「ユダヤ人金融」の世界展開

イスラエルとの戦闘が始まったレバノンは、20世紀初頭までオスマントルコの属領であった。
しかしその弱体化により、1919年パリ講和会議で、フランスの委任統治下におかれる。
1941年6月フランス本土がドイツ軍の占領下にあり、亡命政府となった自由フランスから、シリアと共に「独立宣言」を行った。
第二次世界大戦後のレバノンは金融や観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ、ベイルートは「中東のパリ」と評されるほど中東及び地中海有数の国際的リゾート地として、賑わっていた。
レバノン系の人物には、元日産自動車CEOのかカルロス・ゴーンがいる。
また自動車の欠陥問題や消費者問題と戦ったアメリカの弁護士ラルフ・ネーダーもまたレバノン系である。
二人とも、生産者と消費者という真逆の立場で自動車と深く関わったのが面白い。
また、ロシア革命を描いた「ドクトルジバコ」の主演のオマー・シャリフのルーツもレバノンである。
シャリフは、映画「アラビアのロレンス」ではロレンス大佐(ピーター・オトゥール)と対峙したベドウィン族の族長「アリ」を演じた。
さて聖書の時代に遡ると、聖書にしばしば「カナン人」とよばれる人々が登場する。
彼らはイスラエルがメソポタミアの地からこのペリシテ(パレスチナ)の地にやってくる前から住んでいた先住の人々で、「ヘテ人」として登場するヒッタイト族と、「シドン人」として登場するフェニキア人が主な人々であった。
古代イスラエル人(ヘブライ人)は、シドン人の信仰する「バアル神」に向かい、ヤハゥエの神は怒りを発している。
チャールトン・ヘストン主演の映画「十戒」(1957年)では、モーセがシナイ山で神より「十戒」を授けられる時、山の麓で「黄金の子牛」を崇め神の怒りをかって地に呑み込まれる人々が描かれる。
あの「黄金の子牛」が「バアル神」のシンボルである。
また、紀元前11世紀にイスラエル全盛を築いたソロモン王は、外国の妻を多く娶った。
神は外国の妻を娶ることは外国の神々を迎え入れることに繋がると厳しく禁じだが、ソロモン王はエジプトの女やシドン人つまりフェエニキアの女を娶った。
「ソロモンの知恵」とよばれるほどに知られた英知の持ち主であったソロモンも、バアル神や女神アシタロテを祭るようになり神の怒りをまねく。
その結果、ソロモン王の死後にイスラエルは南北に分裂する。
北のイスラエル王国はその後滅び、ここに住む人々はすっかり異教の神々をも信仰し「サマリア人」とよばれ正統派ユダヤ教徒からは蔑視されるようになった。
最後まで残ったのが南のユダ王国で、この部族名から「ユダヤ人」と呼ばれるようになったのである。
この「ユダ王国」もローマ帝国により紀元70年頃滅び、多くのユダヤ人がヨーロッパ各地に離散する。
ルネサンスの時代、フェニキア人(シドン人)とユダヤ人が「貿易商人」と「金貸し」という立場でイタリアのベニスの地で再び出会うというのがシェークスピアの「ベニスの商人」の歴史的背景である。
ベニスという地名は「フェニキア」→「ベネチア」からついた地名であり、ベニスとは「フェニキア人の町」という意味でなのである。
フェニキアの地はレバノン杉が生い茂り、それによって造船技術に優れ、ユダヤ人との接触を通じて商取引の世界に引き込んだという点で、世界史に与えた影響ははかり知れない。
またその文字はアルファベットの原型となった。

聖書では同胞から利子を取ることを禁じているのだが、 ユダヤ人が紀元前6世紀ごろ新バビロニアに連れ行かれた時(バビロン捕囚)に、現地人から「金融」というものを学んだ。
なにしろこの地で作られた「ハムラビ法典」に利子は何パーセントまでとってよいなどと書かれてある。
