京都府長岡京市には、平安時代の長岡京跡や長岡天満宮、勝竜寺城跡などの史跡があり、いずれもディープな歴史を秘めている。
長岡天満宮はJR長岡京駅から延びる「天神通り」の突き当たりに位置し、石段の上にそびえ立つ大鳥居をくぐると、美しい八条ヶ池の風景が広がる。
菅原道真は、太宰府に左遷された際にここへ立ち寄り、「我が魂長くここにとどまるべし」と名残惜しんだという。
この時従者を務めた中小路宗則という人に木像を贈り、道真の没後、「御神体」として祀ったのが長岡天満宮の始まりと伝わっている。
もともとこの神社は、旧地名の開田(かいでん)村に由来する「開田天満宮」の名で親しまれていた。
それが現在のように「学問の神様」としても慕われるようになったのは、江戸時代のことである。
全国各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、そこに天神様が祀られたり、道真の御神影が掲げられたりするようになった。
そして、道真は「学問の神様」として崇敬されるようになり、「長岡天満宮」と呼ばれるようになった。
古くから皇族との縁が深く、たびたび寄進造営をうけ、1638年には、開田村一帯を領地としていた八条宮家の二代「智忠(としただ)親王」が天満宮の整備に乗り出し、社殿の東側に灌漑用水を兼ねた大池(現在の八条ヶ池)を築造し、朝廷文化と西山の自然が織り成す優美な景観をつくり上げた。
長岡八幡宮のさらにディープな歴史は、八条ヶ池を超えて、石畳の参道に差しかかった場所に建つ「石碑」で知ることができる。
それは、「古今伝授(こきんでんじゅ)の間ゆかりの地」の石碑である。
「古今伝授」とは、古今和歌集の解釈を中心に、歌学や関連分野に関する「秘伝の奥義」を師匠から弟子へ伝承することを指す。
この「古今伝授」の石碑は、同じ長岡の地にある「勝龍寺城」の城主と深い関わりをもつことになる。
戦国時代の武将であり、一流の文化人でもあった細川幽斎(藤孝)は勝龍寺城で、公家の三条西実枝(さんじょうにしさねき)から「古今伝授」をうけている。
細川幽斉は実の父が室町幕府第十二代将軍・足利義晴とも言われており、将軍家や公家と親密な関係にあった。
藤孝は明智光秀(あけち・みつひで)とともに足利義昭(よしあき)と信長を結びつける役割を果たした。
また、藤原定家(ていか)の歌道を受け継ぐ二条流の歌道伝承者、三条西実枝(さんじょう・にしさねき)から「古今伝授」を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人であり、武道に熟達した才人でもあった。
そして、その幽斎が古今伝授を行った相手が、八条宮家の初代「智仁親王」、八条ヶ池の基礎をつくった智忠親王の父である。
長岡八幡宮からおよそ5キロ北西に位置する「勝龍寺城」は、現在「城址公園」として整備され、そこが戦国の悲劇を秘めた城があったとは想像しがたい。
1578年、明智光秀の娘たま(玉、のちの細川ガラシャ)は、織田信長のすすめにより、勝龍寺城主・細川藤孝(幽斎)の嫡男・忠興(三斎)のもとに輿入れする。
婚礼は勝龍寺城で挙げられ、夫妻は幸せな新婚生活を送った。
それからわずか4年後の1582年、「本能寺の変」により主君・織田信長を討った明智光秀は、この勝龍寺城を拠点とし、羽柴(豊臣)秀吉を迎え撃つこととなる。
そのため、光秀は本能寺の変を起こしたとき、細川父子は自分に味方すると信じていた。
ところが、藤孝は剃髪(ていはつ)して家督を忠興に譲り、羽柴(後の豊臣)秀吉に仕える。
圧倒的な秀吉軍の軍勢を前に、「山崎の戦い」に敗れた光秀は勝龍寺城に退却し、最期の夜をこの城で過ごしたのである。
夜中のうちに城を脱出し、居城の坂本城へ向かう途上、「落ち武者狩り」に討たれて絶命したのである。
光秀が脱出したと伝わる勝龍寺城の北門には、当時の石垣や門の礎石が今も遺っている。
またこの城には、1602年に智仁親王が書き写した「古今伝授座敷模様」1通がある。
1574年6月、勝龍寺城「殿主」(てんしゅ)において細川幽斎(藤孝)が三条西実枝から古今伝授をうけたさいの座敷の様子が細かく記され、奥書と智仁親王の「花押」がある。
「古今伝授」は和歌をたしなむ武士が部分的に伝授される場合もあったが、武士の身分で継承者として名を連ねるのは幽斎のみだという。
智仁親王への古今伝授の講義は1600年3月19日から始まったが、4月になると徳川陣営と石田陣営の動きが慌ただしくなり、息子・忠興は家康の会津征伐に参加していたため、幽斎自らが居城であった丹後田辺城を守ることとなる。
いわば「関ヶ原の戦い」の前哨戦が、細川家の居城「田辺城」(京都府舞鶴市)の攻防である。
田辺城は、丹後守護であった一色氏を滅ぼした武功によって、織田信長から丹後国(京都府北部)を与えられた細川藤孝(ふじたか)が、1579年に築いたのが始まりである。
