隠れキリシタンとミュージシャン

紀元前6世紀のギリシアで活動したピタゴラスといえば、「三平方の定理」で知られる。彼の数学は「音」からインスピレーションを得ている。
ピタゴラスは散歩中に鍛冶屋の近くを通りかかり、職人が金属をたたく音の中に綺麗に響きあう音と、そうでないものがあるのを発見した。
それを不思議に思ったピタゴラスは鍛冶屋を訪れ、色々のハンマーを手にとって調べる。
すると、綺麗に響きあうハンマーどうしはそれぞれの重さの間に単純な「整数比」があることを発見する。
それを不思議に思ったピタゴラスとその弟子たちは、その後「音と調和」について研究するようになる。
彼らの啓発活動により、古代ギリシアの人々は、宇宙と音の調和ばかりか、数の調和で作られていると考えるようになった。
そして宇宙の根本原理を「ムジカ」、その調和を「ハルモニア」とよぶようになる。これぞ英語の「ミュージック」と「ハーモニー」の語源である。
ところで、多くの宗教は、見えない神を何とか「視覚的」に捉えようと、仏像や仏画などを作る。
また、海や山、木などに神が宿っているとして、それを拝むことによって神の存在を確かめる。
中世音楽研究者の皆川達夫は、ヨーロッパで教会音楽が発達した背景について、ピタゴラスの発見をふまえながら、次のようなことを述べている。
キリスト教では「偶像崇拝」を禁止している。そこで人々は、神の存在が音の中に潜んでいると、視覚よりも音楽に神を見言い出そうとした。
音楽は人間が作ったものでありながら、神に作られたものであり、それが宇宙や不思議な数の調和の上に成り立つものだからこそ、人間は音楽を聴いて感動し、神を礼拝し賛美するために音楽を用いる。
キリスト教が優れた音楽を生み出してきたのは、このような背景があるからである。

長崎・大村藩の藩主・大村純忠が16世紀に洗礼を受け、日本初のキリシタン大名、ドン・バルトロメウとなった。
5万人ともいわれる領民もキリスト教徒に改宗したが、その後は一転、大村藩は江戸時代を通してキリスト教を弾圧する側に回った。
長崎県の五島列島は、大小140あまりの島々が連なり、江戸時代のキリシタン禁制下でも信仰を守った「潜伏キリシタン」を先祖にもつ人々も多い。
多くのキリシタンたちは当時の迫害を逃れて、長崎市の北西部に位置する外海(そとめ)地方を離れ、たくさんの小舟で海を渡り、五島の島々に新天地を求めたからだ。
2015年に世界遺産となった潜伏キリシタン関連資産が、九州本土だけでなく五島の島々の集落を含むのにはこうした歴史的背景によるものである。
とはいえ、五島が安全地帯だったわけではなく、「五島崩れ」と呼ばれる苛烈なキリシタン迫害が行われこともある。
その結果、島の多くが仏教徒に戻っているが、「潜伏キリシタン」をルーツとするカトリックのコミュニティも数多く存在した。
NHKで放映された、歌手・前川清の祖先の話によれば、前川家は長崎県西彼杵郡外海地区にあった。
遠藤周作がキリシタン弾圧を描いた小説 「沈黙」は、この外海地区が舞台であり、海の景色を前に「遠藤周作文学記念館」が立つ。
キリスト教の禁止令が出てから1873年までの250年以上ひそかに信仰を続ける潜伏キリシタンが暮らしていた地であり、そのシンボルが 「出津(しつ)教会」である。
この教会は国の重要文化財に指定されていたが、世界文化遺産の構成資産に含まれることとなった。
前川家の記録に残る前川七平は 外海地区から80キロの場所にある「田平(たびら)天主堂」の建設に大工の一人として携わっていた。
七平の甥にあたるのが1982年生まれの 前川代作で、前川清の祖父にあたる人物である。代作は七平から大工仕事を仕込まれ、代作が一家で移住したのが、現在の三菱重工業長崎造船所が近くにある長崎市水の浦町であった。
前川代作は大工としての腕を存分に生かし、その長男・海蔵(前川清の父)は 学校を出たあと父代作と共に造船所で働いた。
その頃、海蔵はよく人前で浪曲を披露して、人々をうならせていたという。
「出津教会」の洗礼台帳に前川海蔵の名前があり、洗礼名は 「ヨゼフ」とあった。
前川代作や海蔵が通っていたのが長崎の「飽(あく)の浦」教会であり、教会には海蔵が結婚式を挙げた時の記録が残っている。
1938年3月に結婚した相手は 今村ハツ。長崎市内の病院で看護師をしている女性で、前川清の母となる女性である。
ハツは夫の前川海蔵と同じ、現在の長崎市外海地区の出身である。
今村家は この山の中腹で農業を営み、彼女もまた出津教会に属したのである。
10代の頃ハツが 住み込みで働いていたのが長崎市の外科病院の井出病院。看護師のリーダーとして献身的に患者に向き合あっていた。
今村ハツは、教会での活動の中で、東南アジアの戦火を逃れたボートピープルの人々との接点をもち、その支援の為の活動もしていた。
そして1948年に授かった子が前川清で、「セバスチャン」という名で洗礼を受けている。
