「医・薬・美」分離の歴史

小林製薬の「紅麹」というサプリメントが、多くの死者をだすなど甚大な健康被害をだしているが、原因はいまだ特定されていない。
「紅麹」は健康食品で、医者が処方したり薬剤師が説明が必要な「医薬品」と区別さる。
また「機能性表示食品」というカテゴリーに入り、国の審査をもとで認可される、いわゆる「トクホ」とばれる「特定健康食品」とも違う。
「機能性表示食品」は、特定の保健の目的が期待できる食品で、国が審査を行わないため、事業者は「自らの責任」で科学的根拠に基づいた「適切な表示」をすることが求められる。
例えば、体脂肪を減らす効果や食後の血糖値の上昇を抑えるなど、体にうれしい機能が確認されている健康食品と理解したらよい。
小林製薬の「紅麹」事件の問題のひとつは、従来の医薬品か健康食品(サプリメント)かという「二分化」ではおさまりきれない、いまひとつチェックが必要な領域があるのではないかということである。
歴史的にみても、人間の「健康」と関わる仕事は裾野が広く、様々な仕事に分化していった。
医者や薬剤師にとどまらず、理容師や美容師までも、その領域から分化し専門化していったのである。
日本では平安時代にあたる984年、丹波康頼が表せた医学書『医心方』は日本最古の医学書とされる。中国から伝わった医術をまとめ、自らの経験から導き出された独自の見解を加えた内容になっていた。
15世紀には、中国で明朝が成立し、航海術も発展、日明間で医学の交流が生まれる。
曲直瀬道三(まなせどうざん)が明から伝えられる最新の医学と日本独自の療法を融合し、『啓迪集(けいてきしゅう)』にまとめあげた。
この曲直瀬道三によって、日本独自の医術が一段と進化し、戦国武将たちからも敬愛を集めていた。
我が地元・福岡にも、“中国にあった伝統医学(漢方)を、独自の研究および実践した人物が現れる。
日本の「本草学」の代表者といってよい貝原益軒(かいばらえきけん)で、1630年に福岡藩の黒田家の祐筆であった貝原寛斎の五男として生まれた。
今でこそ健康長寿で知られる益軒だが、幼少時代は虚弱体質であったため、めったに外で遊ぶことはなく家で本を読むことが多かったという。
益軒は秀才として知られたが、当時は利発な子は早死にすると言われ、父・寛斎は益軒の将来を案じ、心配の種になっていたという。
そこで父は、病弱な益軒に少しでも長生きしてもらいたいと自分の医学の知識を教え込んだ。
1648年、益軒は18歳で福岡藩に仕えるが、二代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることになる。
「黒田騒動」の元凶ともいえる藩主の忠之は偏りのある性格で、周りを無視して目をかけた者を出世させるなどしていた。
益軒がどのような理由で怒りに触れたのかは定かではないが、父・寛斎が藩の祐筆を務めた重臣であったことから、藩主を諫めるようなことを言って怒りをかったのかもしれない。
浪人となった益軒は再び虚弱体質がぶり返り、眼病や胃炎で苦しんだ。
そこで益軒は病に打ち勝つために自ら医学を猛勉強し、様々な予防法を実践して病に打ち勝つ方法を自分なりに編み出したのである。
1656年益軒は、三代藩主となった黒田光之に許され、藩医として帰藩し、翌年には藩費による京都留学で本草子や朱子学を本格的に学ぶことができた。
「本草子」とは中国から伝わった医学「漢方」のことである。
また、江戸時代以降は「蘭方」(オランダ経由の医術)も統合されて、今日の「漢方」につらなる。
ところで江戸時代の医者の社会的評価は、御典医などを除く町医者レベルならば、本草学者(今日の薬剤師)の方が高かったといえる。
