パリオリンピックでは、セーヌ川の水質がトライアスロン競技実施における安全性につき問題となった。
セーヌ川の中州シテ島は「シティ」の語源になっているが、大都市の河川や水がきれいなはずがない。
都市には浄水場や下水道処理場があるが、
浄水場は環境から採取した水を飲み水として供給するための水道、いわゆる上水道の形で利用可能にするための施設である。
そのため、飲料水として安全な状態にまで水質を改善させる機能を持つのが一般的である。
「上水道」は紀元前312年に、ローマ帝国時代にアピアス・クラウディスがローマに造った「アピア水道」が世界で初めてのものとされている。
このローマの「アピア水道」をモデルとしたかと思う建造物が、京都の南禅寺にある。
「ネオ・ルネサンス様式」とされる、石とレンガを用いて装飾が施された建造物である。
「南禅寺水路閣」は1888年に完成した、今なお現役の水路橋である。
明治維新後、東京遷都により衰退した京都を憂いた第3代京都府知事の北垣国道(きたがきくにみち)が復興策として琵琶湖から水を引き、その水の力で産業振興を図ろうと建設を計画したのが始まり。
設計したのは、赤坂離宮や京都国立博物館の建築で知られる片山東熊(かたやまとうくま)である。
この建造物は、琵琶湖から京都市内へと続く「琵琶湖疏水」の分線としての役割を担っている。今なお現役で使用されている。
全長93,2m、高さ最大13mのレンガ造りのアーチ橋で、平安時代に建立された南禅寺の風景に洋風のエッセンスがなじみ、その景観から写真スポットとしても人気が高く、テレビ映画のロケ地として使われてきた。
この水路に並行して、管理用道路として設置された道がある。当初、芝生が植えられている程度の道であったが、ここを歩いて通行する人々が増えていった。
明治の頃、文人が多く住むようになり「文人の道」と称されていた。
その後、京都大学の哲学者・西田幾多郎や田辺元らが好んで散策し、思案を巡らしたことから、地元住民が保存運動を進めるに際し、その名が「哲学の道」と決まりその名前で親しまれるようになった。
江戸時代には「上水道」として玉川上水や神田上水などが存在した。
「玉川上水」は太宰治が愛人と入水したことで知られ、「神田上水」はかぐや姫の「神田川」で馴染んでいる川である。
現在の文京区区関口辺りの神田川で水役人として幕府に仕えていたのが松尾芭蕉である。
明治の世1886年に東京でコレラが大流行し京におけるコレラ大流行は、近代水道の必要性を一般国民に広く認識させ、政府は水道改良事業計画の策定を加速させる契機となった。
「淀橋浄水場」は1898年12月1日に通水し、原水は玉川上水から引き入れた。
明治時代の新宿周辺の上空写真を見ると、「淀橋浄水場」が現在の西新宿高層ビル群辺りにあったことがよくわかる。
「淀橋浄水場」は、1965年3月31日をもって廃止され、その機能は東村山市の「東村山浄水場」に移された。
跡地の再開発計画として「新宿副都心計画」がスタートし、1960年代後半から京王プラザホテルを皮切りに住友ビル、三井ビル、東京都庁舎など、次々と超高層ビルの建築が進んだ。
現在でも「新宿中央公園」の富士見台とよばれるところには淀橋浄水場時代に建てられた洋風東屋の「六角堂」が残されており、2013年3月に新宿区の地域文化財に指定された。
「新宿中央公園」は、サスペンスドラマの殺人現場として最も頻繁に利用されている場所ではなかろうか。
なお新宿区の一部はかつて「淀橋区」とよばれていたが、その地名は「ヨドバシカメラ」や公立小学校などの名に今なお留めている。
さて前述のごとく淀橋浄水場の機能は東村山に移転するが、神奈川県川崎市多摩区にある「東村山浄水管理事務所長沢浄水場」の本館は、巨大なキノコのような形の柱と、110メートルにもわたって連なる直線通路があり、「水の宮殿」ともよばれている。
日本の建築家である山田守の意匠であるが、その独特の雰囲気と東宝スタジオ及び東映生田スタジオ(1979年閉鎖)から近いこともあって、TVの特撮番組のロケ地として何度も使われた。
さらに茨木県水戸市には、映画関係者の間ではよく知られらた水道施設の「廃虚」がある。
水戸藩第2代藩主徳川光圀は城下の水事情改善のため、付近の湧水地より「下市」と呼ばれる現在の水戸駅東側の区画に水を引いてくる「笠原水道」を造った。
明治時代になり老朽化の著しい笠原水道に替わり、付近の湧水を鋳鉄管により下市地区に給水する水道が1909年に引かれた。
だがこの地下水を水源とする水道は水の安定的供給と衛生面に問題があり、市の規模が拡大するにつれ給水体制の見直しが課題となった。
水戸市の第8代市長となった鈴木文次郎は1928年那珂川の水を汲み上げ、川岸に設置した「浄水場」においてろ過した後、全市域へ給水する事業計画案を提議し、6月市会はこれを議決した。