1945年8月9日長崎には 原爆が投下されるが、ハツや子供たちは外海地区の実家に疎開していたために、被災することはなかった。
その後前川家は、佐世保市内に移り、清も幼い頃から母ハツに連れられ、「俵町教会」に通った。
前川清は、母親が亡くなり教会の葬式の時に、人々が多く来ていることに驚き、母親がいかに多くの困った人々を助けたかを、あらためて知ったという。

2015年「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録された。
五輪(いつわ)真弓は、情感豊かな歌声で人々を魅了するシンガー・ソングライターで、大ヒット曲「恋人よ」で知られる。
五輪真弓は、長崎五島列島の真ん中あたりの島、「久賀島(ひさかじま)」にゆかりが深い。
真弓の父方のルーツは久賀島にあり、久賀島には「五輪(ごりん)」という小さい村があり、「五輪(いつわ)」の名前の由来も、そこであろうと推測される。
真弓はオリンピックのたびに筋違いの取材されたりして迷惑していたが、 島ごとがオリンピックパワーで活気づいていいかと思っているという。
五輪真弓の生まれは東京・中野区で、3人兄姉の末っ子。小学校時代には美空ひばり、中学生になる頃にはビートルズに心を奪われ、フォークやロックなど、さまざまな音楽に影響を受ける。
1967年高校1年生の時には、父に懇願して買ってもらったギターを夢中で練習し、英語の曲を弾き語りで歌うようになる。
そして卒業生を送る会でジョーン・バエズの「ドンナ・ドンナ(ドナドナ)」をソロで歌った。
今まで人前で歌ったことがなく、いわばものまねばかりの真弓が、初めて自分の声を披露した瞬間だった。
会場は、割れんばかりの拍手と大歓声に包まれた。この時、真弓は喝采を浴びる喜びを知ったという。
高校2年生の時、同級生の友達と二人で女性フォークデュオ「ファンシーフリーシンガーズ」を結成する。
高校卒業後は、神田のYMCA英語学校へ入学。しかし半年後に退学し、音楽活動を始める。
そして、ただ単に歌手としてではなく、自分で歌詞とメロディーを作りそれを歌うシンガー・ソングライターとしてデビューするため、曲作りを始める。
そして、1972年21歳の時に「少女」でアルバムとシングルデビュー。独特の曲調と詞、そして透明で伸びのある圧倒的な歌唱力で人気を集め、オリコン6位を記録している。
デビュー4年目には、レコーディングのためにパリを訪れ、シャンソンの大人気歌手アダモのステージで歌うなど、半年にわたりパリに滞在した。この時の経験が、五輪の価値観を変えた。
観衆に訴える曲作りに目覚めた真弓は、究極の別れの曲を作りたいと考え、1980年「恋人よ」を発表。大ヒットを記録し、レコード大賞金賞を受賞、その年の紅白歌合戦にも初出場を果たす。
彼女独特の寂しげなメロディー、そしてミステリアスな雰囲気で人気を得、その活動はに日本にとどまらず、香港や台湾、韓国など海外でも人気歌手にカバーされ、大きな賞賛を浴びた。
インドネシアでは1982年に発表された「心の友」という楽曲が、第二の国歌といわれるほど人気に。
約2億5千万人の国民のほとんどが日本語のこの歌を認知し、今も現地で歌い継がれている。
真弓は1984年に33歳で結婚、翌年に子どもが産まれた時、夫から「結婚しても「五輪」の姓を名乗って仕事をするのだから、ご先祖にあいさつをしておいたら」と言われ、初めて父の故郷・久賀島に行った。
父政雄は、威厳があり、いつも娘のことを考えてくれた優しい人だった。
手先が器用で、漁に使う網を作っていたせいか、セーターを編むのがものすごく上手であった。
そして楽器があればすぐ弾き始める感じで、実際、教会でオルガンやバイオリンを弾いていた。
真弓の記憶の中で、父正雄は晩年、ずっとロザリオを身に着けていたという。
真弓にとって、久賀島でカトリック墓地で墓参りし、教会を訪れ、感慨深いものがあった。
1985年に発表した「時の流れに~鳥になれ」は久賀島を初訪問したことが大きな後押しになっている。
同年、子どもが産まれ、絶対的な愛が存在することにも感動した。そこに先祖がいた久賀島を訪ねてみて、過去から現在、未来が一直線につながった気がした。それをそのまま表現した歌なのだという。
デビュー40周年の2013年、番組の収録で久賀島を訪れ、代表曲「恋人よ」や「時の流れに」が歌われた。

中世音楽の第一人者である皆川達夫の研究テーマのひとつが、隠れキリシタンの祈り「オラショ」である。
オラショとは、隠れキリシタンによって口伝えによって伝承されてきた祈りの歌。
ラテン語の「oratio(オラツィオ)」に由来し、もともとは宣教師によって教えられた、ラテン語の祈祷文にメロディーを付けて歌われたものである。
歴史を経る中で次第に意味内容が理解されないまま唱えられるようになった。そのため、日本語のような言葉と、ラテン語のようだが意味のよく分からない言葉が混在している。
例えば、ポルトガル系のラテン語と日本語が混ざった次のようなオラショがある。