「敵陣に味方あり」また、戦乱の中での文の力を示す出来事であるが、これと幾分似たことが起きたのが、「田辺城の攻防」である。
全国の大名が東軍・徳川家康方と、西軍・石田三成方に分かれて戦った関ヶ原の合戦。そのおよそ二カ月前に起こったのが舞鶴・田辺城での籠城戦であった。
徳川方についた細川忠興制圧をめざし、石田三成が一万五千の軍勢を集め田辺城に攻め込む。
この時、忠興は東軍の会津攻めに参加していて不在。
他にも戦線を構えていた細川軍は、忠興の父・幽斉率いるわずか五百人の軍勢でこれを迎え撃たねばならなかった。
圧倒的不利。その状況で幽斉がとった戦術は「籠城」であった。
籠城は50日にもおよび、落城寸前にまで追い込まれたが、ついに朝廷が動いた。
実は、籠城をまえに生きて城を出られぬと覚悟を決めた幽斎が、三条西実枝(さんじょうにしさねさだ)から継承していた歌道の奥儀を、歌道の弟子で皇弟の八条宮智仁親王に「古今伝授の証書をことごとく奉らん」と申し出ていた。
当初、朝廷は関ヶ原の合戦には冷淡な態度をとっていたが、幽斎の思いが後陽成天皇に伝えられると、朝廷をあげての幽斎の助命運動が起こったのである。
8月27日、智仁親王から幽斎に開城し身を全うせよとの説得。だが幽斎はこれを受けない。
藤孝のみが継承していた和歌の秘伝「古今伝授」が戦火で失われることを恐れた後陽成天皇が仲介を買って出る。
後陽成天皇自らが京都所司代に・前田玄以のもとに勅使を下し、直ちに田辺城の囲みを解くよう詔(みことのり)をつきつけたのである。
ここに至って9月13日、二か月にわたって西軍部隊を引き付けた幽斎は、ついに開城を決意した。
あくまで武人として開城を拒んだ藤孝であったが、最後は豊臣方に城を明け渡した。
西軍もようやく手にした勝利であったが、15000人もの兵が関ヶ原の決戦より脱落することになった。
ところで世界史に目をやると、敵陣に味方がいて思わぬ展開を迎えることがある。
それが、マリアテレジアのオーストリアとフリードリヒ2世のプロシアとの七年戦争である。
オーストリア継承戦争で、重要な資源地帯シュレジアを奪われたオーストリアはフランスやロシアと同盟を組むなどして戦いに臨んだ。
七年戦争がはじまると、オーストリア、フランス、ロシアの連合軍に押されて、さすがのプロイセンも苦戦する。
ロシア軍がベルリン近くまで攻め込んでくると、フリードリヒ2世も、もはやこれまでかと覚悟をキメタらしい。胸には毒薬をぶらさげていたくらいだ。
しかしここでプロイセンにとって奇跡が起きる。
ロシアの国王ピョートル3世が、「啓蒙専制君主」フリードリヒ2世の崇拝者だったのだ。
ピョートル3世は自分の崇拝するフリードリヒ2世と戦争する気は全然なく、講和を結んで、ロシア軍を撤退させてしまった。
土壇場で助かったプロイセンはその後、盛り返して最後は逆転勝ちし、結局はシュレジエン地方はプロイセンの領土として確定してしまったのである。
フリードリヒ2世は、当時ヨーロッパの思想界で一番もてはやされていたフランスの啓蒙思想家にヴォルテールと文通するが、それだけでは我慢できなくなって、最後はヴォルテールをベルリンに呼び寄せてサンスーシ宮殿に一緒に住まわせたりする。
君主と思想家の仲は長続きはしないが、フリードリヒの時代にプロイセンは一流国家に仲間入りすることになる。
ちなみに、マリアテレジアの息子ヨーゼフ2世も、フリードリヒ2世の崇拝者であった。
1601年、京都に帰還した幽斎に対し、智仁親王はさっそく試筆歌の添削を依頼し、古今伝授資料の書写や聞き書きのまとめに励んで、師弟の交流をさらに深めていく。
勝龍寺城における「古今伝授座敷模様」は、このようななかで写されたのである。
田辺城の攻防で、死を覚悟した幽斎は伝授終了の証明状を、田辺城から智仁親王に送った。
戦塵のなかで、正式な儀礼もなく慌ただしく「古今伝授の証明状」のみをうけとった智仁親王にとって、これを書写する行為はとても大きな意味があったことあろう。
このような交流は、幽斎が亡くなる慶長15年まで続けられる。
さて、幽斎から智仁親王への「古今伝授の舞台」となった建物は、面白い旅をする。
智忠親王は、父たちが古今伝授を行った御所近くの自邸の建物を、長岡天満宮の大改修に合わせて池のそばに移築したのである。
江戸時代後期に刊行された『都名所図会』に描かれた長岡天満宮。池のほとりの「歌仙御茶屋」がそれえある。
移築された建物は「開田御茶屋(かいでんおちゃや)」と呼ばれ、大切に伝えられてきたが、明治維新後に解体され、ゆかりのある細川家のもとへ移された。
その後、熊本市の水前寺成就園に移され、「古今伝授の間」として今日に伝わっている。
こういう経緯で、長岡八幡宮にその建物はなく、幽斎と八条宮家を結ぶ開田御茶屋の歴史を伝えるため、2012年に長岡八幡宮に建てられたのが前述の「古今伝授」の石碑である。
