世界経済の成長を国ごとにみると、その歴史的盛衰から、「適者生存」という言葉が浮かぶ。
日本が1980年代前半まで世界でトップともいわれる経済力を示したのも、「集団主義」の伝統が、当時の製造業の技術水準によく適合していたからではないか。
全体とよく協調し、歩調を合わせて作業をする、そして時間を守るなどの点で、明治以降、日本が育ててきた「国民性」ともよくみあっていた。
つまり、集団でモノつくりに励む点で優れていたということだ。
そこには、日本人が古代から大切にしてきたDNA「和の精神」がよく生かされていた。
1950年代以降、アメリカが大量生産による合理化に取り組んだ自動車生産産などで優位に立っていたが、1970年代の石油ショックで小型車や低燃費の自動車がトレンドとなっていく。
このトレンドこそは、日本人がもっとも得意とするところだった。
1980年代に李御寧(イー・オリョン)が書いた「縮み志向の日本人」は、そのことをよく表していた。
李御寧は韓国最初の文化大臣を歴任した人物だが、日本の昔話に、一寸法師や桃太郎や牛若丸といった「小さな巨人」がよく出てくることに注目した。
韓国の昔話のヒーローは、巨人チャンスウであり巨岩のような弥勒たちで、こういうタイプのヒーローはいなかった。
古来、日本人は花鳥風月を友とし、季節の微妙な移ろいを感じとりながら、自然の美しい風物を「愛でる」感性に溢れていたといわれる。
日本語には「縮小」をあらわす言葉が多く、またとても大切にされている。
「ひな」「まめ」「小屋」「小豆」「豆単」などだ。
日本では何かをつくりあげることを「細工」というし、「小細工」という悪いニュアンスの言葉もある。
日韓を比較していくと、やっぱり日本には「縮小」をめぐる美意識や、「リトルサイズ」へのこだわりには、特別なものに映ったという。
これが日本の「トランジスタ」や「ウォークマン」を生み出したのかもしれない。
そしてそれは、世界に誇る日本アニメの「KAWAII」にもつながっている。
「敵者生存」の観点からみて、現代で最も優位に立つ「国民性」はどこかと考える時、最近のインドの台頭が思い浮かぶ。
経済は安定的に高成長を続けており、「BRICS」と呼ばれる世界で経済成長が期待される国としても挙げられている。
日本は2024年、GDPはドイツにぬかれて世界4位、数年でインドにぬかれ世界5位になるのは確実という。
インドの台頭は、政治や経済の世界のトップが占める割合が多いことが目につく。
グーグルやマイクロソフト、IBMのCEO、イギリスの首相にアメリカの副大統領。インドにルーツをもつ人たちがいま国際舞台で活躍し、脚光を浴びている。
特に、世界のIT企業のトップをインド出身者がしめているのは驚きというほかはない。
インド人には「グローバル社会」における大きな優位点であるのではなかろうか。
まずは、インドはイギリスの植民地であったことから英語教育がなされたという下地がある。
それだけではなく、公用語が州ごとに違い、小学校より習う「英語を使う」必然性がある。
また、インド人が今日のグローバルリズムの「適者」と思えるもうひとつが、コンピュータ特にプログラミング(ソフト開発)の能力である。
日本では「九九」で終わる掛け算も、インドでは2ケタまで習うという。
しかし、掛け算を頑張るからというのがインドが数学に強くなった本質的理由ではない。
インドの地理的背景や歴史的背景に、「インド国民が数学に強くならざるを得ない理由」が存在していたというのが正解ではなかろうか。
インドはアジアの中央部・南アジアに属しており、地球の反対にアメリカ(テキサス州)がくるような地理となっている。
アメリカのカリフォルニア州のシリコンバレーには、Apple・Facebook・GoogleなどでIT産業のトップの企業が位置してる。
そして、アメリカの反対にあるため時差は約12時間である。つまり、アメリカ企業はインドにエンジニアを配置すれば、24時間フル稼働で仕事をすることができる。
インドでは英語が共通語とことも、この流れに拍車をかける要因となった。
さて、インドはヒンズー教が8割を占める国家で、そのヒンドゥー教にはカースト制度と言って、身分秩序が存在する。
「バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラ」という4つの階級に、「ジャーティ」とよばれる世襲的職業身分集団も存在する。
この2つによってヒンズー教社会は細分化されており、その数は3000にものぼるともいわれている。
そして、ヒンズー教ではこのカースト制度によって、自ら望んだ職業に就くことが難しい。
