動こうとしないのに気づいた。
福田らは、適当な理由を作り将校を女中部屋から遠ざけ、押入れの中の首相の生存を確認した。
事情を聞くと襲撃直後に、捜索を続ける下士官により押入れが開けられるが、女中の「料理番のお爺さんです。風邪をひいて休んでます」の答えに下士官は部屋を立ち去ったという。
女中たちは怯えて動けないふりをして首相を守り通してきたのだった。
それでは、岡田首相と誤認されて亡くなった松尾伝像大佐に何が起きていたのか。時間を遡ってみよう。
松尾伝蔵大佐は、襲撃部隊の侵入を知って岡田首相を女中部屋の押入れに押し込むと自らは庭に立ち襲撃部隊を待ちうけた。
襲撃の下士官の「撃て!」の一声で一発の銃弾が松尾大佐の顔面を捉え、松尾大佐は即死した。
襲撃部隊のリーダー格の香田大尉、栗原中尉らも将校らも岡田首相と面識は無く、欄間に掛けてあった肖像画と見比べ「岡田首相本人」であると判断したのだ。
実際に、岡田首相と松尾伝蔵は、顔や体型がよく似ていた。
そして福田は、岡田首相を救援に動き出した。
政府に応援を要請するため宮内省に使いを送る一方、官邸内を歩き襲撃部隊の警戒態勢を調べた。
岡田首相が隠れていた女中部屋の押入れから脱出するには廊下を通って玄関に出るしか道はなかった。
しかし見張りの兵が寝室前と玄関に立って常に警戒しているため、通過するのは至難の業だった。
27日午前9時かつて福田応援を求めた憲兵隊曹長がやってきた。
彼も女中から岡田首相が無事であることを知った。
そしてこの二人の出会によって「奇跡の脱出劇」が始まった。二人が考えたのは、次のような奇想天外な作戦だった。
まず弔問客を官邸内に入れ、小坂の部下たちが兵の注意を逸らし、岡田首相を焼香を終えた弔問客ということにして玄関を通過させ車で脱出するというもの。
寝室と玄関の見張りに怪しまれずに通過できるかが成功の鍵を握った。
弔問客の誘導から首相の脱出まで各人の役割分担が決められた。
福田は弔問客を入れさせてほしいと頼み、交渉の結果10人程度という条件で許された。
一方、憲兵隊軍曹は岡田首相を弔問客に変装するための着替えを用意し、部下が見張りの注意を引きつける間に、女中部屋に届けることができた。
そして27日午後1時、いよいよ作戦が決行された。
予定通り弔問客が官邸内に足を踏み入れ、しばらくして岡田首相を廊下に連れ出した。
ところが心神を消耗した岡田首相は歩ける状態ではなく、福田と軍曹で抱きかかえるように部屋を出た。
寝室の見張りを突破し玄関前の廊下を進んだが、慌ただしく走ってきた3人にただならぬ気配を感じたのか、見張りの兵が身構えた。
尋問しようとしたその瞬間、軍曹はとっさに「病人だ、死体を見たからだ」と答えた。
見張りの兵は、最後まで弔問客が1人多いことに気が付かなかった。
そして3人は遂に玄関を出た。直後、岡田首相を乗せた車は官邸を脱出。事件から32時間が経った午後1時20分、首相は無事救出された。
その2日後、二・二六事件は終結した。周囲の命懸けの行動が首相暗殺という事態を防いだ。
命を救われた岡田啓介首相は、事件を防げなかったことに責任を感じ辞職し官邸を去った。
そして事件から16年後に84歳でこの世を去った。
岡田元首相は、2・26事件で、自分を守って亡くなった5人の位牌を作り自宅で供養し続けた。