当初は単に「浄水場」又は「水戸市浄水場」と呼ばれていたが、いつしか「芦山浄水場」と呼称されるようになった。
この「芦山浄水場」をロケ地とした映画が「カメラを止めるな!」で、この場所の風景が全国的によく知られた。
「カメラを止めるな!」は、2018年に公開された爆笑ホラー映画で、無名の新人監督と俳優が創りあげた作品にもかかわらず、日本だけでなく世界で絶賛の嵐がやまない作品となった。
とある山奥の廃墟でゾンビ映画の撮影をするスタッフと俳優たち。ピリピリとした雰囲気の中で撮影が進み、不穏な空気が漂い始める。
撮影の休憩時間、スタッフや俳優たちに本物のゾンビが襲いかかってきたのである。
制作予算がたった300万円の映画が、全国規模のヒット作になるという、映画のバックグラウンドにあるストーリー自体が興味深いものである。
前半の「One cut of the Dead」の37分間のシーンは、はじめから最後までカット割りがない、“ワンカット手法”を用いたシーン構成になっている。
かつて、カンヌ映画祭で賞をとった溝口健二監督の「雨月物語」は、冒頭20分ほどのワンカットシーンが有名になったが、それ以上のカメラを止めずに撮影されたシーンである。
映画の前半は少し退屈でへたくそなB級ホラー映画のような雰囲気ではじまる。しかし映画後半からは、前編の不可解なシーンに対する伏線回収が始まり、「そういうことだったのか」と観るものを納得させながら進行する。
前半のすべての不可解なシーンの全容が見える頃には、この計算しつくされた映画の構成に、カメラではなく「笑い」がとまらない状態に陥ってしまう。
思い出すのは、芦原浄水場内の廃墟に残された火災が起きた時の「消火設備」や、ポンプ機械室内の荷物の運搬に使われていたとみられる滑車などで、これらは映画のシーンで効果的に使用された。
芦原浄水場の廃墟は長い年月を経て老朽化は止まらないが、なにしろ「カメラを止めるな!」ばかりではなく、他にも映画のロケ地として利用されているため、保存と解体のはざまで揺れている。
福岡市の中央区には「浄水通り」という地名があり、市内で最も瀟洒な店舗が並ぶ地域として知られている。
浄水通りは、市道「薬院南公園線」が正式名称だが、愛称の由来となった「平尾浄水場」は1923年に造られた。
沿道には一帯のランドマークである動物園やスポーツばかりかクイーンも何度か来日公演するなど音楽の殿堂ともなった「九電記念体育館」や「郵便貯金ホール」があった。
平尾浄水場は1975年役目を終えて閉場し、その跡地に80年に植物園が開園した。園内には、配水池点検用通路の入り口として使われていた建物が保存され、歴史の一端を見ることができる。
動物園は、そもそも1933年に、現在の県庁のある東公園に造られていたが、太平洋戦争の激化に伴い44年に閉園した。
戦後、「動物園の開園を」という機運が高まり、改めて53年に現在の植物園に隣接する場所(南公園)に造られたのである。
動植物園などがある丘陵地(南公園)は、かつて「大休山(おおやすみやま)」と呼ばれていたが、地元の整備事業で、丘陵地南側の道路に「大休山通り」という名前が残っている。
個人的には幼い頃に乗った旧岩田屋屋上の観覧車が、動物園の高い場所に移転されて、既視感のある観覧車との「再会」にいたく感動したことがあった。
2020年頃、動物園のエントランス施設がリニューアルされ、正門が新たに設置された。
このデザインは、東公園時代の正門を“復刻”したもので、動物園がかつてあった場所には現在、馬出小学校(福岡市東区)が建っており、付近には「当時正門」が市の文化財として保存されている。
さて世界史の中で、「上水道」としてはローマのアピア街道が有名であるが、「下水道」として発掘された最古の遺跡が、インドのモヘンジョダロ遺跡である。
我が地元・福岡にはこの「下水道施設」の設置が、発展のカギとなった町がある。
ところで近年、日本で「コンパクトシティ」が推進されている。人口減少や高齢化などの社会課題が顕在化し始めたことが背景にある。
日本の人口は2008年にピークを迎えて以降、毎年減少している。
これからさらに人口の減少が進むと、中心部が過疎化するだけでなく、行政コストも増加し、将来的に公共サービスが地域全体に行き届かなくなってしまう可能性が懸念された。
そのため「コンパクトシティ」の構想がなされるようになった。
人口減少で税収が減る一方、居住区が分散していると管理コストがかかるという問題が発生する。集約することでごみ収集などの行政サービス、インフラ設備の運用が効率化するため、行政コストの削減につながるからだ。
そこは公共施設や商業施設、住宅が集中するという特徴があるが、分散した状態よりもアクセスが容易になり、人々の消費活動の増加が見込めるため、地域経済の活性化が期待できる。