さて、東洋医学の色彩の強い医術が、西洋医学として発展していく過程で重要な人物が、江戸幕府八代将軍徳川吉宗である。
徳川吉宗といえば「享保の改革」で、商品経済の進展で緩んだ幕藩体制の引き締めや役人の不正防止、綱紀粛正など山積し財政再建が重要な課題であり、吉宗自ら指揮を執った。
世界の地理、歴史、風俗やキリスト教のありさまなどは、白石によってまとめられ世界地理の書「采覧異言(さいらんいげん)」が書かれている。
やがて幕府は、シドッチをキリシタン屋敷へ「宣教をしてはならない」という条件で幽閉することに決定し、シドッチは囚人的な扱いを受けることもなく、二十両五人扶持という破格の待遇で「軟禁」された。
ところが、シドッチの監視役で世話係だった長助・はるという老夫婦が、木の十字架をつけているのが発見され、二人はシドッチに感化され、シドッチより洗礼を受けたと告白したことから、シドッチと共に、屋敷内の地下牢に移された。
その後のシドッチは、きびしい取扱いを受け、10か月後に衰弱死したのである。
とはいえシドッチは、日本にキリスト教を布教するという本来の目的は果たすことはできなかったものの、鎖国下の日本に国際世界についての「視野」を開かせる一つの契機となったのである。
それは、新井白石がシドッチから聞き出してまとめた書物「西洋紀聞」や「采覧異言」を読んだのが徳川吉宗であったということである。
徳川吉宗は、「享保の改革」で緊縮財政を布き、質素倹約を推奨していたが、前述のとおり小川笙船の意見をとりいれ小石川薬園の中に「小石川養生所」を設立し、これが現在の小石川植物園となっている。
吉宗が行った改革の中で、シドッチの影響を一番感じるのが「漢訳洋書輸入制限の緩和」である。
また吉宗は、将軍就任直後には薬草を研究する本草学者を登用し、全国各地の薬草調査を命じ、本草学者は全国行脚に出て、情報収集と人脈作りに励んだ。
また、調査結果を基に幕府直営、諸藩経営の薬園を整備している。
青木昆陽も徳川吉宗命により、漢訳洋書を通じて蘭学を学び甘藷(サツマイモ)の栽培法などを研究している。
前述のように、福岡では享保の時代より少し前に貝原益軒という本草学者を生むが、こうした時代の趨勢から「薬草栽培」もはじまったのであろう。
我が地元・福岡市の繁華街・天神より少し南下すると瀟洒な店が並ぶ「薬院」という地がある。薬院は、博多駅の東域とも連なっていて、かつては「人参畑」が広がっていた。
この人参畑に塾を開いたのが高場乱(たかばおさむ)という女傑で、ここから頭山満などの玄洋社の幹部となる人々が育っている。
この「人参畑」が「薬院」という地名と繋がっていると推測される。
韓流時代劇を見ていると、朝鮮人参がしばしば登場する。高値で取引されるため、悪徳役人が清の官僚と結託するような生々しい姿も描かれる。
朝鮮人参は、東洋医学では最高級の薬剤とされ、その名の通り朝鮮半島で採れた。
満洲族は朝鮮人参を明に売ることで財力を得て、清建国への力として蓄えられたとされるほど。ゆえに江戸時代の日本でも、出島で輸入していた。
たとえ金が国外へ流出してしまっても、医療のために買わないわけにもいかない―そこで吉宗が取り組んだのが、種を配布し、栽培させることであった。
朝鮮人参は、御三家を皮切りに、全国諸藩へと栽培が拡大。 希望すれば 医者や町人にまで種子が配布され、日本全国で栽培が広まった。
そんな吉宗の政策の中でもユニークな政策のひとつが「目安箱」の設置で、庶民が天下の将軍様に直接意見を申し立てる機会を与えられるという画期的な政策であった。
江戸城にあった幕府評定所の門前に毎月2日、11日、21日の3日間だけ置かれ、投書できるのは農民、町民で、武士は「対象外」だったというのが画期的である。