そこに刻まれた「温故知新」の揮毫は、細川家当主で元首相の細川護煕氏によるものである。
ところで、明智光秀の娘・細川ガラシアだが、戦国の世では、弱者に味方になるものはおらず、ガラシャ夫人は、もし光秀が天下を維持できれば天下人の娘であるものの、負ければ「逆臣の娘」であるため、その立場が微妙になってくる。
状況がどちらに転ぶか。早まってうっかり自刃でもさせれば一大事。一歩判断を誤れば、ガラシアの実家・細川家の存亡にかかわる難しい判断を細川父子は迫られた。
細川藤孝は、剃髪して「幽斎」と名乗り隠居し、息子の忠興は豊臣方についた。
本能寺の変の直後、夫忠興は、ガラシャ夫人は2歳の子を残し、ごくわずかの警護の者を伴って、明智領の丹波の屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後・味土野(みどの)に屋敷を作って玉(ガラシャ)を幽閉した。
しかし、この地こそガラシャ夫人の生涯を変え、特に精神的に、宗教的に飛躍的に向上させた。
このころまでは、信長も秀吉も切支丹を保護しており、武将の中にも高山右近や内藤如安のように切支丹大名がいた。
ガラシア夫人が味土野隠棲に従った侍女の中に「清原いと」という熱心な切支丹信徒(マリアの洗礼名をもつ)もいた。
細川家の親戚筋にあたり、清原家は高位の公家で、いとはガラシャとは一つ年下で、実の姉妹といってもいいほどよく似た佳人であったという。
そして、彼女と過ごした2年間こそは、ガラシャをガラシャたらしめたともいえる。
ルイス・フロイスは故国への報告書にガラシャ夫人について、次のように書き残している。
「夫人は非常に熱心に修士と問答を始め、日本各宗派から、種々の議論を引き出し、また吾々の信仰に対し、様々な質問を続発して、時には修士をさえ、解答に苦しませるほどの博識を示された」。
秀吉は大坂城の建設にとりかかり、細川忠興はその脇の玉造に新邸を作って、秀吉の許しの下、夫・細川忠興は、別れて暮らす妻ガラシャを呼び寄せ、ガラシア夫人は玉造に移った。
ところが、秀吉は突如「切支丹禁令」を出し、教会には近づけなくなったものの、ガラシャ夫人は清原いとに洗礼をうけた。
秀吉なきあとの豊臣政権の実権はほぼ家康が握り、1600年、家康は会津にいた上杉景勝を討つという。
家康一群が会津に出陣、すぐに石田三成が家康討伐の兵を挙げる。
ガラシアの夫・忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた。
この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャ夫人を人質に取ろうとしたが、ガラシャ夫人はそれを拒絶した。
その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャ夫人に全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。
その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャ夫人を介錯し、その遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。
彼女が詠んだ辞世として「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」とある。
関ヶ原の合戦後、細川氏は加増され、豊前国(福岡県東部、大分県北部)39万石に移封になる。
1632年、改易された加藤家に替わり、豊前小倉藩より細川忠利が入封。以来12代にわたり、細川家によって熊本が治められることになる。
本能寺の変で隠居した幽斎に替わり当主となったのが長男・忠興である。明智光秀の娘・玉子(ガラシャ)を正室に迎え、秀吉の天下統一に協力し、関ヶ原では家康側の東軍に属して活躍した。
一方で父・幽斎と同じく教養人としても名が高く、千利休に茶の湯を師事し、利休七哲の一人に数えられている。
三男・忠利に家督を譲った後は三斎宗立と号し、1632年12月、忠利が藩主として熊本に転封されると、八代城に入り隠居所とした。
細川家3代である忠利は、熊本藩主としては初代となる。
祖父・幽斎、父・忠興とは異なり、武芸に熱心に取り組んでいた。特に剣術では柳生宗矩に入門し、柳生新陰流の代表的な剣士となった。
また、晩年の「宮本武蔵」を客分として熊本に招いたことでも知られている。
熊本の郷土料理である「辛子蓮根」は、病弱だった忠利のために考案された健康食である。
熊本市の北東に位置する、標高152mの小高い丘陵が立田(たつた)山である。
立田自然公園内にある泰勝寺(たいしょうじ)跡には、幽斎夫妻と忠興・玉子夫婦、JR熊本駅しぐ近くの花岡山麓の妙解寺(みょうかいじ)跡には忠利が埋葬されている。