都市機能が集約されアクセスが容易になることで、徒歩や自転車、公共交通機関を利用する人が増える。その結果、自家用車の利用が減り、排気ガスやCO2の排出を削減できる。
ただ、人口密度が高くなるにつれ、近隣の人との距離も近くなる。騒音などのトラブルや、プライバシー侵害などの問題が出てくることなどマイナス面が懸念される。
この「コンパクトシティ」の成功例といわれるのが、福岡県糟屋郡新宮町である。
新宮町は福岡市の北に接し、福岡都心へアクセスしやすい立地に恵まれている。町の西側は玄界灘に面し、東側は緑豊かな丘陵地が広がり、自然も豊かだ。
西部の新宮海岸には「楯の松原」と呼ばれる松林があり、白砂とのコントラストが美しい。「新宮海水浴場」はマリンレジャースポットとなっている。
猫の島として有名な「相島」には町営渡船「しんぐう」で約20分。約280人の島民と約160匹の猫が暮らす島をのんびり散策するのも楽しい。
2010年にJR鹿児島線に「新宮中央駅」が開業し、「博多」駅への所要時間が短縮し、ショッピング施設も増え、より暮らしやすい街へ進化した。こうした背景もあり、2015年には全国で最大の人口増加率を記録している。
新宮町では比較的若い子育て世代の転入が多いため、40代前半の人口が最も多く、年少人口が高齢者人口を上回るという全国でも珍しい人口構造となっている。
新宮町では人口増加に対応して、教育に力をいれ「インフラ整備」も続けられている。
新宮最大のセールスポイントは、2012年に誘致したスウエーデンの家具量販店「イケア」である。
「イケア」にとって九州1号店で、沖田中央公園のすぐ横に位置し、敷地面積は、東京ドームの1.3倍に相当する。
「イケア」登場をきっかけに、気店も競うように新宮へ進出しており、「イケア」は九州全域から人を引き寄せる磁石のような役割を果たした。
ちょうど茨木県の無名の「鹿島アントラーズ」がブラジルのジーコを選手として招いたぐらいのレベルではなかろうか。
そもそも新宮町は、どのようにして世界ブランドの「イケア誘致」に成功したのか。
「イケア」の場合は正確に言うと、新宮が「イケア」を選んだわけではなく、「イクア」が新宮を選んだのであるから、それなりの「街おこしのイノベーション」を行っていたのである。
新宮は戦後に工場地帯として開発されたが、町の地理的中心部は開発から取り残された農地として存在していた。
1990年代後半になって街の活性化に向けた取り組みが動き出した。
ポイントは大きく三つあった。①下水処理場を整備する、②JR新駅を設置する、➂大型商業施設を誘致するである。
最大のハードルは下水処理場だった。誰もが下水処理場の必要を認識していながらも、どこに建設するか合意にいたらず、前へ進まなかった。
どの地区も「下水処理場=迷惑施設」と思い込み、押しつけあいになったのである。
通常、下水処理場は市街地の端っこに位置する。マンション住人は、「汚泥や排水で匂うというかもしれないし、レストランやデパートの経営者は「客足に影響がでる」というかもしれない。
ところが新宮町は逆転の発想で、「駅前に下水処理場」という方向に進んだ。
その英断には感動さえ覚えるが、この問題に当初から「都市計画マスタープラン」に関わった新宮町役場の副町長福田猛は、「下水処理場は迷惑施設の最たるものと思われました。ごみの焼却場と同じで本来は駅前につくるものじゃない、という考えです。当初は反対論ばかりでした。けれでも下水処理場が決まらないと何もはじまらないわけです」と振り返る。
そこで識者の意見を取り入れてたどり着いたのが、「下水処理場=環境との共生」という構想である。
下水処理場「中央浄化センター」(アクア新宮)を地下に埋没し、地上が芝生広場となり、隣接する「沖田中央公園」を整備するなど緑豊かな空間を実現している。
今や「沖田中央公園」は「新宮中央」駅東口から国道3号線近くまで延びる新宮町のシンボル的存在で、春には桜並木が美しい。様々な遊具がそろい、せせらぎでは水遊びができるため、子どもにも人気だ。
2010年には待望の新宮中央駅が開業すると同時に浄化センターが完成。
浄化センターでオゾン処理された水は、公園のせせらぎ水路や近隣施設のトイレで再利用されるようになった。
新宮中央浄化センターでは、再生水を沖田中央公園のせせらぎとして利用するだけでなく、地下に設置した処理施設の上部を公園の一部として開放している。
せせらぎに放流する処理水は、膜ろ過された処理水をさらに「オゾン処理」することで脱臭・除菌し、より安全な水として放流している。
下水処理場といえば通常「迷惑施設」として敬遠されがちだが、新宮中央浄化センターは「逆転の発想」で町民に親しまれる施設として町の重要な役割を担っている。
この沖田中央公園は、普段は町民の憩いの場、いざという時は防災拠点として、また町の一大イベント「まつり新宮」の会場としても利用され、多くの人で賑わっている。