「新バビロニア」を立てたカルデア人とよばれる人々は、神官たちが、参詣する信者達から金その他の貴金属を預かって保有し、その際に「預かり書」を発行し、引き出し請求のために一部残して、残りは「利子」をとって貸し付けていた。
さてユダヤ人は紀元70年頃、ローマ帝国に滅ぼされ離散するが主に3つの系統に分かれる。
イタリアに住んだ者、スペインに移り住んだ「スファラジ」系とドイツに移り住んだ「アシュケナージュ」系だが、彼らはキリスト教とは相いれぬ特異な信仰により、しばしば弾圧をうけた。
農業からもはじかれたユダヤ人は、当時利子を禁じていたキリスト教徒のしない金貸し業で生計をたてるようになる。
後述するようにキリスト教徒の中にも金融業を営む者が現れるが、その際、ユダヤ人だと分かっただけで財産を没収されることがあったので、自らの名前を書かねばならない記名型の証券は安全ではなかった。
そのためユダヤ人の金融業者たちは、「無記名の証券(銀行券)」を発行・流通させる銀行をヨーロッパ各地で運営していた。
この技術は、やがてヨーロッパ諸国が中央銀行を作って紙幣を発行する際に応用されるようになる。
ヨーロッパのユダヤ財閥の頂点にある「ロスチャイルド家」の血統はもともとはユダヤ人ラビであたるが、ベニスの貴族(フェニキア系?)の血統とも結びつき、その後ドイツのフランクフルトに移住して高利貸し業をはじめ成功した。
1793年に始まったナポレオン戦争の後、ヨーロッパで多発する国家間の戦争のための資金調達を各政府から引き受けることで、急速に力をつけていったのである。
一族のひとりは1797年にイギリスに進出し、綿花産業への資本提供やドイツなどへの販路拡大を引き受けて大成功し、イギリス政府に食い込んで資金調達を手伝うようになったのである。
そしてナポレオンとの戦いにおいて、ネルソン率いるイギリス海軍がフランスに敗れることがなかったことは、イギリスが築いた信用と資金調達能力のためであったといえる。

ユダヤ人は、異教徒であるキリスト教徒に金銭を貸し付けて利子をとる金融業者として生きつづけたのであるが、キリスト教徒の中にも金融業者が出現する。
その始まりが「テンプル騎士団」である。
テンプル騎士団は、十字軍の時代に聖地エルサレムをイスラム教徒の攻撃から防衛し、キリスト教徒の巡礼者を保護する軍事組織として結成された。
治安が悪い時代だったので、エルサレムへの巡礼者は途中で盗賊へ襲われることが多く、現金を持ち歩くことは厳禁であった。
そこで騎士団は巡礼者の旅費を預かって「預かり証」を発行し、「預かり証」を提示されれば現金を払い戻すシステムを確立した。その後、「預かり手数料」というかたちで利子をとった。
「テンプル騎士団」はフランスの貴族が歴代の騎士団長を務め、西欧各国の王や貴族たちから土地を寄進された。
やがて騎士団は莫大な資金を運用するようになり、フランス王室に融資を行うようになる。
またルネサンスの時代に活躍したイタリアのメディチ家は、キリスト教世界にあって、実質的に利子をとって大発展している。
キリスト教の教義では利子をとって金を貸すことは禁じられて、ルネサンス以降も「利子禁止」は教会法に明記されていた。
だが、商品経済の発達は金融業を生み出しつつあり、彼らは利子禁止を逃れるために様々な言い逃れや、手法を編み出す必要に迫られていた。
また、北イタリアのロンバルディア地方にはユダヤ人「両替商」が多く住んだ。
「ロンバルディア」という地名は、ゲルマン族の一派「ランゴバルト族」に由来するが、北イタリア諸都市では、キリスト教徒はなぜか金融から手をひき、これによって生じた空白を埋めるため、ユダヤ人金融業者が中部イタリアら呼び寄せられた。
彼らは貿易と組み合わせた両替・為替業を営み銀行業者の地位を固めていたのである。