しかし、近年の産業革新によってできた「新しい職業」はカースト制度にとらわれることがない。
それがIT技術で、身分の低い者でもIT技術を身に付けることによって、貧困から脱却できるチャンスが生じたのである。
それによって、インドでは受験戦争が激化し、特に数学が必要な理系の道に進むものが急増した。
インド工科大学(IIT)と呼ばれるインドに16ある国立大学での倍率は約50倍以上にもなる。
インド国内のIT技術者の平均年収が100万円程度のため、海外のIT企業で働くことを夢見て勉強をしている。
その結果、同大学を卒業したインド人の多くは、世界に名を馳せる有名企業で働いている。
さて、世の中を生き延びて行く者は「強い者ではなく変化できる者」である。
インドの国教ともいえるヒンスー教もまたグローバリズムの波と無関係ではいられない。
黒髪こそがインドの美の象徴と、黒髪を腰まで伸ばす。とはいえ黒髪は美の象徴ばかりではない。
ヒンズー教の聖地のひとつにある寺院では1日平均約8万人が参拝し、その半数が参拝前に頭を丸め、髪をささげるという。
寺院によれば、「髪を神にささげることで、我々はエゴを捨てされる。剃髪は参拝前の大事な行為なのだ」という。
ところがその髪が最近では「黒いダイヤ」とよばれるようになった。
聖地の寺院に隣接した髪をきる場所「カリヤンカッタ」では、1200人の理髪師が交代で24時間参拝者の髪を剃っている。
髪にささげられた髪は、寺院の毛髪販売担当部門が集めてオークションにかける。
この寺院の人毛出荷量はインド有数で、収益は寺の維持管理や教育に回すのだという。
ところで、「ウィッグ(かつら)」の材料には、人毛、人工毛、両方のミックスが使われている。
日本毛髪工業協同組合によれば、既製品の場合は9割以上が人工毛、オーダー品の場合はミックス、そして人毛100%のものが多いという。
人工毛は、人毛と遜色ない「自然さ」を備えつつあり強度もあるのがメリットだが、高齢の人は人毛が自然で、一番良いと考える傾向が強いそうだ。
加工しやすくするため、
「人毛」をウィッグに使うには多くの場合、着用者の髪の色に染め直す工程が必要になる。
つまり、最初からある程度のダメージを毛髪に与えることを考慮しなければならない。このため、理想的な人毛とは、パーマや毛染めを施していないものになるという。
昔は中国の奥地の女性が、結婚する際の費用を捻出するため髪を伸ばして、売っていた。
ただ、急速な経済的発展の結果、中国でもパーマや毛染めが一般的になり、理想的な人毛の入手は困難になった。
グローバリズムとともに、ウィッグ・付け毛市場は世界的に拡大して価格の高騰。
最近では、長い髪の供給元が中国ではなくインドに代わりつつある。
日本とインドを比べて、精神面でかなり違うことはうすうす感じるところだ。
ニュース映像でみる限り、日本のいわゆる「恥」の文化とは違い、かなり「あからさま」な社会という印象がある。
それは、日本のようなモノクロームな社会と対照的に、インドはカオスの社会で生きている。
日本の「減点主義」は、日本人の完璧主義の表裏一体で、そのことが日本人の思考を硬直させている気さえする。
例えば、市場に出回る野菜や果物は、形が悪かったり、黒ずんだりすると、味や鮮度がまったく問題なくても売れない。
日本が減点主義なのに対して、インドは加点主義ということがいえないだろうか。
インド人は、時間にルーズという見方もあるが、その点からいうと、その国民性は、集団で何かをするということには、不向きであったかもしれない。
しかしIT社会においては、個々のクリエイティビティが重視される。
日本では、遅刻は「大減点」の一因であるが、なんどインド人には、「遅刻してあげる」という考えさえあるのだ。おおらかで、遅刻してもされても怒らない。
このようなマインドは、クリエイティビティに関しては、むしろプラスに働くのではないだろうか。
また、インド社会で特異に思えるのは、出来る/出来ないの概念が日本人とは違う。
「出来ない」といったら関係が終わってしまうので、できないのに出来るという。
では、出来なかった時は、どうなのか。不完全でもなんとかまにあわせようとする。
10人いてひとり出来るといったら、可能性があるとして、そっちにかけてみようということになる。
どうにかして、そこにあるものでなんとか代用できないか、なんとかならないかと考えて、ギブアップしないと。
大切なのは、なんとかしようと創意工夫すること。
それは、インド社会のカオスを生き抜くマインドで、こうした精神を「シュガード」とよんでいる。
今、世界中が注目しているのが、インドの「ジュガード精神」である。