その投書によってで実現したことのひとつが、江戸の町医者・小川笙船(おがわしょうせん)の投書から実現した「小石川養生所」の設置である。
小川笙船は町医者として、一度怪我や病気に罹ると運が悪ければ誰にも知られず、一気に奈落の底へという悲惨な現実を医療現場の最前線で嫌というほど見ていたといえる。
小川の「訴状」は17ヶ条からなり、貧しさから医療行為を受けられない人や身寄りのない者のための施薬院を設置するプランには、非常に具体的なものだった。
当時一流の幕府お抱えの医師(=官医)が診療にあたり、看護スタッフには健康でまだまだ十分に働ける高齢者を積極的に採用することなどが含まれていた。
ちなみに、山本周五郎先生の時代小説「赤ひげ診療譚」のモデルが小川笙船といわれている。

ヨーロッパでは中世の時代から理容師が存在していた。役割は髪をカットし、髭をシェービングすることだけではなく、歯の治療をしたり、傷の手当てをしたりと、現在でいう外科的な医療を行っていた。
悪いところを切って悪い血を出すという治療法を「瀉血(しゃけつ)」というが、刃物を扱うため理容師が瀉血を請け負っていた。
医師は内科的医療を行い、理容師は理容外科医として外科的医療を行っていたのである。
1400年代になると、理容外科医のなかには外科や歯科について未熟な者がいるとされ、理容外科医と医師の間で長い間取権論争が繰り広げられる。
そこへ、医師のなかから理容師になる人が現れる。パリの医師で名前をメヤーナキールといい、1540年に理容師となった。
その後、彼の弟子が続々と参入して「理容外科医」は全盛期を迎えた。
1700年代になり、フランスで「外科医院」が誕生したことから、理容と外科医は分けられるようになった。
その後、イギリスでも薬学、外科、歯科などの学理の進歩に伴い、理容と外科は完全に分離されていく。
そして、理容業はカットやシェービング、カラーなどの技術によって、人間の身なりを整え、より美しくすることに「特化」していくことになるのである。
ところで日本では、古くから「髪結い」が活躍してきた。
1200年代の亀山天皇のころ、蒙古襲来の下関において、采女亮(うねめのすけ)という人物が武士の月代(さかやき)を剃って髪結業を行ったのが「床屋」の始まりと言われている。
店には床の間が設えられていたため「床の間のある店」が「床屋」になったのだとかで、今でも山口県下関市の亀山八幡宮には「床屋発祥の地」の記念碑が立っている。
さて「床山(とこやま)」という名前は、現在では主に力士の髪を結う専門職として知られている、古くは歌舞伎役者の髪を結いあげていたことから、舞台や映画などで使用するカツラを作る職業であった。
ちなみに、床山は理容師や美容師の免許は必要ない。
明治維新により、断髪やパーマネントが海外から流入し、理容師は「髪を結う」仕事から「髪を切る」仕事にシフトしていくことになる。
理容師と美容師の違いは「剃刀」を使えるかどうかであり、床屋は理容師で、舞妓さんの顔を作っていた化粧師(けわいし)など、ビューティ寄りの立場が「美容師」ということがいえる。
1947年12月に「理容師法」が制定され、理容師は国家資格となっていく。
その10年後の1957年に「美容師法」が成立し、理容師は、「理容師法」に、美容師は「美容師法」と別々に位置づけられた。
ところで現代の理髪店の前に立つサインポール(バ-バ-ポ-ル)は元々中世のイギリスで、当時の理髪師が外科医も兼ねていたことから血液を表す赤と包帯を表す白の2色で生まれた。
理髪師と外科医を別けるため理髪店は赤白に青を加える動きもあったが定着せず、その後アメリカ合衆国で同国の国旗(星条旗)のカントン部分の色である青が加えられたものである。