その後イギリスの中心部(シティ)にも進出し、世界の金融センターとなる「ロンバート街」が形成される。
イギリスの歴史を遡ると5世紀頃から北方のアングル族、サクソン族が進出し土着化していく。
そして11世紀に海洋民族のノルマン人の侵略をうけて征服され、アングル・サクソン・ノルマンの三者が融合して、現在のイギリスを構成する主要人種が形成された。
ノルマン人といえばもともと「海賊行為」を生業とした集団で、ノルマン人出身の海賊が収奪した富こそは、産業革命を経て生まれた資本主義の元本となったといって過言ではない。
16世紀イギリスはいまだ新興国に過ぎなかったが、海の王者スペインに対抗意識をもっていた。いわゆる「パイレーツオブカリビアン」の時代である。
ドレークをはじめとするイギリスの海賊は、中南米と行き来するスペイン船を襲って蓄えた大量の財宝を持って帰還していた。
エリザベス1世は海賊を取り締まるどころか、それを手なずけて戦いの主力としたのである。
イギリスは、この「海賊の機動力」をもって、スペインの「無敵艦隊」を破って世界の覇権を握るきっかけを作ったといってよい。
したがってイギリスの繁栄を築いたのは、「女王陛下の海賊達」であり、それはイギリスがどんなに「紳士の国」を標榜しようが、疑いようもない歴史的事実なのだ。
さて、1640年頃まで、金持ちの商人は余剰現金(金や銀)をロンドン塔に保管していた。
しかし、チャールス1世は(彼が王でもある)スコットランドに対抗するために召集した軍人たちへ支払う給料のために、その金塊を差し押さえた。
そのために商人たちは、ロンドン塔に代わる安全な資産の保管庫を求めたのである。
それを提供したのが、シティーの当時頑丈な金庫をもっていた金細工師たちだった。金細工師は金を預かると「預かり証」を手渡した。
それが「ゴールド・スミスノート」と呼ばれるものであり、銀行券の前身である。
しかし、イングランド王ウイリアム3世はフランスとの植民地戦争(1688年~97年)で金銀を使い果たしたイギリスには借金だけが残った。
それでも、経済をなんとか動かす必要があった。
そのジレンマを解決するためにつくられたのが、現在の中央銀行の原型といわれている「イングランド銀行」である。
イングランド銀行は当初は株式会社であり、完全に民間の金融機関であった。つまり、民間の金融機関が政府から紙幣発行と物価・為替の安定業務が委託されたわけである。
実は、「イングランド銀行」はシティという金融街に位置するが、前述のように北イタリアのロンバルディアから移民してきた商人達がつくった商人のための銀行であった。
ところで、世界初の株式会社は1600年のオランダ「東インド会社」で、イギリス東インド会社の設立より2年先んじている。
イギリスは先行するオランダを様々な点でモデルにした。「イングランド銀行」も、そのひとつといってよい。
イギリス「名誉革命」で留意すべきことは、イギリスで王位に就くウイリアム3世は単身イギリスに来たわただけではないということだ。
万一に備え、反対派に対抗するための1万4000人の兵士を同行させ、数万人の技術者と金融関係の人々まで引き連れてきたのだ。
言い換えると、人と一緒にオランダの思考方式と金融関係の人材まで引き連れてきたのだ。
オランダの商人たちが、名誉革命でイギリス王に就任したオレンジ公ウイリアムに巨額の融資をもちかけ、その見返りに「貨幣発行権」を得た。
それは、オレンジ公にいわば「足かせ」として「金本位制」が始まったといってよい。
こうしたオランダの発展は、16世紀から続いたスペインからの独立が大きな意味をもっている。
