福岡藩を興した黒田長政はその死に際して、三男の長興に5万石を分知するよう遺言した。
この遺言に基づき1623年8月、福岡藩を継いだ兄・忠之から長興に、秋月で5万石の分知目録および2人の付家老と47人の付属する家臣(御付衆)の名簿が渡され、ここに長興を藩主とする「秋月藩」が誕生した。長興が14歳のときであった。
ただ長興が大名として認められ「秋月藩」が公認されるためには、江戸に出て将軍に拝謁し、「所領安堵の御朱印」を拝領することが必要であった。
ところが、福岡本藩から長興の江戸参府を禁止する命令が届く。
これは兄・忠之が弟・長興を家来として処遇し、秋月の5万石は福岡藩領内の「一部」であると解釈するもので、秋月側としては承服できないことであった。
長興は、この命令を拒否して江戸参府を強行した。
1626年正月に、長興は三代将軍・徳川家光と前将軍・秀忠への拝謁が許され、同年8月には朝廷から甲斐守に叙任されて正式に大名に列座することができた。
このあと長興は、将軍家への忠勤に励み、ようやく1634年に秋月領5万石の「朱印状」を得ることができた。
このころ国元の秋月では、城下町の建設が進み、併せて「新しい家来」の雇い入れが行われ、藩の行政組織や藩士の役割編制がなされた。
この過程で、上席家老の独断専横に起因する集団脱藩騒ぎがあるも、長興は19歳の若年ながら、沈着冷静にこの混乱を収拾し、藩政の基礎を固めていった。
1637年10月、天草四郎を総大将に奉じた「島原の乱」が起こり、乱の鎮圧に幕府は、九州の諸大名に号令して12万人もの大軍を動員する。
1638年1月、幕府の命令を受けた黒田長興は、約2000人の兵を率いて島原に出陣。
同年2月末の原城総攻撃のときに秋月勢は奮戦し、激しい戦闘の末に乱の鎮圧の貢献した。
秋月勢は35人の戦死者、300人以上の負傷者を出したが、長興の泰然とした大将ぶりと適格な采配は、家臣たちに勇気と安心を与え、乱後の働きに応じた適切公平な褒賞により、藩主・長興に対する家臣たちの敬愛は絶対的なものとなった。
ところで、黒田家家臣「秋府諸氏系譜」の中に「小川家」の名がある。
小川家は黒田官兵衛の父・職隆(もとたか)の時代から黒田家に仕えていたの家来で、黒田官兵衛に仕えてからは数々の戦に参加し功績があった。
その最たるものが関ヶ原の戦いで、弓がうまいというので「弓頭(ゆみがしら)」に抜擢されている。
その中でも官兵衛に特別な忠義を尽くしたのが「小川与三左衛門」である。
1587年、黒田官兵衛は信長に反した荒木村重に捕らえられるという出来事があった。
黒田家存亡の危機にあって、黒田家に忠義をつくすと誓った12人の家臣の中に、「小川与三左衛門」名があった。
福岡県・朝倉市にある「秋月博物館」には、その時に書かれた「黒田氏家臣連署起請文」が保存してあり、その名が記されている。
その後、与三左衛門は、官兵衛の孫にあたる長興が起こした「秋月藩」に仕える。
また、秋月博物館には、「島原合戦図屏風」が残っており、天草四郎が籠城する城に秋月藩の武士たちが攻め入る様子が描かれている。
その中に旗を背負った小川家の人物がいた。「小川左近右衛門」で、小川家は弓頭や鉄砲頭を務め、武勇に優れ、「戦の知略」は高かったらしい。
実はこの「小川家」こそ、最近まで卓球女子で世界選手権やオリンピックでのメダル獲得に貢献した石川佳純の母方の先祖である。
そして、「島原の乱」から250年あまり、1894年小川家の次男として生まれたのが小川虎五郎、石川佳純の曽祖父にあたる人物である。
