最近、世界中で民主主義国家と権威主義国家の二極化が進んで、戦争への「かまえ」が強まっているようにみえる。最大のパラドクスは、どの国も戦争を「抑止」しようとしてかまえた結果なのだ。
戦争は誰も望んでいないのに起きてしまう、なぜか。メンツの問題、相手の動きの読み違え、同盟国との繋がり、世論(次期選挙)、偶発事などが思い浮かぶ。
現代社会は、AI生成技術による偽動画・偽情報がそれに加わる。
こうした点を考える上で興味深いのは、第一次世界大戦が始まった経過である。あっという間に戦いの「かまえ」から実際の戦争に発展したからだ。
さて第一次世界大戦が「現代の戦争」といわれるのは、19世紀までの戦争は、相手の国を決して潰さない。負けた国が賠償金を払うか、辺境の地を譲渡することで手を打ち、本国には手をつけないのが一般的な習いだった。
動物は強弱という序列がつきさえすれば、それ以上相手を滅ぼさない。相手を滅ぼさないのが「生態系上の知恵」ともいえる。
「生態系」とのそのアナロジーをいえば、列強にも「勢力均衡」という意識が働いていた。
大国が消えると国際社会のバランスが崩れ一気に不安定化するからだ。
例えば、オスマントルコが「死に体」であったとしても生き延びたのは、周辺諸国にそんな意識が働いたのかもしれない。
また、列強体制は動物社会に似ていわば「序列化」されており、中小諸国や植民地などは列強の意向に従うのが前提になっていた。
しかし20世紀には「ナショナリズム」の勃興し、小国でも列強に負けないように近代化し、ひとつの「民族国家」を作ろうという自覚が生まれる。
例えばバルカン諸国(ルーマニア、ブルガリア・セルビア・ギリシア)なども欧州列強のようになりたいと願うようになる。
さて、第一次世界大戦の構図は、教科書的にいうとパンゲルマン主義とパンスラブ主義の対立である。
ドイツのヴィルヘルム二世(1866年~1918年在位)は若くして皇帝なり、歳をとりすぎたビスマルクを降ろし、世界帝国をつくろうした。
一方、ドイツが勢力を伸ばそうとしたバルカン半島には6~7世紀ごろよりスラブ人が住み着き、ルーマニアやブルガリアといったスラブ人の小国が存在していた。
バルカン半島は黒海から地中海へ出て、アフリカ・アジア・中近東へと連絡するために、ドイツとロシアはこうした小国の民族主義の勃興に乗じて同盟国として取り込もうとした。
具体的にはドイツはバグダード鉄道のルート、ロシアは南下ルートとして利用したいという思惑があった。
ドイツからバルカン半島、そしてトルコ、ペルシア湾まで結ぶバクダート鉄道のルートは、どうしても不凍港が欲しいロシアの地中海への南下ルートを完全にブロックすることになる。
また、海に面していないドイツ寄りのオーストリア帝国にとってもバルカン半島は重要な拠点であった。
オーストリアはオスマントルコの弱体化に乗じてバルカンへの進出をねらい、ボスニアを青年トルコ党による革命の混乱に乗じて「併合」していた。
このため、隣国のセルビアでは「反オーストリア」の民族主義が高揚し、オーストリアの領内にもスラブ民族を含む多様な民族が同居しているため、隣国セルビアの民族主義の高まりには、警戒を強めていた。
1914年6月28日、オーストリア皇太子フェルディナンド夫妻が、併合したボスニアに駐屯するオーストリア軍の陸軍演習を閲兵するためにやってきた。
そんな折、ボスニアの首都サラエボでを皇太子夫妻は自動車で通過中に「一発の銃声」によって暗殺されたのである。
逮捕された犯人はセルビア人の青年で、銃声の背後にセルビア政府があるならば、オーストリアはバルカン半島に進出する口実ともなる。
オーストリアは明確な証拠を見出せなかったものの、セルビア政府にオーストリア皇太子暗殺の裁判に関与することを求める「最後通牒」をつきつける。
セルビアはオーストリアの要求の大半を受けいれたが、これで話は収まらなかった。
ドイツはロシアが介入してくることはないとたかをくくり、オーストリアへの全面支持を打ち出したのである。
ロシアもまたセルビア(南スラブの意味)の民族主義運動をこの地域への「勢力伸張」の口実にしようとしていたのである。
結局、オーストリアは「ドイツの支援」をあてにしてセルビアに宣戦布告し、ロシアもフランスの支援をあてにしてオーストリアに宣戦布告をしたのである。
ロシアはドイツを挟み撃ちできるという地の利から「露仏同盟」を結んでおり、英仏協商・英露協商によってもイギリスの参戦を期待することができたからである。
一方のオーストリアはドイツの参戦を願望し、そのドイツは「英国が中立を保つ」ものと誤認していた。
そうこうするうちドイツ・オーストリア・イタリア(同盟側)と、イギリス・フランス・ロシア(協商側)の対立のかまえが生じたのである。
そして、皇太子暗殺事件からちょうど1か月後の7月28日、誰も予想せず、誰も望まない全欧州を巻き込む「第一次世界大戦」に発展してしまう。