前述のようにスペインには「スファラジ系」ユダヤ人が多く住んでいたが、迫害を受けたユダヤ人の中にはキリスト教に改宗した「マラノ(隠れユダヤ教徒)」も含んで、多くはオランダに避難する者がいた。
そのためオランダの港町アムステルダムにはスペインやポルトガルから移り住んだユダヤ人が多く、「ヨーロッパのエルサレム」とよばれるほどであった。
またアムステルダム繁栄は、ノルマンの造船技術とユダヤ金融が結びついた結果だといえる。かつてヴェネツィアでフェニキアの貿易船とユダヤ金融とが結びつき「ベニスの商人」が生まれた時代背景と似ている。
オランダの東インド会社は、アフリカの最南端・喜望峰からアメリカ大陸の西海岸に至る広大な地域で要塞を築き、オランダ政府の事業を代行した。
アムステルダム本社の初代株主は1143人で、巨大な資本金を苦もなく集めることができた。
所有権と経営権が分離され、重要な意思決定は選ばれた理事が行い、投資家達は彼らの決定を受け入れるか、株式を売るか二者択一だった。
当初、21年後に清算されものだったが、長すぎて投資を渋る人もおり、「中間精算」の条項をいれた。
設立から10年にあたる1612年に会計帳簿を整理し、会社の運営状況を株主たちに公開した後、希望者には投資した資金を回収させるというものだった。
イギリスでは、ドレイクがスペインから奪った金銀は、オランダから2年遅れの1602年「東インド会社」の設立に繋がっていくが、オランダから持ち込まれたノウハウにより継続性と安定性が保たれていったといえる。
その後、1894年にイングランド銀行が創設され、その少しあとに国債の発行が定期的になるとともに、株式市場が活発になり地方銀行も成長していく。
イギリスでは、政府と事業家の双方に多額の資金を提供するようになるが、様々なペーパーマネーの成長が激しいインフレもを引き起こすこともなく、信用も損なうこともなしに実現した。
こうした「金融革命」が成功した土台は、議会が追加税収入を確保して、国家債務の確実な支払を保証することにあった。
つまりイギリスの「議会制度の確立」があってはじめて可能になったのである。
現代に時を移すと1971年アメリカ発のニクソンショック、すなわち金とドルとの「交換停止」の意味するとことは甚大である。
世界で最後に「金本位制」を維持してきたアメリカがソレを放棄したことにより、世界が完全に「ペーパー・マネー」の時代に移行したということである。
それまでアメリカは工業製品も農業製品も世界中に供給するモノヅクリ大国だった。
ところが、アメリカはドイツや日本の追い上げをうけて、貿易赤字と財政赤字に苦しんで、「ドル安」にしても競争力を維持することができず、1990年代の初めには一転して「ドル高」政策に転換した。
これによって世界中の投資をアメリカに呼び込む方向に大転換した。 つまり、貿易赤字を投資マネーで補うことにしたのである。
そして、サブプライムローンを始めとする幾多の金融商品を開発していくのである。
最近の富の蓄積はマネーゲームで、勤労でなく情報面で優位に立つ者が膨大な富を独占し、「海賊」や「ハゲタカ」とよばれる投資ファンドもあらわれた。
これはアメリカ建国の精神であるピューリタリズムとは明らかに乖離している。
ウォール街を実質支配するのはユダヤ人なので、「ユダヤ教シフト」といいたいが、謹厳なユダヤ教徒とウォール街の成功者とは、どうしても結びつかない。
歴史を映す水晶玉があるならば、現代アメリカ経済の背面に、シナイ山の麓でユダヤ人も崇めたフェニキア人の「金の子牛像」や、ノルマン人の「女王陛下の海賊たち」がおぼろげに映るのではなかろうか。

というわけで、今日の欧州信用不安もサブプライムローンという金融技術によって惹起された面が強いが、もう少し長い目で見ると、「ペーパーマネー時代」の起点となった「ニクソン・ショック」にいきつく。