武士の血をひくだけに堂々とした雰囲気の人で、行橋市の明治紡績行橋工場の従業員数百人をかかえる工場長となった。
ところが1929年、世界恐慌が起こり、虎五郎は紡績工場に見切りをつけ、福岡市内に土地を購入し、山羊(やぎ)牧場を始めた。
「福岡県酪農史」に、以下のような記録があった。
「昭和11年(1922年)4月には福岡市箱崎町米一丸に晴光舎山羊牧場(小川虎次郎)があって、30頭(当初)から100頭(戦後)の山羊を飼育して生産乳の処理販売を行った」。
虎次郎は、当時貴重な栄養源だった牛乳の供給が十分ではないとみて、山羊乳に目を付けたのである。
虎五郎の四男の末弘が、佳純の祖父であたる人で、幼いころから牧場の力仕事を一生懸命に手伝った。
末弘は柔道で心身を鍛えようと、江戸時代から武士の子弟が武術を学んだ「隻流館」という道場に通った。そして1944年、自ら志願して海軍に入隊するも翌年、戦争は終わった。
幸い山羊牧場は無事だったため、末弘は家業の担い手となり、以前にもまして柔道に打ち込んだ。
「隻流館」の道場には今も「小川末弘」の木札が掲げてある。それは、隻流館伝統の「千本取り」を達成した人物の名のみが掲げられていて、現館長を含む数少ない猛者の証である。
「千本取り」とは、およそ50人を相手の投げても一本投げられても一本として、千本を行う。
末弘は「千本とり」達成後、全国大会の県代表の団体戦で準優勝している。
さて、昭和30年頃になると山羊乳の需要は減り、牛乳の販売店「小川牛乳」に変わる。
末弘は、毎日の配達を一手に引き受けていた。朝3時におきて一日たりとも休むことはなかった。
1958年、末弘は小田圭子と結婚、5年後には石川佳純の母となる次女の「久美」が生まれる。
「爆笑問題」の田中裕二の祖先も「武将のスジ」で、今から約400年前、田中家は、福岡県の「小郡」の町を築いた一族といって過言ではない。
石川佳純の先祖と同様に福岡に足跡を残し、石川家の祖先が参加した「島原の乱」が一族の興隆に大きな影響を与えている。
福岡県小郡市の一角に その屋敷はあった。屋号は、小郡の田中を縮めて「小田屋」で、田中裕二のルーツだという。
田中家は戦国時代に、初代・田中播磨正晴の身分が武士であったことが判っている。
正晴は 現在の佐賀と長崎を治めた戦国武将・龍造寺家の家臣だったと伝えられている。
16世紀半ば九州は、龍造寺・大友・島津の三つどもえの勢力争いが繰り広げられていた。
しかし1584年、龍造寺隆信が島津との戦いで死去。龍造寺家に仕えていた田中正晴は「牢人」となり、小郡にたどり着く。
当時の小郡はどの勢力にとっても魅力のない不毛な湿地帯であったが、主を失った正晴にとって生き延びるには、かえって好都合であった。
江戸時代になり6代目・利左衛門正利を中心に田中一族が奮起し、農耕をやめ馬を使って荷物を運搬する仕事を始める。
各地の特産品を仕入れて 商いも始め、結果 田中家は 財を蓄えることができた。
さらに酒造りも始めるが、1657年に予期せぬ事件が勃発する。
それが「天草の乱」で、幕府は九州の各藩と共に鎮圧に乗り出す。
小郡が属した久留米藩も鎮圧に参加し、藩の負担は大きく、年貢の取り立ては厳しくなったせいで、夜逃げや夜盗が蔓延するようになる。
そこで、田中正利は 地元の有力者・池内家とともに小郡の「町づくり」に乗り出す。
1653年には村の中心に(じっそうじ)」を建立し、自身も出家する。
現在も、「實相寺」本堂の脇に正利の墓がある。