ヨーロッパには当時、「一発の銃声」をオーストリアとセルビアとの間の地域紛争で収められるだけの「調停役」が存在しなかったということがいえる。
このことには、第一次世界大戦が「いとこたち」の人間関係を反映した戦争であったことが影響しているのかもしれない。
大英帝国の繁栄の象徴といえばビクトリア女王である。ビクトリアは9人の子供を生み、彼らを各国の王と縁組させ、ヨーロッパ中に40人の孫を産んだのだ。
そのためヨーロッパの「ゴットマザー」とよばれた。
第一次世界大戦で戦ったロシア皇帝ニコライ2世、イギリス国王ジョージ5世、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、いずれもビクトリアの孫で、敵と味方にわかれて戦ったのである。
ところでイギリスは立憲民主制の国、王は「君臨すれども統治せず」が原則となっていた。
議会と内閣に政治をまかせていたが、ビクトリア女王は積極的に政治に介入した。
特に固執したのが大英帝国の威信であった。王より格式の高い「皇帝」の称号を得ようと、議会から反対の声があがるなか、「インド女帝」の位についた。
それはいわば「間接支配」で、インド人によるインド支配をさせ、イギリスに直接的に不満が及ばないようにした。
イギリスはインドにとどまらず、アフリカでのボーア戦争など植民地の拡大に邁進し、世界の陸地の4分の1を支配し、人類史上最も巨大な帝国を築き上げた。
各地にビクトリアの像が建てられ、「ビクトリア調」という建築様式が広まった。
さらにビクトリアという母のもとにある「ひとつの家族」のように喧伝されたが、その実態は苛酷な植民地支配によって繫栄していたのである。
1901年にビクトリア女王がこの世を去る。その治世は63年に及んだが、その死は大英帝国の覇権が揺らぎ、ヨーロッパの秩序が崩壊する始まりとなった。
女王の葬列には二人の君主の姿があった。ビクトリアの長男で王を継いだエドワード7世、そして孫のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世である。
ヴィルヘルムは、ビクトリア女王の長女の子であるが、好戦的な性格でドイツを一流国にしようと軍備を拡張、イギリスとの間で「建艦競争」をひきおこしていたのである。
ビクトリアは死の間際まで、ヴィルヘルムの行く末を案じていたという。イギリスとドイツの悪感情は、私にとっても多くの人々にとっても大きな「苦痛」であり、「苦悩」であると述べている。
後には「ヴィルヘルムが、演説や植民地拡大の愚行を続けなければ、この事態は徐々に収まるものと信じています」とも語った。
しかしビクトリアの懸念は現実となる。ヨーロッパは一触即発となるなか、エドワード7世が死去し、息子のジョージ5世が後をついだ。
ジョージ5世もヴィルヘルム2世もビクトリアの孫で従兄弟にあたるが、二人の性格は好対照であった。
イギリス王ジョージ5世は引っ込みじあんで、押しが強いドイツ皇帝ヴィルヘルムを大の苦手としていた、
ジョージ5世は、うっとうしいヨーロッパ外交を後回しにして、大英帝国内部の支配強化を優先した。
引っ込み思案であるにもかかわらず、インドでイギリス王として初めて戴冠式をおこなった。その際マハラジャなど25万人が列席し、恭順の意を示した。
さて意外なのは、ロシアのニコライ2世はビクトリアの孫娘アレクサンドラと結婚し、「義理の孫」ということになる。
というわけでイギリスのジョージ5世、ドイツのヴィルヘルム2世、ロシアのニコライ2世は、ビクトリアの孫でいわば従兄弟同志にあたる。
整理すると、ビクトリア女王の長女ビクトリアの子がヴィルヘルム2世、長男エドワード7世の子がジョージ5世、次女の子がアレクサンドラである。
ジョージ5世とニコライ2世は、外見がそっくりで親密であった。幼少の頃、親族の集まりで入れ替わってみせ、みなを驚かせたことさえもあった。
1914年、ドイツがベルギーやフランスに侵攻した際に、イギリスのジョージ5世は、ロシアのニコライ2世と手を組んでドイツと戦ったのである。
まるで「王たちの人間関係」がそのまま戦争に持ち込まれた形となったのである。
ロシア2月革命が起き、長い戦争で不満をもつ民衆が蜂起し、皇帝ニコライ2世一家は捕えられて監禁された。
1891年 若き頃日本を訪問し、日本人の巡査に切りつけられ国際問題化した「大津事件」の当事者となったあのロシア皇太子ニコライである。
ニコライはジョージのいるイギリスに亡命を求めたが、イギリス政府は検討の末、結局は受け入れなかった。混乱の波及を恐れたのであろう。
かくしてニコライ一家は銃殺され、300年以上続いたロマノフ朝は滅亡した。
ロシアの革命が波及したのはドイツの方で、ヴィルヘルム2世は退位を余儀なくされオランダに亡命した。
そして1918年第一次世界大戦が終わった。
ジョージ5世は、「ヴィルヘルム2世こそが4年3か月続いた恐ろしい戦争に導いた最大の犯罪者である」と綴っている。