そこには、自分という人間に限界はなく、自分は無限の可能性を秘めている。ジュガードは、そういった自分の可能性を十二分に引き出すためのメソッドともいえる。
ジュガードには、イノベーションを起こすための6つの基本原則が存在する。
1. 逆境を利用する。困難な状況や社会問題をイノベーションのきっかけとして捉え、新たな価値を想像していく。
2. 少ないものでより多くを実現する。資金や資源が限られているなかでも、機転を働かせて解決策を見いだしていく。
3. 柔軟に考え、迅速に行動する。柔軟なマインドセット行動に移し、既存の枠組みを壊していく。
4. シンプルにする。過剰な機能を持たせることなく、シンプルに目的を果たす。
5. 末端層を取り込む。主流でないターゲット層を考慮し、サービスが行き届いていない末端層の人々をあえて主な顧客とする。
6. 自分の直観に従う。型通りのマーケティングリサーチに頼らず、自分の直観を大切にする。
インドの人は、普通では考えられないものの使い方をすることがある。
よくいえば魔法のような、悪く言えばなりふりかまわぬ解決策、それでもれっきとした「イノベーション」という人もいる。
「シュガード」の実現例をあげると、次のようなものがある。
2001年にインドで起こった大地震をきっかけに発明された、電力を必要としない簡易冷蔵庫「ミッティクール」。扉内上段に水を入れると粘土に浸透し、蒸発する気化熱によって中の食材を冷やす仕組み。
シンプルに、あるもので生み出すというジュガードの思想が込められた発明である。
また、ヘルメットの中にある発泡スチロールの緩衝材に氷を入れてクーラーボックスとして使ったりする奇抜さ。
またある報告では、首都ニューデリーの自宅近くの道端で、靴修理を営むおじさんに傷んだ靴底の張り替えを頼んだ。「どのラバーにする?」という問いかけとともに、目の前にはドーンと材料に使うタイヤの廃材が広げられたという。
洗濯機が大幅に売れて、その理由を調べたら、ヨーグルト飲料のラッシーを大量に素早く作る魔法のツールとして、洗濯機を活用したとか。
コカ・コーラを農家が殺虫剤として使ったり、我々には考えられない方法で、魔法のように問題を解決する。
それはモノだけではなく社会的にも生かされている。
例えば、知らない土地に引っ越して、その場所で有名な学校へ子供を入学させるとか、飛行機や電車がもう満席で切符が取れないときに席を確保する方法、または、新しいビジネスを立ち上げる時、不可能な壁にぶち当たったときにジュガード使いに助けを求める。
「ジュガード使い」は、「ジュガードゥ」をいわれ、高度に張り巡らされたネットワークと、豊富な人脈を駆使して問題を解決してしまう。
縁故がないところでコネを使うことができる超人的存在なのだといいう。
「ジュガード」は、ヒンディー語で、技術や独創性で臨機応変に問題を解決したり、安くてあり合わせの材料で即座に物を作ったり、修理したりすることを意味する。
しかし、もともとは「1960年代にパンジャーブ州の村人達によって考案された自主制作の車に由来し、その土地の普通の人々が幾人か集まって造った車に由来する。
これといったデザインも、安全性への配慮も、車に関する規制への準拠もなく、突貫や突飛なアイデアでなんとか場を取りなすというややマイナスの意味と、限られた資源の中で工夫して物事を成し遂げるという付加価値を含んだ意味がある。
インドの一般の人でも手が届く「タタ・ナノ」という安価な車がある。
アルミニウム製エンジンの開発や原材料・構造の見直しによって無駄を減らし、約25万円という低価格を実現させた。
製造工程、流通、マーケティング戦略を柔軟に見直しながら、インド市場だけでなくアジアの一部の国でも販売され、上級モデルに至っては欧米市場にも進出している。
また、インドでは心臓発作による死者が多い一方、広大な農村地帯には病院が少ない。
加えて装置を起動させる電気が不足している場合があるため、バッテリーが長時間持続する携帯型の心電図デバイスを開発した。
さらに、「末端層を取り込む」という精神は、これまで対象から排除されてきたユーザーを巻き込む「インクルーシブデザイン」に通じるものがある。
シチズン時計では、そうした考え方を取り入れ、視覚障害者に対応するデザインの腕時計の実用性やデザインの向上が図られた。
インドの人々には「ジュガードの精神」が根付いており、個々人が不自由の中からソリューションを生み出し、社会問題を解決に導くようなイノベーションへと波及している。
生き残るものとは、強いものではなく、「変化できるもの」。日本の経済的後退が、インドを「鏡」とすればよくわかる気がする。