小郡中心部にある「県指定文化財」になっている屋敷「平田家」は、田中家分家の一つである。
そして田中裕二の八代前に田中七五郎がいて、その兄である市郎左衛門で、その息子・高信が「平田家」に養子に入ったのである。
江戸から明治にかけ 平田家は「櫨蝋(はぜろう)作り」で大成功をおさめていた。
1780年代 小郡ではろうそくやびんつけ油の原料となる「櫨の木」の品種改良に成功した。
ろうそくは 大坂の市場で飛ぶように売れ、小郡には作業場が建ち並び、職人の数も増えていった。
平田家を含めた田中一族が「櫨蝋作り」を牽引し、集まった金を 「小郡銀」と呼ぶほどの繁栄をなすほどになる。
しかし明治に入ると、中国やヨーロッパから外国産の安いろうそくが入ってきて危機をむかえるが、平田家4代当主の伍三郎高徳の才覚で切り抜ける。
1874年平田家と田中家はそれまでの資金を元手に「貯金組合」を発足させ、1893年には「伍盟銀行」を設立する。
そして1932年に銀行を閉じるまで小郡の経済を支えた。
その後、田中裕二の祖父にあたる久二次は、 師範学校を卒業後、小郡小学校など周辺の学校で理科の教師をしていた。
その長男が正直(まさなお)で、田中裕二の父となる人物である。
田中正直は理科の教師だった父の影響もあり、地球環境やテクノロジーといったことに興味津々であったようである。
1944年 久留米工業専門学校精密機械科に進学し、叔父が東京で始めた精密部品の工場に就職することになった。
それが中野区の「鷺宮(さぎのみや)製作所」で、今や 従業員2900人を抱える自動制御装置のトップ企業である。
そこで正直は、「ベローズ」の研究に心血を注いぐ。「ベローズ」とは 特殊合金で作られた金属管のことで、温度などの変化によって伸縮する特性がある。
様々な装置にベローズを組み込むと自動的にスイッチをオン/オフとなし、温度や湿度を一定に保つことが可能になる。
田中正直は仕事一筋で囲碁だけが唯一の趣味であったが、縁談話が持ち上がった。
田中裕二の母となる宣子が育ったのは八女市の中心部かつての福島町。江戸時代 庄屋だったといわれる「原家」である。
明治になると宣子の祖父・富哉は警察官となり、その後八女の警察署長まで務めた。
警察官だった富哉の長男であり、後に裕二の祖父となる農夫雄(のぶお)は歯科医となっている。
そんな原家で、1930年長女として生まれたのが宣子である。
宣子は、活発な女の子で、町の祭りでは進んで踊りを披露、 趣味は 洋服作りで、女学校卒業後は八女の服飾専門学校へ通った。
そして八女の服飾専門学校の講師となった頃、縁談話があった。
縁談話を持ってきたのは宣子の伯母で、住まいが小郡の田中家の近くであった。
相手は東京でエンジニアをしている田中正直。
宣子は正直の実直さに惹かれ、1954年2人は結婚し、東京の鷺宮に新居を構えて、その4年後に「田中裕二」が生まれる。
田中正直はエンジニアとして特許と実用新案を31件出願し、発電所の配管やダムの開閉などのインフラにもベローズが応用され、仕事の幅を広げていった。
1980年 田中裕二は地元の都立井草高等学校へ入学し放送部に所属していた。一浪の末1984年に日本大学芸術学部演劇学科へ入学。そして「あの男」と運命の出会いを果たす。
太田光は、田中裕二の同級生で演劇学科の中でも特に裕二とウマが合ったという。
ただその1年後に 田中裕二は突如大学を中退する。この時 裕二20歳で、大学も辞め、お笑いをめざすも続かず、コンビニでアルバイトをしながら漠然と過ごす日々が続いた。