またヨーロッパの歴史上、「薬剤師」が職業として明示されたのは、13世紀神聖ローマ帝国時代にまで遡らなければならない。
ドイツ王は南西部シュバーベン地方の「ホーエンシュタイン家」の王朝二代目が、フりードリヒ1世(在位1152~90)である。
フリードリヒ1世は、北イタリアで自治権の拡大を図る諸都市に干渉し、諸都市は神聖ローマ皇帝から「自治権」を再確認される一方、「北イタリア全体の支配権」は、ドイツ王が握るということになった。
またフりードリヒ1世は「南イタリア」に目を向けた。当時の南イタリアには、前述の「シチリア・ノルマン王国」が栄えていた。
この国ではその頃、男子が絶え「コスタンツァ」というという女性が相続者になっていた。
フリードリヒ1世は、このことに着目し、自分の長男(ハインリヒ6世)と彼女との結婚を実現させる。
フリードリヒ1世は、その後「第3回十字軍」に参加する。この十字軍はエジプトのカイロを拠点とする「イスラム王国アイユーブ朝」を打倒することが目的であった。
ところがフリードリヒ1世は、ドイツから陸路パレスティナに向かう途中、アナトリア半島の川で「溺死」してしまう。
フリードリヒ1世の死後、ハインリヒ6世が神聖ローマ皇帝となり、コスタンツァとの間に子供が生まれる。その子フリードリヒは「フリードリヒ2世」として神聖ローマ帝国を束ねる存在となったのである。
フリードリヒ2世はシチリア島のパレルモで生活した時期が長く、イスラム語も話しイスラムの芸術も愛していた。そんな彼が、「エルサレムを奪回せよ」という宣言のもと、十字軍を率いることになる。
そして1228年、フリードリヒ2世率いる第5回十字軍は、現在のシリア、エルサレムの北西に位置するアッコンに上陸する。
その後、得意のアラビア語でサラディンたちと交渉に交渉を重ねてなんとエルサレムを「無血開城」させることに成功する。
フリードリヒ2世が、イスラム側の情勢に通じアラビア語を話せたことが交渉が成功した最大の理由だが、この「外交上の成果」に対して、グレゴリウス9世は激怒し、彼を「破門」した。
さて、フリードリヒ2世の治めた「シチリア王国」はノルマン王朝でノルマンの文化の影響もあり、大陸の封建社会と一線を画して、宗教にとらわれずに貴族と市民が政治に参加する体制をとっていた。
それはまさしく近代国家の先駆けと言ってもよく、ナポリに「官僚養成」の大学を作ったことにも表れている。
一方、フリードリヒ2世はそんな先進的な考えを持っていたがゆえに「敵」も多くいて、帝国内では問題が噴出し領邦たちが勝手に政治を行なうようになっていく。
さらには教皇との仲も良くなるはずもなく、神聖ローマ帝国内では教皇派の「ゲルフ」と皇帝派の「ギベリン」の二つの勢力で争うことになる。
かくしてフリードリヒ2世は、当時のヨーロッパ情勢にあって毒殺されることを恐れ、身の安全の確保のために、医師による調剤を禁止したといわれている。
さて18世紀フランスを舞台にした「レ・ミゼラブル」で、主人公のジャン・バルジャンが教会の銀食器を奪うものの、司祭によって警官の追求から守られる。
ヨーロッパでは毒があれば変色する「銀の食器」が使われていたので、王が毒殺を恐れるのは一般的だったのかもしれない。
しかしフリードリヒ2世は、さらに一歩踏み込んだ。
1240年に医師は診察を行い、薬は薬剤師からもらうという法律を定めた。この法律で、薬剤師以外は薬を扱うことが禁止され、「医薬分業」が明記され、医師の処方した薬に間違いがないか薬剤師がチェックする体制が出来あがった。
フリードリヒ2世の死後、後継者が現れず「ホーエンシュタウフェン朝」は断絶。神聖ローマ帝国は「大空位時代」に突入することになる。