ジョージ5世のあとつぎが息子のデイビット(ビクトリアのひまご)である。
デイビットはアメリカを訪問し、社交的な性格で「プリンス・チャーミング」とよばれほどの人気者となった。
王室の重々しく変化のない生活は、耐えられないもので、アメリカ流の格式張らない自由な生き方に憧れていた。
デイビットと交際していたのがアメリカ人女性のウィリス・シンプソンであった。彼女は人妻で、名門の家系に連なる家庭に生まれ、若くして結婚したが離婚。その後、ロンドンの青年実業家アーネストと再婚していた。
デイビットは彼女の物怖じしない性格が魅かれ、イギリスの四大新聞を毎日読んでいて、皇太子という仕事に心から興味を持ってくれたが嬉しかったと語っている。
ディビットは1936年エドワード8世として即位するが、彼女と生涯を共にしたいと思うようになった。ウイリスは二度目の離婚をして結婚の意思を固めた。
しかしウィリスとの結婚には宗教界・政界双方から強い反対があった。
「イングランド国教会」は国王がトップを務めるため二度も離婚経験のあるシンプソン夫人は王妃には不適格である。
そもそも、離婚した相手が生きている状態での新たな結婚は認めていない。
そればかりか、政界からも反対の声があがり、ウィリスはナチスドイツの将校との交際歴があり、スパイ容疑の疑いで密かに調査していたのだ。
ボールドウイン首相は、ウィリスと別れないならば、「総辞職」するとせまり、エドワード8世に3つの選択肢をあげた。
第一は結婚を断念する。二つめは結婚する。3つめは退位する。
結局、デイビットは国王の地位をすてウィリスとの結婚を選び、
彼はラジオで王位放棄を国民に告白し「王冠を賭けた恋」として世界中にセンセーションをまきおこした。
デイビットは、ラジオ演説で国民に次のように釈明した。
「私が王位を放棄せざるをえなかった理由はみなさんがご存じだろう。私は愛する人の支えなしには国王の重責を担うことができないとわかったのです。今や新しい王がいる。神よ王を守りたまえ」。
二人はイギリスを離れフランスで結婚式をあげた。王室からはだれも出席しない簡素な式であった。
在位期間はわずか325日。近代イギリスでもっとも短命な王となった。
デイビットがいう「新しい王」とは、弟のヨーク公ジョージであるが、兄の突然の退位で弟のアルバートが「ジョージ6世」として即位した。
アルバートはデイビットとは対照的に内気で華やかさに欠け国民の人気が低かった。
また、吃音という悩みをかかえていた。
彼が国王となった即位のスピーチで大失敗してから、妻と言語治療士の助力でそれを克服し、第二次世界大戦の困難に立ちむかう姿は映画『英国王のスピーチ』で描かれている。
そしてこの事件は、10歳の長女の運命をも変えることになる。その少女こそエリザベス女王である。
さて、1939年ナチスはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がはじまった。
イギリス王となったジョージ6世は、チャーチルとともにナチスに徹底抗戦することを決意した。
実は、デイビットとウィリスは、ヒトラーの招きに応じてドイツをたびたび訪問していた。
ヒトラーはデイビットを利用してイギリスを味方にしようと画策していた。
ドイツ勝利の暁には、デイビットを王に復位させる計画まであった。
それに対してエドワードは、ドイツに接近するデイビッドを封じるために、ヨーロッパから遠く離れたカリブのバハマに左遷して、67000人の島民を治めさせる非情な決断であった。
ナポレオンのエルバ島への島流しを思いうかべるが、デイビットとウィリスは、結局戦争の間中ヨーロッパに戻ることはなかった。
第二次世界大戦でヒトラーがロンドンを空爆した際、ジョージ6世はバッキンガム宮殿の破壊を伝え、王室が国民とともにあることを伝え、娘のエリザベスもマーガレットもラジオで国民を励ました。
第二次世界大戦は、イギリスの歴史で、王室と国民が最も近かった時代であったといわれる。
さて第一次世界大戦の頃までイギリス王朝は、ドイツの地名を冠した「ハノーバー朝」とよばれていた。
遡ること1714年、イギリスのステュアート朝断絶により、ジェームズ1世の孫娘ソフィ-がドイツのハノーヴァー選帝侯の元に嫁ぎで生まれたゲオルクが王位を継承することになったためである。
ゲオルグはジョージ1世として迎えられ、イギリス王位とハノーヴァー選帝侯の地位を兼ねた。ジョージ1世は英語をほとんど解せず、ハノーヴァーに滞在することが多かった。
実はこのことがイギリスで「責任内閣制」を生むきっかけとなるのだが、第一次世界大戦が始まった後の1917年、敵対するドイツ風の王朝名を改めることとなり、王宮の所在地にちなんだ「ウィンザー朝」となったのである。
さて1952年に女王として即位するエリザベス2世は、2000年フランスで暮らしていたエドワードとウィリスを初めて公式行事に招待した。退位から30年後の和解であった。