当時 鷺宮製作所の常勤監査役だった父・正直は、そんな息子を静観していた。
一方、母の宣子は体調が思わしくなく、56歳の若さで急死した。
悲しみととともに、裕二は中途半端な自分で終わるのかと自問する日々。
1988年、裕二は大学時代の友人・太田光と新たなコンビ「爆笑問題」を結成する。
石川佳純の父方・石川家のルーツは島根県にあり、松江市にある父親の石川公久の実家は、祖母と叔母が暮らしている。
代々伝わる先祖の記録があり、11代前の先祖・勘左衛門は、江戸時代の中頃に石川家の菩提寺・大満寺を開いたとされる。
大満寺がある大田市は、世界遺産の石見銀山がある鉱山町として栄えていた。
「石見銀山物語」によれば、勘左衛門が石見銀山の役人をしていた。その美人の娘「かよ」にめをつけて江戸の奥御殿に推挙する。
ところが娘には恋人がいて江戸に行くのは嫌だと、自ら若い命を絶った。、勘左衛門は娘の死を悲しみ大満寺を開き、念仏三昧の生涯を送ったという。
勘左衛門が娘の三回忌につくった「阿弥陀如来像」が近くの寺に残されており、背面には娘かよの戒名が彫られている。
福岡県津屋崎町「恋の浦」に似たような悲恋物語が残るが、石川家の菩提寺には、娘を思う父親のせつない物語が語り継がれていた。
それから150年がすぎた明治初期、石川の高祖父にあたる石川善五郎は、絵描きをめざして上京する。
画家として名をあげることはできず、模写した絵などを売って細々と暮らしていた。
1885年に、そんな善五郎と妻トラとの間に曽祖父にあたる晋(すすむ)が生まれた。
1906年、晋は浅草で製缶業、缶を生産売する町工場を立ち上げ、のりや茶の缶屋をやっていて商売としてうまくいっていた。
1917年、晋は同郷の岩谷カナと結婚、子宝にも恵まれ、工場は職人を何人もかかえており、豊かな暮らしを手に入れたものの、1923年9月1日、関東大震災がおそい、ほとんどの財産を失う。
やむなく松江にいる親族のもとに身を寄せるも、晋が悪性のリューマチを患い、半身不随になってしまった。
貧乏のどん底で家賃も払えない生活が続いた。
ふさぎ続ける家族を元気づけたのが四男の石川佳純の祖父にあたる四郎で寝たきりの父に元気になってもらとうと知恵をしぼる。
四郎は工業高校を卒業し、地元の広告代理店の営業マンとして働き、持ち前の人懐っこさで相手の懐に飛び込み、次々と契約を結んでいった。
1963年、四郎は喬子と結婚し、その長男が公久で石川佳純の父親にあたる。
公久はクラスの人気者で、卓球を始め、わずか1年で、松江市の小学生大会で優勝するなどした。
中学でも卓球に打ち込み、高校ではキャプテンとしてチームをまとめた。
公久は、西日本の強豪校・福岡大学の卓球部で久美と出会う。久美は入学早々、公久の自虐的な「替え歌」にインパクトを受けたという。
久美は1963年、福岡市に生まれた。父親の末弘から優れた身体能力と一本気な気質を受け継いだ。
久美は中学で卓球を始め、高校2年と3年でインターハイに出場、スポーツ推薦で福岡大学に入学した。
入学早々、公久と交際をはじめ、公久は大学卒業後、広告代理店に就職した。
久美は日産自動車で卓球を続け、全国大会でベスト8に進むなどの活躍をした。
出会いから8年の1989年、公久と久美は結婚。二人は公久の転勤先の山口市で暮らし、1993年、佳純が誕生する。
石川夫妻は娘のはかりしれない才能をみて、40畳ほどの卓球場をつくった。
石川佳純の父方・母方、二組の祖父母は全国どこにでもかけつける最強の応援団となった。