「デウスパイテロ ヒーリヨー スペリトサントノ 3つのビリソウナ 1つのススタンショウノ 御力をもって 始め奉る」。
これは「父と子と聖霊の三つの形の神様が一つになる」という三位一体を示し、祈りの冒頭に唱えるのだという。
隠れキリシタンたちはこう唱えつつ両手を組み、親指で十字を作るのが作法。
そして、この不思議な祈りが1時間ほどあり、その後、節をつけた御詠歌のような祈りへと続く。これが「歌オラショ」である。
皆川によれば、初めは何を言っているのかさっぱり分からなかったが、何度か聴いているうちに、ある一節がラテン語の「グレゴリオ聖歌」なのではないかと気づいた。
その後、今もなお隠れキリシタンの末裔が住む長崎県平戸に近い「生月(いきつき)島」を何度も訪れた。
オラショを聴き、録音させてもらい、それをもとに楽譜に起こし、ラテン語に復元する作業を続けた。
そのうちに、「グルリヨザ ドミノ」と歌われているのが「O gloriosa Domina」(栄えある聖母よ)というマリア賛歌であることをつきとめた。
後述するように、「オラショ」の原曲が「グレゴリオ聖歌」であるという報告は、バチカンにとっても衝撃の出来事であったようだ。
それにとどまらず、カトリックの総本山バチカンにて、ひとりの女性音楽家による「オラショ」を公演することに繋がる。
西本智実は1970年4月大阪で生まれ、168センチの長身、彫りの深い端正な顔だち。
大阪音楽大学作曲学科卒業後、1996年にロシア国立サンクトペテルブルク音楽院に留学した西本は、イルミナート芸術監督兼首席指揮者等、名門ロシア国立響及び国立歌劇場で指揮者ポストを外国人で初めて歴任、約30か国より指揮者として招聘されるほどの世界的指揮者である。
そして国際音楽会と枢機卿のミサでも指揮する機会を与えられた。とはいえ、西本になぜ「オラショ」を指揮するような機会が与えられたのであろうか。
西本のルーツは生月島にあり、曽祖母は、壱部という集落で暮らしていた隠れキリシタン一族の末裔だったという。
西本自身は大阪生まれで、祖父が何度か平戸に足を運んだこと、捕鯨が盛んだった生月島のお土産にクジラのひげを買ってきてくれたこと、そして曾祖母が美しい人で琵琶をひく人であったこと等を聞いて育った。
オラショのことも祖父から聞いてはいたが、その原曲が「グレゴリオ聖歌」だとは知る由もなかった。
オラショのうちのいくつかの楽譜は、音楽史家の皆川達夫により、16世紀にイベリア半島で歌われていた「グレゴリオ聖歌」の一部であることが突き止められていた。
そして、まさに西本がオラショの起源を知るのを待っていたかのようなタイミングで、バチカンからの招聘状が届いたのである。
「あなたが演奏したいミサ曲はありますか」と聞かれ、自分のルーツ生月島のオラショのことを話した。
バチカンとしては、ヨーロッパに存在しない聖歌が、日本で残っているなどにわかには信じられないことだった。
バチカンより、「それが本当に聖歌だったのか、聖地で演奏するのにふさわしい曲なのか調べてみます」との返答があった。
その数カ月後、生月島の3曲のオラショの原曲が「グレゴリオ聖歌」であったと判明したとの返事があった。
それは、なんたる光栄か、ミサで演奏してくださいという知らせでもあった。
こうして西本はサン・ピエトロ大聖堂で合唱によるオラショを披露することになったのである。
2013年11月、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の一角で、日本人約300人の合唱団が集まった。
西本がタクトをふりはじめると、厳かに大合唱が始まった。
その祈りの歌は、『ラウダーテ・ドミヌム』『ヌンク・ディミッティス』『オー・グロリオーザ』の3曲である。
それはまぎれもなく、ヨーロッパのカトリック教会で古くから歌われ、クラシック音楽の原型にもなったといわれる「グレゴリオ聖歌」だった。
それがなぜか、ヨーロッパから遠く離れた日本の長崎県の小島にひっそりと残っていたのだ。
隠れキリシタンが日本語として唱えてきた祈りの歌「オラショ」として450年にわたって伝えたもの。
オラショがカトリックの総本山、サン・ピエトロ大聖堂でよみがえったとき、枢機卿も大司教も、神父たちも口々に「これは東洋の奇跡だ!」と語った。
それは、江戸時代、キリスト教弾圧期の260年間、密かに信仰を受け継いできた潜伏キリシタンの集落に世界的な価値のある文化が受け継がれてきたことの表明でもあった。
西本は、自分の血の中で「隠れキリシタン」の信仰が叫んでいるように思え、自分がめざした音楽の道には、s世界的に果たすべき役割があったのだということに思い至り、感無量であったという。
2013年の初演以降、彼女は毎年バチカンに招かれ、演奏を続けてきたが、この活動こそは2015年「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録への布石となったのである。